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恋蜘蛛

作者: たかむし

 人生なんて!

 腐敗した心を持て余しながら、私はかなり捻くれていた。随分と捻くれてしまったものだ。そりゃあそうだ!気がつけば、友人のほとんどは結婚し、子供ができ、いわゆる幸せな家庭(本当に幸せなの?)を築き、私の知らない世界に浸っている。私だって、いわゆる普通の幸せ(普通の幸せって何よ?)を手に入れてみたいとは思う。だがしかし、私は本来男が嫌いなのだ(負け惜しみに聞こえてしまうのが嫌なんだけど)。いや、人間が嫌いなのだ。

 とは言うものの、人並みに恋も経験した。でも決まって振られる。あちゃー。厳しかったのは、三十路過ぎての失恋だ。その歳で彼氏ができたことに有頂天になり、結婚を前提に!と前置きをしなかったことが悔やまれる。三十代前半の貴重な時期をその男に全部費やし、挙句捨てられた。そんなお先真っ暗なところにやってきたのが愛犬の死。ちょっと待ってよ!もう勘弁!

 で。

 人生なんて!

 と叫びたくなったのである。叫びまくって抜け殻に埋もれていたらもう三十八。若い頃見ていた夢の中の私は二十代のうちに結婚し、子供も二人くらい産んで笑いの絶えない家庭を築いていた。でも現実は違う。まともな仕事にも就けず、契約社員や派遣社員を渡り歩く。稼いだお金は貯金もせず、若気の至りで遊びまくってすっからかん。気がつけばと年を重ねただけで私には何にも残っていなかった。その仕打ちなのだろうか。この年でまだ独身だった。それでもいいと思えたら、幸せとはこれだ!と熱弁を振るうことができたら、と思う。でもできない。きっと満足していないのだ。自分に。口では男なんてクズよ、独身最高!なんて言いながら、ふいに訪れる虚無感に私は震えた。夢と現実の落差に辟易しつつ、ひどく傷ついていた。外で笑えど、内では大いに泣き崩れ!


 人生なんて!(三度目じゃん!)


 その日、仕事が終わって、フラフラになりながら、アパートに辿り着いた。愛犬が天国へ逝ってしまい、しばらくして私は家を出た。そこらへんに犬の存在が染みついているあの家にいることが辛かったから。泣かない日なんてほとんどなかった。毎日目を腫らして出勤するので周りが私に同情した。そんなに稼いでもいないのに、家なんか出てどうするのだ、と親とも絶縁状態になるんじゃないかと思うほど派手な喧嘩をし、飛び出してきた。

 夕暮れ時ではあっても、背中に射す陽光がまだジリジリ感じるのは晩夏が醸し出す哀愁の気持ちかもしれない。築三十年というかなり古びたそのアパートも心なしか赤く染まっているような気がした。玄関のドアを開けるといつものように、ぎぎぎぎぃ、と少し大きな音を立てる。おかえり、と言ってくれている、と私は勝手に思っているので、ただいま、と小さく呟いて部屋に入った。

 トサトサトサ…部屋の奥で音が聞こえた。重たいものが落ちるような音ではない。とても軽い音だ。自慢ではないが、私はものすごく耳がいい。小さな音でも敏感に感じ取った。

 何だろう?書類か何かが机から落ちたかな?昨日結構散らかしたままだったしな。とぼんやり思った。


 リビングにつながる扉を開けて、ギョッとした。一面が真っ黒。よくよく見ると…蜘蛛だった。ぎええええ!蜘蛛の死骸がこんなに!普通の女の子(ってなんだろうか?)だったら、きゃああ!と悲鳴をあげて失神したりするのかしら?それとも、彼氏や旦那に「助けて!」と連絡したりするのかしら?私はどちらでもない。冷静な自分が不気味だった。

 もともと蜘蛛は嫌いじゃない。ていうか、虫自体が嫌いじゃない。人間と虫どちらがいい?と問われたら、即答で、虫!と答える。私はよく蜘蛛を助けた。蜘蛛を助けたら私が地獄に落ちた時、蜘蛛が助けてくれるかもしれない、と言う邪な心があるわけでない(のちに芥川龍之介の蜘蛛の糸を読んでそんなことあるのか!とは若干思ったけれど)。蜘蛛は私に危害を加えたりしない。だから、例えば、風呂場に蜘蛛がいることに気づかず、湯を張ろうとして蜘蛛が溺れていたら慌てて素手ですくったことが何度かある。もしくは湯を張る前に蜘蛛がいることに気づけば、わざわざ場所を移動させる(蜘蛛は人間の体温を嫌い、逃げる、というのを聞いたことがあるけれど真実かどうかは分からない)。それでいいことしたなあ、と気分が幾分晴れることがある。例えば、蜘蛛の巣が部屋に張られていても特に気にすることはない。彼らは生きるためにあれを作っている。虫は嫌いじゃない、と言ったが、蚊は嫌いだ。こいつだけは助けられない。じゃあ、ゴキブリは助けるのか、って?土などに住んでいる赤いゴキブリや冬のゴキブリはそっとしておく、とだけ言っておこう。あと、ムカデも苦手だなあ。噛まれると痛いなんてもんじゃない。小さい子供がムカデに噛まれショック死してしまうことがあると言うのは理解できる。あ、話が脱線してしまったけれど、蜘蛛の巣に蚊が引っ掛かればいいのに、と少し願っていることもあって壊したことはない。時々巣が頭にぶつかって壊してしまうこともあったが、その時はちゃんと謝っている。ちなみに小さい頃、妹と二人で母の軽自動車の中で白いビニール紐で蜘蛛の巣を作りスパイダーごっこをしていた。それくらい蜘蛛は私の日常だったし、嫌いになることはまずあり得なかった。蜘蛛は嫌いじゃない、むしろ好きな虫の部類に入る。

 だから。

 目の前の大量の蜘蛛の死骸に驚きを感じた次の瞬間には心がひどく痛んだ。彼らがあまりにも哀れで思わず涙が出そうになった。私、昨日酔いつぶれていたわよね。その時無意識に殺虫用の燻煙とかしちゃった?まさか、そんなもの持っていないわよ。私、何か蜘蛛に対して悪いことしちゃったかな?ぐるぐると頭の中で自分の行動を羅列してみる。しかし、思い当たる節は何もなく、涙腺が崩壊そうになった時だった。


「オカエリ」

 ぎゃあああああああああああああああああ!!!!

 ベッドの脇から見知らぬ男がこちらを見ている。ちょっと待って!蜘蛛の死骸より生きている人間の方がよほど怖い。あ、あ、新手の、ど、泥棒?てか誰よ、ほんと。

「ぎゃああああああああああああああああああ」

 私は悲鳴をあげた。全く色気がなかった。ただのおじさんじゃないか、私。しかし、今までの人生でこれほどまでの大きな声を出したことはなかった、と思う。だって、目の前に知らない男がいるんですもの。

「コワガラナイデ、ダイジョウブ」

 言葉の発音がものすごく変だけれど、一応日本語を話している、ように聞こえる。そんな分析をする私もどうかと思うけれど。怖がらないで、って何?怖がらずにいることができる人なんているの?私は何か攻撃できるものはないかと周辺に視線を動かした。でも、蜘蛛の死骸しか目に入らない。蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛…キッチンに行けば?私が一歩踏み出そうとすると

「フマナイデ。イキテルカラ」

 男がベッドの脇から四つん這いになって出てきた。

「ボクノタメニチカラヲワケテクれたんだ」

 ひいい!出てきた!え!何!すっぽんぽんかよ!!!泥棒じゃない、何?変質者?え、本当、超怖いんですけどおおおおおおおお!こ、殺されるかもしれない!人生なんて!とか何回も思って投げやりだったけどまだ死にたくないんですけど!

「だからだいじょうぶ、こわがらないで」

 男が声を発してから少しの沈黙をおいて、私は大きく息を吸い込んだ。

「な、何が大丈夫なのかしら?そ、そんな、全裸で、おかえり、って。あなた、誰?どうやって入ったの?鍵あいてた?ううん、閉まってた。私、ちゃんと鍵開けて入ってきたもん。てか本当、なんで裸?変質者が部屋にいますって、警察に電話するわよ。また叫ぶわよ!」

 私は一気に言葉を吐いた。相手がどんな奴かも分からないのに、よくそれだけ攻撃的な物の言い方ができたものだ、と思う。たぶん、大量の蜘蛛の死骸の光景の中だったから、現実的に状況を把握できなかったのかもしれない。男は私の暴言(?)にきょとんとしていた。その様子を見て、少しだけホッとしている自分もいた。男は、自分の体を見ると、ベッドにあったタオルケットで体を包んだ。なぜか、ゆっくりとした彼のその行動に見とれてしまっていた。バカ!私のバカ!でも。この男、すごく綺麗な顔をしているんですけど。

「うまれたてだからはだかなんだとおもうよ」

あれ?さっきより、少しだけ発音がよくなった?根拠はまるでなかったが、この男は私を襲ってくることはない、と思った。そう、単なる直感だった。お前の直感は信用ならない、と何人かに言われたことはあるけれど。

「あ、ぼく、くもおとこです」

 は?

「うまくはなせてる?そのうちにんげんのからだになじんだら、もっと上手にはなせるから」

 いやいや、そういう問題ではなかろう。くもおとこ?なんだよ、それ。蜘蛛男?蜘蛛女と言う映画は知っている。観たことないけど。え!スパイダーマン?手から蜘蛛の糸をピュッと出して、ビルの合間をビュンビュン飛んで悪い奴らをやっつけちゃうあのダークヒーローのスパイダーマンですか、あなた。私の思考回路が爆発しそうで頭がクラクラしてきた。

「ぜ、全然意味が分からないんですけど。なんですか、蜘蛛男って。なんでここにいるんですか。そして、この蜘蛛の死骸。意味が分からないことだらけなんですけど」

 訳が分からなくなり、ついに涙がぽろぽろ零れ出す事態に陥った。

「だから、しんではいませんから。僕がこのすがたになるのをたすけてくれたんです。今はうごきがていししているだけでそのうち動きだしますから。そっとしておいてあげてください」

 男、いや、蜘蛛男は綺麗なその顔を少し歪めながら、懇願するように私に頼んだ。

「ほ、本当に死んでいないの、ね」

「死んでいません。ヒナコちゃんは蜘蛛にあいされていますね。こんなにたくさんの蜘蛛がちからをかしてくれたよ」

 不覚にも胸が躍り、どきり、とする。ん?なんで私の名前知っているの?なんでそんな私がいちばんキュンとする呼び方で呼ぶの?蜘蛛男は私の表情を見て、ふふ、と小さく笑った。

「僕、君のかれしです、ヒナコちゃん」

 何故だか、余計に涙が溢れ出した。この涙の理由は自分でも理解できなかった。

「泣かないで、おいで」

 蜘蛛男が両手を広げる。また全裸が私の目に飛び込んできて、恥ずかしくて体が沸騰する。なんなんだ、一体。助けてくれ。とりあえず、私はまだ死なず(殺されず)に生きていられそう、と思った。


 仮死状態の蜘蛛を一匹ずつ、手に取り、自分の歩くスペースを作ることにした。蜘蛛は様々だった。見たことがある種類の蜘蛛もいれば、なんだ!こいつ!外来種か!と言うような蜘蛛もいた。蜘蛛の図鑑を部屋中に広げたみたいだった。毒蜘蛛とかいないでしょうね?と思いながら、私は蜘蛛の標本を作るかのように、丁寧に彼らを並べる作業に没頭した。こういう単純な作業は嫌いじゃない。ところで蜘蛛男はと言うと、ベッドの上で寝転んだり、飛び跳ねたり、正座したり、と忙しくなく動いてはいたが、私の作業を手伝いはしなかった。本当、なんなんだ、こいつ。彼氏だったら手伝うんじゃないの?とちょっと思った。その言葉が通じたのか

「もうすこしまって。体になれないと急にたおれて蜘蛛たちをつぶしてしまうからね」

 私は蜘蛛男をちらりと横目で見ると、また作業に戻った。本当に生き返るの?生き返ってよ。嫌よ、みんなのお墓作るなんて。私は一匹ずつ丁寧に優しく触れて並べた。その作業を何時間続けたのか分からないが、外はどうやら暗くなっているようだ。ベッドが接している右壁の小さな窓が黒い空を切り取っている。そういえば、私は夕飯を取っていないことに気づいた。その途端におなかがぐーっとなった。その音はかなり大きく、たぶん、蜘蛛男の耳にも届いているはずだった。私の顔はたぶん真っ赤になっていたと思う。とても熱かった。

「おなかすいた?なにかつくろうか?」

 やっぱり聞こえていた。

「キッチンまでまだ蜘蛛たちがいるじゃないの。踏んじゃダメだって言ったのあなたでしょ?」

「蜘蛛の巣を張れば、そこを通ってキッチンまで行けるよ」

 蜘蛛男は口からふうっと息を吐くようにして何かを出した。それは少しキラキラと光って見え、とても細い糸のようなものだった。な!蜘蛛の糸!?

「え!!!糸ってお尻から出すものじゃないの!?」

 バカ、私。

「口から出したほうが見えやすから。かなりゆうしゅうな体だな、うん。すごいな、ヒナコちゃんのあい」

 蜘蛛男はそう言うと、糸を出し、器用に蜘蛛の巣の作製を始めた。私は蜘蛛を並べるのをやめその様子を見ていた。つい、見とれてしまう。

 蜘蛛男の体は透き通るように白かった。適度な筋肉がつき、手足がスラリと長かった。腕に少し血管が浮き上がっている。肌の白さ故か、血管が蒼く目立って見える。少しだけつり目で大きすぎず、小さすぎず、とても整っていて、印象的な強い目をしていた。その色は光の射し方によって微妙に変わるのか、青みがかった黒だった。その目の上を長い睫毛が覆う。鼻はすらりと高く、薄い唇。外国人モデルのようだった。こんな美人で体型も抜群。女にもこんな美しい人いないんじゃないか、とさえ思うほどだった。類稀ない絶世の美男と言うべきか。私がじっと見ていることに蜘蛛男が気づいたのか「僕のこと気に入った?」とにやりと笑いながら言った。その顔が少し憎らしくて、でも図星で、悔しかった。ああ、そうだ。めちゃくちゃ気に入った。私の大好きな綺麗な顔をしているじゃねえか、くそったれ!ああ、顔だけは気に入った!顔だけな!

 私が作業に戻ろうとすると、蜘蛛男の声が頭上から聞こえた気がして、視線をその方向に移すと、蜘蛛男が四つん這いで、私を見下ろしていた。

 ひぃい!!あ、あれが!

 なんと蜘蛛男の性器が私の目の前にあり、ぎゃああ、と叫んでしまった。本日二度目の雄叫びならぬ雌叫び。

 私は少しできたスペースの上にうつ伏せになった。

「お、お願いだから、な、何か着てくれないかしら?本当に、勘弁してほしいんだけど」

 乾涸びた生活を送っている私には刺激が強すぎた。しかも、モノまで超男前だなんて!(ちゃんと見ている自分が悲しい)

「だって服ないもん」

 ちょ!何、その言い方!私は可愛い男の子が発する、だって、とか、○○だもん、とかすごくときめいてしまうのだ(テレビやラジオでしか聞いたことないけど!)それを今私に発している。もう!やめてよ!その顔!その声(すごく透明で綺麗な声、腹立つ!)!勘弁して!(大泣)

「わ、わかったよ。買う、買います。今から買ってきます!」

 私は思わず勢いよく立ち上がってしまった。蜘蛛の巣が頭に引っかかり、巣がユラユラ揺れた。しまった!と思った時にはすでに遅く、蜘蛛男が降ってきた。

 もうまじ、これ何なの!勘弁してよ!!!


 夢を見た。とても気分のいい、でも、とても居心地の悪い。位置付けるとすれば中途半端と言うのがしっくりくる。私は夢を見るのが嫌いだ。まず、夢を見るというのは熟睡できてない、と一般的には言われている。そして私が見るほとんどの夢が悪夢だ。あの目覚めた時の後味の悪さは酷い。今そこで何かに触れた、何かに触れられた、ゾッとする感触が手に、足に、身体中に残っていて起きてしばらくは震えを抑えるのに時間を要した。吐いてしまうことも少なくなかった。だからこんな中途半端な夢を見たことが不思議だった。もしかしたら、これは夢ではなくて現実なのかもしれない。

「だいじょうぶ?ごめんね」

 夢の中の彼はそう言って私の頭にそっと触れ、そのあと優しく抱きしめた。私は言葉にできないほどの幸福感に包まれ、身体中に幸せの液体(ってなんだろう?)が注ぎ込まれるような潤いを感じた。ヤダ、何、この感覚!私は思わずうっとりしてしまう。また声が聞こえる。

「ねえ、だいじょうぶ?」

 だいじょうぶよ、だいじょうぶ、って言っているじゃないの。あれ?声が出ていない。私は彼に抱きしめられたまま、自分の喉に触れた。触れた瞬間、ぐにゃりと妙な感覚が伝わる。え?私の喉が溶け始めていた。生温かい私の液体。きっと幸せが身体に合わなかったのね、残念だわ。冷静に考える。ああ、でもこのまま溶けてしまうなら、もうそれでもいいわ、だって気持ちいいもの。私はまた目を閉じた。


「ねえってば!ヒナコちゃん!起きて!」


 声が耳元でまた響く。私は閉じた目を開き、絶句した。全裸の男が目の前にいる。何?

「起きたー。ごめんね、急にヒナコちゃんが立ち上がるから落ちてしまった。このからだと蜘蛛の糸もまだ不十分みたいだし、からだもうまくうごかせないんだもん。本当、ごめん。頭打った?頭おかしくなってない?」

 また可愛い言い方しやがって。それにもうすでに頭はおかしいと思うよ!と言い返してやりたかった。お前だ、お前のせいですでに頭イかれてるんだよ!蜘蛛男は私の身体にぴったりとくっつくと、私の後頭部を触った。ひぃい!

「ちょっ、だいじょうぶ、よ。だいじょうぶだから。頭だけは石頭って、言われてるくらいだから」

 私は蜘蛛男の手を払いのけ、ついでに彼を突っぱねた。ああ、きっと気絶していたのね、と自分の状況が少し飲み込めた私は立ち上がると(もう頭を気にしなくても男は降ってこない、はず)鞄から財布を取り出し、玄関に向かった。背後から、蜘蛛男がどこ行くの?と言うので

「あなたの服、買ってくるの」

「まだ開いている店なんてあんの?」

 私はつけていた腕時計を見た。十時を指している。

「コンビニ、行ってくる。下着くらいあるでしょ?」

 後先考えず、私は家を飛び出しコンビニに走ったが、男の下着をレジに持っていく段階になって初めて恥ずかしさこの上にない思いをしてしまったのは言うまでもない。


 近所のコンビニに行って蜘蛛男の下着とTシャツと冷やしそば(一応二つ)を買、仮死状態の蜘蛛だらけの部屋で蜘蛛男と食事をした。最初、蜘蛛男がいろいろ話をしていたけれど、内容なんてほとんど覚えてない。私が、うん、とか、そう、とか、生返事ばかりしかせず、聞いていないことが分かったのか、彼も喋らなくなった。二人で黙々とそばを食べた。あ、蜘蛛男はそばアレルギーではなかったのね、よかったわ。ていうか。こいつ人間なの?糸吐き出すけど?どこまでが人間でどこからが蜘蛛なのか私にはさっぱり分からなかったし、考えることもバカバカしかった。


 そして。今。私は風呂に入っている。腕を湯から出したり入れたり。ぽちゃんぽちゃん。そんな音を聞きながら、波打つ湯をじっと見ていた。


「ヒナコちゃん、いっしょに入ろうか?」

 突然の声に驚く。風呂場の磨りガラスの入り口にもやりと人影が映る。

「ばっかじゃないの!入ってこないでよ!」

 私は慌てて言葉を返し、顔を鼻の先まで湯に沈め、ぶくぶくと泡を吐いた。

「ねえ、ヒナコちゃん。僕は君の彼氏だから。理想の彼氏なんだよ。なんでもいうこと聞いてあげる。なんでも言ってよ。ねえ、寂しい夜はいつでも抱いてあげる。ご無沙汰なんでしょう?もう一人でしなくてもいいよ」

 なんなんだ。甘い言葉を投げたか、と思えば突き落とす。これか!これがツンデレか?違うか?若者の加減は分からん。てか蜘蛛男は若いのか?知らん。彼はどれくらい私のことを知っているのだろう。大体、なぜ私のことを知っているのだろう。名前とか理想の顔とか好きな言葉の言い回しとか、一人寂しい夜の行為とか。それを考え始めると温まっている体が一気に冷える気がした。

「うるさい!だいたいあなたなんかとしたくない。してへんなのが生まれたら困る!」

「え?なに?避妊せずしちゃうってこと?僕ね、すごいから、すぐ妊娠させちゃうかもよ?でもいいじゃん。ずっと子供ほしいって思ってたでしょ?」

 だから、なんでそれも知っているのよ。そう、子供は欲しかった。子供を育ててみたかった。でもそのためには相手を見つけて、結婚して、セックスしなければならない。トントン拍子に理想の男性に出会えて、そうなれたら、どんなにいいか。でも、そうはいかないから面倒臭いのだ。理想の人に会うのも大変ならば、その人に好きになってもらうのはもっと大変だ。気が遠くなる。いつだってスタートにも立てない。なんで、人間も自己受精や単為生殖ができないのだ、と本気で憤りを感じたこともある。そうすれば、面倒臭いことなど何もなくて、すんなり妊娠できる。おめでとう!じゃないか!少子化問題も一気に解決!無問題!私はだんだん腹が立ってきた。

「だから、あなたの子供だとどうなの?って話よ。八本足の人間?人間の顔のついた蜘蛛?何が生まれるの?どう考えても化け物よ」

「Funny」

 はあ?なんなの、今度は外国人?もう本当何なのよ。ああでも、確かにこいつを作るために力を貸してくれた蜘蛛の中には外来種がいたかもだし、そういう血が混じっていてもおかしくないのか。って!私も何考えているの。自分の中で一人漫才をしているようだった。でも、今この状況自体だってFunnyじゃないなら一体なんなんだ!つか、お前自身がFunny!

