A painful desire.
「わたしは消えたい」
ぽつりと呟いた声は、届いただろうか、天にまします神に。
祭壇の前に跪き、重々しい言葉をゆっくりと吐き出した。
朝日の白っぽい光が東の窓から差し込み、ステンドグラスの玻璃によってほんのりと色づけられてゆく。赤、青、橙、――それはまるで、真っ白のカンバスにぽたりと絵具を垂らしていくかのような、緻密な世界だった。
その色に染められて、今己は神の前に居る。
茶の床板をじっと見つめ、それからふっと瞳を閉じる。張り詰めていた空気が少しだけ揺らいだ気がした。それは、自分だけがこの神を独占しているという恍惚とした気持ちをいとも簡単に打ち砕く。この場所は、あなたと己だけの世界ではなくなったのだ。
我慢できずに、瞳をゆっくりと開ける。睫毛が光の粒を弾いていた。
「――朝の訪れが、わたしの姿を消し去るならば」
呟く声は、掠れていた。
しかし自分でも驚くほどはっきりとした口調だった。こんな声を出す余力がまだ残っていたのか。出し惜しみをしたのだろうかと、嘲笑するかのように口の端を吊り上げる。
ああ、滑稽だ。滑稽すぎて、これ以上の笑いが出てこない。
「望むがまま、鐘の音に包まれて」
わたしは消えたい、と。
そのように呟いた。まるで告解だった。
――否、告解のつもりだった。もうここに居る意味はないのだと、そう思った。できればこのまま、包まれて終わってしまいたかった。不思議なもので、誰もそれを赦そうとはしなかったのだが。こんなに血の害で汚れた人間を、どうして神は生かすのか。どうせならこの背に宿る羽根をもいで地に堕としてやればいいものを。どうしてこんなに、期待、させるのか。
見上げた先には微笑みを浮かべるあなたがいる。真っ白なあなたはどこまでも、澄んだ瞳でわたしを見つめる。射抜くように、じっと。
どこまで『あなた』はわたしを試すのか。
自分を抱きしめるように、ゆっくりと身体に手を添える。悔しいことに、ほら、まだあたたかい。
「まだ、足りない――か」
耳に鐘の音がぼんやりと聞こえてきた。
鳩が飛び立つ、やわらかな羽音が何もない空気に色をつける。
こうして今日も始まるのだ。そしてわたしは、また現実へと戻ってゆく。
「……あなたも祈りに来たのですか」
現実に戻ったわたしが振り向くと、同じ恰好をした少年がじっと睨みをきかせていた。金の髪が朝日に照らされ、クリームのように薄い光彩を放つ。少し湿っているのは、今も少しだけ降っている雪の中傘もささずに歩いてきたからなのだろう。
不機嫌そうに彼は、ただ無言で正面を睨みつけていた。
「傘、持っていないのですか?」
まとわりついた水滴を払おうと、近づいて手を伸ばすと乱暴に払いのけられてしまった。ぱしん、と派手な乾いた音がする。
「――聖堂でそんなこと願うな」
声にまとわりつく微かな怒気。彼はやはり少々怒っているらしい。やはり早朝に勝手に入り込むのはまずかっただろうか、とほんの少しだけ思う。反省も後悔もしていないが。
困ったように作り笑顔を浮かべると、彼は鋭いナイフのような瞳でこちらを見つめてきた。
「おまえはずるい」
そして、小さく言う。
玻璃の光彩は日が昇るにつれてゆっくりと伸びていく。そうして彼の姿を、虹色に染め上げてゆくのだ。しんと静まり返った聖堂の中、鐘の音だけが響いている。虹色の夢はこの鐘の音が見せるものなのだろうか。
吐き出す息は寒いからか、やはり白かった。視界を濁らせるように漂うそれは、光に照らされてきらりと光る。
結論、彼は何者にも愛される人物なのだ。自然をも味方につける。今の自分とは正反対だ。
そう思うと、急に悲しくなる。
「ずるい、ですか」
尋ねると、彼はしばらく無言になる。
――そして、突然わたしの手を取ったのだ。ゆるりとしたぬくもりが直に伝わる。やはり自覚はしていなかったが、相当身体が冷えていたらしい。そのぬくもりが妙に優しかった。
彼のきれいな手は傷だらけのみっともないわたしの掌を包み込んで、離さない。
「あのひとは、平等だ。どこまでも」
そして呟く。
わたしはゆっくりとかぶりを振った。
「そうですね。人間はいつ、誰によって殺されるか分からないという点では平等です」
「っ――」
キッと睨みつけた瞳が揺らいだ。が、すぐに覇気が失せてしまう。まるで魂が抜け落ちたみたいに。
納得はしていないのだろうが、彼は受け入れたのだろう。
「――また、おまえは」
そして瞳を閉じる。じっと、何かをやり過ごすように耐えるように。掴んだその手だけは離さなかった。
傷だらけの掌はきっと彼を汚すだけのもので、触れてはならないもののひとつなのだと思う。それでも、なぜか離れられない。
あなたは試しているのでしょうか。
わたしがここを静かに去り、寒さに凍る心をここに抱きながら生きてゆく。薄氷のような脆い心を、凍る吐息で温めながら――
あなたを思い出すか、否かを。
「ずるい人ですね」
彼は抵抗するように瞳をぎゅっとつぶる。握る手に力が加わる。
ああ、そうだとしたら神は、今度こそわたしを堕としてくれるだろう。
教会の鐘に耳を傾け、彼の感触を焼きつける。
朝の訪れが、わたしの姿を消し去るならば、このぬくもりを抱いて、
わたしは消えたい。