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地獄現世支部  作者: 翠雪
プロローグ
1/88

夜の夢こそ

 これは夢だ。

 水面に顔をつけて覗く透き通った海底の世界のように、出会ってはじめて思い出す夢だ。枕から頭を離した途端、布地と絡んだまま縺れて解ける、ひとときの邂逅。前にはいつ見ていたかも判然としない、中断されていた眠りの続きが、今、明瞭な視界のもとで上映されている。

 瞼の裏に浮かび上がる世界の肌触りは、毛細血管の中を動き回る血液の温さからか、随分と穏やかだ。蝶が鱗粉を花弁に落とす素振りによく似た鈴の音、子が親の背を手のひらで叩く鼓、細くかおる笛のそよ風を遠くに聞きながら、輪の中心を彩る艶やかな白拍子を眺める己が、呆然と、百鬼夜行の宴に混ざっている。剣舞の鋒の行く末を辿れば、気ままに酒飲み、飯食う魑魅魍魎がそれぞれに胡座をかいて、たけなわの空間を保っていた。

 人間と形容すれば大嘘になるくらいには摘んで接がれた、輪を形作る数多の異形を、異物として認識しない自分自身が不思議な一方、これが当然だと頭の隅で感じてもいて、どちらが正解の感情か分からない。嫌悪の呻きこそ出て然るべき景色に、どうしたことだろう、自分ときたら、むしろ感嘆の溜息すら零せそうで――この混沌を、親しく思っている。

「起きられましたか」

 声の主は隣人だ。鳳仙花を染み込ませた真紅の髪が、夜を一層深くする。人好きのする笑みは、かえって人を遠ざけるもののようにも感じられたが、この場にいる「人間」は、青年の他には自分だけだった。

 こちらが答えずにいることは彼にとって問題ではないらしく、東洋の装束に身体を包み彩った男は、首を動かさないまま、視界の端だけでこちらを捉えている。三味線の音色が、地面にしんしんと降り注ぐ。黒の空が微かに蠢く予感が、肌の隙間へ染み渡った。

「思っていたより、貴女は気儘ですね」

 何かを言って返そうにも、生来から声帯が備わっていないのかと邪推できようまでに無力な喉では、相槌も肯定も否定も非難も問も飲み込まれ、勝手な鑑賞を受け入れることしか許されていない。意識してみると、自分の指の一本、唇の開閉一つですらろくろくまともに動かせず、誂えられきった雛人形の如く座り込んでいるのだと気付く。

 思考が反映されない夢の感覚は、いつまで経っても慣れはしない。赤の彼は「いつも」こちらを見つめている。毒にも薬にもならない眼差しで、ただ、こうして愚直にひたすらに、こちらの瞬き一つすら惜しむように、目を開けているだけのはりぼてに尽くしている。

「鼠があと一回りするまでに、夢を渡らず逢いに行きます」

 漸く振り向いた相貌が、眉尻が、頬が、どんどん墨に浸されて黒ずんでいく。舞人が刀を翻らせ、円の内側を空気の波で撫ぜると、彼と己を除いた形を成す物全てが、ぱっ、と、新雪を爪先で散らす仕草と同じに姿を消し、間もなく夜が崩れ始める。夜闇だと思っていた黒は烏の色合いだったらしく、散り散りに飛び去っていく羽ばたきと共に、眩しい白が差し込む。心地よかった楽器の代わりに、鳥の鳴き声が響く。虹を飲み込んでいた羽が、地面に散らばる端から消えていく。やがて、あらゆる影も形もない、存在していた筈の事実すら否定する静寂が訪れた。空っぽな卵の内側のようだった。

 いつの間にか正面の位置で向き合っていた男は少年の風貌になっていて、幼い背丈で立ったまま、座ったままのこちらの真っ青な髪を戯れに一房掬い、その数多の糸を縫う合間から、指を名残惜しく滑らせていく。

「愛しい人よ。今生こそ、すべてが欲しい」

 夢の中では長く伸ばされている自身の髪が、末端の隙間から、掌から逃げきってしまう前に、彼は告げた。言葉面だけならば甘い囁きを、どこか冷たい視線と共に。

「――おやすみなさい」

 刻々と、瞼が重くなる。彼方から、妙にこの場へそぐわない鐘が轟いている。違和感は次第に五線譜に乗って、校舎のチャイムに紐付いた。

 起きなくては。

 ざらついた土の感触が粉砂糖になり、ほろほろ流れて攫われる。夢が終わる直前、目覚めるための準備として、まるでしきたりのように閉じられた瞼には、ふと、何か柔らかなものが触れた感触があった。


「ああ、やっと起きた」

 微睡みながら戻ってきた現実を構成していたのは、よく見慣れた教師が一人と、ホルマリン漬けの標本に教科書、洗われたばかりで水滴が垂れている試験管、隅にこっそり積まれた文庫本と、暗くなった部分が目立つ蛍光灯。あくびと一緒に上半身をうんと伸ばして、肩にかかる白衣に気が付いた。少し、くたびれている。

「……センセ、おはよー」

「お早くないだろうが。あと五分で授業な」

 眼鏡のブリッジを上げながらため息をついてみせる若い担任に、即席の薄っぺらい掛け布団が回収されていく。組んで枕代わりにしていた腕が痺れる。感覚が鈍いなりに、拳を作っては伸ばす運動を試みると、順調に血液が巡り始めた。

「次、どこだっけ」

 空になったパンの袋は、理科準備室に備え付けのゴミ箱に放り捨てた。壁掛け時計の長針が小さく動く。

「金曜の五時間目……数学か?」

「絶対寝る。これは確定事項っス」

「いや、流石にちょっとは耐えろ。頑張ってくれ」

「なあんか、寝た気しなくって……」

 夢でも見ていた気がするけれど、さっぱり思い出せない。

「天気が悪いからかもな」

「給食に桃が出たからじゃねえ?」

「回避してここでパン食ってただろお前」

 カーテンを引かれた先、窓の外にかかる八雲が、太陽の光を遮り、午後の始まりには見合わない陰を落としている。傾げていた首と頭は、再び鳴り始めた始業の鐘に追われた。

「じゃ、またね、センセ」

「ほら、さっさと行け」

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