「妊娠なんかしたらいやでもあなたを両親に紹介しなくちゃいけない。私の彼氏です、旦那になる人です。ただ人間じゃありません、蜘蛛です。人間に見えますが、蜘蛛です。なんて冷静に言えない。できない」

「あっはっは。なにそれ。わざわざ蜘蛛です、なんて言わなくていいじゃん。分からないよ。人間に見えるでしょ?もうその頃にはちゃんとした人間になってる。あ!ねえ!ちゃんと喋ってるじゃん。二本足でもちゃんと歩けるぜ。すごい順応力!!ぶは、すっげ!」

 なんか腹立つ。でも、腹立つくせに、気分は心底悪くない。中途半端。さっきの夢みたいだ。とげとげだった心が少しだけ柔らかく溶ける。

「でも、ちゃんと紹介してくれるんだね、優しい」

 急に優しくて甘い声を出す。きゅん、と胸が痛む。

「親、安心させたいしね。ってまあ、本当のこと言えば、逆に心配させるかな?だって蜘蛛だし。ま、いっか。妹はちゃんとした人間と結婚して人間の子供もできて親もそれで安心してるし。私なんかさ。きっとどうでもいいんだろうなあ、って」

 自分で言って寂しくなった。ストン、と心が沈むのが分かった。私なんか。

「ヒナコちゃん?」

 名前を呼ばれたが、返事をしなかった。ぽちゃんぽちゃん。洗った髪の水滴が垂れ、音が這う。

「寂しかったんだあ、ずっと」

 私はすごく小さい声で呟いていた。湯に落ちる雫の音に拭い去られるほど小さい声だった。私が湯に半分ほど顔を沈めた時、ガラリとドアが開き、蜘蛛男が入ってきた。驚いた私は顔を上げたが、その次の瞬間には、彼は勢いよく湯船に入ってきて、私を抱きしめた。

「僕がいるからだいじょうぶ。だから来たんだよ。ヒナコちゃんのために。何もかもうまくいくよ。だいじょうぶ」

 なに言ってるのよ、本当にバカ。私はそう思いながら、蜘蛛男を抱き返し、その胸で少し泣いた。バカは私。でも…。


 本当はずっと寂しかった。


 下着とTシャツのままで蜘蛛男は湯に浸かってしまったので、結局また彼は裸になってしまった。やれやれ、と少しだけうんざりしたけれど、彼の行動に救われたことは事実だった。私はバスタオルを彼に渡すと、それを巻くように腰に巻くように命じた。そういえば、熱い湯は平気なのか?どこまで彼は人間になったのだろう。


「明日ちゃんと服とかいろいろ買ってくるから」

 私の言葉に、うんうん、と頷きながら、バスタオルをこう?それともこう?とバスタオルの巻き方に試行錯誤していた。その姿は腹が立ったが可愛い、と思ってしまった。不覚。急に眠くなった私は彼におやすみと告げた。蜘蛛男は一緒に寝ようか?と言ったが私は丁重に断った。彼は少し拗ねるような表情を見せたがおとなしく自分の作った蜘蛛の巣(先ほどのように壊れることも、まして彼が落ちることも決してない、と断言していた)に移動した。ん?やっぱり蜘蛛なの。器用にするするとその巣に上っていく姿を見ていた。綺麗な体。綺麗な顔。綺麗な声。本当になんのために私のところに来たの?そんなに寂しい、って声が聞こえた?神様の贈り蜘蛛なのかしら?

 誰かがそばにいる、という安心感に少しうっとりする。それが頭上で眠る得体の知れない綺麗な人間の形をした蜘蛛であっても、心地よい。久しぶりによく眠れた気がした。


 その日から蜘蛛男との奇妙な生活が始まった。


 朝、私は自分の体温以外の何か、を感じた。目を覚まして、ぎょっとした。裸の男が私にぴったりくっついて寝ているのである。思わず声をあげそうになったが、そういえば、と思い出す。どうやら夢ではなかったみたい。そう、昨日突然現れた蜘蛛男。私はすうすうと静かに寝息を立てる彼のその横顔を見つめた。長い睫毛が綺麗だった。あー、だめだめ、私ったら。私は彼を起こさないように、そっとベッドから出ようとすると、パジャマの裾をぐっと掴まれた。

「おはよう、ヒナコちゃん」

 起きていやがった。もう本当勘弁。こういう甘い状況に正直悲しいかな慣れてない私は歪んだ顔をして、情けなく笑った。

「お、おはよう」

 私がぎこちない返事を返すと、蜘蛛男はくっきりとした笑顔で頷くと、私を後ろから抱きしめた。や・め・て・ほ・ん・と!

私はそれを力任せに振り解くと、蜘蛛男が後ろに倒れ込んでしまった。出ました、私の馬鹿力。

「ご、ごめん。私、慣れてないのよ、こんなの」

「寂しい生活だったからね」

「一言多いのよ」

 私は立ち上がりベッドから離れた。あいつ、昨日の夜は自分の巣で寝ていたんじゃないの?洗面所に向かおうとしたその時、はっとしたことがある。蜘蛛たちがいないのだ。丁寧に並べた蜘蛛の標本がすっかり消えていた。床が見える。私は辺りを見回した。

「上、見て」

 背後からの蜘蛛男の声につられるようにして天井を見た。無数の蜘蛛の巣が張られ、それが幾重にも重なり、本来の天井が見えなかった。しかしルームライトの周辺は避け、私の頭にはかからない高さで張られていた。なんて律儀な、と少し感心してしまった。

「これって」

「住み着いちゃったみたいだね。あの仮死状態の子達の大半がここにいるよ」

 蜘蛛男は腕を組み、私と同じように天井の蜘蛛の巣を見ていた。

「ヒナコちゃんは本当に蜘蛛に愛されているね」

 嫌みなくまっすぐに蜘蛛男が笑う。それは蜘蛛男にとって最高の褒め言葉のようだったが、私にはまったく理解できなかった。


「朝ごはん、食べる?」

 私は出社の用意をしながら、腰にバスタオルを巻いた蜘蛛男に声をかけた。昨日購入した下着類はまだ十分に乾いていなかった。蜘蛛男は何度か頷くと私のそばにやってきた。ああ、でっかい犬みたい。蜘蛛だけど。

 寂しさはじわじわくる。いつも当たり前のようにいた愛犬の温もりが突然消えたあの日。天国に見送ってから数日はその子がいない、という現実を受け入れることができず、ただいま、とその子がいた場所に近寄って声をかける。空白の居場所を目の当たりにして、ああ、いなんだ、あの子はもういないんだ、と寂しさが一気に増加する。それを何度か繰り返していると、次第に、もういないんだ、ということを確実に頭にインプットしてしまう。それがまた悲しい。私はしばらくペットロスになり、廃人のような生活を送っていた。

 胸が少し疼いた。愛犬になんてちっとも似ていないのに、行動や生きている証の温もり。あの子の生まれ変わりなのだろうか、と思っても、彼ははっきり、蜘蛛男です、と言ったっけ。うーん、やっぱりこれ夢かな?私知らないうちに死んじゃったかな?それとも死期が近いのかな?現実味のないその状況をやっと持て余し始めた自分に呆れた。


 私は簡単な食事を作った。作ると言うか、テーブルに並べただけ、である。食パン、卵、ハムをそれぞれプレートに乗せ、オーブントースターで焼き、その横にちぎっただけのレタス菜を添えた。そして、インスタントコーヒーを淹れた。二人分。不思議な感じだ。これか?同棲とはこんな感じか?結婚とはこんな感じか?まったくその経験がないので、急に恥ずかしくなってしまう。少し赤くなった私の顔を見た蜘蛛男が笑う。

「かわいいなあ」

「やめて」

「本当のことだよ」

「……」

 本当、なんだろうか、この男。この状況に適応しているようなしていないような中途半端な気分がむず痒い。

「ねえ」

 私は朝食に少しだけ手をつけて、蜘蛛男を見た。彼は目玉焼きを口に運ぶところだった。

「あなた、名前なんていうの?」

 蜘蛛男は私の質問にとても驚いた表情を見せたので、私は何かいけない質問でもしてしまったのか、と狼狽えてしまった。

「くもおとこです、って言ったじゃん」

「それ、名前じゃない」

「じゃあ、あなた、でいいじゃん。そう呼んでよ。蜘蛛、でもいいし」

 私は少し困惑した。あなたやお前のように代名詞で呼んでもいいのだけれどやはり名前がないのは私にはとても不便だった。それにこうして「ひと」として生まれてきたのだから、やはり名前があってこそ完全になれる、と思う。私は目を閉じ、首を少し傾けると、彼の名前を考え始めた。

「クモル」

「は?」

「あなたの名前」

「クモル。ふーん、いいね。誰か好きなひとの名前?」

 私は首を横に小さく振ると、それ以上は何も言わず、黙々と朝食を食べた。私が話さないとクモルもそれ以上口を開くことはなかった。昨晩の夕食のような静かさだった。


「じゃあ、私は仕事に行ってくるから、おとなしく家でいてちょうだい」

 私は書類を鞄に詰めながら、クモルにそう声をかけた。

「えー、なんで?」

 まさかの答えに私は驚き、そして少しうんざりした。ことあるごとに、なんで?と連発されたどうしよう、と思ったのだ。言葉が話せるのと人間生活に適応性があるというのは別問題なのかもしれない。

「なんでって?当たり前でしょ、そんな裸同然のような格好で外に出たら、警察に捕まるわよ。服とかいろいろ買ってくるから。てかあなた、話ができるんだから、人間生活についての知識っていうか、適応性も備えてるんじゃないの?」

「ヒナコちゃんの知識だけは完璧だけど、あとは結構抜けてると思う」

 クモルはくっきり笑う。これ!この私の心をふにゃふにゃにしてしまう、この抜群な能力!こっちの方が抜けていてほしい。そうすればいちいちあたふたせずにすむのに。あー、悔しい!!

「早く帰ってきてね、寂しいから」

 はい、打たれ死に…。もう本当。マジ勘弁。

「こ、子供じゃないんだから、やめてよ」

「一応子供なんじゃないの?生まれたの昨日だよ」

 そして、この減らず口。憎たらしいのと可愛いのが混在して、私はそんなに取ってないはずの朝食をすべて吐きそうだった。私は少し俯いた。すると、クモルが私を覗き込んだ。

「大丈夫?どうしたの?」

「なんでもない。もう行ってくる」

 私は逃げるようにして玄関に向かって、靴に手をかけた。

「待って待って、ヒナコちゃん。これ、おにぎり」

 背後からぬっとクモルが手を出した。私は振り向いて、言われるがままにそれを受け取った。

「なに、これ」

「おにぎり。ヒナコちゃんが化粧してる間に作った。ほら、これから僕にお金かかるでしょ?節約節約。ね、ね。僕のこと大好きになった?」

 途端に顔が真っ赤になったのが私には分かった。全身が沸騰する。その様子を見て、クモルが大笑いする。

「あー、可愛いなあ、可愛いなあ。あっはは。行ってらっしゃい」

 クモルが突然私に抱きついたので、ぎゃあ!と声を上げてしまった。それでもクモルは動じることなかった。私と同じ匂いがする。結局昨日、クモルを洗ってあげたのだ。同じ匂いがする、ってなんか、すごく幸福な気がする。耳元でまた、早く帰ってきてね、寂しいから、と小さく呟くクモルの声が愛しくて泣きそうになった。


 非現実的だ。あまりにもあり得ない。私は仕事場に向かう電車の中でそう考えた。長い夢を見ているのだろうか?だったらそれはいつ覚めるのだろうか。こんな話、誰が信じてくれるだろうか。蜘蛛男がやってきました。彼氏だと言って昨日から私の部屋に住み着いています。どうしたらいいですか?病院送りだろうか。しかし、別段、命に関わる問題は今のところ起きていないし、誰かに相談して、解決策を!という緊急性も持ち合わせてはいなかった。夢にしておこう。気分のいい夢じゃないか。だったら、なんで、私、仕事に向かっているの?中途半端にリアル。私の部屋だけが異空間?私は目を軽く閉じて、首を振る。とにかく、今から仕事に向かうの。がたんごとんと揺れる電車のリズムに私は気持ちを現実に引き戻そうと思考をシフト変換した。


「どうしたの、顔、最悪」

 職場について開口一番そう言ったのは堂島爽子だった。

「え?そう?」

 私はヘラヘラ笑って見せた。昨日の出来事を言うわけにもいかない。あれは夢だ。悪夢だ。そうだ、悪夢だ。

「昨日、また例の悪夢見ちゃって。本当、夢見悪くてやになる」

「そういや、そんな話聞いたね」

 爽子は私と違って正社員だったが、こうやって対等に話してくれる女性だった。それが契約社員の私にとって居心地がよく、友達のような関係だった。歳もそう変わらず、独身であるもの同じだった。何かあればすぐに、寿退社してやるんだから、とかなり昭和なことを平気で言っていた。彼氏はいるようだが、結婚にまではなかなかいかないらしい。彼氏がいるだけいいじゃないの、と私は言ったが、そういうわけでもないらしい。散々愚痴を聞かされたことも幾度となくある。だったら、別れろ、と正直思うが、私はヘラヘラ聞いてやり過ごしてしまう。これ、私のいけない癖。誰かを傷つけるのは嫌だし、自分の正直な気持ちを直球で投げるのは苦手だった。そこらへん、歳を重ねたせいもあるかもしれない。誰かを傷つけるのが嫌なのではなく、自分が傷つくのが嫌なのだ。何事に関しても、ことなきを得ず、で済ましてしまうようになった。ずるいのだ、私はきっと。へんに人間臭い醜い塊が少しずつ大きくなる。


「そうそう、今日の会議資料、持ってきた?」

「は?なにそれ」

 私は頭が真っ白になった。は?なにそれ。

「え、あんたよ、今日」

「うそでしょ、知らない」

 昨日は家に帰ってからの蜘蛛事件のことしかあまり覚えていない。

「え、本当大丈夫なの?」

「大丈夫ではない」

「困ったな、うーん。今からできる分だけ用意してくれる?後は私がなんとかするから」

「ごめん」

 爽子に深く頭をさげると、彼女は私の肩にそっと触れ、悪夢明けだから仕方ない、と小さく呟いてくれた。でも、悪夢は明けてはいないのだよ、爽子。今も家にいるもの。私は大きくため息をついた。きっと爽子はそのため息を私のヘマに関してのものだと思ったかもしれない。もちろんそれもあるが大半クモルのことである。あくまで。仕事にまで影響。インパクトでかすぎる。私は席に着くとパソコンを立ち上げ、会議資料を作成し始めた。まともに作れるか全く自信がなかったのは言うまでもない。


 会議資料は結局ほとんど爽子が作成した。契約社員にそんなもん作らせるな、と思うけれど、この会社の規則だから仕方ない。小さいウェッブデザインの会社で社員自体も少ない。私みたいな契約社員を入れても、三十人はいないと思う。私の主な仕事は電話対応などの雑務が大半だった。それでも、会社の方針ではそういう立場からの意見も重視することになっている。会社での問題定義を掲げる会議がある場合、それについての意見書をあらゆる観点から見よう、とそういうことなのだろう。だがしかし、今回私はそれを大失敗した。昨日の蜘蛛事件を意見書として書ければどんなに楽だったろうか。それは面白い、ぜひ、会社にその蜘蛛たちを取り入れようではないか、などとなるわけがない。昼休みになるのがその日くらい待ち遠しいことはなかった。

 会議が終了し、午前中の仕事がひと段落ついた頃、私はやっと一息つくことができた。昼休みになり、出かけて行く爽子に何度も頭を下げ、謝った。爽子は、次はしっかりしてね、と笑顔で私を慰めた。本当に情けない。どうしてこうなった?

 私も爽子について、外にお弁当を買いに行こうと、鞄を開いた時、おにぎりの存在に気づいた。あ、そうだった。一気に今朝のことを思い出した。顔が急に熱を帯びてくるのが分かる。これだ。そうだ、あいつのせいだ。くそったれ!蜘蛛男が現れてそれどころじゃなかったんだ!と正直に話すことができればどれだけいいか。私はおにぎりを取り出し、給湯室へ行き、お茶を入れた。私は席に戻るとその形の悪いがやけにでかいおにぎりを頬張った。そして一口頬張って瞬時にそれをそのまま吐き出してしまった。あ、甘い、ぬわんだ、このおにぎり…。砂糖と塩間違えたのか…。私はしばらくそのおにぎりを見つめていた。これ、あの子が作ったんだよね。塩と砂糖と間違えていたけれど、私のために作ってくれたんだよね。そう思うとそのおにぎりが愛しく思えてきた。くそったれ、だなんて思ったことを少し後悔し、そんな自分に傷ついた。午前中のこともあり、いつの間にか涙を流していた。隣の席にいた男性社員の顔が妙に強張っていた。

「ご、ごめんなさい。その午前中のこともあって、なんか、気が抜けちゃって」

 私は彼にそう呟くと涙を手で抑えた。吐き出してしまった分も含めて、またおにぎりを食べ始めた。甘いおにぎり。涙と混じってちょうどいい塩梅。


 午後はなんとか気を取り直し、いつも通りきちんと仕事をこなした(と思っている)。特に残業もなかったので、十七時過ぎに帰り支度をし始めた。そうだ、クモルの服を買いに行かなきゃ。あと靴もか。外出できないもの。でもサイズいくつ?私は頭の中のメモ帳に彼の生活用品を書き並べた。

「なに、難しい顔してるの」

 爽子が目の前にいて、びっくりして声をあげてしまった。

「なに、本当、大丈夫?」

「あ、あああ。ごめん。考え事。ちょっといろいろ買わなきゃいけないものがあって、それをね、考えてたの」

「じゃあ、今日これから時間ない?」

 私は、ごめん、と爽子に謝った。今日、謝ってばかりじゃん、と苦笑いされてしまう。本当にごめん、と心の中でもう一度謝った。今日こそ、爽子に付き合うべきだと思う。迷惑をかけてしまったのだから、愚痴のひとつやふたつ、聞いてあげるべきなのだ。でも、私はクモルを選んでしまう。だって裸でウロウロされるのはさすがにもうごめんなのだ。そんな日が続くと私は今日のような失敗を繰り返し、あげくこの会社を解雇されるかもしれない。私は自分に言い訳をしていた。また爽子に心の中で謝る。結局私も友情より男を選ぶ女なのか、と思うと少し気分が悪かった。


 会社を出ると風が私を包んだ。その生ぬるさは私をさらに憂鬱にする。だから、今日だけよ、今日だけなんだって。こんなの非常事態でしょ?ねえ、だって裸の男が昨日現れたんだから!ごめん、許してよ。私は風にさえ謝っていた。

 自宅アパートとは反対方向の電車に乗り、ショッピングモールに向かった。電車に揺られながら、私はまた頭の中のクモル生活用品メモ帳を開く。あまり多くは買って帰れないな、と思った。靴と服と下着は絶対買うべきだな。

 ショッピングモールに着くと、私はなんでも揃いそうな店舗に足を運んだ。店内に置かれていたカゴを手に取り、頭の中のメモ帳を開く。サイズが問題なのだ。だから、大きめを買うべきかな?クモルは背がすごく高かった。私が小さいこともあるけれど、きっと身長は百八十センチは超えているんじゃないかな?私は薄いブルーのLサイズのシャツをカゴに入れた。ボトムスは…足が長いんだよな、あの子。本当なんなんだ、あの抜群のスタイルは。そして、あの顔。ヒナコちゃん、と声が聞こえる。早く帰ってきてね。私は思い出して、少し恥ずかくなった。バカ、私。スウェットにするか。そしたら、うん、ウエストもどうにかなる。あ、このシャツにスウェットは変?うーん、でもあの子ならどれだけちぐはぐな格好していても、あのスタイルにあの顔だから大丈夫かなと、とんでもない理由をつけて、グレーのスウェットパンツをカゴに放り込んだ。もう本当慣れないことするから、体力の消耗半端ない。頭を使うことが一番エネルギーを使うって言うけれど、本当だと身を持って体験した。それから靴下とインナーシャツを適当に選ぶ。ブリーフが陳列されている棚の前で、私はどれが似合うかしら?思わず考えてしまった。私の憧れなのだ。大好きな彼氏に可愛い下着をつけてもらうこと。きっとクモルなら喜んでくれる、と思った。なぜだろう?確証だった。バカみたい。私。知らないうちにドット柄のブリーフを一心に握りしめていて、男性店員に変な目で見られてしまい、私は顔を真っ赤にして、それをカゴに入れるとそのままレジに並んだ。


