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六月六日のミルク・キャンディ

 エクレシア本部の所在地である本州第一区も、とうとう梅雨入りした。日本の梅雨は暑いし湿っぽいし、正直な話全く好きではない。むしろ好きな人がいるのだとしたら是非お目にかかりたいものだ。そんなことを考えているホセ・カークランド司教は、現在しつこく追い回してくる部下から全力で逃げている最中である。要するに現実逃避の思考だった。

 何のことはない、ただ「サインをするだけの生活」に嫌気がさしただけだ。勿論その他の仕事だってこなしているし、加えて時々視察で世界中のあちこちを巡業したりもしている。だが、いずれにせよこのサイン地獄は待ってくれない。無駄に長い自分の名前にも心底飽き飽きしたところだ。せめて別の名前を書かせてくれまいか。

 そもそもどうして名の綴りを本来の読みの「Jose」にせず当て字の「Hosea」にしたのか、これではホセア若しくはホジーアになるではないか……というところから悩みは始まるのだが、もう諦めた。いくらあがいても、こればっかりはどうしようもない。わざわざ改名するのもアホらしい。

 嘆息混じりに白い聖職衣を翻しながら逃走劇を繰り広げている彼が本部の中庭までやってきたところで、ふと彼は何かに気が付いた。今まで決して緩めなかった速度をようやく落とし、そしてぴたりと止まった。

 彼の目の前に、今ここにいるはずのない人物がいたからだ。

 その人物はやや小柄で、灰色の短い癖毛を持つ男性だった。黒のスリーピースの胸元にはエクレシア指定のピンが刺してあるので、どうやらここの関係者らしい。そんな彼は湿っぽい足音に気が付き、今まで咲き乱れていた花へと向けていた赤い目線をその音へと向ける。

「よう。脱走犯」

 そしてにこりと笑い、片手を挙げて挨拶してきた。

「ひ……ヒメ君?」

 目を剥いたのはホセの方である。目の前の彼――姫良三善は現在、ご存じの通り箱館支部長だ。したがって、今ここにいるはずはない、彼が本部に戻ってくるのは通常年に一度、本部の総会が行われる時のみだ。

「あなたこそ、脱走してきたんですか? わざわざ北海道から」

「ううん、俺は出張。昨日まで第二区にいたんだ」

 そうですか、とホセは破顔し、久々に会う己の子を改めて見つめる。しばらく見ない間に大人びた表情をするようになったものだ。黙っても子は成長するとは、まさにこの事だろう。そう考えていると、彼の左胸ポケットが妙なふくらみを持っていることに気が付き、やれやれと呆れたように嘆息を洩らす。

「煙草」

 その指摘にどきりとしたらしく、目を泳がせながら三善は言い訳の言葉を必死になって探す。しかし、これについては何を言っても言い訳にすらならない。分かっているからこそ、彼は嘘をつかなかった。

「ごめん。まだ禁煙できそうにない」

「もう諦めました。でも、私の前で吸わないでくださいね」

「知ってる」

 そして三善は微笑む。ホセが紫煙をひどく嫌っていることは周知の事実だ。“聖戦”の頃共に行動していた部下にすら禁煙を強要していたそうなので、その度合いはほぼ筋金入りと言っていいだろう。

 ところで、とホセが尋ねた。ややそわそわしているのは、追手がいつここまでやってくるかどうかを本気で心配してのことだろう。本当に、この大人はやることは結構子供っぽいのだ。

「一体何の用ですか?」

 その質問に、三善は露骨に顔をしかめてきた。おや、とホセは思う。彼の機嫌を損ねるような要素は何一つなかったと思うのだが。どの部分が失言だったろう、と脳内で自分の発現を繰り返していると、その不機嫌そうな面構えのまま三善は呟いた。

「……もしかして、あんた今日の日付見てないんじゃないの」

 否、呟くというよりは完全に非難だ。そういえば確かに、今日は日付を見る余裕はあまりなかったが。ホセは懐から携帯電話を取り出し、ぱちんと音を立てて画面を展開した。

「六月六日ですね」

「つーか自分の誕生日でしょっ? 何だよ、わざわざ箱館に戻るのを一日延期したっつぅのに」

 ぶつぶつ文句を言う三善がなんだかとても可愛らしい生き物に思えてきて、ホセの口から不覚にもふふっと僅かな笑いが洩れた。それがまた三善の機嫌を損ねたらしかった。

「ああ、ごめんなさい。赦してください。何でもしますから!」

「……本当に?」

「ええ」

 というか、誕生日なのは自分なのになぜ自ら不利な状況を生み出しているのか。それはよく分からなかったが、十中八九これで三善の機嫌が直ることをホセは知っていた。そしてこうも思う。やっぱり躾を間違えただろうか、“あのひと”は猛獣使いか何かだったのだろうかと。

 その証拠に、

「ホセ。今からちょっとおれに拉致されろ」

 この乱暴な言い回し、どうにかならないか。


***


「――まさか、ここに来ることになるとは」

 今ふたりは、第一区と三区のちょうど境目あたりにある静かな料亭の一室にいる。所謂老舗に該当するその店は外観からして格式が高く、こういう特別な時でなければ出入りできないような場所である。ホセを強制連行した三善、彼はきっと目をぎょっと見開いてくるだろうと思っていたようで、そのリアクションには少し残念そうな素振りを見せていた。

