王女の日常
ジェラルドと出会って約一年後の城下町にて、いつものように変装したセラフィーネはジェラルドと共に、ある目標を追っていた。
「セラ様、そっちに行きましたよ! 今度こそ取り押さえて下さいね」
ジェラルドに言われ、セラフィーネは僅かに笑みを零した。
城下町の路地裏で袋小路にそいつを追い詰めたセラフィーネは、折角の美少女が台無しになるくらい悪そうな笑みを浮かべる。
「さあ、いい加減観念なさい……!」
ジリジリとにじり寄り、目標との距離を縮めたセラフィーネは間合いに入ったと察知して身をかがめる。
素早く目標に向かって両手を伸ばすが、相手は彼女よりも上手だった。
「ふぎゃっ!」
相手はピョンと軽やかに飛び上がると、見苦しい声を上げたセラフィーネの顔を踏み台にして華麗に空中を舞う。
そうして、着地しようとしたのけれど、待ち構えていたジェラルドによって体を抱きかかえられてしまった。
彼の腕に抱えられてもフシャー! と威嚇をして大人しくする様子もない。
対して踏み台にされたセラフィーネは、そのときの体勢のまま固まってしまっている。
酷く心が痛い。まさか踏み台にされるとは……と怒りで体を震わせた。
顔の一部と赤みがかった茶色い髪に泥が付着していることすら気が付かないほどに。
「……い、依頼じゃなかったら今すぐ八つ裂きにしていたところだわ……! 一体、誰の顔を踏んづけたと思ってるのかしら!?」
「落ち着いて下さい」
「ジェラルドは落ち着き過ぎよ! 貴方の主の顔が踏まれたのよ! もう少し、怒ったらどうなの!」
「申し訳ありません。無様だなとしか思いませんでした」
「言い方」
「これが俺の主かと思うと情けなく……」
「言い方」
涼しい顔をして口にするジェラルドをセラフィーネはジト目で睨み付ける。
軽く微笑んで意に介していないのが、なおさら彼女の怒りを増幅させた。
「わ、私だって、こんなことになるなんて思ってもいなかったわよ! って、いい加減に笑うのを止めなさい! 無性に腹が立つわ!」
「申し訳ありません」
「申し訳ありません、は魔法の言葉ではなくってよ! まったく……」
セラフィーネは腰に手を当てて不機嫌アピールをしてみるものの、ジェラルドには効果がない。
今も、目標を抱えてなければ指を指して涙目で体を震わせていただろう。
もちろん、笑いの方向で。
主を敬う様子のない彼にセラフィーネは頬を膨らませたが、ここで言い合いを続けるのは時間の無駄だ。
なんせ、今から依頼人に目標を受け渡さなければならないのだから。
はぁ、と諦めに近いため息を吐いた彼女は顔と髪の泥を軽く払うと、ゆっくりとジェラルドに向かって足を進めた。
「ともかく、その子を依頼主に引き渡すわ。それで、この依頼は完了するのだから。……いつまでも笑ってないで行くわよ」
「……仰せのままに。それにしても、逃げ出した猫の捕獲とは……。困っている人を助けるためとはいえ、仕事を選ぶべきでは?」
「何を言ってるの? どんな依頼だろうと本人にとったら重大な悩みなんだから。それに私に助けを求めてきたのだから全力を尽くさないと」
目標、というか猫を抱えながら、ジェラルドは目を細めた。
前を行くセラフィーネの背中を眺めながら、暴れる猫を宥めるように一心不乱に顎を撫でている。
シャーシャー威嚇していた猫は彼の撫で方が気に入ったのか、シャー……と力なく威嚇するまでになっていた。
懐くまではいかなかったが、それでも途中で逃げ出すこともなく二人は無事に猫を依頼主に引き渡すことができたのである。
猫を抱きながら涙目で感謝の言葉を述べる依頼主を見て、セラフィーネは良かった良かったと満足感で胸がいっぱいになる。
やはり人から感謝されるのは気持ちが良いと再確認した。
誰からも必要とされなかった彼女は、こうして人の役に立てることが何よりも嬉しい。
そうして、依頼主から感謝の言葉をもらい、笑顔で別れたセラフィーネは城下町の大通りを軽やかな足取りで歩いていた。
「ふへへ……。やはり、人から感謝されるのは堪らないわ。癖になるわね」
「目が据わってますよ。王女様のする顔ではありませんが」
「いいのよ。普通の王女だって、たまには悪い顔をするものよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。多分、恐らく……きっと……」