 帰宅したのはたぶん十九時を過ぎていた、と思う。玄関を開けると、クモルが勢いよく抱きついてきた。私は思わずよろけてしまう。

「ちょっ、ちょっと、もう!」

「遅い、遅いよー、ヒナコちゃん。早く帰ってきてって言っただろ」

 クモルはやはり背が高い。私は自分との身長差を思わず確認してしまった。

「だって、あなたの服買ったり、そのあと夕飯の買い物したりで、こんな時間になったんだもん」

「でも寂しいもん、ひとり」

 ちょっと、なんなの、その甘えた声。腹立つ。私は鼓動が少し早くなるのを感じた。もう本当にやめてほしい。私はまたエネルギーを消耗した。もう私のHPはダメージ受けすぎって真っ赤よ、真っ赤。回復系魔法希望。

「バカ」

 私はかすれた声でそういうのが精一杯だったのに、次にまた爆弾が投下された。

「ねえ、キスしてもいい?」

 はい、ゲームオーバー。

「はあ?バカじゃないの」

 急上昇した体温をクモルは感じたかもしれないけれど、私はそれをこれ以上悟られたくなくて、クモルを突き放した。力が残ってないんだから、本当もう勘弁してくれ。私はクモルの横をすり抜けると、背後で、冷たい!とふてくされた声がした。私はその声に振り返り

「もうおなかすいたでしょ?ごはん、作るから、遅くなってごめんね」

 と言うと、ふてくされたままの顔で、おなかすいた、と答えるクモルが悔しいかな、可愛く見えた。くそ。

「あ、そうだ。ありがとう」

「なに?」

「おにぎり」

「うん」

 クモルが笑う。私も笑う。なんだろう、幸せ。ヤダ、私。今、これ、幸せの瞬間じゃないの?ドラマみたい!私はふわふわの頭になっていた。私の幸せ妄想が今ここに再現されているなんて、やっぱり、夢のよう。うん、死期が近いかな?私がキッチンに向かっているとまた背後でクモルが私を呼ぶ。

「ヒナコちゃん」

「なに?」

 私はもう一度彼の方に振り向いた。


「大好き」


 心の防護壁が剥がれ落ち、自分の無垢な部分が露になる。やめて、こんな場所には居られない。思わず逃げ出しそうになる私はきっと汚れている、と改めて思う。



「どう似合う?」

 遅めの夕飯を済まし、風呂から出るとクモルが買ってきたものを身につけてポーズをとって見せるので、思わず笑ってしまった。やはり不恰好な組み合わせだ。自分のセンスのなさにがっかりする。でも、そのスタイルと顔のよさで、服装はただのおまけに見えた。

「これ、少し大きいかも?ほら、見て」

 クモルはウエストの部分に手をかける。お前のウエストが細すぎるんだよ。

「紐で調整するのよ。ほら、こうやって…」

 私はスウェットの紐をクモルのウエストに合うように締めて結んだ。

「わー、ヒナコちゃん、天才!」

 そんなふうに言われるほどのことはしてないのに。喜んで笑うクモルを可愛い、と素直に思ってしまう。なんなの、この子。犬。

「サイズ分からなかったからスウェットだと調整できるかと思って。だから、その上と下がチグハグになっちゃった。ごめん。ちょっと恥ずかしいかもしれないから悪いんだけど、ちょっと我慢して、この格好で一緒に服買いに行ってくれる?あんまり高級なのは買ってあげられないけど。あ、靴は?靴はどう?これもサイズ分からなかったんだけど、スリッポンなら、って思って、これ。どう?一応大きめ買ったの。大きすぎた?」

 靴の方は袋に入ったままだった。私は靴を取り出すために、腰を屈めるとクモルが後ろから抱きついてきた。

「ヒナコちゃん!」

「なに、どうしたのよ、なによ」

 私は驚いてもう少しで前のめりになってそのまま倒れてしまいそうになったのを踏ん張った。

「ヒナコちゃんと一緒にお買い物できるの?」

「え、ああ、そうよ。それがなに?」

 私は振り返りながら、クモルの腕を外そうとしたが、さらに力を入れて抱きつくのでもう抵抗するのをやめた。

「デート!」

「え、デートじゃないわよ」

「だって僕、ヒナコちゃんの彼氏」

「認めてない」

 私は即答した。

「えーーー、認めてよー」

 クモルは自分の顎を私の頭の上に乗せ、拗ねた声を上げる。

「いやよ、蜘蛛だし」

 急に静かになった。沈黙が浮遊する。しまった、言いすぎた。私はクモルの腕を解くと、彼に向き合った。クモルは少し俯いている。ああ、言いすぎた。これは私が悪い。私は彼の頬に触れると、ごめんね、と小さく呟いた。

「僕のこと嫌い?」

 クモルの形のいい目が私をまっすぐ見る。そんな目で見ないでほしい。

「嫌いとかそういうんじゃなくて…。その、だって、まだクモルのこと何も知らないし、昨日産まれたし、だいたいこの状況だって本当はもう意味が分からないんだから。その上、彼氏とか言われても、何が何だか、よく分からないんだもの。きちんとした答えとか出ない」

 私はクモルから視線を外し、バスタオルで顔を隠した。

「どうやったら好きになる?」

 またそんな質問。分からないんだって。分からないの、本当に。こんな状況下に置かれた場合の回避、解決法を書いてあるような本読んだこともないし、経験もないもの。

「そんなの、わからないよ」

「じゃあ、僕にどうしてほしい?」

「は?それもわからない」

 クモルもとても困った顔をしているように思う。私はバスタオルをとって彼を見つめたら、やはり、とても悲しそうな顔をしている。ごめん、また傷つけた?でも本当に分からないんだもの。

「でも…」

 私は昨日の夜のことを思い出した。本当はずっと寂しくてそれを実感した私を抱きしめてくれるひとがいた。眠りにつく時、頭上ではあったけれど、そばに誰かがいるあの安心感。


「そばにいてくれたらいいかな、って少し思う」

 私がそう小さく呟くと、満面の笑みを携えてクモルが答える。

「そばにいる」

「なんか。なんかね。犬みたいなの、あなた。蜘蛛だけど、犬みたいなの、でっかい犬。あのね、私にとっては犬みたい、っていうのは最高の褒め言葉なの」

 クモルは、うん、うん、と大きく頷いている。本当、犬みたい。

「じゃあ、僕はもう寝る」

「はあ?」

 突然の寝る宣言に、私は拍子抜けし、思わず間の抜けた声を上げた。一体なんなんだ。私、からかわれているのかしら?

「疲れたんだ、いろいろ」

 急に元気がなくなるクモルを見て、私は、はあ、とため息にも似た声を出した。

「一緒に寝る?」

 クモルは寝床に上りながら、振り向きながらそう言ったが、また即断した。

「ほんっと素直じゃねえな。なあ、明日も仕事遅いのかよ」

「なんでいきなり口調違うの」

 あら、怒ったの?

「強弱」

 くすくすと笑い、クモルは蜘蛛の巣に飛び込んだ。ブルルッと天井に張られた蜘蛛の巣が揺れる。

「意味分からん」

 本当、意味分からん。クモルは巣から私を見下ろすと、おやすみ、と声をかけた。

「はいはい、おやすみなさい」


 私はキッチンの後片付けをした。クモルは私の用意した食事を綺麗に食べていた。おいしい、とかそういうのは言わないけれど、残さず食べるのはまずくはない、ということだろう。クモルは食事中、今日一日、自分は何をしていたか、と喋っていた。私はまた、はいはい、と相槌を打った。ちゃんと聞いてる?ねえ!ヒナコちゃん!と何度か言われたが、また、はいはい、と答えるので、もお!と拗ねたあとは話さなくなった。私はそんなクモルを見るのが面白くて仕方なかった。表情をころころ変えて話す様やすぐに拗ねる子供みたいな性格。ああ、なんだ、この癒される感じと思って、ほとんど話を聞いてないのはそんなクモルを観察するのが楽しいからだ。片付け終えると、私は明日の仕事の準備をチェックした。今日のようなことがあってはならないのだ。私はふと頭上でスヤスヤ眠っているクモルを見た。やはり、とても安心する。誰かの寝息が聞こえるってこんなに幸せなことなんだ。私はしばらくその可愛いクモルの寝顔を見ていた。そばにいてほしい。ただそばにいてほしい。今の私の精一杯の答えだった。彼はなぜ私を好きなのだろう?私が好きになるもならないも、その前に驚きだ。そして、普通に会話しているけれど、この状況は格別に異様だ。それなのに、なぜ、こうも受け入れているのだろう。まさに矛盾。不思議な子なのだ。クモル自身がきっと。彼はまさに私の思い描く理想的な男の子だった。以前観た作品で、ルビー・スパークスと言う映画があって、その内容は小説に理想である女の子を描くと、そっくりそのままその女の子が主人公の目の前に現れ恋人になる、と言うものだった。はじめはとても幸せな日々だったがだんだんとその関係が崩れていく。理想とは一体なんなのだろう、とそれを観た時少し思った。理想はただ理想であって、それが現実になり得ることはないのであろうか。実際に私にも理想的な男の子が現れた。が、このざまだ。映画と違って情けない腰抜け女を曝け出しているだけだった。だけれど、彼は答えた。そばにいる、と。その言葉が私の心をふわりふわりと包む。心地よいはずなのに、この切なさはなんだろう。自分はやはり汚れているのだ。私は鞄に書類を詰めるとベッドに入った。目を閉じて、少し朝を想像する。クモルが私のおなかのあたりでまた寝ているのだろうか。例えば、無垢な優しさが目に見えるのなら、きっとその丸くなった背中の曲線とか、静かでリズムのよい寝息とかなのかもしれない。


 またクモルはおにぎりを作ってくれた。ありがとう、と受け取ると満面の笑みで、昨日と同じように、早く帰ってきてね、と言う。何気ない言葉にさえ、私への温かい愛を感じる。自惚れてしまう。恥ずかしくなる。そんな繰り返しを朝だけで幾度しただろうか。バカじゃないの、私。そしてまた汚れを知る。好きになってしまうことを恐れているのかもしれない。

 男にはまっていいことなんて今までひとつもなかった。絶望。まさにそれは私の恋愛に関して的確に表現できる最高の言葉だった。付き合い始めはクールでいられても、結局最後は私の方が好きになりすぎて、重い、とか、うざい、とかで振られてしまう。そんなにたくさんの男と付き合った経験はないけれど、付き合いが始まるたびに、今度こそ失敗しない、と何度思っただろう。でも未だ成功!だなんて自慢できるようなことは何一つない。ほら絶望。だからかもしれないけれど今も独身なのだ、と歪んだ言い訳をする。

 クモルにも今までの失敗談のひとりにはなってほしくない。しかも人間じゃないのにまで呆れられたら、私はもうどうすればいいのだ。これこそ絶望!?そうだ。彼は人間じゃない。いきなり現れたクモル。たった二日しか経ってないのに、ものすごく長い時間を過ごしている気がする。冷静にそのことを考えると脳みそが引きちぎれそうになってしまう。現実と非現実。あの子はなんであんなに自然にことをなしてしまうのだろう。それに身を委ねていいのだろうか。甘えていいのだろうか。ああ、だめだ、だめだ。また今日も仕事で失敗してしまう。だめだ、だめだ。私は電車の中で意識の矛先を仕事に向ける。


「大好き」


 だめ。きっと好きになる。なぜか憂鬱に似た重いものが私の頭を支配し、靄がかかる。


 仕事から帰ってくると、驚いて卒倒するかと思った。またしても突然だ。もう本当、私生きているのかしら。異次元に飛ばされたりしてない?地に足ついている?と確認したくなる。玄関のドアを開けると、クモルが泣きながら走ってきたのだ。

「ヒナコちゃああああああああああん」

「ど、ど、ちょ、ちょ、どうした?どうしたの?何があった?怪我でもした?」

 私はとても慌てた。いい大人が(と思うのだけど)こんなに大泣きしているのを初めて見た。何事だ、一大事か!

「これ、これ、これ見た」

 クモルが目にいっぱい涙をためて、DVDのパッケージを私に渡した。どうやら、フランダースの犬を見たらしい。

「ど、どうしたの、これ」

「ヒ、ヒナコちゃんがっ、えぐっ、僕のこと犬みたいって、い、いう、か、から、ひっく、い、犬のこと知ろうと思って、レ、レンタルし、しっ、してきた。ひいいん、ヒナコちゃんこれ、み、観たことある?うわあああん」

ん?レンタル?

「ちょ、待って、え?何、これ、レンタルしてきたの?ちょっと泣き止んで、ね、クモル」

 私は泣きじゃくるクモルに鞄から取り出したハンドタオルを渡した。彼はそれを受け取ると目元に思い切り押し付けたが、そのままの状態でまた泣き出してしまう。私は仕方なく、クモルを軽く抱きしめる。やれやれ。クモルが背中を丸めて私の肩に顎の載せるようにして首筋に顔をくっつけてくる。少しくすぐったかったが我慢した。クモルの涙が私の肌に浸透していく。クモルの頭に触れ、よしよしと撫でてやる。するとまた泣いてしまうので、もうどうしたらいいものやら、やれやれ、である。どれくらいの時間、クモルを宥めていたのだろうか。私は腕時計をそっと見る。帰宅してから一時間ほど経っていた。


「犬の映画ありますか?って言ったら、店員さんがこれを勧めてきたんだ。ひどいよ、よりによってこんな可哀想なやつ」

 落ち着きを取り戻したクモルがぼやくように言った。

「有名な映画だもの。それ」

「もっとあるだろ?犬の生態がわかる映画」

 そんな映画あるだろうか。それなら図書館に行って犬の本を借りた方がいいのではないだろうか。そう思った時、あ、っと気づいた。

「レンタルするのにカード作った?ってことだよね?私の貸してないし。え?字も書けるの?」

「なんとか。ナガミネクモル、って名前書いた、ヒナコちゃんの苗字。ふふ、夫婦みたいだね」

 クモルがそのカードを見せてくれた。丸くて小さい字が名前を書く欄にぶるぶると震えて並んでいた。その場凌ぎで貼り付けられた安っぽい苗字に感じて、夫婦感などゼロに等しい。

「ちょ、苗字!もお。てか、まあ、字くらい書けるか、こんなに喋れるし、なんでもできるじゃん」

「だって人間だもん」

「そうね、人間ね」

「ほんと、ひどいよ、可哀想だ。う、また思い出した。うわああああん」

 また泣き出した。ちょ、勘弁してよ。

「だから、泣かないでよ、もう」

「だって、だって、知ってる?ねえ、あの、さ」

 クモルがフランダースの犬について泣きながら語りそうになったので私は、ごはん食べよう、とそれを遮った。

「ヒナコちゃあああああああん」

「あああああああああああ!!うっさい!!!」

 まじでうっさい!誰だ!どの店員だ!クモルにこの映画勧めたやつ!許さん!


 私は昨日買ってきた食材で適当に食事を作った。ものすごく適当すぎて、味がほとんどなかったような気がする。クモルに泣かれて疲れてしまった分が重くのしかかり、きちんとした食事を作る気になれなかった。そんな適当な食事であってもクモルは何も言わず、食べてくれる。もちろん美味しいとも言わないけれど。食事を済ませると、食器を片付けるため流台に立つと、その隣にクモルがやってきてフランダースの犬の話をし始める。よほど悲しかったのだろう。最後のシーンについて、先ほどから何回も繰り返し話している。

 私は片付けをしながらまた適当な相槌を打った。そのうち黙るだろうと思ったが、今日は不機嫌になってしまった。よほどだ、本当に。

「もっと楽しい犬のにすれば?ほら、私、あれ好き。名探偵ホームズ」

「名探偵?犬が?」

「そう。コナン・ドイルの小説シャーロック・ホームズが原作だけれど、私が言ってるのは犬のやつ。テレビ下のボックスに入ってるでしょ?」

 私は片付けを終えるとそのDVDを探しに行った。

「ええ!持ってるんだったら言ってよ、犬の映画!お金使わずにすんだじゃん!」

 そこ!そこ怒るとこかよ、と思わず、笑ってしまう。何、笑ってるんだよ、とクモルが文句を言うのがまたおかしくてつい声をあげて笑ってしまう。

「そんな、クモルが見たいものなんて知らないもん。ま、いいじゃん、なんでもできるクモルくん、レンタル経験できたじゃん。お金置いていってよかった」

 クモルがいきなり抱きついてきた。驚いて笑う声を失う。

「いつまでも笑うから」

 その攻撃はずるい。悔しい。


「いつお仕事は休み?」

 私がパソコンを開き、メールをチェックしているとそばに寄ってきてクモルがそれを覗き込む。

「あと二日後かな?服買いに行こう」

 私はゴミ箱に必要のないメールを移動させながらそう言った。

「ずっと一緒?」

 クモルがものすごく近くに顔を寄せてくるので、ドキドキしてしまう。あー、綺麗な顔。じっと見つめていたい衝動に駆られるがそうするのは危険だ、と私は本能で分かっている。   私は彼に気付かれない程度に少し離れる。

「そう、ずっと一緒」

「服どこ買いに行くの?」

「そうだなあ、うーん、あ、そうだ、フリーマーケットとかしてないかな?古着とかなら少し安い」

 私はパソコンを閉じずにインターネットに接続し、検索をかけようとして、ごめん、と呟いた。

「なんでもいいよ、安いならいいじゃん」

「ごめんね、いい服買ってあげられない」

 情けない、と思い、心が沈む。暗い影を落としてしまったせいで、クモルが、働こうか、と言うので、また沈んでしまう。

「レンタルショップでバイト募集してた」

「ちょ!無理よ、履歴書どうするの?だめだめ」

「別に無理して買わなくてもいいよ。ほら、部屋にいるときはこれでいいし」

 クモルの格好はTシャツにブリーフ姿だった。スウェットは外出用だ、と言って脱いでしまっていた。

「そんな裸同然なのは困る」

「どうして」

「目のやり場に困る」

 私が小声になったのに対して、クモルが大声で笑う。

「あっはは、そういうもんなんだ」

「セクシーすぎるのよ、体」

 私はまた小さく呟くように答える。本当、スラリと伸びるその足とか、腕とか。あと長い指とか。とにかく、クモルのすべてから、得体の知れない魅力オーラが吹き出ている。体も顔も、そして声も全部。一体どうしてこんな完璧に私の『理想』なのだろうか。それを意識してしまうとからきしだめだ。ふいにクモルが小さい声で呟いた気がした。

「え?何?」

「え?何?」

 クモルがにこりと笑って私の言葉を繰り返す。気のせいだったのかしら、何か言ったように思ったのだけれど。

「お金についてはまた考える。とりあえず、お休みの日、一緒に出かけましょ」

 私はパソコンの電源を落とした。

「やったー。じゃ、寝る」

「え!ちょっとあんた、風呂入りなさい」

 私は蜘蛛の巣に登ろうとするクモルの足首を掴んでしまった。ひやりと冷たい。私の咄嗟の行動に対して、クモルが顔を顰めたがすぐに笑った。

「ヒナコちゃん一緒に入ってくれる?昨日だってさ、気がつけば先に入ってた」

「入りません、あなた一人で入りなさい」

 私はクモルに背を向け、立ち上がり、風呂を入れに行こうとした。

「やだ、蜘蛛だし、平気だよ」

 背後で不平が聞こえる。やれやれ。今度は蜘蛛かい。

「都合がいいわね、人間になったり蜘蛛になったり」

「へへ。ねえ、入ろうよ。入ろうよ」

「いやよ」

「じゃ、寝る。おやすみ」

 クモルがするすると素早く蜘蛛の巣に収まってしまう。やれやれ。

「わかった!わかったわよ、一緒に入る。そのかわり、私のことじろじろ見ないでよ!」

 クモルは私の言葉を聞くと、巣から顔を出して、大きく頷いた。ほんと、犬みたい。あ、人間だった。いや、蜘蛛?もう分からん!


 二人で風呂に入ることにはしたが、合図をしたら入って来い、と言い聞かせると、その通りにしてくれた。私は湯船に浸かったままで合図をすると、クモルが入ってくる。私は自然とクモルから目を反らす。二人で入るには窮屈な湯船だから自然と体が触れ合ってしまうのにクモルが私を後ろから抱きしめる。お湯を少なめに張っても溢れる。クモルの手が私の乳房に触れそうになったので、その手を抓った。しばらく二人とも何も話さなかった。

「体、洗ってあげる、出て、私に背中を向けて」

 クモルの背中は大きい。大きくてすべすべで綺麗。本当に男なのかしら?と思うほどきめが細かく滑らかな肌に嫉妬さえしてしまう。

「ヒナコちゃん。なんか自然すぎて笑える」

「はあ?どういう意味?」

 タオルを泡だらけにして、体を洗っているクモルは笑っているのか、肩が少し震えるのが分かった。

「普通さ、この状況、絶対エッチするでしょ?なのに超冷静だもん。すげー」

 確かに。それは当たっているかもしれない。そう言われると今の状況はかなりおかしい。考え始めるとだんだん恥ずかしくなってきたので一度大きく首を振った。

「そんな気起きないんだもの」

「それはやっぱり女だから?男だったら、超タイプの女がこんなだったら絶対やってるでしょ?」

 確かに。そういうものかもしれない。やっぱり私は間違っているのかしら?

