もう一人の使徒
ーーー数分前
少女の家がようやく見えてきた頃、いきなり黒羽がそわそわし始めた。
「どうしたんですか?黒羽」
様子がおかしい黒羽が気になった蒼は心配そうに聞いた。
「そろそろ危ないぞ、吾輩は一足先に行っている。じゃからお前たちも急ぐんじゃ」
そう言って、黒羽は一匹で行ってしまった。
黒羽を追いかけてようやく例の家に着いた蒼たちだが、窓ガラスが割れているのを発見すると、
「黒羽…」
「あのじじぃ鴉、ガラスに突っ込んだのか?」
「大丈夫なの?」
三人は急いで割れた窓へ向かって走り出した。
すると案の定、黒羽はガラスに突っ込んだらしく、床に倒れていた。
「あの鴉、バカか?無茶しやがって…」
床に倒れている黒羽を抱きかかえた伊吹は、ふと、部屋を見渡す。
「おっ…お前…なんでここに?」
駆けつけた蒼と柏木も伊吹が見ている人物を見て驚いた。
「は、拝島?」
部屋の中にいるのは驚くことに拝島であった。しかも、その後ろにはロープで縛られた女性と例の少女が見えた。全く状況が掴めない蒼は、
「どうして拝島があの子の家にいるんだよ」
拝島はしばらく黙っていたが、ゆっくり顔を持ち上げると、
「バレちゃったかぁ、でも鞍月くんだけには知られたく無かったな」
「え…」
「だって、これ以上僕の手を汚したくないんだよ。まぁ、『手』と言うよりは『魂』かな」
見下すように蒼に言った拝島はバックからロープを取り出すと、
「許してくれ…鞍月」
無感情な声でそう呟き、蒼の首にロープを一瞬にして掛けた。その手さばきは、まるでプロのカウボーイが暴れ牛にうまく縄を掛けるかのように、無駄のない動きであった。ロープは蒼の首に掛かり、徐々に締め付けていく…
息苦しさの前に首筋の痛みが襲う。
「ちょ…」
息が出来ない。このままだと殺される…そう思った直後、
「蒼くん!」
こちらに気がついた柏木が後ろから来て、拝島に鎖を放った。鎖の重なり合う音が聞こえる。
しかし、鎖は儚く拝島の左手によって掴まれてしまった。
「こんな人殺しも出来ないような小道具じゃ、僕のことは倒せないよ」
拝島は鎖を奪うと柏木に向けて投げ返した。
「柏木、伊吹!」
拝島が投げた鎖は柏木だけでなく、近くにいた伊吹も巻き込んで絡まった。その拍子に伊吹の腕から黒羽が床に落ちてしまった。黒羽は相変わらず気絶したままである。
どうやら柏木が持つ鎖は人に当たった途端、自動的にその人を捕獲する能力が備わっているようだ。そうすることで、硬い鎖が人の頭部に直撃することを阻止しているらしい。
これで人殺しは行えないということか。
蒼に向き直った拝島は両手でロープを持ち替えると、じわじわと引っ張り始めた。
「ど…どうして…だ…拝島…」
「さぁ、どうしてだろうね。浄罪師がいるからこうなったのかな?」
「お前…」
蒼はどんどん縛られているロープを握り締めると全身の力を振り絞って引き離そうとした。
しかし、拝島の馬鹿力には敵わず、首は縛られていく一方であった。
視界が揺らぐ。拝島の笑顔が歪んで見える…と、諦めかけたその時、蒼の頭の中にふとある記憶が蘇った。
刀を振り回している自分。何かを守るために必死で戦っていた。記憶は断片的で、はっきりとは思い出せないが、浄罪師の使徒だった頃の記憶に間違いない、蒼はそう確信した。
それと同時に、体中に力が漲ってきた感じがした。良く分からないが、今まで眠っていた記憶と同時に、力も蘇った気がしたのだ。記憶の方は完全ではないが力は漲ってくる。
「離せって、拝島」
低い声で呟いた蒼は、拝島の目を睨みつける。深緑色の彼の瞳はただならぬオーラを醸し出していた。急に睨みつけられた拝島は一瞬怯んだ。