「知っていたの?」

 三善が尋ねると、ホセはええ、と頷いて見せた。

「あなた、ケファとここに来たのでは?」

「うん、そう。司祭に昇格したときに」

「やっぱり」

 何か思うところがあったようで、彼はにこやかに笑いながら満足げに頷いていた。それを向かい合う形で座っている三善がじっとりと睨めつけていた。

「何で分かったの」

 それだけがどうも納得いかない。だから含みなど一切持たない単刀直入な質問をぶつけてみた。それが分かるからこそ、ホセもその独特のにこにこ顔のまま彼の質問に答えた。

「いや、だってねえ。初めにあの人をここに連れてきたのは私ですから」

 驚きましたよ、とホセは目を剥いている三善に向かって穏やかな口調で続けた。

「まさかあの人がヒメ君をここに連れてくるなんて、ね。よほど気に入っていたのでしょうか」

 確かにここの鰻には妙な執着を持っていたようですが。

 そう言ったホセは、ゆっくりと目を細めていった。いつもの優しい表情であるのに、何故か三善にはそれが悲しみを湛えているような表情に思えてならなかった。そういえば、彼とあの人の話をするのは本当に久しぶりなのである。あの日以降互いに禁句のようになってしまっており、名前すら交わしたことがない。

 ああ、と三善は思う。

 この人は、本当にあの人のことを大事にしていたのだろう。

「――彼が来日したのは、今のあなたと同じ二十一歳の時。栄典が決まってからのことです。正式な配属は翌年からだったのですが、当時あの子は日本語がまるっきり分からない状態でやってきたので。語学研修も兼ねて一年早くやってきたんです」

 ホセのアイボリーが、三善の左耳に瞬くイヤー・カフを捉えた。銀の光がぼんやりと、温かな光を纏っている。元の持ち主が身に着けていた時とは、また別の輝きだ。

「その当時と、割と似たような状況ってことか」

「そういうことです。決定的に違うのは、私とあなたが対等であるということくらいでしょうね」

 昔はそんなこと、これっぽっちも考えたことはなかった。この男はずっと自分よりもはるか遠く、ずうっと上の方にいるものだと思っていたし、自分自身もまさか彼が纏うのと同じ白い服を着ることになろうとは微塵も思ったことがなかった。彼らが思うより、未来は予測不能なのだ。

 茶化すようにホセは笑い、その手をひらひらと振る。

「まさか、事実上の息子が短期間でこんなに立派になるなんて思っていませんでしたねぇ。口は悪いし素行も態度も悪い、悪いずくしの不良ですが。それでも私の自慢ですよ、あなたは。今年もこうやって、わざわざ祝いに来てくれましたし。毎年毎年、飛行機かっとばしてまで……」

「そりゃあ、おれはあの人の置き土産だし?」

 基本的にはいい子ですよ、と肩をすくめるようにして三善はオーバーにリアクションをとる。それは昔の話だろう、というホセの突っ込みは完全に無視していた。本当のいい子はこういうところで無視などしないが、それを敢えて確信犯でやってのけるのが姫良三善だ。

「それに」

 呆れているホセの目の前で、ふと三善の表情が変化した。胡散臭い笑みがいつのまにか消え失せ、今は元来持ち合わせている凛とした表情がむき出しになっている。その赤い瞳が、彼の真横でくたりと形を崩している鞄へと向けられた。

「――おれが祝わなくなったら、あんたひとりだろう」

 そして三善は、その中から一つだけ『何か』を取り出した。

「さあ、四十一個目の飴だ。受け取れよ、親父」

 その細い指先につままれた、ミルク味のキャンディ。その一粒に、ホセははっと息を飲んだ。


 七年前のことだ。

 三善少年が珍しく誕生日の話を振ってくるので、ホセは正直に「誕生日にいい思い出がない、祝ってもらったこともない」と告げた。子供に話すには残酷だっただろうかと思っていた。しかしそれは事実である。しかしその夜に、ミルク・キャンディの袋を持った彼がホセの前に現れたのだ。

 手を出せ、としつこくせがまれたので、首を傾げながらも彼の前に手を差しだしてやると。

 彼は一粒一粒ホセの両手の中に「これは一歳のホセに」「これは二歳のホセに」と言いながら飴玉を落として行った。飴玉の数は次第に増え、片手では足りなくなった。慌てて両手を出すと、さらに飴玉は増え続ける。全ての飴が落とされた頃には、彼の両手には三十二個の飴による山ができていた。そして彼は、ふにゃりとした柔らかい笑みを浮かべながらはっきりと言ったのだった。

「僕の元に生まれてきてくれて、ありがとう」と。

 本人からしたら、今までの分をまとめて祝ったつもりなのだろう。あの出来事が彼にとってすごく、ものすごく嬉しかった。

 それを三善はずっと続けるつもりらしく、あの時と同じ味の飴を誕生日のたびにひとつずつ渡してくる。そして今年は四十一個目の飴だった。


「――こういうところは、律儀ですよね」

 有り難く頂きます、と褐色がかった指が三善に触れた。白い飴がそっと、彼の手の中へと渡ってゆく。

 ありがとう、と言う前に、三善が先手を切る。

 昔のようにふにゃりとした笑みを浮かべ、そして短い祝詞を告げた。


「おれがいる限りは祝ってやるよ。おめでとう、ホセ」

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