「そうね、確かにおかしな状況ね。よく分からないのよ、私。ごめんね」

「すぐ謝る」

「こんな好条件、今までないから。どう対処していいかも分からないほど経験値が低いの。年の割に」

 そうなのだ。私にはこんな状況、魔法にでもかからなければ絶対にないはずだった。つまり非現実的な世界、そうファンタジー。私の大好きなファンタジー。やった!今その中心にいるじゃないの、私。やった!ってそんな楽観的なものではない。沸き立った気持ちがまたすぐに萎む。私の悪い癖だった。そうやって物事を軽くポジティブに考えるくせにそんな訳ないだろうと自分をあざ笑って蹴落とし落ち込む。そうやって生きてきた。特に最近はその癖がひどい。すごく嫌な人間になってきているが、もともとそんな性格はいい方ではないことも知っている。

「あはっは。じゃあ、教えてあげる」

 沈みかけた私をクモルの笑い声がすくい上げる。きっと。こうしてほしかったんだ。ずっと。

「なんであなたに教えてもらうのよ、こっち向くな、見るな」

 クモルが首を捻ってこちらを向いたので私はでその顔を思い切り押し戻した。

「居心地いいんだ、本当。仲間がたくさんいることもあるんだろうけど、本当に居心地がいい。僕が今度は洗ってあげようか?」

「結構です。私は自分で洗います。こっち向くな」

 懲りずにこちらを振り向こうとするクモルが少し可愛いと思い始めてしまう。魔法にかかってもいいかしら?神様。

「ヒナコちゃん。今日は一緒に寝ていいですか?」

 甘い言葉が降り注ぐ。

「……嫌だけどまあ許可する」

「本当、素直じゃないよなあ」

 屈折しているのは仕方ない。私の悪い癖。汚れた私はとうの昔に素直な心なんてどこかに置き去りにしてしまった。その場所の記憶さえない。

「うっさい、本当、一言多いのよ。却下するわよ」

「えーーーー!なんで?どうして?いいじゃん。なんもしない」

「当たり前でしょ?私、頭のいい人が好きなのよ。そこは失敗作だったみたいね。あなた頭ちょっと悪い」

「はあ?本当は甘えてもらいたいくせになんだよ、僕はあなたの理想通りの完璧な男です。ばーかばーか」

 バカバカしい言い合いが楽しくなってくる。クモルは抜群に頭がいいことを本当は知っている。素直になりたい。本当は。でも自信がない。怖くて。

「むかつく!あー、むかつく!だからこっち向かないでよ!」

 湯船から洗面器にお湯を入れ、それをそのまま、クモルにぶち撒いた。なんだよ、こら!と笑いながら、また恋の呪文を彼は唱える。

「ほんと、可愛いな。大好き。先出る」

 私はぼんやりと出て行くクモルの大きくて綺麗な背中を見つめた。


 好きになってもいいのでしょうか。私は彼を本当に好きになってもいいのでしょうか。


 昔からこんなに捻くれていたわけではないと思う。言い訳を誰かにしながら、私は頭や体の水滴を拭き取った。いつから、こんなになってしまったのだろうか。自分という人間は絶対変わらないものだ、と思っていた。何に関しても能天気でヘラヘラ笑っていたらそれで平和だと思っていたのはいつまでだろうか。確実に自分の中の「何か」が壊れてしまったのは最近だと思う。三十路過ぎて男に捨てられたこと。愛犬が天国へ旅立ったこと。ダブルパンチで私は自分の生き方を失った。そんな私の前にクモルが現れるまで一体どんなだったろうか、と冷静に考えてもきちんと思い出せないほど、何もない、気がする。そうだ。二次元に走ったわ。いつだったか、失恋したら二次元にお金をつぎ込め、と芸人さんが言っていた。私がその人のアドバイスを聞いてそうなったわけではなかったけれど、何もかも失った私はどうにでもなれ、と思っていた。それなりに楽しかったけれど、それ以上に虚しかった。そのうち、その虚しさが巨大化し、醜い塊となって捻くれてしまった。純粋さや素直さをむしゃむしゃと食い荒らしたあげく、その塊は私の身体中に捻くれ根を張り巡らせて棲みついてしまった。三十八にもなると、もうそれを枯らす力は残っていなかった。

 クモルはそんな私を助けに来た救世主なのだろうか。愛犬が私のことを不憫に思って生まれ変わったのだろうか。いや、だったら犬男だろう(でも愛犬はメスである)。じゃあ、なんで?

 クモルがすでにベッドで寝息を静かに立てていた。蜘蛛って夜行性ではないんだっけ?ああ、家にいつもいたあのでっかい蜘蛛は夜行性っていうのは昔図書館で調べたっけ。その時に、へえ!蜘蛛の巣を作らない蜘蛛なんだ!ということも知り、あまりにも嬉しくてって母親に自慢したなあ(変な子供だったな…)私は彼を起こさないように、そっと隣に滑り込んだ。寝顔を見ていると本当に安心する。私はそっとクモルの髪に触れながら、ねえ、本当に好きになりそうよ、なってもいいのかな、と心の中で呟いた。意地を張っているわけじゃない。だいたいこいつ人間じゃない。その葛藤もあったのかもしれない。本当に好きになってもいいの?とまた同じようなことを今度は小さい声で囁いた。


 仕事が休みになるまでの二日間、クモルはずっと楽しみだよとニコニコ笑いながら私に呟いては喜んでいた。そんなに私と出かけるのが楽しいの?と聞き返したら、もちろん、だって一人で家でいてみろよ。寂しくて死にそうになるけど、今はその希望があるから楽しくてさ。ヒナコちゃん天才!わー、早く休みになれ!!とうるさいくらいに力説するので私はなんだこいつ、と思いながらもその様子に癒された。ああ、本当に犬かもしれない。クモルはその二日間、私の部屋にある映画のDVDを見て過ごしていたらしい。映画についての感想を食事の時間に丁寧に教えてくれた。私は大好きな映画について話せることでも幸福だったのに、クモルと感覚が似ているのか、自分と同じようなシーンで泣いたり、笑ったりしているので気持ちが嬉々と跳ね上がった。


 そうして、クモルの待ちに待った休日がやってきた。

 

 カーテンの隙間から、光が射しているのか、瞼が妙に温かい気がした。私はうっすらと目を開けた。

「ヒナコちゃん、いい天気!」

 全裸の男がカーテンを全開にして外を覗いていた。私は驚きすぎて、目眩がした。そして人生最大の俊敏さで動き、カーテンを乱暴に締め、クモルに掛け布団を投げつけた。

「なんで裸なのよ!」

「習性かな?自然と脱いでる。脱皮、なんて」

 クモルが掛け布団から顔を出し、なんでもなさそうに話す。なんだ、その習性。人間になってその習性を引き摺るのはやめてくれ。

「確か大きい蜘蛛ほど脱皮回数が多いとかいうけれど」

「確かに僕は大きい蜘蛛だね。よく知っているね」

「小さい頃、図書館でいろいろ調べるのが好きだったの。それに昆虫が好きなの。まあ、蜘蛛は昆虫じゃないけど」

「なるほど」

「でも、あなたは蜘蛛じゃないでしょ、今人間、見た目。だから、本当、困るの、全裸」

 私はキッチンへ向かいながら、そう言った。なんていう目覚め。こんな寝起き初めてだった。ものすごい速度で行動したと思った途端どっと疲れが押し寄せてきた。私は急にフラフラになってその場にしゃがみ込んでしまった。

「ちょっと、ヒナコちゃん大丈夫?」

 クモルが慌てて走ってきてくれたがもちろん掛け布団を纏ってくるはずがなかった。もういっそのこと、このまま気を失って倒れてやろうか、と意地悪く思った。


 朝食を取りながら、クモルは何度も私に謝っていた。たぶん、私が一言も喋らないので機嫌が悪くなったとでも思ったのだろう。私は特に機嫌が悪いわけではなかった。ただ困惑していた。またあんな感じで起こされたらたまったもんじゃない。いつか心臓発作を起こして死んでしまうと思う。でもそんな死因って超ださすぎるじゃないの。と一人漫才をしてしまい、そんな自分に呆れて、言葉もなくなっていたのだった。慣れるだろうか。いやいや、慣れるなんて冗談じゃない。私は大きくため息をついていた。クモルが泣きそうな顔をしているのに気づいて、しまった、と思った。

「私、機嫌悪いわけじゃないの。困ってるだけよ、そんな悲しそうな顔させてごめん」

 今度は私がクモルに謝った。クモルはびっくりした表情に変わる。本当に百面相っていたらこんな感じなのかな?かっこ良すぎるような気もするけれど。

「怒ってないの?」

 私は一度頷くと、困っているの、と呟いた。そう、困っている。

「どうすればいいの?」

「朝は本当にびっくりしたけれど、結局のところ、クモルはどうもしなくていい気がする。クモルはそのままでいい、と思う。ただ私のわがままを言えば、服は着てほしい。まあ、全裸でもいいけれど、近所の人に見られたら大変だから、カーテンは開けないで。それは絶対。開けるなら服を着て、いい?」

 クモルが先ほどよりももっと驚いたような表情するので私は何かいけないこと言ったのかとぎくりとしてしまう。

「どうしたの?」

「何が?」

 私は恐る恐る聞き返した。

「優しくなった」

「はあ?何それ」

 本当、何それ。どういう意味。

「性格に統一性がない」

 なるほど、そういうことね。私もそう思う、と感じた瞬間、言葉がついて出た。

「もしかすると更年期障害かもしれない」

「何それ」

「言わない」

 私は即答したが、クモルはそれ以上の質問をすることはなかった。できた男だな、こういうところ、と感心した。そうだ、ここだ。この駆け引き上手というか、引き際のタイミングの絶妙さというか、なんだろう、男の経験はあまりないけれど、こういうのに胸キュン、しちゃうのだろうか。いや、更年期障害で胸キュンもくそもないのだけれど。

 本当は分かっていた。そう、分かっている。急に怒ったり、イライラしたり、ときめいたり、可愛いと思ったり。こんな感情がめまぐるしく変化するのはあれしかない。そう恋だ。私は恋に落ちそうになっている。いや、もう落ちているのかもしれない。でもそれを納得できないというか、素直に受け取れず困っている、だなんて言い訳でしかない。また私はため息が出そうになるのを無理に我慢したため、呼吸が乱れてしまった。

「ヒナコちゃん!」

 急に私が噎せ込んだのでクモルが私のそばにやってきて背中を優しく撫でた。


 もういいじゃない。私。もういいじゃない。もう頑張るの、やめようよ。


 クモルにきちんと服を着せ、私も出かける格好をした。結局フリーマーケットの検索をしてはいなかった。私たちは近くのショッピングモールに行くことにした。玄関の鍵をかけていると隣でクモルがすごく嬉しそうなのが分かる。そんなに私と出かけるのが嬉しいのだろうか。本当に犬だ。もしも、尻尾が生えていたら、これでもか!というくらい振っているのかもしれない。

「ねえ、どこ行くの?」

「それ、買ったところ。あ、でも、他にもたくさんお店があるからクモルが入りたいお店に入ればいいよ。あー、でも…」

「高いのはねだらない」

「ごめん」

「謝らない」

 クモルは私の頭の上にふわりと大きな掌をのせ、笑った。優しい子。


 そのことに気づいたのは結構すぐだった。一瞬、ええ、一瞬だけれど、自分が注目されているのかと思った。もちろん悪い意味で。例えば、服にたくさんご飯粒をつけている、とか。しかし、あ、と思った。そう、クモルだった。駅までの数分の道のりを歩く間、一体何人の女性がクモルに目を留めただろうか。意外と多かった気がする。なるほど、私だけが男前に見えているわけではないみたいだ。クモルは私の妄想ではなく、きちんと実在している、ということが実感でき、少しホッとした。そして、すぐに恥ずかしくなった。私はかなりの女性を魅了する男と歩いている、という事実に赤面してしまう。ちぐはぐな格好でもこの魅力度は恐ろしくなる。私はふと立ち止まってしまった。クモルも止まる。

「どうしたの?」

「たくさんのひとがあなたを見てる。やっぱりかっこいいんだな、って。私なんかが隣にいたらちょっと具合いが悪い感じがする」

 言葉がおかしいのは自分でも十分承知している。

「は?何言ってんだよ」

 確かにそう、なに言ってるんだよ、私。

「え?クモルは視線気にならない?」

「は?僕、ヒナコちゃんとデートできるのが本当に嬉しいから何も思わん。ねえ、ねえ、あれ、何。あれ食べてみたい」

 力が抜け落ちる。この子、本当、私しか見てないんだ。くすぐったい、恥ずかしい。でも嬉しい。私はクモルが指差す方に視線を移した。どうやらコーヒーショップの看板メニューを指している。

「え?タピオカ?」

「カエルの卵みたい」

「やめてよ」

「カエル嫌い?」

「嫌いじゃない。むしろ好きよ。あの体と目ん玉」

「ヒナコちゃんはほんと動物が好きだね」

「そうね」

 変な会話をしていると思う。こんな話誰ともしたことはない。気取らず、思ったことを  そのまま言える相手なんて今までいただろうか。いたかもしれないけれど、こんなにしっくり型にはまるような相手はいなかった。

「だから蜘蛛も好き。ねえ、気にならない?あの子達」

 クモルは会話を続ける。あの子達、とは、私の部屋に住み着いている蜘蛛のことを話しているのだろう。そういえば、全然気にならない。自然すぎて。

「全然。あ、仕事で使った星型のシールがあったんだけど、それを蜘蛛の巣にとり混んじゃった子がいて、その巣がすごくかわいいの。クモル知ってた?あ、ねえ、クモルは蜘蛛語もまだ話せる?もしできるなら、夜電気を消すと光るやつあるのね。あれ、買うから、それを巣に取り込んでくれないか、頼んでくれない?ほら、プラネタリウムみたくなって楽しいよ。あ、ごめん、つまんない?」

 私は一気に喋っていた。何やってんだ、私。クモルが笑うのでドキドキする。私が情けない表情を作ると、首を横に振った。

「ううん。つまんなくない。あの子らに聞いてみる。それより、あれ!あれ食べよう」

 私の腕を少し強引に掴むと店の方に走り出した。ドキドキする。もう、ドキドキする。


 その店内に人は多くなく、入るとすぐに注文をすることができた。カウンターレジで注文してテイクアウトするシステムだった。クモルは迷わず、タピオカミルクティを注文していた。私は甘いのは苦手なので遠慮した。店員の女の子はクモルを見た時、一瞬驚いたような表情になった。そうね、その反応よね。本当に男前なのよね。私はまた改めて納得する。クモルは悪気なく店員に笑いかけ話しかけている。私は彼女の顔が真っ赤になっていくのが分かった。私がクモルに、持って行ってあげるから席について待っていてと囁くと、はーい、と大きな声を出した。やめろ、もっと注目される!と思ったが口には出さず、心の中で叫んだ。こういうの、本当慣れてないから、対処できないんだってば!


 タピオカミルクティーとアイスコーヒーを持ち、私はクモルがいる席を探していると、彼が手を振るのが見えた。外が見える窓際の席に彼はいた。太陽の光が彼の肌に反射して余計に白さが際立つ。

 席に着きクモルがミルクティーを飲もうとした時、私は唐突に切り出した。


「ねえ、好きになってもいいの?」

 クモルの動きが止まり、驚いたような顔をしたので、私も同じように目を丸くしてしまった。しまった、唐突すぎた。やってしまった。私は急に落ち込んでしまい、俯いてしまったが、私はクモルの答えにまた驚き、すぐに顔を上げた。

「え?なんで?いけないの?」

「だって私、年だし、可愛くないし、人間だもの」

 自分で言ってとても悲しくなる。事実だけどとても悲しくなる。

「は?よく意味がわからないけど」

「だって、私は」

 クモルが笑う。あまりにも綺麗に笑うので涙が出るかと思った。実際泣いていたかもしれない。鼻の奥がツンと詰まる。


「僕はヒナコちゃんが好きだよ。それだけしか僕の中にはないから」


 始まる。私の恋が始まる。もう始まっていたけれど、今日この時から、ということにしよう。


「じゃあ、好きになるわよ。すっごい、すっごい、すーーーーっごいうざいわよ」

 私は力を込めて言った。今までどれだけの男に重くてうざい女だと思われ、捨てられてきたか、思い知るがいい。いや、私はとても臆病だったからきっと予防線を張ったのだ。自分が傷つかないように。ずるい自分はいつだって存在する。だから年をとるのは嫌いなの。埃が被ってしまった私の素直さ。でももうこの年で丸裸の恋なんてできない。

「上等。僕はそれ以上にうざくなるから。お!何これ、味ないじゃん」

 クモルの言葉が私に染みる。私以上にうざくなるなんてどんだけうざい男なのだろう。でもそんな経験ないから分からない。タピオカを食べながら難しい顔をしているクモルが愛しくてたまらなかった。


 そこでしばらくくだらない会話をしたあと、電車に乗り、ショッピングモールがある最寄駅まで行った。クモルは本当にたくさんの人(特に女性)を魅了していた。コーヒーショップに入る前までは、そのことでそわそわしていた私だったけれど、私以上にうざい愛情を注ぐと宣言してくれたクモルの言葉を思い出すと、それほど気にならなくなっていた。ねえ、この人は私を大好きなのよ?と大声で叫びたいほどの優越感だった。私らしくない興奮状態に、はっとした。クモルが私の手を握る。

「大丈夫?」

 私は小さく頷く。


 私たちは以前私が一人でクモルの衣類を買った店に入り、今度はクモルが好きなのを選んでいいよ、と言ったのだが、よく分からないからヒナコちゃんが好きなのでいいよ、と返されてしまった。まあ、裸でいるのが好きだし興味ないのは分かる。でも、何でも似合ってしまうからこれまた私に任せられても困ってしまう。クモルにきちんとした彼に合うサイズのボトムスを購入することができた。靴のサイズも以前買ったのは少し大きかったのでサイズの合うものを選んだ。シンプルなトップスも二、三枚購入した。その店にいる間、私たちはあまり会話をしなかったが、クモルはずっとにこにこして私が彼のものを選ぶのを喜んで見ていた。犬だなあ、と思う。本当に愛犬の生まれ変わりかなあ。いやいや、何度も言うが愛犬はメスだ。でも性転換したのかもしれない。なんて。

 その店を出ると、特に何も目的はなかったので、家に帰ることにした。外でランチをとることを提案したのだが、クモルがヒナコちゃんのご飯がいい、というので承諾した。もしかしたら、家計を心配してくれたのかもしれない。駅に向かう途中、小さな雑貨店に立ち寄り、キラキラ光る星型のシールは忘れず購入した。


 恋は盲目。まさにそうだ、と改めて思うのはいつもその恋が終わったあとだった。私は夢中になりすぎ、それはもはや戦いでそんなうっとりする余裕なんてなかった。必死すぎて深入りし相手を疲れさせてその恋は終わる。終わったあと、決まって、ああ、盲目的に突進しすぎた。まさに恋は盲目と我に返る。もう少し冷静さを持ち合わせてないとダメだわ、と何度反省しただろうか。失敗をしたことでそれを反省し次は同じことをしないようする。だから失敗はいいことだ、的な内容の本を読んだことがあるが、私の場合、終わったあと反省はするものの、結局同じ結末を辿る。人はとりわけ恋愛感情においては反省し問題点を明白にできたとしても、それを回避する作戦がうまくいくとは限らないと思う。私に限らず、だとここは思いたい。じゃなきゃ、未婚者がこんなに多くいるもんか。

 今回はどうなのだろうか。好きになっていいの?なんて相手に質問したことなんてない。状況が今までとは全く違うのは明らかだった。それでも、好きになったらいつもの私になる予感はする。もうその点は諦めていた。次こそはいい恋愛を!なんて思って新しい恋を探そうと思えたのは若い頃だけだし、もうこの年になってしまえば、恋愛を楽しむなんて、できるわけなかった。だから、物凄く怖かった。前の失恋を思い出してはゾッとする。これが最後だ、と思った。結婚して幸せな家庭を作るもんだと思い込んでいた。それが破綻して抜け殻になってしまったのだ。もう何を信じていいか分からない。やけくそになって当然だ!そうだ!私は悪くない!そのうち、醜い塊だけが染み付いて嫌な人間になっていた。自分でも分かるほどの嫌な人間に。残ったのは、人生なんて!と惨めな叫び声だけだった。

 不安は募る。クモルの言葉を信じられない自分自身に。


 一目惚れは実際今までの人生で未経験だった。一目惚れをして好きになるなんてことあるの?と友人に問うたこともある。だって見た目だけよ?ねえ、見た目だけで好きになるなんてことあるの?ありえない。私の常識の中では「否」という刻印が押されていた。それなのに。私は今。たった数日前。それを経験した。一目惚れだったのか。自分が思い描く理想の顔がそこにあった。ときめかずにいられるか。いられるわけない。しかも、その男は私のことを全力で好きなようだった。愛されない症候群な私はそんな彼の態度が怖くて嬉しくて、でも怖くて、いや、でも嬉しくて、訳が分からなかった。その戸惑いは垂れ流し状態でズルズルと引きずり歩いた。それでもクモルは相変わらず優しくてときどき意地悪で泣き虫だった。ずるいのだ、全部。全部ずるい。だって私が好きにならないわけがない男の子そのものだった。もういいんだ、好きになっていいんだ、と一度自分を許してしまうと、その恋は急速に進んだのは言うまでもない。加速は一気に進み、私はクモルにどっぷり溺れた。毎日が輝いて見える!だなんていう馬鹿げたセリフも平気で言えるほど私はクモルのことが好きだった。でも好きが加速すると、私の悪い癖が出始めた。いや、私だけの悪い癖ではないと思う。そう「実態のない不安」だった。

 クモルと二人で出歩くことは私の自慢だったが同時にすごくヒヤヒヤした。誰かに取られてしまわないだろうか、私なんか捨てて他の人を好きにならないだろうか、と醜い心が生まれた。人はどうしてこうも欲深い生き物なのだろうか。なんて醜いのだろう。


