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地獄現世支部  作者: 翠雪
本編
14/88

青い果実

 教師として、旅立つ彼女を見送ったのは、七年前の春。育児を放棄し、暴力を振るっていた母親から少女を引き剥がし、アルバイトやひとり暮らしを始めさせて、一年が経つ頃だった。胸元に飾られた造花とリボンの淡い色彩は、襟元が紺色のセーラー服によく映えている。

――卒業できるなんて、思ってなかったなあ。

 雪に押されて間に合わなかった桜の蕾が、卒業式の終わりに射した太陽で綻び始めていた。相談室代わりの理科準備室で、節々がささくれた背もたれのない木の椅子に腰を掛けて、グラウンドで記念撮影をする同級生の別れを惜しむ姿を眺めながら、少女は頬杖をつく。

――センセのおかげ。オレ、もうちょっと頑張れそうっス。

 照れくさそうに咲ったお前が、どうかこれから先、憂いなく幸せでありますように。壁と出会っても、挫けず、諦めず、乗り越えていけますように。巣立つ雛を見送る立場として、もう、手放さなくてはいけないと自制して、ただ、願った。

 はず、なのに。

「聞いてますか狐塚さん!」

「うん? おう、聞いてる聞いてるー」

「白々しい……っ!」

 いざ直面すると、すぐにこのザマ。

 突然届いた薄青の封筒を手に取ってから半月も経たないうちに、猛スピードで出来事が駆け抜けている。組み直しになった時間割だとか、取るのが大変だった有給休暇だとか、そんなものは今日に至ってしまえば全くの些事。自分と同じように選抜された新人がいると聞かされていたのは、その実、かつて三年を共に過ごした生徒だった。すぐに無茶をする性質もそのままで、つい、当時のように接してしまう。庇護の対象から外そうとしたのに、こんな形で、再び出会ってしまったら。

「ちょいと過保護じゃねえのォ? 本人からなら分かるが、たかだか教師止まりなおまえさんが物申すのは違うだろ」

「大人になったと思いましたが、やはりアイツはまだ未熟です、守るべき対象だ」

「どうだか。子の成長は、大人に測れんぜ」

 そうやっていつまでも、子ども扱いするうちはな。

 正論だ。感情的になっているのは自分だと、頭の中の冷静な視線がよく理解している。けれど、蓋を開けてしまった気持ちのやり場がないのも真実で、言葉に窮した。

 泥濘を喉の奥から出せないでいる俺に、狐塚が言う。

「それとも、こう心配してんのかね」

 近付いた本紫の瞳は、人の嘘を見透かす色だった。ぶつかる軌道を逸れて、そっと、耳元で囁く。

「兄として見過ごせない、ってな」

 血の気が引いた。

「どこで」

「知りたいか?」

 既に体を離した、静穏な目を見返す。己の顔が強張っているのが分かる。数秒にも、何時間にも思えた空白は、胃の腑に沈む不快感を齎した。いつもは聞こえる思念の声も、目の前の人物からは一切読み取れない。足元が掬われる感覚に、目眩がしそうだ。

「腹違いを取っ替えられた、年の離れた兄妹。……それくらいしか知りゃしねえよ」

 無意識に探した当の彼女は、離れた場所で誰かと話し込んでいる。青い、まだ幼さが残る、たった一人の妹。或いは、被害者。

「……アイツは、知らないんです」

「らしいな。何故」

「言えません」

「そうかい」

 どっと疲れた気分だ。今すぐにでも熱い風呂に入って、半日過ぎるまで眠りたい。

「な。さっきも言ったが、本人から申し出があれば、脱退なり除名なり、色々考えてやるよ。それなりの理由をでっち上げてやれンのも、多分あそこじゃおれだけだし」

 懐から取り出した煙草を指で器用に弄びながら、もう片方の手でライターを探っている。ヴィンテージのジッポで火を着け、腔内を経由して吐き出された煙は、薄く儚く色付いていた。

「そいつはお嬢ちゃんだけじゃなく、おまえさんも範疇だぜ」

 どうする、と、言外に尋ねられている。

「アイツを一人、訳の分からない組織に置いていけない」

 愉快そうに哂った影のない表情が、再び煙草を咥えた。緊張させた相手なのに、それを解くのも同じ人物とは、どんな皮肉だろう。崩れかけていた足元が、緩慢に元の姿へと戻ってゆく。ここで逃げようと思えば逃げられる。けれど、その先で、自分の知らない間に何かがあったらと考えただけで、選択肢は消滅した。もう、見て見ぬふりをするには、後悔を背負うには、己の背中はあまりに矮小だと知り尽くしている。

「俺はただ、自分の生徒と、……妹を、護るだけです。霊だとかは、正直、信じ難いですが」

「疑うことを知らねェ奴より、ずっと良い」

「分かりました」

 脳へ酸素が巡るように、呼吸を臓腑へ沁み込ませる。覚めた思考は存外に冷静で、現実の絡んだ糸より明快だ。呪った時すらあるこの命で、大切な存在を抱えられるなら、いくらでも使い潰してやる。紫を見据えて開いた口は、どうしてか笑っていた。

「獄卒だろうが何だろうが、やってやりますよ」

「でもよォ、妹離れはそのうちしてもいんでない?」

「余計なお世話です」

 まあ、そのうちにもう一度、生徒離れは試みたい。

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