五月五日のシャンパーニュ・ロゼ
日本で言うところの五月五日は、言わずと知れた国民の休日である。
子どもの日、という名前がついたその日は大抵ゴールデン・ウィーク最終日、長い休暇を終え「明日からまたいつも通りの日常が始まる」とげっそりげんなりする日でもある。
しかし、帯刀家に関して言えば例外で、この日は別の意味を持っている。
――当事者・帯刀雪は他の国民同様げっそりとしているが。
「雪。今度は和仁からですよ」
アメリカ、ニューヨーク。とあるオフィスビルの一室には、こんな真夜中だというのにまだ人がいた。明かりを落としダウン・ライトのみにしてはいるが、決して今から帰るところ、という訳でもなさそうだ。
またか、と呟いている雪に対し、受話器を携えつつ、慶馬は自分の主の指示を仰いでいた。切れと言われればその通りにする気でもいた。なにせ、自分の主が第一だからだ。それは今も昔も変わらない。
雪は大分悩んだようだが、ようやくどうするか決めたらしい。薄氷色の瞳を慶馬に向け、夜の静けさを壊さぬようゆっくりと言った。
「……ハンズ・フリーにして」
「はい。では」
指示通り電話の受信方法を切り替えると、親機のスピーカーから実に呑気な声が聞こえてくる。
『若! お誕生日おめでとうございます!』
彼の声の向こうからは、どんちゃんと騒いでいる音が聞こえてくる。やはり本家では予想通りの出来事が起こっているようだ。
「ん。そっちは――例年通り、当事者不在の飲み会だな。ご近所さんに迷惑をかけないようにな。あと、お祝いの電話は嬉しいけど、こっちも仕事中だから一人ずつじゃなく、まとめて一本にしてくれないか。それで充分だから」
『でも、みんな祝いたいって言っていますよ?』
そうだそうだー、と飲んだくれの雄たけびがスピーカーから響き渡る。どうしてこう……、毎年予想通りのことをやってくれるのだろうか。
思わず嘆息が漏れる雪に、あまりにおかしかったので噴き出している慶馬。これは一体どうしたものかと、雪は必死になって考えているようだった。相手が呑んだくれといえど、彼らの気持ちを無下にしないのが雪のいいところである。
「わかった。じゃあ、こっちに聞こえるようにみんな一斉に言えばいい」
『おお! さすが若。じゃあいきますよー、せーの』
おめでとー、という半ば呂律の回っていない合唱が聞こえてきた。向こうではまだ真っ昼間だというのに、完全に出来上がっているらしい。まあ、それはそれでいいのだけれど。
「ありがとう。じゃあ、肝臓壊さないように」
雪はそこで電話を切った。――これで、帯刀サイドからの電話は来ないだろう。ちらりと時計を見遣ると、五月五日・午前〇時を過ぎたところだった。自分の家族が時差まで考えているとは思えないが、これはなかなかに素晴らしい偶然だ。
「というか、あいつら午後一時の段階で出来上がってるって……どういう神経しているんだろうな」
「まあ、毎年恒例ですからね」
今更驚くことではない、と慶馬が付け足した。「しかし、ちゃんと祝ってくれるのはすごいことですよ。俺なんかもう、帯刀の方にしか祝ってもらっていませんからね」
雪はそれを聞き、ゆっくりと首を横に振った。別に全力で祝いたい訳じゃないよ、と呟きながら。
「あいつらは飲む口実がほしいだけなの。……うん? 慶馬、お前の家も誕生日会やるじゃん。祝ってもらってないの?」
「そっくりそのままお返ししますよ。あいつらは飲む口実がほしいだけなんです」
なるほどね、と雪は頷く。帯刀・美袋家が共通して祝い事が好きなのは、それに乗じて酒が飲めるからだ。まるで花見と称して飲んだくれる世間の大人たちと同じようなものだ。考えることはいつの時代も変わらない。まあ、そこでばかみたいに騒げるからこそ普段はこつこつと働けるのだろうが。
「さて……、だいたいひとしきり電話合戦も済みましたかね」