 ある日、クモルと近所のスーパーまで出かけて帰ってきた時のことだった。私と繋いだ手をクモルが家についても離してくれないので、どうしたの?と声をかけた。

「ヒナコちゃん、ごめんね」

 急に謝られたので私は驚いた。

「ヒナコちゃんを不安にさせてるでしょ?僕。ほら、ヤキモチ?なに?うまく言えないけど、得体の知れない不安ってやつ?そういうのがあるのが人間って生き物なんだろうけど、僕はそういうのはよくわからないし、理解できないんだよね。何度か、ヒナコちゃん以外好きにならない、って言ったよね?でも不安、ってことだよね?ごめんね」

 私は戸惑ってしまう。ああ、なんてこと。私の微妙な感情が繋がった掌から知らないうちにクモルに伝播していた。こんな気持ちをクモルに説明しても分かってもらえないのは承知していたし、困らせてしまうことも分かっていた。彼は人間じゃないから、気持ちまで人間になることはできないのかもしれない。それでも私はやはり不安だった。クモルが突然泣き出した。私はさらに戸惑い、慌てた。

「ど、どうした?ごめん。クモルを困らせるつもりはなかったんだけど、ごめん」

「ごめんね。ヒナコちゃんの理想の容姿に生まれなきゃよかった?それでもヒナコちゃんは僕を好きになってくれる?ごめんね。人間の微妙な気持ちまで把握できるほど優秀にできてない。ごめんね、でも、僕は、ヒナコちゃんが好きだよ。信じて」

 なんてこと。ここまで私を愛してくれているのに、私はなんてバカなんだ、と思った。思うと、私まで涙が出てきた。気がつけば、二人でメソメソ泣いていた。

 人間自身、他人の欲望や嫉妬なんて理解できない。まして、自分でさえも、そういう感情が不意に出てきた時、取り乱してしまうこともあるのに。クモルに理解できなくて当たり前なのに。不安にさせてごめんだなんて。なんて純粋に直球な男の子なんだろう。そう思えば思うほど私は涙が止まらなかった。私が泣き止まないものだから、クモルも泣き止まずずっと泣いていた。

「クモルには私が全て」

 クモルは頷いた。私をぎゅっと抱きしめると、額に軽くキスをし、大好き、と囁く。

「すぐにはうまくいかないかもしれないけど、私はクモルを百パーセント信じる。不安になったら抱きしめてくれる?」

 クモルはもう一度頷くと、今度は私の唇に自分のそれを重ねた。

「僕もちゃんとした人間になるように努力する」

「クモルはそのままでいいのよ。欠陥があるのは私だけ、ね」

 私たちはまた抱き合い、キスをした。顔が離れてお互いの目が合うと二人で泣いていたのがおかしくなってきて、そのあと声をあげて笑った。笑顔の粒が部屋中に飛び散り、蜘蛛の巣が揺れたような気がした。そこに飾った星屑が目に入り、クモルとの時間が確実に積み重なっていることを改めて感じ、急に愛おしさがこみ上げる。もう不安なんて言って、この可愛い男の子を傷つけるのはやめよう。不安になったり、醜くなったりする自分が大嫌いで、そんなふうになってしまう確率が高い恋が大嫌いだった。だから避けてきた。傷が多すぎて、醜くなってしまった体もクモルに出会うための戦いだったとしたら、すべての傷がキラキラ輝いて実は私ったら天使だった?なんて大袈裟か。私は心の中でクモルが本当の人間に生まれ変わるように、と子供みたく神様にお祈りした。どうか、この恋を守ってください、と。


「ねえ、最近、日菜子、冷たくない?男できた?」

 その日昼休みになり席でクモルおにぎりを食べていると、爽子がそう声をかけてきた。私は一瞬困った顔をした。ああ、しまった、と心底思った。クモルとの生活が始まってもうすぐ一ヶ月になろうとしていた。毎朝の日課であるかのように裸に驚いて目覚め、一悶着あったあと大笑いし、抱きしめてキスをする。朝食を黙々と食べて私が仕事に行く用意をしている間にクモルはおにぎりを作っている。いってらっしゃいのハグとキス。仕事をしていても、クモルのことばかり考えていた。自然とにやけていた日もあったかもしれない。就業時間を時計が指すと同時にさっさと後片付けをし、家に直行した。もうこんな幸福あっていいのか、と思えるほどで、私の世界にはクモルしかいなかった。爽子にそう言われなかったら、私はきっとずっと話さないでいただろう。もちろん秘密にするつもりもなかったが、教えるつもりもなかった。私が乾いた声で情けなく笑ったが、爽子の言葉に絶句した。

「久しぶりに日菜子んとこで家飲みしよ。いいでしょ?」

 それは無理だ!!!

「だ、だめよ。それはだめなのよ」

「やっぱり男ね」

「いや、まあ、男っていうか…」

 確かに男も住み着いているが、それ以外にもたくさん住み着いている蜘蛛の方がきっと爽子には大問題であるような気がした。

「彼氏も含めて、日菜子のうちで飲みましょう?決定ね」

 爽子は強引にそう言い残すとその場を立ち去ってしまった。私は慌てて爽子を追いかけようと立ち上がったが、男なんていない、と言ってないことに気づき、また着席をした。結果、私は認めてしまったことになる。少しだけため息が出た。クモルと会わせることは少し面倒臭かった。なぜなら、彼は人間ではないから。そう改めて思うと、またチクリと胸が痛む。何も気にせず過ごしている分にはいいのだけど、他人が二人の世界に関わるとこうやって現実を知ってしまう。だから、そうならないように過ごしてきたのは否めない。クモルのことを隠していたわけではないし、いずれこうなることも頭の片隅にはあったはずだが、ただ存在しているだけでその箱を開ける気はなかったのかもしれない。でも。もし、彼が本当に人間だったとしても、私はこういう状況になるまで、果たして打ち明けたのだろうか。ふいに気分が落ちそうになったので、私は一度頭を振り、昼食の続きを取った。


 ずるい人間になってしまったものだ。私は年を重ねるごとに保守的になった。傷つきたくないのだ。だから、もう恋なんてしない、と思った。それなのに、今の私はどうだ。恋のどん底に落ちているじゃないか。クモルが好きになりすぎておかしくなりそうな日だってある。どうしてしまった、私。恋愛中毒。いや、認めるのは気味が悪い。この年でこんなことがあっていいのだろうか。しかも相手は人間ではないのに。そのことを思うたび何度も傷ついたが、クモルが心配するのが嫌だったので、我が儘に抱きついて忘れようとした。クモルはその行動の本当の意味を知るわけもなく、いつも喜んで私を抱きしめて返してくれた。私はずるいのだ。クモルのことは完全に信用していた。その点に関しての不安はない。ただ。いつまでこの幸せが続くのだろうと私はふと臆病になるときもあった。だから恋は嫌いなのだ。それでも「好き」が止められない。理屈なんて通用しない。人間って本当に面倒臭い、と究極論にまで発展し、私も蜘蛛だったらよかった、とクモルに話すと大笑いされた。僕が人間になった意味がない、と。私はずるいのだ。この幸せを壊したくない。私は心底ずるいのだ。


「ただいま」

「おかえり!ヒナコちゃあああああん」

 いつものようにクモルが玄関のドアを開けた途端、抱きついてきた。私はいつになく無表情だった。

「どうした?」

「なにが」

 分かっていて聞き返す。とても意地が悪い感情が沸き起こる。ただ単に面倒臭いだけなのに、どうしても不機嫌になってしまう。

「顔がへん」

 クモルの返答に少し笑ってしまう。私はこういう些細なことで彼の存在に感謝する。優しくなれず、自分に嫌気がさしたら、みんなこういう子に抱きしめてもらえばいい、と本気で思った。世界は平和だ。きっと。妄想が始まりそうになったので思考をシャットダウンした。

「なんかあった」

「なんかあった」

 私はクモルの言葉を繰り返す。クモルは少しだけ首を傾け、話の続きを待った。

「同僚にここで飲みたい、って言われたの。賛成も反対もしてないんだけど、彼女の中では決定してみたい」

 私はため息を交えながら静かに話した。

「いいじゃん、何が問題?」

 クモルの答えはなんとなく分かっていたので少し憂鬱になる。

「これ」

 私は蜘蛛の巣を指差した。クモルは私の指先を見、蜘蛛の巣を見、私に向き返り、いいじゃん、何が問題?と同じ答えを返した。

「普通はこんなの嫌がる」

「そうなの?だってヒナコちゃん平気じゃん」

「私がおかしいのよ。大抵の人は嫌がる」

「そうなんだ、へえ。面倒臭え」

「そ、面倒臭いの」

 今度は二人で小さなため息をつく。数匹の蜘蛛が、つつーっとクモルの肩に降りてきた。クモルはその子たちにそっと触れながら、言った。

「じゃあ、お店に行って飲む、とかはダメなの?」

「うーん。そう言ってみるけど、でももしクモルも一緒にって言われたら嫌だなって」

 それは私だって考えたことだ。だけれど、嫌なのだ。

「なんで」

「なんでって、クモルは嫌じゃないの?」

「だから、なんで」

 私は途端黙ってしまう。説明できないのだ。クモルが爽子に会うのが嫌なのではない。じゃあなんで?嫌なの?私自身でも百パーセント完璧な回答ができなかった。どうしたの?私。しばらくしてから出た言葉は曖昧で不格好だったのにクモルはそんなふうに思わなかったのか、綺麗に笑うのでまたひとつ「ありがとう」と心の中で呟いた。

「いい子ね」

「当然」


「本当にいいの?大丈夫?うまくやれる?」

「まだ人間らしくない?」

「分からない」

 人間らしくってなんだろう。私はクモルが人間じゃない、っていうのをたまたま知ってしまった。だから、彼が人間ではない、と分かっているけれど、ふと本当に人間じゃないか、と思う時もあるから、人間らしいのかもしれない。でも、それは私が人間じゃないと分かっているからそういう考えがあるわけで。ん?なんだか分からなくなってきたぞ。ああああ、ただの繰り返し。私は少し混乱する。

「人間になれたかどうか試験」

「やめてよ、ますます心配」

 本当、やめて。一瞬顔が青ざめた気がした。その様子を察したのか、クモルは一度大きく頷いて笑う。

「ヒナコちゃんが立場に困ったら僕はいつでもヒナコちゃんに従う」

「なんで」

「だってヒナコちゃんが好きだもん、もー、何回言わせるんだよ、まだ信用してない?」

「いや、それはない。信用してる、言わせたいだけ」

 私は思わず笑い出してしまう。帰宅後とは違う種類の意地悪小悪魔が私をくすぐる。

「うっわー」

 クモルが目を丸くさせて驚いた表情を見せるので私はもっと笑ってしまった。

「変わってしまったね、私」

「いいことだ」

「そうね、いいことね、ありがとう」

 今度はちゃんと言葉に出して言った。ありがとう。


 私は食事を作り始めた。誰かと一緒に食事をするのは本来楽しいものなのかもしれない。いや、それは相手によるのだろうか。実家にいたときは一人で食事するほうが気楽だった。結婚もできず独身のまま、あの家にいるのは少し窮屈だった。特に愛犬がいなくなってしまうと私の居場所はもっと狭くなってしまった気がした。卑屈になって嫌な人間になって挙句飛び出した。今なら、少しは家族に優しい人間になっているだろうか。私はふとそんなことを思った。食事中、相変わらずクモルは私がいない間にしていたことの報告をしてくれる。クモルは熱心に話すことの方が多いが、静かなときはただ眠いだけだった。そんなクモルを見ているのはとても幸せだった。そうだ、私は幸せなのだ。


「幸せなの」

 私はベッドに入り、頭の上で眠るクモルに唐突に声をかけた。クモルは静かな声で、うん、とだけ返した。

「臆病なの、とっても。本当はね、とってもとっても、嫌なの。クモルを爽子に会わせるのが嫌なの。クモルを信用してないんじゃなくて、二人の世界が壊れるのが嫌なの。二人だとなんの問題もないのに、他人が介入してくると、クモルが人間じゃないことがますます私の中でクリアになって怖いの。ファンタジーなのよ。私にとって今の状況。ファンタジーなの。分かる?だってこんなに幸せなんて私の中でありえないんだの」

 私は急に自分の中の感情を溢れるままに発していた。何話しているんだろう。クモルが困ること、嫌なくせに、何話しているのだろう。でもその夜は止められなかった。

「私、もうすぐ死んじゃうのかもしれない」

 私がそう呟くと、一瞬だけれどクモルが血相を変えたような表情を見せた気がした。部屋の灯りを消していたのではっきりはしなかったけれど、気のせいだろうか。ちょっと驚いてしまい、私は自分の胸に手を当てた。鼓動が少しだけ早いのが分かる。

「死ぬなんて言わないで」

 クモルが小さく呟く。

「好きなの、とても。クモルが好きなの」

 クモルが音を立てず、私の隣にやってきたので驚いたけれど、彼の顔を確認して抱きしめた。好きなの、とても。

「いい、ヒナコちゃん。それでいい。僕だけを好きでいればいいじゃん。人間だろうが、蜘蛛だろうが、今僕はここにいる。好き、だけでいいじゃん。僕はずっとそばにいるから」

 クモルの唇が私の額に触れる。じわりとそこから熱が伝わってきて私はドキドキしてしまう。クモルの唇が少しずつ下に下がってくる。瞼、鼻先、唇、首筋。ああ、ついにやっちまうか、と下品な発言をする自分がつくづく阿呆だと思った。

 その夜、初めてクモルとセックスをした。それまでしていなかったことが嘘のようだった。私たちはずっと友達で、親子、姉弟で、大好きと言い合い、キスもするくせに、恋人らしくなかったように思う。妊娠して、子供ができて手足が人より多い子ができたらどうするの?なんて騒いでいたくせに避妊してないじゃん、と行為が終わってすやすや隣で寝ているクモルを見てハッとした。まあ、いいか。きっと、クモルの子だ。彼が人間になったように子供だって人間に修正して産まれてくるだろう。いいじゃないか、それで。恋は盲目。なんだっていい、バカじゃないの?大いに結構、バカで結構。もともとバカだし、なんだっていうのだ、くそったれ!久々の性行為は私の思考までおかしくした。それほど気持ち良かった。そして、クモルはいつも優しいのだけど、いつも以上に優しくてゾクゾクした。クモルが触れると私の体のあちこちが感情を持ってしまい、ときめきで狂いそうになっていた。まさに悲鳴だ。身体中がクモルの愛撫に悲鳴をあげていた。嬉しくて、悲しくて、楽しくて、不安で。いろんな感情がもみくちゃになっていた。そして、絶頂に達したとき、記憶が吹っ飛んだような気がする。バカみたい。最高よ。


 『僕だけを好きでいればいいじゃん』


 魔法の言葉。クモルだけを好きでいればいい。何も考えない。もともと人は無理やりにいろいろ考えすぎる生き物なのだ。ないものをあるという、偏屈な思想をいつからだろう、私は知らずに持ち続けていたのかもしれない。久々に自分の心に青空が見えた気がした。また明日になれば、現実に直面し、へこんでしまうのは目に見えている。でも今この瞬間、隣に眠る一人の可愛い男の子を好きでいれば何も問題はないと自信を持って言えるようになりたい、と強く思った。私はそっとクモルにキスをし、少しだけ泣いた。


 次の日、クモルは朝から張り切っていた。まだ爽子との飲み会は決定ではないのに、すでに参加する気満々な様子はかなり笑えた。私は笑いを堪え、朝食を用意した。

「爽子さんってどんなひとなの?」

 クモルはコーヒーを飲み終わると、そう聞いた。

「クールでかっこいい女性。私と年は同じくらい、だと思うんだけど、実年齢知らないのよ。教えてくれないの。年齢のこと気にしてるみたいだから、そこだけは注意してあげてね」

 クモルは、分かったと小さく呟くと席を立った。クモルはあまり食べる方ではない。私の作る料理は残さず綺麗に食べてくれるけれど量はそれほど多くはなかった。成人男性の必要摂取カロリーにはきっと満たないと思うが、私と彼の消費カロリーを考えると、それでもいいのか、とは思っていた。クモルはほとんど一日中家にいて過ごしている。常日頃から話してくれる行動記録を聞く分にはそれほど活動的ではない。寝ているか、映画を観ているか、本を読んでいるか。単純なことをなんだかいつもドラマチックに話してくれる。私の部屋にあるDVDは見尽くしてしまっていたようだった。お気に入りになった映画を何度も繰り返して見るから、と言って、レンタルショップへはあのフランダースの犬事件以来一度も行ってなかった。行っていいよ、とは言ったが、僕はヒナコちゃんのお気に入り映画で十分だよ、と笑った。クモルのために、また映画のDVDを買おうかなあ、とおにぎりを作る背中を見て私はうっすら考えた。


 私は職場に着き、爽子に今日、飲みに行こう、と誘った。

「家はダメなの?」

「とても汚いの」

 汚い、という表現は使いたくなかった。蜘蛛が巣を部屋中に張っているだけで、散らかっているわけではない。頻繁いではないが、クモルはたまに気が向けば掃除機をかけたり、拭き掃除をしてくれたりする。だからむしろ以前より私の部屋は綺麗だ。蜘蛛の巣を除けば。だから、汚い、とは言いたくなかったけれど、他に嘘がつけなかった。もっと語彙力があれば違った表現できたのかしら?妄想はいくらでもできるのに肝心な時につく嘘は下手だった。私のぎこちない嘘が宙を舞う。

「私平気よ」

「いや私が平気じゃないわ」

 完全に棒読みセリフ。笑い方まで歪んでいるのが分かる。爽子は、わかった、と静かに答えるので一瞬寒気がした。やばい、ご機嫌斜めにしてしまったか、と思った。

「急だったものね、仕方ない。で、彼氏は来るの?」

「もちろん、張り切っているわ」

 それは本当なので素直に答えることができ、ほっとした。私は緊張していたのだろうか。あ、彼氏って答えている、と気づいた。やれやれ。私ってば。場所と時間を彼女に伝えた。


 外で飲むなんて久しぶりだな、と終業時間間近になってふと思った。いつもひとりで家飲みしては寝転がって朝を迎え慌てて仕事に向かう、なんていうことも少なくはなかった。でもクモルが家に住み着いてからはそういうことはしなくなってしまったので飲むこと自体久しぶりなのかも。そういえば、クモルはお酒を飲んだことがない。成人はしているだろうが(どういう年齢設定で生まれてきたのかは聞いてないけれど)果たして大丈夫なのだろうか。普段一緒に食事をしていて、これといった問題点もなかったので、彼が摂取するものについて深く考えたことはなかった。

 私はクモルを迎えに行くために一度家に帰った。クモルはひとりで行けるよ!と言ってはいたが、なんとなく心配だったので帰ることを提案したのだ。もし、何かあっても連絡手段がないからだった。さすがに携帯を持たせるわけにもいかなかった。テレパシーは使えないの?と私は言ったことがあったが、まさか、そんなの使えるわけないじゃん、僕はただの人間だよ、と、私の質問が信じられないとばかりの表情で答えるので私は大笑いしてしまい、そのあとクモルがいじけて大変だった。クモルは人間なんだ、私はクモルを慰めながらとても暖かい気持ちになっていたのを覚えている。


 クモルを連れて待ち合わせた店に行き、予約した名前を伝えると、店員が席に案内してくれた。その店はすべての席が個室になっており、私たちは靴を脱いでその案内された座敷の部屋に入った。遅刻常習犯の爽子が珍しく先に席についていた。

「こんばんは。クモルです。よろしくお願いします」

 クモルは爽子に丁寧な挨拶をした。私は爽子を見た。表情が明らかにいつもとは違うのが分かる。私が今まで見てきた女性の反応と同じだった。女性は男前を目の前にすると表情がやや明るくなったあと、気恥ずかしくしてしまい、戸惑うのものだと思う。私は随分鈍くなってしまったのだろうか。クモルは確かに男前だと思っているけれど、もうこんなに可愛く反応できない。いや、毎度のことのようにときめいている自覚はあるが、こんな可愛いだろうか、とつい第三者目線になってしまう。

「こ、こんばんは。クモル、変わった名前ですね」

 爽子の声が上ずっている。それを気にしているのか、私を見て、顔を赤くした。大丈夫と伝えるようにと私は小さく頷いた。爽子の前に着席するとメニューをクモルが手に取った。

「お酒飲むんだけど大丈夫かな?」

 一瞬、青ざめた気がした。ちょっと待って。大丈夫じゃないの?爽子も私と同じように驚いた表情を見せている。

「え、未成年?」

「まさか」

 クモルと私は同時にそう答えた。それが面白かったのか、爽子が少し笑ったのでホッとした。

「解禁」

 クモルが謎な言葉を発するので、思わず、なにそれ、とついて出た。

「まあいろいろ」

 ちょっと。本当にお酒大丈夫なのかしら。私は心配になり妙な汗をかいた。脇の下に汗が流れるのが分かる。

 私たちはメニューを見ながら、適当に食べ物を注文した。店員さんが注文を受け、その場を去ると、待っていたかのように、爽子が言った。

「いつからなの?」

「えっと、1ヶ月くらい前?かな?」

「どうして言ってくれなかったの?」

 ああ、面倒臭い。これが嫌だった。

「恋人じゃなかったから」

 本当のことを言った。恋人と意識したのはつい最近なのだ。だって犬みたいなんだもの、と爽子に言ってもきっと通じないだろう。

「なにそれ」

「まあいろいろ」

 今度は私が先ほどクモルが使っていた言葉を繰り返した。仲がいいのね、と爽子が突っ込んできてきたので私はヘラヘラと力なく笑って誤魔化した。

 しばらくすると生ビールが運ばれてきた。三人で乾杯をした。クモルが一気に飲もうとするので私は慌ててそれを阻止した。なんで?と言うクモルに対して、理由は特にないけど心配だから!とつい必死になってしまった。その様子を見てか爽子が笑い出したのでクモルもつられたのか笑い出した。え?なにがおかしいの?と言う表情を見せると、爽子が