「そこは言い切って下さいよ。……ほら、セラ様の好きなチーズ入りパンがありますよ。あれを食べて元気になって下さい」
即座にセラフィーネはジェラルドが指差した方向に顔をグルリと向ける。
そこにあったのは顔見知りの店主がやっているパン屋であった。
チーズの焦げたような匂いとパンの焼ける香ばしい香りに、彼女は鼻をヒクヒクとさせて無意識に近寄って行く。
前の客がパンを買い終えたときを見計らい、彼女は次はこっちだと手を挙げた。
「おじさん。パンをひとつ頂戴」
「おっ! 仕事終わりかい? 相棒のジェラルドも一緒とは、今日も頑張るねぇ」
「そうなのよ。だから、頑張ったご褒美におまけしてくれないかしら?」
「はははっ! そいつぁ無理だ。こっちも商売だからな」
口を尖らせたセラフィーネは豪快に笑う店主からパンをひとつ受け取り、財布からなけなしのお金を支払った。
「……ありがとう。口コミでこの店のパンが美味しいって広めておくわ」
「期待してないけど、よろしくな!」
いつものように軽口を叩き合い、セラフィーネは焼きたてのチーズ入りパンを手に外で待っていたジェラルドの元に戻る。
熱さに苦戦しながらも、ほぼ半分に引き千切ったパンを彼女は彼に差し出した。
「今日の報酬よ」
「潔癖症なんで」
「そんな話聞いたことないわよ! 嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなさい!」
「潔癖症なんで」
「懲りずに二回も言った!? …………も、もう、いいわよ! まったく人の親切をなんだとい思っているのかしら?」
ブツブツと文句を言いながらベンチに腰かけたセラフィーネは口いっぱいに焼きたてのパンを頬張った。
中にはチーズの他にベーコンが入っているが、トロリとした食感と歯ごたえのあるベーコンのコラボレーションがとんでもなく良い味を出している。
やはり、あの店のパンは絶品だと感動しながら、一気に全部食べ終えてしまった。
あまりの食いっぷりに、ジェラルドが拍手を送るほどである。
「こんなに美味しいのに食べないなんて損をしているわ」
「得した記憶もないので、差し引きゼロですね」
「可愛くないわね」
「男は総じて可愛くないものですよ」
本当に可愛くない……と思いながら、セラフィーネは周囲を警戒しているジェラルドを盗み見る。
国境警備騎士として厳しい環境で二年ほど過ごした過去のある彼は、二十一歳とは思えぬ鋭い視線をいずこかに向けている。
その頼もしい彼の横顔を見ていると、セラフィーネは胸の高鳴りを押さえられなかった。
切れ長でややツリ目の涼しげな瞳はお世辞にも優しそうには見えない。
普通にしていても何か企んでいそうな疑いを持ってしまう目である。
だけど、セラフィーネはその目がこれ以上ないくらいに愛おしい。
自信を憐れみでもない威圧するでもなく見てくるその目は、彼の正直な性格が見て取れるからだ。
あまりにも歯に衣を着せぬ物言いをすることから、他人から誤解されやすい面もあるが。
それに、彼は根っこが優しい人なのである。彼の優しさに救われたことは数え切れないくらいある。
だからこそ、ああ言えばこう言う場面が多々あっても、己の感情が揺らぐことはなかった。
(ああ、好きだなぁ)
ボーッと顔を見つめていると、視線に気が付いたのかジェラルドがセラフィーネに視線を合わせてくる。
視線を交わした瞬間、彼女は一際大きく心臓が飛び跳ねたのを自覚した。
彼の目に僅かに頬を染めた自身の顔が映っているのを見て、頭が真っ白になった彼女は何十回目ともなる、ありきたりな言葉を吐いてしまう。
「……好き」
「ありがとうございます」
「異性として好き」
「男冥利につきますね」
真剣な告白を軽く受け流されているが、セラフィーネはまったく気にしていない。
受け入れてもらえなくても、気持ちを知っていてもらいたいのだ。
あとは、あわよくば情が移って好きになってもらえたら万々歳だとも思っている。
彼女は両思いとなった未来のことを想像して、フヘヘ……と不気味な笑みを浮かべていた。
と妄想に浸っていたところ、運が良いのか悪いのか、タイミング良く時計台の鐘が鳴り響く。
鐘の音を聞いたセラフィーネは嫌そうに表情を歪めた。
「……時間ですね」
「いつ聞いても、あの鐘の音は憂鬱になるわ」