拝島の手元が緩んだ隙に大きく息を吸い込んだ蒼は、自分の首元から左手を背中へ移動させて、刀の柄の部分をしっかりと握る。カチン、と刀が背中で音を立てる。
「だから離せって、言ってるんだ!」
獣のように叫んだ蒼は渾身の力で背中から刀を抜き取り、そのまま刀を振り回した。
「なんだと…」
目の前で引き裂かれたロープを信じられないと言った表情で見つめる拝島。そんな彼を蒼は睨んだ。
「どうしたんだよ…その力」
「長年の経験ってやつかな。体は違うけど、ここが覚えているんだよね」
人差し指を額に向けると、蒼は拝島を押しのけて、後ろで固まっている少女とロープに縛られている母親らしき人物に近づいた。
「邪魔しないでっ」
少女はそう叫ぶと、持っていたロープを母親の首に掛けた。母親は引きつった顔をしている。
「人殺しなんて辞めろ。君の魂はまだ綺麗なんだ…だから…」
しかし、蒼の言葉を遮るように、
「私の心はもう綺麗なんかじゃないわ、もう…」
最後の方はほとんど涙声となっていた。少女は握っている手に力を込めた。
「助けて…」
母親は蒼に向けて手を差し出した。
「この女は私を差別した。私は虐待されてきたの…こんな女死んでも私に罰は当たらないわ」
虐待…蒼は戸惑った。少女は母親から虐待されていたのか。昨日見たあの傷、あれは母親が傷つけたものだった。
この少女は心に深い傷を負った。それも母親のせい…
「なぁ、鞍月くん。殺人は悪いことかもしれない。でも、この子はこのまま一生この母親のもとで暮らさなきゃいけないのか?この母親は人間として最低だ。少女も母親の死を望んでいる」
拝島は蒼の肩を掴むと、囁くように言った。蒼は動く事が出来なかった。少女の魂を救うためにここまでやって来た。しかし今、蒼がしようとしていることは果たして少女を救えるのか?
その時、蒼の頭にある言葉が浮かんだ。
< 決して人を殺すな >
真雛が言った言葉。例えどんな理由があったとしても人が人を殺めることは間違っている。
彼はもう迷わない…
蒼は目にも止まらぬ速さで刀を母親目掛けて振り下ろした。予想外の行動に母親は叫び、少女は目を見開いた。
だがしかし、蒼の刀は母親の胴体を傷つけることなく、綺麗にロープだけを斬った。
何が起こっているか分からない母親はキョトンとしている。
「逃げて下さい。そしてもう二度と帰って来ないで下さい…死にたくないなら」
母親は蒼の言ったとおり、慌てて家を出ていこうとした。
しかし、またもや拝島が邪魔をする。
「鞍月くん…悪いがそうはさせないよ」
拝島は懐からナイフを取り出すと、蒼に襲いかかってきた。
必死で攻撃をかわす蒼。しかし拝島は一歩も譲らない。
「拝島…お前も浄罪師の使徒だったんだろ?そうだよなっ?!」
「それは過去の話だ。今は魂の汚れたヘレティックさ」
振り回されたナイフの刃が蒼の頬をかすめる。流れ出す一筋の血液…
「どうしてヘレティックなんかに…」
すると、蒼の喉元直前で刃が止まった。
「人を殺したからだよ…」
「拝島…」
拝島の目には涙が大量に溢れていた。何だろう…この気持ちは。拝島の心が見えたような…不思議な感覚に襲われた。計り知れないほどの悲しみ…蒼の知らない拝島。
「だから僕は浄罪師の使徒なんかじゃない、君たちの敵なんだ」
拝島はそう言うと、蒼の背中に移動した。喉元に当てられ続ける刃…
「いずれ灯蛾様が真雛を倒しに行くだろう」
灯蛾様…恐らくヘレティックのボスであろう。そいつが真雛を狙っているということか。
その直後、後ろで黒羽の声がした。
「拝島、いい加減に気づいたらどうなんじゃ?」
「ちっ」
拝島は黒羽を見るなり、逃げるように家を飛び出した。黒羽もその後を追う。
開放された蒼は膝から落ち、そのまま気を失った。
拝島は本当にヘレティックなのでしょうか、、、?