「なんか。恋人じゃなかった、って言うのは分かったかも」

「恋人だよ!ねえ、ヒナコちゃん。ヒナコちゃん、これ、美味しい。気に入ったぞ」

 クモルが楽しそうに話すので私はそうね、と相槌を打つ。日頃のくせで適当にあしらいそうになったが(これでよくクモルは拗ねてしまう)今は爽子がいるので気持ちを整えた。食べ物がいろいろ運ばれてきたが、主に食べているのは爽子と私でクモルはあまり食べなかった。クモルは私にも話をふってくれるが、ほぼ爽子と話をしていた。私は隣で二人の話を聞いている感じだった。それはとても気が楽だった。それに楽しそうにしている二人を眺めているのもなかなか面白かった。クモルを連れてきてよかったな、と改めて思った。クモルが席を立つと、やはり爽子の反応は私の予期したものだった。

「ちょっと何あの子、すんごいかっこいいんだけど。どこで見つけたの?しかもあんたにベタ惚れじゃん。羨ましい」

 ずっとこれを言いたかったのだろう。少し興奮気味に話す爽子は珍しかった。お酒を飲んでいるせいもあったかもしれないが私の知っているクールな爽子ではない。

「爽子にだって彼氏いるでしょ?」

「あんなに愛してくれない」

 やばい。愚痴が始まるかもしれない。

「やめてよ、そんなの」

 私は否定した。確かにクモルにとても愛されているけれど、そういうのを言われて自惚れるのはとても恥ずかしかった。だいたい、こんな状況に私は全然慣れていない。今までの恋愛を振り返っても、羨ましがられたことはあまりない。大抵、やめなよ、そんな男、と言われることの方が多かった。私はきっと悪趣味なのかもしれない。クモルも一概には言えない部類だと思う。本当の彼を知っている人がいれば、だけど。

 クモルが席に帰ってきたので今度は私が席を立った。いいタイミングで帰ってきてくれたと思った。


 私はトイレに入り、そこにある鏡の中の自分を見た。なんだか疲れている気がする。楽しい時間であることは確かなのだけど何か面倒臭いと思う自分もいる。いつからこんなになったのだろう、とまた考えてしまう。以前の私なら、彼氏ができたら喜んで人に報告していた。クモルだから誰にも言いたくないのだろうか?ほら、いろいろ複雑な事情があるし、なんて言い訳してもなんだか独占欲の塊みたいですごく醜い。また嫌な自分が出てくる。爽子が悪いんじゃない。クモルが悪いんじゃない。私が悪いんだ。変わらなきゃ。いや、変わってしまったのだ。変にゆがんでいるのは私だけ。そう気付いてまた落ち込みそうになった。


 『ヒナコちゃんが大好き』


 クモルのことを想う。私を元に戻す、魔法の言葉を思い出す。大丈夫、大丈夫。私は大丈夫。胸に手をあてしばらく目を閉じた。用を済まし、席に戻ったが、そこでものすごい光景に出会ってしまい、何もかもが吹っ飛んだ。なんだったんだ、私の呪文が豪快に跳ね返されてしまった。まじか!ざけんな!バカヤロウ!


「ちょ!!!!!」

 何をやっているのよ!!

「えへへへ、ヒナコちゃあああああん、ほらーー」

 私が見たのはクモルが口からあの透明な蜘蛛の糸を吐き出している姿だった。おい、待て、クモル、信じられん。ここは家じゃないぞ。お前!お前!正気か!!!食器やらグラスやらが蜘蛛の巣で覆われている。私、そんな長時間トイレにいた?どうしてこうなった!

「クモルくん、ビール一気飲み二杯したら、こうなった。ね、すごいね。手品だわ」

 爽子よ、止めろ。止めてくれよ。爽子も相当酔っているのか、この状況を手品と思っている。嘘でしょ?こんな手品あるわけないじゃん。ていうか、これはタネも仕掛けもない糸飛ばしよ(そんな手品あるの?)でも、そう思ってくれたのは少しありがたかった。

「手品?なにそれ。てか、これはあ、本物の蜘蛛の糸だよ〜。本物だよ。あ、でもね、普通のよりはちょっと強化されてるかも!」

 クモルは口からピューッと糸を吐き、爽子の体に糸を巻きけた。爽子は、きゃーと楽しそうに悲鳴をあげる。お前ら、やめろ。クモルは口を天井に向け、糸を吐き出した。家にあるクモル用のベッドを天井に作ろうとしていることが分かった私は彼の上に覆い被さった。

「ちょっと、クモル、やめなさい!」

「わー、ヒナコちゃん怒った?かわいいー、あー、かわいいー。食べちゃうぞー」

 クモルは私にいきなり抱きついてきた。ものすごい力で私は驚いて軽く悲鳴をあげて、後ろに倒れこんでしまった。が、その時、ちょうど、運悪く、注文した食事が運ばれてきて、個室の扉を開いた店員に私は思い切りぶつかってしまった。その勢いで持ってきた食事の皿が店員の手から滑り落ち、皿の割れる音が店内に響いた。店員はとても慌てて、すいません、と謝ったが、謝るのはこちらの方だった。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 私が店員に謝っているとクモルが出てきて、割れた皿を強引に口から出た糸を使い、勢いをつけてテーブルに飛ばすではないか。ガチャン!とさらに皿が割れる音がし、店員が悲鳴をあげる。爽子は糸で絡まれて身動きが取れないくせにケラケラ笑っている。ちょっとまじで勘弁なんだけど!お前ら!!!まだ糸を出し続けているクモルの頬を思わず平手打ちしてしまった。

「痛っ!ヒナコちゃあああああん」

 今度はクモルが大きな声で泣き出した。もう本当、これでは店を追い出されてしまう。

「すいません。本当にすいません。お騒がせして本当にすいません。片付けはちゃんといたします。お皿の弁償もいたします。すいません」

 と言いながら、私は店員を追い出すかのように強引に扉を閉じた。

「もう、泣かないで。悪いのは誰?静かにして。お願い。あなたがあんなことするから私だって打っちゃったのよ。ごめん、でも、クモルも悪いでしょ?だから泣かないで」

 子供を慰めているみたいだった。クモルは私に抱きつき、私の胸に顔を押し付け、ぐずぐずと音を立てる。もう、酒は危ない。怖すぎる!私はクモルの頭をそっと撫でた。しばらくして静かになったな、と思ったら、クモルが寝息を立てていたので、もう呆れるしかなかった。私はクモルを横に寝かせると、絡まった糸を片付ける作業をした。もちろん、爽子の糸も取ってやった。皿は3枚割れていた。そのうちの一枚はもう原型がどんなものかさえわからない有様だった。爽子は「私が弁償するよ」と言ってくれたが、私は首を横に一度振ったが思わず大きなため息が漏れてしまった。



「手品師なの?」

 片付けがひと段落すると、爽子が真面目に聞いてくるので、困ってしまう。あれが手品ってどんな手品なのよ、と突っ込みたくもなったけれど、私は曖昧な返事しかできなかった。

「飲むとこんなになるから禁止してたの?」

「ま、まあ、そんなところね。だから飲ませたくないの」

 私は眠っているクモルを見下ろしてため息をついた。まさか、酔っぱらうと糸を吐き出すとは思わなかった。

「店でこんななられるのは嫌だね。でも、かわいい。本当にかわいいんだけど。好きになっちゃいそう」

 爽子のクモルを見る目が恋する目になったように思えてゾクリとした。

「やめてよ」

 少し厳しい口調になってしまい、私は口を噤んで俯いてしまう。

「本気なのね」

 爽子はグラスを手に持ち、ぶらぶら遊ばせながら、私をじっと見た。

「日菜子って結構何に関しても無関心なのかと思ってた。仕事も恋愛も適当っていうか。あ、悪い意味じゃなくて。その、なんだろう、そつなくこなす、っていうか。うーん、と感情がこもってないっていうか。型通りにはきちんとするんだけど。真面目なんだけど、冷たい、っていうか。あ、ごめん、本当悪い意味じゃないの。うまく言えない。でも、ね。このクモルくんのこと見てると、こういう子だったら日菜子を熱くさせるのか、って思っちゃったの。これが本来の日菜子なのかな?って。だって楽しそうなんだもん。私の知ってる日菜子じゃない気がした。きっと日菜子はクモル君の前だと飾らない本来の日菜子なのかなって。いいなあ、って。妬きもちとかじゃなくて、素直に、うらやましいなあ、って思った。そのままでいられるって幸せなことよね。で。私も本当そろそろ彼と別れること決意しなきゃって思った」

 爽子の話は衝撃だった。私のことをそんなふうに見ていたのか、とショックもあったけれど、間違いではなかったからかもしれない。爽子に出会った時にはすでに私はいろんなことに絶望していて、抜け殻だった。そんな腑抜けな私のままで爽子と付き合っていたのだ。爽子はグラスに入ったお酒の残りを飲み干して笑った。

「別れるの?」

 私の声は少し震えていた。

「もう、疲れちゃった。自分を偽ってまで彼といる意味ないなあ、って。偽っているっていうか、なに、頑張ってる?感じ?クモルくんと日菜子見て、今日確信した。ありがとう」

「私は別になにも」

 私は急に恥ずかしくなった。爽子はちゃんと私を見ていてくれていたのに、と。とても恥ずかしくなって顔が熱を持っているのが分かり、気まずくて、俯いてしまう。悪い癖。逃げないで、私。

「いいのよ。ね、少しは友達になれた?」

 泣いてしまうかと思った。私は顔を上げ、ごめんね、と謝った。

「いいの、今日ちゃんと連れてきたでしょ?」

 爽子が笑ってくれる。私はやはり泣いてしまった。やだ、どうしたの?子供みたい。と爽子が優しく話しかけるのでもっと泣いてしまった。違うの、違うのよ。私はね。

「うん。あのね、私…」

 それから私は爽子に色々な話をした。自分の心の奥底まで曝け出すかのようにたくさん話した。爽子も私と同じくらいたくさん話してくれた。お酒で酔っていることもあるんだろうけど、私たちは笑いながら泣きながら、表情をあれこれ目まぐるしく変化させ話した。友人がいなかったわけではないのに、今初めて大切な友人ができたような感覚になった。店が閉店するまで私たちはずっと話をしていた。私はクモルを叩き起こすと、ヒナコちゃああん、と甘えた声を出して抱きついてきた。

「家に帰るよ。ねえ、お願い、クモル。起きて。おんぶしては帰れないの。お願い」

 その声が届いたのかどうか知らないけれど、はい!と一度ものすごく勢いの良い返事をした。それでも、クモルはフラフラしていたので、私と爽子で両脇を抱えながら、歩いた。終電はもうなかったので、タクシーを拾って帰ることにした。

「途中で店を追い出されずにすんでよかったね。あんな騒ぎ起こしたのにさ。弁償もせずにすんでよかった」

「本当。しかも明日休みでよかった。筋肉痛で動けないわ」

 私たちはクモルを真ん中に大笑いながらタクシーを探した。

「本当、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」

「今度は、日菜子の家ね」

「考えとく」

 本当、あの蜘蛛たちをどうにかしないと呼びたくても呼べないのよ。それとも、丸々全部話してしまおうか。私はとても気分がよかった。あの鬱々した気持ちはどこに行ってしまったのだろう。人って複雑だけど単純なのかもしれない。きっかけひとつで物事はガラリと変わることはある、と言うけれど、私は今日それを体験した。私はそのきっかけを作ってくれたクモルを見た。この子に出会えて本当によかった、と思う。恋とかじゃなくて、自分を見つめるというか、なんというか。やだ!本当いろいろ好転してきているじゃないの!クモルったら、本当は天使じゃないの?爽子をこんな時間に一人にさせるのは心配だったのだけれどクモルのこともあり、先にタクシーに乗らせてもらった。後部座席にクモルと詰め込むと、爽子に、ちゃんと帰ったら連絡してね、心配だから、と告げた。爽子は頷くとドアを閉め、手を振った。クモルと私が家についた頃はほぼ明け方だった。クモルをどうにかこうにか歩かせ、やっとの思いでベッドに倒れこんだ。気持ちよさそうにすやすや眠っているクモルを見て、起きたら二日酔い、とかなってなきゃいいけれど、と思った。にしても、酒はいかん。私は反省した。てか、どれだけ飲んだの?そんなに飲んでないと思うのだけど。とりあえず明日起きたら、記憶あるかどうかクモルに聞いてみなくちゃ。そうぼんやり考えていると、爽子から「帰宅」と言うタイトルだけのメールが届いた。私は「おやすみ」と返信した。

 案の定、起きたクモルに店での惨事について問うてみると

「え!そんなことしたの!僕、ばっかじゃねえの!」

 そうだな、と思わず言い返してやろうかと思ったが、やめた。また泣かれては困る。本当泣き虫。可愛いけど。つい泣かしてやろうか、なんて意地悪になってしまうくらい泣き虫なクモルがたまらなく可愛いけれど。一度わざと泣かして、大笑いしたら、拗ねてしまって機嫌を取り戻すのに苦労したので、その一度でいたずらはやめたけれど。爽子にもクモルが吐き出した蜘蛛の糸のこと確認しておかなくては、と思った。どうか忘れていてほしいと、切実に祈った。

「もう、絶対酒飲まない!こえー!」

 クモルが大きな声で叫んだ。私はそんなクモルの姿を見て、確かに、ごもっともだよ。それ、正解、クモルくん、と心の中で呟いた。


 怠惰な休日は嫌いじゃない。もともと出不精な私は休日をたいてい家で過ごした。クモルが来てからは出かけるようにもなったが今日は二人で家の中で過ごした。映画を観たり、ゲームしたり。こういうのもいいものだ。憧れていたわけではないけれど、隣に誰かの温もりがあるのは嬉しい。遅めの昼を取り、今はお気に入りの映画のサウンドトラックを小さな音量の流し、私は読書をしていた。クモルはそんな私の隣で体をこちらに向け丸くなって眠っている。クモルは本当によく寝る。ご飯を食べながら、うとうとして頭をテーブルにぶつけたりすることもあったので、どうしてそんなのに眠いのか問うてみたこともあるが、本人もよく分かっていないのか、明確な答えは得られなかった。冬眠状態になってきているのかしら?季節は晩夏から秋へとは向かっている。人間には眠くて仕方ない、という病気ってあったかしら?私は読書をするのをやめ、クモルの額にそっと触れながら、その寝顔を見つめた。本当、何度も思うけれど、なんて綺麗な顔なのだろう。透き通るような白い肌で感触も心地よい。私、幸せなんだ、と素直に思える。本当に幸せ。その時、携帯がブルブルと音を立てた。私は携帯を手に取り、受信トレイを開いた瞬間にゾッとした。それは元彼からのメールだった。自分が新しい環境になって充実していると昔付き合っていた男から連絡が来るというのはよくあるというじゃないか。私は初めての経験だったが、本当にあるのだな、とおかしくなったが気分のいいものではない。一気に思い出したくもないような記憶が蘇り私は不機嫌になってしまった。私は思わず眠っているクモルに抱きついた。あまりにも急な行動だったせいか、クモルは小さく声をあげた。

「ご、ごめん」

「なにかあった?」

「あった」

 クモルが私を抱きしめ返してくれた。私はそのままクモルの胸に顔を沈めた。暖かくて柔らないクモルの体。

「あったけどもう大丈夫」

「ほんと?」

 クモルが私の顔を覗き込む。

「大丈夫」

 小さな嘘をつく。完全に大丈夫ではないけれどこんなことにクモルを巻き込みたくない。クモルはこうして私に優しくしてくれればそれでいい。クモルが私の額に軽くキスをする。

「ヒナコちゃん、おなかすいた」

「もー。さっきちゃんと食べなかったからだよ。本当、クモル、ちゃんと食べて。最近あんまり食べてないの、私ちょっと心配」

 私は起き上がり、クモルを見下ろした。

「ごめんね。これからはちゃんと食べる」

 クモルは横になったまま、手をひらひら振って笑顔で答えた。私は一度大きく頷いた。うん、食べてね。食べることは生きること、なのよ?

「買い物、いこっか。お昼適当すぎたし、夜はちょっと豪華に作る。何が食べたい?」

「オムライス」

「えええ!面倒臭いな、チキンライスは?」

 私はオムライスを作るのが苦手だった。もちろんお店で出されるようなものを作ることができるとは思ってないが、どうもあの卵がうまくいかない。

「豪華に作るんだろ?」

 クモルも起き上がり、私を軽く抱きしめると頭頂部にキスをする。

「そうですね。オムライス作ります」

 私はクモルを見上げる。

「僕はちゃんと食べます」

 私は出かける前に不愉快なそのメールを削除した。私は今幸せなの。邪魔しないでほしい。


 週明けの仕事は好きじゃない。大抵の人はそうだろうけれど。私は本当に好きじゃない。今の仕事が嫌いなわけでもないが(だったら私の性格だととうの昔に辞めている)とにかく憂鬱で仕方ない。爽子に「酷い顔」と言われるのが月曜の朝の始まりだった。でもクモルがいるようになってから、その酷い顔曜日でさえも、幸福だった。惚気るのは好きじゃないけど、言わせて欲しい。クモルがいるということが幸せでたまらないのよ。だから、月曜の顔も以前よりましになったとは思う。

「爽子ー、おはよう」

 会社に入る前に爽子の後ろ姿が見えたので、駆け寄って話しかけた。爽子は振り返ったがその顔があまりにも酷かったのでギョッとした。

「まさか…」

「そのまさか…別れたんだけど、これがまた最悪だった」

「また話し聞くわ」

 爽子は力なく笑ってありがとうと小さい声で答えた。私は金曜のクモル糸事件のことを聞くことができなかった。きっと蜘蛛の糸のことどころではなく、それ自体も忘れているような気がした。それくらいげっそりしている爽子を見ると申し訳なくてクモル糸事件の話などできないと思った。

 

 仕事をしている間も爽子のことが心配だったが彼女は不安定な素振りなど一切見せず、いつも通りの爽子だった。さすがだな、と思ったけれど、逆にそれが痛々しくて私の方が泣きたくなってしまった。昼休みに話を聞こうと思い、ランチの時間になった途端に爽子の元へ走ったが、あいにく彼女は打ち合わせのため席を外していた。私は仕方なく席に自分の席に戻るとクモルが作ってくれたおにぎりを鞄から取り出した。その時、携帯のメール受信のランプが光っているのが見えた。私は携帯を開いた途端、不機嫌になった。昨日は来なかったのに、また来やがった。気分の悪さがじわじわと胸に広がる。先日は開きもしなかったが、今以上に気分が悪くなるかもしれないけれど試しに開いてみた。やはり不快度指数は高かった。そこには一言、元気?とだけあった。お前に私が元気かどうか関係あるのか?こういう場合、一般的な女性の受け答えはどうなのだろうか。今まで経験がないので解決方法が分からなかった。私は眉間にしわを寄せてその画面をじっと見ていると

「怖い顔」

 と声をかけられてハッとして顔を上げると爽子の笑顔があった。


「酷い、なにそれ、酷いじゃないの!」

 私は少し大きな声を上げてしまった。爽子が慌てて、トーン落として、と困った顔をしながら言った。お弁当など社員が持ち寄って食事を取るスペースがあり、爽子と私はそこで食事をしていた。男なんて本当クソよ。爽子はコンビニで購入した冷製パスタを口に運びながら、呟いた。

「それにしたって。結婚する気なんか最初からない、とか意味が分からない。だって何年?何年付き合った?三十代の女の一年は本当に貴重なんだよ」

 もう結婚も期待できないし、疲れたから別れよう、と切り出した爽子に対して、最初にその彼から出た言葉が「結婚なんてありえないし、なにを今更言ってるんだ?」だったらしい。以前の私なら爽子に同情はするだろうけれど、でも別れてよかったじゃないか、と心の中で思っていたかもしれない。でも少しだけ卑屈な私でなくなった私はその男が許せなかった。仕返しのひとつやふたつしてやりたいくらいだった。クモルのおかげなのかしら。自分が幸せだと人にまで優しくできる。でもそれって嫌な女なのかしら?爽子がこんな状況なのに、私ったらなに考えているの、と少し落ち込んでしまった。そんな様子を見て爽子は

「やだ、なんで日菜子がそんな暗い顔するの?」

「理由聞いたら、きっと私は爽子を失う」

 私は正直に答えようとしていた。以前の私ならそんなことはない。でももっと以前の私はこうだったのかもしれない。なんでも純粋に受け止め、素直に吐き出して、人を傷つけたこともあった。それが怖くて何も言えなくて悩んだこともあった。年を重ねてそういう純粋な屈折から、ただ単に面倒は嫌だ、と自分を守るためにヘラヘラ笑う卑屈な女になっていた。でも、爽子なら。あの夜、全てを吐き出してしまった爽子になら、と私は正直に答えた。

「私、本当にやな女だった。もちろん今だって性格のいい女じゃない。でもクモルのおかげで取り戻したものがあるの。心の余裕っていうか。だから、爽子が落ち込んでて、前なら、でも別れてよかったじゃん、で済ませたかもしれないの。でも今は違う。すんごいその男が腹が立つのね。でもこう思えるのって私が今幸せだからなのかな?って思ったら、すげえやな女かもって逆に思ってしまって落ち込んでしまった。ごめん」