ちなみにこの一連の流れは四日午後十一時五十五分、壬生のうざったい電話から始まっている――第一声が「フライングおめでとう」だったため、雪は即効終話ボタンを押した――。その後に秋子・春風による全うなコール、冬樹を筆頭とした美袋家連続コール、それが終わったと思ったら帯刀家の面々による電話、そして今に至る。ここまで終われば、大体は終わったも同然だ。各界の要人・そして友人の三善あたりは、電話は迷惑になるだろうからとメールにしたらしい。内容は先ほど確認した。こういう気づかいができる者がどうしてうちにはいないのだろうかと、雪は密かに思う。一気にメール送信されてもサーバーがパンクするのでそれはそれで困るけれど。
雪から受け取った受話器を静かに元の位置に置き、肩をすくめながら慶馬は笑う。
「雪も無事に二十五歳になりましたし、ちょっとだけ祝杯でもあげましょうか?」
「おめさん、飲まないじゃん」
「あなたもね。だから例年通りシャンメリーです」
部屋の隅に備え付けてある冷蔵庫から、冷やしておいたワイン・グラスと子供向けの絵柄が描かれたシャンメリーを取り出した。
「なんでお前はそういう準備はいいんだろうな……日本からお取り寄せ?」
「ええ。普通のものが売り切れていたそうなので、すみませんが戦隊モノの柄で我慢してください。冬樹チョイスなので、文句があるなら彼にどうぞ」
「……本当に大人の祝杯なんだろうか」
「さあ」
アルミのやたらテカテカした袋を開けると、白いプラスチックの蓋を開ける。ぽん、と小気味よい音がして、同時に炭酸の洩れる音が聞こえてくる。グラスの片方を雪の前に置き、もう一つは自分の傍らに置く。
パッケージを見なかったことにすれば、これはこれでいい誕生日だと思う。
そんなことを考えながら、雪は自分の目の前に在るグラスの縁をぼんやりと見つめた。遠くのダウン・ライトの光を弾いて、白い環が浮かび上がっている。そうしていると、ふと頭上から声が降ってきた。
「……こうして、また、あなたの誕生日を祝えるなんて思っていなかった」
優しい口調で、慶馬が囁く。「あの時、本当にだめかと思ったんです」
例の“憤怒”戦のことを言っているのだろうと、すぐに雪は理解した。だから敢えて無言のまま、彼からの祝杯を受け取る。
こぽこぽ、と液体が注がれるたびに泡が弾け、水面で消えていった。
「命なんて泡沫のようなものです。いつどこで消えてしまうかなんて、その時にならないと分からない。あの時、覚悟は決めていましたからね。それでも、最後に見たものがあなたの背中でよかったと思った。それ以外のものなんか、価値がないと思っていたから」
「……そうか」
「目が覚めて、初めにあなたの顔が目に入って、不思議な気持ちになったものです。理解しきれなくて、あなたまで一緒に連れてきてしまったのかと思った」
天国にね、と自嘲するように慶馬は嗤う。そして、己のグラスにも同じようにシャンメリーを満たし始める。
縷々とした流れが不思議と、きれいだなと思った。
「――今だから言えます。『一緒に行こう』と言ってくれて、本当にありがとう。あなたの手を取ってよかった。本当に、」
空になったボトルを白いテーブルの上に置き、グラスの細い脚を優しく摘む。シャルドネのような爽やかな香りが辺りに立ち込め、どうしてだろう、安らぎのような感覚すら覚える。
あの日以来、彼が自分の思うことをこんなにも素直に言い出すことはなかった。昔のように衝突してくれてもよかったのに、と内心思っていたが、そうかそんなことを考えていたのかと今更ながらに気付かされる。義理難いというか、なんと言うか。
「……逆だ。ついてきてくれてありがとう。慶馬」
彼にならい、雪もグラスをその左手に持つ。夜空を眩しく照らす街の明かりがグラスの中に宿り、きらきらした星屑が浮かんで見えた。
シトリンのような淡い橙越しに、互いの瞳が交わって。
「あなたに、最大の幸運を」
この夜に。この声に。
「お前に、最大の幸運を」
絶大な信頼を重ねて。
「乾杯」
そして祈りを捧げながら。