「仕方がありませんよ。いつまでも離宮に戻らないわけにはいかないんですから。さあ、帰りますよ」
「分かっているわ。……あ~あ。今日もこれで裕福な商家の令嬢と離れることになるのね。あの離宮は人が来ないから暇で仕方がないわ」
「いつものように城下で売る刺繍をしていれば時間はあっという間に過ぎますよ」
「それは、そうだけど」
嫌そうな表情を浮かべながらも帰宅することは納得しているらしく、セラフィーネの足は離宮の隠し扉の方向へ向かっている。
また、彼が言った城下で売る刺繍であるが、これは収入のない彼女がお金を得るために編み出した策である。
彼女は手先が器用なので、繊細で華やかなデザインの刺繍はそこそこ売れるのだ。
そうして、裏口までの道中で今日一日のことを話し合っていると、あっという間に彼女達は隠し扉の前まで到着してしまった。
見慣れてしまった扉を見た彼女は、肩を落としている。
「ここをくぐったら窮屈な生活が戻ってくるのね」
「ほら、グダグダ言わないで中に入って下さい」
「ちょっと! 押さないで頂戴! もう少し感傷に浸らせてくれるかしら!?」
「待っていたら、いつまで経っても帰れないので」
「分かったわよ! ほんっとうに、仕事に忠実なのだから……!」
ドスドスと音がしそうなほど、不機嫌さ満開でセラフィーネが中に入ったのを見て、周囲を注意深く見回したジェラルドも中に入っていった。
離宮に戻った彼女は、すぐさま後頭部に手を回して赤みがかった茶色いカツラを一気にはぎ取る。
途端にこぼれ落ちる絹のような長い白銀の髪は汗でペタッとしていたが、それでも艶は変わらない。
癖のついた前髪を直しながら、迎えてくれた侍女のエレノアにカツラを手渡した。
「お疲れ様でした。久しぶりの城下はいかがでしたか? 今日は、逃げた猫を捕まえるというお仕事だったようですが」
「……問題なく上手くいったわ。ええ、問題なくね」
苛立ちを隠さない言い方に、エレノアは真相はどうなのだと護衛のジェラルドを見据えると、彼は苦笑しながら肩を竦めた。
「顔を踏み台にされましたが、無事に猫を依頼主に送り届けることはできました」
「顔を、踏み台に、した……ですって? 姫様の、麗しい……ご尊顔に……!」
目つきを鋭くさせたエレノアはカツラを乱暴に放り投げ、ズンズンとジェラルドに近寄ると、彼の胸ぐらをこれでもかと掴み上げる。
「ああ! 私の変装道具が!」というセラフィーネの悲痛な叫びは残念ながら誰にも届かない。
「貴方がついていながら、何をしているのです!? 何のための護衛ですか! 姫様の近衛騎士が聞いて呆れますね!」
「俺だって、まさかセラフィーネ様が猫に顔面を踏まれるなんて思ってませんでしたよ」
「そこを予想して事前に危険から遠ざけるのが貴方の仕事ではないのですか! ……なんて使えない人間なんでしょう……」
力なくジェラルドの胸ぐらから手を離したエレノアは、その場に膝をついて出もしない涙をすすり、嘆いている。
完璧に嘘泣きだと分かっているので、セラフィーネとジェラルドの向ける目は冷めたものだった。
「姫様が突然、困ってる人を助けたいなどと仰ったときは耳を疑いました。けれどこれまで、その見た目のせいでご家族はおろか貴族からも冷遇されていた姫様が持たれた初めての夢ですから応援しようと思ってましたのに……」
鼻をすするエレノアであるが、目に涙は一滴も浮かんでいない。
大袈裟だと呆れるが、使用人である彼女を宥めるのも主であるセラフィーネの大事な仕事である。
放り投げられたカツラを回収して大事に抱えた後で、ゆっくりと彼女に近寄っていった。
「そんなに嘆かないで。いない者として扱われて放っておかれているからこそ、私はこうして自由を満喫できるのだもの。それに貴女のお蔭で一般常識や知識も得られた。決して私は不幸ではないわ。むしろ政略結婚の駒にされないだけ恵まれているのだから」
「ひ、姫様ぁ」
なんとお優しい言葉でしょう! と良いながら、エレノアはセラフィーネの足に縋り付いている。
寸劇。そう完璧に寸劇だ。
彼女に何かある度にこうなるので、すでに慣れっこになっていたが、それでも遠くを見つめて現実逃避をしてしまう。
すると、同じように死んだ魚のような目をしているジェラルドと目が合い、互いに乾いた笑い声をあげた。