 しばらく沈黙があったので私はやっぱり言うんじゃなかったか、とまたしても落ち込むと、爽子が急に笑い出した。

「ばっかね。なんでそんな正直にベラベラ言ってるの?普通、そんなの言わないで適当にあしらうでしょ?これが本来の日菜子ね。こっちが断然私は好きよ。それに私はクモルくんのおかげで別れることができたんだもん。腹が立ったからね、最後に思っ切り殴ってやったの。グーで」

 爽子は拳を作って見せた。

「酷い顔だったのはちょっとやりすぎたかなあ、と思ったし、これからどうしようって思ったし。そういうのを考えてだいぶ自己嫌悪に陥ってただけで、別れたことはなんの未練もないの。あ、年齢ね、もうすぐ四十三なの。信じられないでしょ?だから大事な三十代って言うのも実はとうに過ぎてる。まあ付き合い出したのは、そうね、日菜子くらいのときかな?クモル君は結婚願望ある?それちゃんと確認しておきな。あ、でも、大丈夫かー。あの子は日菜子にベタ惚れだもん」

 爽子は笑っていたけど、胸をつくような切ない笑い方をするので私は泣きそうになってしまった。爽子は気づいたのか、泣くなよ、と言った。どっちのセリフよ、と言い返してやりたかったが、言葉が出てこなかった。結局クモルの糸については聞けなかったがもうどうでもよくなった。

 爽子とは午後からは一言も会話する機会はなく、就業時間になってしまったのでメールでまた飲みに行こうと一言送信して、職場を出た。駅に向かう途中で着信の知らせがあったので爽子か、と思ったら絶句、またあいつだった。そういえば、返信しようかどうしようかと考えていて「怖い顔」と爽子に言われそのまま食事に出たのだった。忘れていた。随分とちっぽけな存在に彼はなっていた。こんなきっかけさえなければ、もうどこかに埋もれていて二度と顔を出さなかっただろうな。昔はあれだけ好きでたまらなかったのになあ、と少し思う。女性の恋は上書き保存で男性は名前を付けて保存。古いか。今の若い世代はパソコンよりもタブレットやスマートフォンだろうか。フォルダなんて持たない世界?私は電車に乗り、その揺れの中で、またどうしようか、考えた。電車のガラス窓に映る自分がまた眉間にしわを寄せて「怖い顔」をしていた。こんな顔をさせるような相手に返事なんてしなくていいんじゃないのかしら?私は手にしていた携帯を鞄にしまいこみ、私を待っているクモルのことを考えてにやけた。


 クモルはいつも待っている。私が玄関のドアを開けるとそこに笑顔のクモルがいる。そして、おかえりヒナコちゃん寂しかった、と言って抱きしめてくれる。なんだこれ、最強、と毎度のことのように思ってしまう。慣れると新鮮さがなくなる気がしたがそんなことがなかった。私はとても嬉しくてときめいてしまう。クモルはいつものようにその日の出来事を語ってくれる。私は聞いているような、聞いていないような曖昧な態度をとるが最近はそのことで拗ねたりしない。なんて平和なのだと私は改めて思う。だから波風は立てたくない。メールのことはやはり黙っておこう。また何も返事をせず、削除してしまおう。クモルに打ち明けたところで、そういう人間の微妙な気持ちを理解できず、また泣いてしまうかもしれない。優しいクモル。クモルは人間だと言うけれど、やはり人間ではないのだ、と私も悲しくなってしまうが、こういう醜い感情と言うか不安定な気持ちは持たないで欲しいとも願う。とても矛盾しているのは分かっているがどちらも紛れもない本心だった。

「どうしたの?」

「なんでもない。とても平和で幸せ」

 私が笑って答えるとクモルは一度頷くとまた日々の出来事を話し出した。私は今日もメールのことは記憶のそこに埋めた。

 しかし、次の朝、受信したメールを見た時、絶句した。なんなんだ、まったく。私と付き合っている時、私がメールをしても返信してこなかったことは何度もあった。返事のしびれを切らして、つい電話をしたら最後、うざい、と言われた。それでも好きだった私はただのマゾだったのかもしれない。なのに、なんだ、今のお前は。私と同じじゃないか。しかも超くだらないこと。元気?とか何してるの?とか、何なの?お前に関係ないだろう?今朝のは、なんで返事くれないの?とだった。馬鹿か?お前。ていうか、私の気持ち少しは分かったか?アドレス変更も受信拒否もしたくはなかった。なんだかそいつが「特別」なように思えて私は嫌だった。電話がかかってきたらどうしよう。私は考えるだけでゾッとし、不愉快な気分になった。


 クモルは私がとても機嫌が悪いのを察したのか、朝はあまり喋らなかったがちゃんとおにぎりと行ってらっしゃいの見送りはしてくれた。ごめんね、クモル、と心の中で謝った。言葉に出してしまうと、クモルは何も悪くないのに、怒鳴ってしまいそうだったのだ。『一体なんなの?もう連絡してこないで』と私はタイトルを打ち、本文は書かずにそのままメールを送信した。メールを送った後、爽子に相談すればよかった、と思った。彼女ならこういう元彼からの連絡とかありそうだもの。勝手な想像だけど。しかし、その日、爽子は欠勤していた。やっぱり相当ショックだったのかなあ、と彼女の席を見つめながらぼんやり思った。私一人で解決するか。私はいつも通り仕事をこなし、定時には会社を出た。クモルに謝ろう。ケーキでも買って帰ろうかな?私は会社近くにある洋菓子店でショートケーキをふたつ買って帰宅した。


「今朝はごめんね」

 私の作った炒飯を口に運んでいるクモルに謝った。クモルは何のことか分からないのか、不思議そうな顔をしてそのまま咀嚼を続けていた。

「ほら、朝、機嫌悪かったでしょ?ごめんね」

 クモルは首を横に振り、また炒飯を口に運ぶ。どうやら、これは気に入ったらしい。というか、クモルは卵が好きみたいである。卵炒飯、きゅうりの酢物、ワカメの中華スープ。どれも簡単すぎて申し訳ないようなメニューだった。

「すごく嫌なことがあったの。嫌なことっていうか、そうね、嫌なことだわ、すごく不愉快なの。何日か前からそのことがあったんだけどもういい加減、腹が立ってしまったの。でも、それクモルに言って困らせるのは嫌だから自分で解決しようと思ったんだけど経験浅すぎて解決せず。自分の問題なのに不機嫌になってクモルに冷たい態度をとってしまったの。本当にごめんね」

 私はお茶を口に含んだ。楽しい内容じゃない話は余計に負のオーラが加わるのか、空気が重くなる感じがして少し疲れる。

「昔の男」

「なんでわかるの?」

「恋愛指南書に書いてあった」

「何でそんなもん読んでるの?てか図書館で何借りてるのよ」

 クモルは時々近所にあるとても小さい図書館に行っている。以前私が図書館に行く時、クモルもついてきたので彼の貸出カードも作ってあげた。クモルは子供みたいに喜んだ。もちろん苗字はレンタルカードと同じように私と同じ。クモルのカードを見るとくすぐったくて優しくて幸福そのものだった。クモルと結婚しているみたいで涙が出そうになったのを覚えている。クモルは文字の勉強をするために図書館に行くと言っていたが、驚異的に頭がいいのか、そういうふうに作られたのか知らないが、今では何不自由なく読み書きができる。文字も早い段階で綺麗に書けるようになった。だいたい字が読める時点で何も問題ないと思う。それにこうやって自然に会話もできている。その上、人の気持ちも理解できたらとんでもない男だ。でも私の気持ちは分かるクモルはやはり不思議だった。

「少しでも人間の気持ちを理解しようかと。でも読んでてむず痒くなってきた。人間って本当面倒臭え」

 文字書きはできても、気持ちは分からないようだった。人間同士でも分からないから仕方ないと思うけれど。

「嫌になった?」

「ヒナコちゃんと爽子さん以外は。てかそれ以外知らないし、それ以上知りたくない」

 クモルはそう言って皿に残っていた炒飯を綺麗に食べ終えた。クモルの食事量は少ないけれど、少しまた食べるようになった。それでも時々顔色が悪いような気がして心配だったがもともと色白なので青白く見えてしまっているのか、実際具合の悪さまではよく分からなかった。

「で、その昔の男が何?」

 クモルはお茶を飲みながら聞いた。

「メールが来るの。一言メール。私無視してたんだけど、ずっと来るからすっごく腹が立ってしまったの。もう連絡してこないで、ってメールしてから携帯の電源切ってる。もう本当に嫌なんだ。ねえ、クモル、私と一緒に写真撮ってくれない?それをメールに添付してやる。そうすればもう絶対こないと思うんだ」

 クモルはしばらく黙ってしまった。そしてものすごく低い声でクモルが話し出したので驚いた。その声はいつものクモルの声ではなくて気味が悪いほどだった。

「ヒナコちゃんのお願いでも、それはできない」

 なんでも私の言うことを聞いてくれるクモルが初めて断った。その返事は全く予期していなかったので、え?なんで?写真嫌なの?と話しかけた声が間抜けすぎた。

「嫌」

 クモルの低い声。一瞬怒っているのかと思ったけれどそうではないみたいだ。雰囲気で分かる。そういえば、クモルが本気で怒っているのは見たことがない。

「どうして?まあ、私も写真撮るの嫌いだけど、クモルは超男前だし、全然大丈夫だよ?そういえば、私、クモルの写真一枚も持ってない」

 そうだ、私、クモルと写真撮ってないわ。私は改めて気付く。

「写真なんかなくてもいつも目の前にいるだろ?嫌だ、絶対、いーやーだー。魂抜かれるんだろ?」

 いつの時代の話をしているんだ、クモルくん。私は大笑いしてしまった。

「なんで笑うんだよ!だって本に書いてたぞ」

「昔はそんなふうに言われたけど実際はそんなことないから大丈夫よ。ダメ?」

「ダメ。やだ、絶対嫌だ。でもヒナコちゃんに嫌われるのはもっと嫌だ。でも写真嫌だ。でもヒナコちゃん…うっ」

 またクモルが泣き出しそうになった。本当に泣き虫。なにこの可愛い生き物。

「泣かないで。そんなことで嫌いになったりしないから。クモルがそんなに嫌がること私はしない」

「ヒナコちゃん、大好き。ちょっと携帯、貸して」

 私は食事を終えてから、鞄から電源が切れたままの携帯を取り出し、クモルに渡した。私が後片付けをしている間、クモルがその携帯をいじっていた。特に見られても困るようなことがないのでそのままにしておいた。私のプライベートって一体、とは思ったけれど、なにを知られても気にならないのはこの子が特別だから、だと思えば納得できた

「こいつ?だよね?」

 クモルが私の目の前に彼からのメールが表示された画面を差し出してきたので、そうよ、と答えた。クモルはなにやら、カチカチと打っている。

「なんて送ったの?」

 私は片付けを終えてクモルの隣に座り込んで携帯の画面を見た。

「連絡してくんなバーカ。クモル」

「なにそれ、私が送ったのとほとんど同じじゃん」

 私は思わず笑ってしまう。

「僕のは名前付きだ」

「確かに」

 それからテレビを見たり、本を読んだり、とお互い好きなことをした。大抵、クモルは何かをしていても眠ってしまっていることが多い。やはり今日もテレビのリモコンを持ったまま、ベッドの上で眠っていた。クモルにタオルケットをかけようと立ち上がった時、携帯が鳴った。私は携帯の着信画面を見て、また不愉快になった。本当に電話がかかってきたのだ。私は携帯音を鳴らしたまま出ずにいたので、クモルが目を覚ました。私が泣きそうな顔をしているのを見たクモルは私から電話を奪い取り、通話ボタンを押した。相手が何か喋っているのかどうかもよく分からなかったが、クモルの声が部屋に響いた。

「お前、日本語読めないのかよ。連絡してくるなって送ったろ?もうヒナコちゃんに電話とかメールとかしてくるな。まじまたしてきてみろ、俺がお前を食い殺してやる」

 私はなぜかゾッとした。その感覚は少し恐怖に近くて、私の顔が少し青くなったように思う。

 アレ?

 ダレダロウコノヒト……


「もう大丈夫。またかかってきたら本当に殺しに行ってやるよ」

 クモルは笑顔で携帯を返してくれたが、私は少し動けずにいた。

「ごめんね」

「なんで謝るの?」

「だってあんな怖いクモル見たことないから、怒らせたかなって」

 私の声は少し震えていた。

「怖かった?ごめん。ごめんね」

「ううん、ごめんね。ありがとう。クモル、大好き」

 私はクモルに抱きついた。クモルは私を抱きしめ返した。

「僕も」

 怖くない、もう怖くない。いつも、私の知っているクモルがそこにいた。

「ね、次のお休み晴れたら、ピクニック行こう。私、彼氏とそういうのしてみたかったの。いい?クモルはおにぎり担当ね。私はおかず作ってく」

 私はクモルを見上げてそう提案した。クモルはいつものように大きく頷いて承諾してくれた。


 ナニモコワクナイ。ダッテクモルハココニイル。


 それから元彼からの連絡はパタリとなくなった。クモルが本当に殺しに行ってないだろうか、と冗談で思うことはあったが変死体が出るような事件は特に聞いていない。私とクモルの日常が戻ってきた。二人の毎日は相変わらず平和で幸せで優しかった。爽子とも食事会を何度かした。私の家に彼女を呼ぶ時は、家に住み着いている蜘蛛たちには隠れてもらった。皆がいい子たちなのか、それともクモルの命令が行き届いているのか、その辺は分からなかったが、爽子が大量の蜘蛛に驚いて失神することはなかった。爽子に真実を打ち明けようか、と思ったことが何度かあった。それは蜘蛛たちのことだけではなかったけれど、爽子なら受け入れてくれるかな、と思ったからだ。でも、それはクモルが制した。もし、爽子さんが受け入れらなかった場合、傷つくのはヒナコちゃんだけじゃないから、と言われた。本当にできた彼氏だ、と感心した。


 季節は冬になっていた。冬はあまり好きじゃない。好きじゃなくなった、と言った方が正しい。毛布のような愛犬がいなくなってしまったことが大きな要因だった。母親に犬を部屋に入れてはダメ!と言われ続けていたが、犬が高齢になり、体調が悪くなると、私がそばで介護をしたいということもあり、部屋に入れることを許可してくれた。つらい介護だったけれど、彼女がそばにいることが何より幸せだった。そんな期間はあまり長くはなかったけれど。今年はクモルがいる。クモルがいることで、その寂しさはなくなった。愛犬のようなもふもふさはないが、少しくせのある髪の毛がとても柔らかく彼の頭を撫でるのがたまらなく好きだった。クモルは最初それをものすごく嫌がったが、諦めたのか、気持ちいいのか知らないが、何も言わなくなった。そんな中、少し気になることがあった。寒くなって行くせいだ、とは思ったが、私の部屋に住み着いていた蜘蛛たちの数が少し減っているように思った。彼らの死骸を見つけてはお墓を作っていたのでその回数がじわじわと増えているな、とぼんやりとは思っていたけれど。私はクモルに蜘蛛たちの様子がおかしい、と話したが、あまり真剣に取り合ってくれなかった。

「冬眠している子も間違って棺桶にいれてない?」

 と笑いながら言われて、私はちょっと怒ってしまったこともある。ごめんとクモルは謝ったがそんなことは冗談でもやめてほしかった。クモルと一緒に、この蜘蛛たちも私の中ではもう家族同然だったので、怒った後悲しくなって泣いてしまった。するとやはりクモルまでもが泣き出して大変だった。


 気になることといえば、もうひとつあって、それはクモル自身のことだった。前からよく眠るとは思っていたが、最近はそれが特にひどいような気がする。私はある休みの午後、クモルが眠っている間に図書館に行くことにした。図書館で蜘蛛についての本を読みたかったからだ。それが何の解決になるか分からなかったが、私の不安はちょっといつもの不安とは違うような気がして、気持ちが悪かった。私は静かに行動をして家を出た。外に出た瞬間、冷たい空気を含んだ風が顔にあたり冷たく感じた。もうすぐ十二月が来る。憧れていたわけでもないけれど大好きな人とクリスマスが過ごせるのかしら?と思うとなんだかにやけてしまう自分がいた。こんなじゃなかったのに、女はやはり男で変わるものなのかしら。私はそういう女にはなりたくなかったのに、どうしたもんだこれは。クリスマスって何?何?とまたいっぱい聞かれそうだなあ。それを説明するのが楽しいかもしれない。小さなツリーも買って飾り付けとかしてみようかな?喜んで飾り付けを手伝うクモルの姿が頭に浮かんで私は気持ちがほっこり暖かくなるのを感じだ。とても大切な人。そうなってしまった。失いたくない。私は少し歩く速度を早めて図書館へ向かった。


 ここの図書館は本当に近所の人が知っているだけ、というような小さな図書館だったので人はそれほど多くなかった。私は生物系の本が並んでいる棚に移動した。蜘蛛の本を数冊選ぶと私は席についてそれらを読んだ。読んだところで、やはり何が分かるわけでもなかった。だってクモルは蜘蛛だけれど人間に変身した蜘蛛なんだもの、参考になるわけがない。私は蜘蛛の寿命を調べた。

「ヒナコちゃん」 

 突然声をかけられて、小さく声をあげてしまった。顔を上げると目の前にクモルが立っていた。

「なんでこっそり出かけるの?」

「ごめん。でもなんで分かったの?」

「勘」

 嘘でしょ、それ。私は疑うような顔をして首を捻った。

「へへ、つけてきた」

「もう!」

「でもなんで一人出かけるの?何読んでいるのさ」

 私は思わず本を隠そうとしたが遅かった。クモルが少し悲しそうな顔をして私は胸が痛んだ。

「だって、クモルが心配なんだもの。最近、前以上によく眠るから何か体の調子が悪いのかな?って思って。でも、病院に行って、なんて言えないでしょ?だって。クモルは……」

 館員が私たちを怪訝そうな目つきで見ていたことに気づいた私は口をつぐんだ。しまった、少し声が大きかっただろうか。それとも話している内容がおかしかった?私は「すいません」と館員に謝った。

「ここでは話せないから、外に出よう」

 私は小さい声でクモルにそう呟くと、本を返却した。


 私たちは外に出た。私は図書館の前にあるベンチに座った。ヒヤリと冷たい感触に少し驚く。クモルが自動販売機でココアを買ってきて、私に手渡し、隣に座った。クモルのは?と聞くと、ヒナコちゃんの半分ちょうだい、と答えた。

「さっきの続き話して」

 缶を開け、一口だけ口に含んだあと私は一度ため息をついた。

「心配なの。ただそれだけなのよ」

「人間じゃないから?」

 私は首を振った。嘘をついてしまう。普通の恋ならよかった。最初から人間だと思っていればよかった。そしたら、この不安は消えるだろうか。 

「僕はヒナコちゃんのおかげでこんなにも人間になれた。大丈夫。体調が心配?よく寝てるから?冬だから行動が鈍いとでも思ってくれたらいいよ。ああ、ここらへんがまだ人間じゃないか、うーん。困ったな。でも、本当何も問題ないよ」

 クモルはそう言った。彼の言葉の安心感に甘えたらいいのにそれができずにいる自分が嫌いだった。

「ごめんね、問題ないのよね、でもなんだかとてもとても不安なの。クモルのこと信じてないとかじゃないの、説明できないの、不安なの、ごめんね」

 私は謝ることしかできなかった。いったい何が不安なのか。自分でも理解できず処理できない気持ちを持て余す。どうしてしまったのだろう。何が私を狂わせているのだろうか。得体の知れない不安が盛り上がる。クモルが私の手を握った。とても冷たい手で驚いた。

「ずっと一緒」

「うん、ずっと一緒ね」



 妙な予感は当たる。私の場合、それは決まって最悪だった。よくまあ、それだけ悪運を引き寄せることができるな、と笑えるほどだった。なるほど、それが私の人生。たまげたもんだ。ある意味すげえな、と私は豪快に諦めた。それくらい偉大で鮮やかだったから世界から偉人として最優秀賞をもらいたいくらいだった。


 十二月も半ばを過ぎたその日、仕事から帰ってくると違和感に気付いた。いつも玄関先で待っているクモルがいなかった。一瞬嫌な予感がした。わざと音を立てるような歩き方をして部屋に入った。クモルが蜘蛛の巣の上で膝を抱えて丸くなっているのが見えた。

「ただいま!」

 クモルは、あっという顔をすると、すぐに私のそばに飛び降りてきた。

「おかえり」

 彼が怯えた声を出すので私ったらそんなに怒って見えるかしら?と反省した。私はそっと彼の頭に触れる。

「ちょっと考え事してて、そしたら、ヒナコちゃん帰ってきちゃった」

「そんな日もある」

 玄関先でした嫌な予感は気のせいだったのだろう。うん、そうだ。

「ヒナコちゃん……大事な話がある」

 やはり嫌な予感的中か!背筋がヒヤリとする。私の顔はなんとなく青ざめていたと思う。普通、何の問題もなく付き合っている彼氏からの大事な話と言えば、憧れの!結婚かと思うけれど、そういう類のハッピーなものではないことはクモルの暗い表情で察しがつく。

「え?何?私、なんか悪いことした?やな思いさせた?」

 私はゾッとする。私はまた何かやってしまったのだろうか。順調だと思っていながらも知らないうちに重い女になっていたか。でもそれ以上にクモルはうざかったけれど。自分のここ最近の行動を反芻してみるが分かるわけがなかった。

「うーん、ヒナコちゃんは何も悪いことしてない。むしろ、僕が悪いかな?もう限界なんだよね」

 がーん。限界。もう我慢の限界か?うっそ?だってあんなにラブラブだったじゃないの。私が不安になる回数が多すぎた?クモルを信じてない感じだった?うざかった?あー、もう全然分からない!私はパニック状態になり始めた。それにクモルが気付いたのか、表情があまりない顔をして薄ら笑ったので気味が悪くなった。

「命の問題」

「え!何!死んじゃうの?だってずっと一緒って言ったじゃん?心配だって話したら、ずっと一緒って。あれで解決したんじゃないの?やっぱりあれ、体内は蜘蛛だからそっちの寿命に合わせちゃう?え?えっとあの時調べたんだけど、ごめんね。蜘蛛は通常一年から三年だっけ?でもほら長いのだと十年って。え?でもクモルまだ半年もたってないよ?」

 何?そっちなの?命の問題って?何よそれ!!早すぎるんだけど!だったらなんでずっといっしょとか言うのよ!待ってよ、クモル、これは私怒るわ。大問題よ。私は思わず泣きそうになる。何この嫌な予感、最悪なんだけど!!!!

「僕、じゃなくて、ヒナコちゃんの命の問題」

 は?私?なんで?


「あのね、僕、人喰い蜘蛛なんだ」


 は?


 私は頭の中が真っ白になった。え?あなた、今、なんて言った?


 ヒトクイグモ。なあに、それ?


「ヒナコちゃんは僕の獲物」

 クモルはへへへと乾いた声で笑うと首を傾げる。私は彼の言葉が理解できなかった。え?日本語喋っていた?外国語だったのかしらん。

「うーん、ショックだよね。ごめんね。これでも、本当。でも、でもね。こうやって食べる前に公言しちゃうのはルール違反。っていうか、今までにない感じかな?人喰い蜘蛛史上初!みたいな。でもそうなっちゃったのは、うーん、ヒナコちゃんのせいっていうか、うーん、僕のせいっていうか、うーん、っていろいろ考えてて、ん?ヒナコちゃん?」

 クモルはベラベラ喋っていたが私が無表情のまま微動だにせずいたので、彼は一度私の名を呼んだ。

「あの、人喰い蜘蛛って……、あの、私、クモルに食べられるのでしょうか?」

「うん、そう。だからそう言ってるじゃん」

 軽い。なんだ、その軽い受け答えは。私の大好きな映画ロード・オブ・ザ・リングに巨大な蜘蛛がでてくる。そういえば、あいつらはホビットたちを糸でぐるぐる巻きにしていたなあ。麻痺させて動けなくして、さあ、どれから食べるかな、なんて話し合っていたっけ?私はそのシーンを思い返しながらクモルに、あんなに大きな蜘蛛じゃない、と言った。

「元はでっかい蜘蛛。そんな格好で現れたら射殺されるだろ?人喰い蜘蛛だって言っても、大勢の人間を相手には敵わないよ。だから、普段は人目につかないように地下に潜っている。狩りを行う時に人に化けるの。あ、獲物を見つけるのが先ね。見つけたらその獲物の習性とか性格とか細かく調査するんだ。獲物に好かれるようにするためにね。それで実際、狩りに出る時、巨大蜘蛛の状態から人間になるんだけど、こうやって人間になるのは本当に大変なんだ。自分ひとりではやっぱり無理。だから協力してもらう蜘蛛も集めるんだ。協力するってことは人喰い蜘蛛に命を預けるってことね。一時的に、だけど。ほら、仮死状態になってたでしょ?でも本当に死んじゃう蜘蛛もいる。それでもそんな命がけのことに協力するってことはそれだけの代償があるんだ。人を食べる時、協力蜘蛛にも生命が分け与えられるんだ。でもさー、ちゃんとした人間になるのってなかなか難しいんだよ。だから、狩りをするのも人喰い蜘蛛にとっても命がけなんだ。僕たちの数自体、すごく減ってきてるのがその証拠かな」

 クモルは笑う。そんな人喰い蜘蛛の説明をこれから食べられる私が聞いてどうするのだろうか。助けてくれるんかい?今更?私はとても困った顔をして、ヘラヘラ笑った。

「あはは、ごめんね、こんな話しても食べられたらどうもこうもないって感じだよね、でもね、聞いてヒナコちゃん。ずっと僕が考えていたことを聞いてほしい」

 クモルも困った顔をする。私はこの表情も好きだ。たくさんの表情をたくさん見せてくれるクモル。大好きなクモル。なんで、人喰い蜘蛛だなんて言うの?私を困らせるなんてどうかしているよ?ねえ、クモル、どうしちゃったの?私は今のこの現状を受け入れることができない。急展開もいいところだ、なんだ、これ!説明より、実際に腕を引きちぎられるくらいしたら受け入れられるかもしれない。でもそうなれば、痛さと吹き出る血の量ですぐさま気絶してしまいそうだけど。

「そろそろ腹が減ってきたから、次の獲物を探すかな、って思ってた時にヒナコちゃんの噂を聞いた。あいつ、あ、ヒナコちゃんね、を食べたら絶対美味いってかなりの数の蜘蛛たちがそう言うんだ。だからちょっと興味持っちゃって。どんなやつだろうって僕、見に行ったの。このアパートの下、地下から様子見してた。いつもの獲物と違うところは蜘蛛が嫌いじゃないことだった。今までの獲物なんて蜘蛛が嫌いなやつが大半。その中でも超毛嫌いしているやつも何人もいた。そういうやつらは特に究極に僕に惚れさせてやるんだ。でね、馬鹿め、って思いながら食べてやった。あっはは。悪趣味?でもね、自分のことを好きなった人間の肉はとても甘くてね。甘くてたまらないの。その味を知ったらもう病みつきに。だから、僕は獲物に好かれるの。甘い人間を食べるのがやめられない。でも僕と違って、恐怖に陥れてそのまま食べるって仲間もいたよ。それはそれでなんとも言えない味がするんだと。そっちも悪趣味だね。ふふ。ヒナコちゃんはさ、蜘蛛が好きでしょ?優しいの。蜘蛛助けたりしてるの、何度か見たし。こんな子食べたらどんな味がするんだろう?って思ったの。食欲がそそられた。ヒナコちゃんを獲物にするって決めたら、すっごい数の蜘蛛が集まった。びっくりした。今までにない協力蜘蛛の数だった。だから本当完璧な人間になったと思うよ。で、普通なら変身してるところなんて見せないんだけど、タイミングが悪過ぎた。人間になりたてだったし、もう状況説明も何もできなくて、蜘蛛だってバラした。最初からあり得ない状況だった。もしヒナコちゃんがそこで泣きわめいたり、手に負えない状態になったら、不本意だけどその場で食べようって思った。でも。ヒナコちゃんはとても優しかった」

 クモルは話を切った。そして、私の両手を自分のそれで握った。私はその手の体温に驚いた。普段からクモルの手は冷たかったけれど今の体温は尋常じゃない。氷のようにとても冷たかった。

「クモル、手が」

 クモルは静かに頷く。

「うん、もう時間がない、んだと思う。限界。ヒナコちゃんを食べないと僕は死んじゃう、と思う。経験ないから分からないけど、えへへ。僕に協力してくれた蜘蛛たちもたぶん皆死んじゃう」

 私は頭上を見上げた。随分数が減ってしまった私の家族。クモルが死んでしまう。この子たちも皆死んでしまう。私の中で突然嵐が起こる。絶対にそれは避けたい。私は嫌だ。そんなのは嫌だ。また一人ぼっちになる。嫌だ嫌だ嫌だ。私はクモルを抱きしめた。体もとても冷たく、悲しくなった。巨大な氷を抱きしめているようでクモルに触れた私の体の一部はピリピリと痛んだ。

「うん、話、最後まで聞いて。ね、お願い。僕が人間でいられるうちにちゃんと話を」

 クモルはゆっくりと呟いた。私はそのままの状態で頷いた。

「僕ね、僕、ヒナコちゃんが大好きなの」

 そんなのは知っている。ずっと知っている。何度も言ってくれたもん、知っているよ、クモル。クモルは私から少し体を離し、じっと私を見つめていた。私は泣きそうになった。

「人喰い蜘蛛は獲物を決めてから食すまでに一ヶ月もかからない。だいたい一週間から長くて二週間かな?僕だってそのくらいで食べようと思ってた。でも、ヒナコちゃんは本当に優しくて、一緒にいて楽しくて。どんどん時間が経っていった。気が付いたらもう何ヶ月?三?四ヶ月?えへへ。僕がよく眠るのを心配していたね。あれはね、体力温存のために仕方ないんだ。だって人間に変身してるんだもの。通常の状態じゃないんだ、やっぱり。でもだんだん弱っていくんだなあ、へへ。だってヒナコちゃん食べないんだもんね。協力してくれた蜘蛛の中には早く食べろ、って急かしてくるやつもいる。契約違反だ!と言われたし、攻撃もされた。中にはもう力尽きて死んじゃった子もいる。蜘蛛たちの数が減ったって、ヒナコちゃん心配してたでしょ?あれは力尽きちゃった子達だと思う。いっぱいお墓作ってくれてありがとう。嬉しかった。ヒナコちゃんと同じ食事でどうにか命をつなごうとしたんだよ。でもどうもそれが体に合わないみたいで、あまり食べることができなかった。ごめんね。だからさ、本当どんどん弱ってきて、人間の姿の維持もだんだんできなくなってきたの。鏡に映る僕を見たことある?僕も見た時、びっくりしたんだけど、鏡に映ってるのが蜘蛛なんだよね。でっかい真っ黒な物体が映ってるの。ヒナコちゃんにもそう見えたらどうしようって思った。ほら、写真撮ろうって言われた時はもう絶句。怖くて。僕の姿が映っちゃうかもしれないって思うと怖くてさ。ヒナコちゃんを食べなきゃ、でも、ヒナコちゃんが大好きで。大好きで大好きで仕方なくて。嫌われたくない。人間になりたい。人間でいたい。僕、ヒナコちゃんのそばにいたい。大好き。もうさ、本当あのヒナコちゃんの元彼を食いに行ってやろうかって思ったよ。あの時ヒナコちゃん、僕を怖がってたよね。あれ、たぶん本心。へへ、ごめんね。怖がらせるつもりはなかったんだけど。とにかく頭がおかしかったんだよ。今も言ってることだいぶおかしいね。ぐちゃぐちゃだよね、日本語。ごめん。でね。もうどうにかしなきゃって、本気でどうしたらいいか、ずっと考えてた。ずっとぐるぐる考えてた。でも分からなくて。ヒナコちゃんにも僕にも蜘蛛たちにも皆に有効な手段ってなんだろうって考えてた。でも考えても考えてもなかなか見つからなくて。きっと何かあるはず、あるはずって。でも分からなくて。僕バカだからかな?ここぞという時バカだから、ヒナコちゃん、僕、バカだから……」

 クモルは大粒の涙を目に溜めていた。それが一筋頰を伝うとあとから止めどなくクモルの目から溢れるように涙が流れ出し、彼は声をあげて泣いた。本当に泣き虫なんだから。悲しい映画や本を見たり読んだりしても泣き、私が泣いちゃうとつられて泣き。本当泣いてばかりじゃないの。私はクモルの顔を両手で覆った。クモルの目も鼻先も真っ赤になっている。私は笑った。

「クモル、今度は私の話、聞いて。いい?」

 クモルを死なせてはいけない。その答えが意外と早く出たことは自分でも驚いたが、それ以外の的確な回答は私の中にはなかった。クモルの冷たすぎる手に触れた時、たぶん自然と決断していたのかもしれない。こんなにも私はクモルを愛していることに改めて気づき、はっとする。

「私、クモルに出会って本当によかったって思っている。幸せすぎて、もうまじやばいんじゃないの?って思った。だって今までこんなことなかったもん。いつもいつも男運悪くて大好きなワンコも天国行っちゃって本当どん底だったの。どん底を這いすぎてすっごく性格までひん曲がってた。年のせいもあるけれど。でも、クモルが来て世界が変わったの。やだ、こんなだっさいセリフ言うなんて思わなかった。でも、本当にね。幸せだったの。寝る前におやすみ、朝起きたらおはよう、仕事前に行ってらっしゃい。仕事から帰るとおかえり。いつもおにぎり作ってくれて嬉しかった。上手に作れるようになったよね。ふふふ。いっぱい抱きしめてくれて、いっぱいキスしてくれて。大好きな人がいつもそばにいることの優しいさに私どっぷりつかってた。私のひん曲がった性格も少し改善されたと思う。おかしな話だけどね、自分が幸せで穏やかだと他人に優しくできる。私ったらそういうことでもクモルに救われた。本当に幸せよ。だから…」

 私は一度大きく深呼吸をした。

「私を食べて。それがいちばんいい方法なの」

 クモルは驚いた表情を見せたがすぐに大きく首を横に振って、嫌だ、できない、と言った。私はクモルの手を握り直そうとしたが、冷たさのせいか、私の手の感覚がなくなっていて、うまく握れずにいた。その様子を見たクモルが私の手を取った。私は笑う。

「ね、いい。聞いて。私、クモルが死んでしまうのは困るの。だって私はもう体も心もクモルで満たされていて、クモルがいない生活なんて無理。生きていけないの。だったら、ね、私はクモルに食べられてクモルの一部になりたい。それって、すっごい幸せなことだと思わない?ねえ?ずっと一緒よ。クモルが約束してくれた通りじゃないの。ね?だから、いいの。私を食べて」

 私もいつの間にか泣いていた。泣いていたけれどとびきりの笑顔でもあったと思う。

「あー、でも痛いの、やだなー。私が気づかないうちに食べちゃってよ。気絶させてよ。なんかこう全身麻酔的な?痛いの本当にダメなの。私。ほら、痛いって言う恐怖で私が充満しちゃったらお肉不味くなるんじゃないの?苦くなったりする?いやでしょ?」

 私は少し顔を歪めて頼んだ。うん、痛いのは嫌ね、いくら覚悟ができたって、最後にそんな痛みの恐怖を味わうのは嫌よ。

「ヒナコちゃんがいなくなるのは嫌。僕は嫌、できない、嫌」

 私は頷きながら俯くクモルの額に触れた。クモルが顔を少し上げる。

「私はいなくなるんじゃない。さっきも言ったでしょ?クモルの一部になるの。クモルの中で生きるの。共存。いい?私とはこうやって話はできなくなってしまうけれど、でも私はちゃんとクモルの中にいるの。分かる?」  

 私はクモルを抱きしめた。

「大好きよ、クモル。本当に大好き。ありがとう」

 クモルの涙が体温の冷たさで氷の筋になって頰にこびりついていた。私はそこに手のひらを乗せると小さな音を立てて溶けた。私は青くなっているクモルの唇に口づけをした。その時だった。私の手にどろりと何かが落ちる感触がした。私の手にぶにぶにの物体が付着していた。クモルを見ると顔の一部の肉が剥がれている。私は思わず小さな悲鳴をあげた。顔だけではなかった。手や首やありとあらゆる部分がベロベロと溶け始めている。スライムみたいな肉片がぼとぼとと落ち、異様な匂いが部屋中に充満している。私は口を押さえながら、クモルらしきその不気味な物体に抱きついた。もっと酷い匂いがして、私は嘔吐した。それでも私は彼から離れるのが嫌で吐きながらも抱きしめた。私の体に溶けた肉が滴り落ちる。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!それでも私は離れたくなかった。もう遅かったの?食べてもらえなかったの?私はクモルを死なせてしまうの?

「いやああああああああ」

 私は泣き叫んだ。クモルが死んでしまうのは嫌。どうして。どうして、私から全てを奪うの?神様。神様はいないの?どこにいるの?じゃあ、もう私もこのまま、この肉片の中で窒息して死んでしまえばいいのよ。クモルがいないなんて、クモルがいないなんて!どう生きていけばいいの?生きてなんかいけない!


『ヒナコちゃんが大好き』


 大好きなクモルの声が耳元で聞こえる。ねえ、なんで私のところに来ちゃったの。なんですぐに食べなかったの。私の脳内でクモルとの思い出が駆け巡る。すごく幸せだったのに。こんな最後なんてないわ。


 どれくらいの時間が経過したのだろうか。私は知らないうちに眠っていたようだった。夢を見ていたのかしら?だったらなんて怖い夢なのかしら。なぜか身体中が痛かった。起き上がり、あたりを見るとたくさんの蜘蛛の死骸が転がっていた。それはクモルに初めて会った時の光景に似ている。私は天井を見上げた。蜘蛛の巣は跡形もなく、消えていた。背後で、ぎぎぎぎ、と小さな歯ぎしりのような音が聞こえ、振り返るとそこには驚くほど巨大な蜘蛛がいた。

「クモル、なのね?」

 私はそれほど驚かなかった。ただ嬉しかった。クモルは生きていた。まだ生きていたのだ。姿は人間ではなかった。これが本当の彼の姿。私は立ち上がり、ゆっくりクモルに近づいた。こんな綺麗な蜘蛛見たことない。細かく柔らかな毛がその漆黒の体を覆っていた。丸い下半身には群青の筋が数本刻まれていた。目玉も青かったがまるでそこに青空があるかのような爽快な色だった。私はそんな蜘蛛に触れた。触るととてもふわふわしていてとても気持ちよかった。何よ、やっぱり犬じゃない、と思った。

「蜘蛛の姿も男前だよ、クモル」

 クモルは前足四本を使って器用に私を抱きしめた。私も上手に抱きしめ返した。

「生きててよかった。ね、私が痛くないように食べるの、いい?約束よ?」

『本当にいいの?大丈夫?怖くないの?』

 優しいクモルの声が聞こえた。うん、大丈夫、怖くない。大丈夫、平気。

「ねえ、クモルの背中に乗ってもいい?それであと少しだけお話しできる?」

 私は蜘蛛に話しかける。頷いた気がした。私はクモルの下半身の部分に乗った。ふわふわで気持ちがよかった。なんだか高級なベッドで寝ているみたいではしゃぎそうになってしまう。私はクモルの体を触りながら、ゆっくり小さな声で話した。

「あと少し、クモルと一緒にいたかったなあ。なんでかって言うとね、クリスマスとお正月っていうのがあるの。私、それ大好きな人と迎えてみたかったんだ。日本人ってなんでも取り込めるおめでたい人種でね、キリスト教信者でもないのに、日本中でクリスマスを祝ったりするのよ。不思議よね。きっとね、クモルはとっても喜んでツリーの飾り付けとかしてくれるの。うふふ。それが終わると年末になって新年を迎える。そしてまた祝うの。お正月。お餅とかね、食べるの。あー、初詣とか行きたかったなあ。あー、一体化して私の記憶もクモルの中にあって脳内会話とかできたらいいのになあ、無理?あはは、無理だよね。それから、私の誕生日も祝ってもらいたかったなあ。ちょうどね、クモルに出会う少し前に誕生日迎えてたんだよね。クモルと一緒に誕生日会とか開いてみたらどうかな?すごく楽しそうでしょ、それから……」

 私は少しだけ、と言いながら、随分長い時間話していたと思う。まるで、以前のクモルのように。その日あった出来事を永遠とオチもなく喋っていたクモル。笑ったり、怒ったり、拗ねたり、はしゃいだり。私の可愛いクモル。私の大好きなクモル。私の話もだいぶくだらなく怠惰で間が抜けていて空っぽだった。それでもやめられなくてずっと喋り続けていた。蜘蛛の静かな呼吸する動きが私のお腹に静かにゆっくりと響く。私はこの子を死なせちゃいけない。この子は生きる。そして私もこの子の中で生きていられる。


 喋り疲れた頃、外はもう暗くなっていた。静かすぎる時間が少し不気味だった。クモルはいつ私を食べるのだろう、と思いながら、私はクモルの体にところどころ付いていた肉片を丁寧に拭った。嫌な匂いも全然気にならなくなっていた。綺麗にしてあげるとクモルが笑ってくれた気がして嬉しかった。そして、また彼の上にのぼると、おやすみ、と言って眠った。信じられないほど心地よい眠りだった気がする。


 もう目覚めることはない、と分かっているのに、この冷静さと安堵さは一体何なのだろうか。人は死に直面すると意外と落ち着いていて、普段と変わらないものなのだろうか。経験したことがないから分からないし、体験談を聞いたこともない。まあ、私の場合、取り乱す時間があまりにも少ないことと非現実過ぎることのせいで、なにそれ、冗談でしょ?って言うブラックユーモアセンス抜群の話みたいになっているから一般論からはだいぶはずれているかもしれない。だって夢みたいでしょ?今だって夢みたいに思えるもの。夢かな?そういえば、クモルに出会って幸せすぎて、何度か、私、死ぬんじゃないの?と思っていたな。やだ、予感的中じゃないの。正解、私。私はクククと低い声で笑った。

愛を語れるほど大した人間じゃないけれど、やっぱり愛ってすごいものなのかもしれない。だってほら、私、命を投げ出しちゃうのよ!ねえ、かっこいいでしょ?なんて。死んだら終わりって言うけれど、まあ、いいじゃん。ふと、家族や友人、たくさんの人の顔が次々に浮かんできた。ごめんね、と謝る。皆、悲しむかなあ。でも、食べられるってことは遺体もないってことだからただの失踪になっちゃう?私はまたいろいろ考え始めてしまった。だけど後悔はこれっぽっちもなかった。そう、これでよかったと思う。だってこんなにも人を愛せた。こんなにも。言葉ではうまく表現できないけど、とにかく、愛なのだ。まあ、事実、愛した人は人間じゃなかったけれど。でも、ううん、人間だった!クモルは人間だったのよ。最後の最後に人間になれた、と私は思っている。今度は私が蜘蛛になるのね。

 人生なんて!my life, no regret!                      

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