Clavem ad caelum (2)
今回洗礼の儀を執り行う本部の大聖堂は、普段は閉鎖されている。
大司教が生きていた頃は朝・夕の礼拝時に開放されていたようだが、彼の亡き今、その重い扉はこのような特別な場合でなければ開かれることはない。
ところで、この建物はイタリアのエミリア地方にある、サン・ジェミニアーノ大聖堂を模して造られたという。確かにその三廊式の建築といい、石彫パネルといい、似せて作られた部分はかなり多い。
あそこは確か、大学時代にノアに引きずられて行ったことがあったはずだ。
ケファがそんなことを三善に話してやると、ぽけっとした表情で「ケファは物知りなんだね」と言ってきた。否、彼の場合は物知りというより、昔から各地をたらい回しにされた結果だ。あの大人たちは一体俺をどうしたかったのだろうか。今考えても、ケファには納得できないことのひとつであった。
まあ、それはもう終わった話だ。三善の緊張をほぐすためにそのような話をしただけなのであり、蛇足中の蛇足と言ってもよい。
ケファはホセに無理やり上げられた前髪を若干気にしつつ、末席でこの儀式が早く終わる事だけを願っていた。
儀式の内容は至って簡素で、洗礼を受ける者が聖典の一部を暗唱したのち、浸礼を行う。浸礼とは、簡単に言えば全身を水中に浸し罪を清める儀式のことである。これを重んじる宗派がイギリスにあるのだが、厳密に言うとそれとエクレシアは微妙に違うので、ここではそこまで重んじてはいない。通常の洗礼ならば頭部に水を注ぐ灌水、頭部に水滴をつける滴礼が普通で、今回のように全身を浸けるのは異例である。
――まあ、三善だし、あり得ない話ではないだろう。あくびを噛み殺しながら、彼は小さな三善の背中を見つめた。
「――初めに、神は天地を創造された」
三善の祝詞が始まる。内陣の前でゆっくりと跪きながら、そして口からは流れるようにそれが紡ぎ出される。凛とした空気が彼の少し高い声と共鳴し、厳かな雰囲気をより一層高めていた。
ああ、と思う。
彼はやはり、神に愛された子供なのだ、と。彼にまとわりつく聖気がそれを物語る。彼が特別だと言われる所以を、ただの片鱗でしかないがその表情の中に垣間見た気がした。
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」
おや、とケファは思った。なにかおかしい。三善が、ではない。何やら周りの空気が騒がしい。震えるようにびりびりと肌を刺激する。
うごめいているのだ、何かが。
横目で周りを確認すると、他の司教は平然と座ったままである。ただしホセだけは別で、ちらりと見たら彼と目が合った。そして何かを瞳だけで訴えかけていた。ケファも「何だこれは」という意味をこめてじっと睨みつける。しかし、ホセは少々困ったような顔をして曖昧に微笑んだだけだった。
こうしている間も三善の祝詞は着々と進んでいる。
空気の震えがより強くなる。頬を刺すような痛みが走った。ケファが思わず不快そうに階をしかめると、ふと、ホセの口が動いた。
に、げ、て、く、だ、さ、い。
何が、と聞く前に、それは起こった。
激しい震動が大聖堂を襲う。地震かとも思ったが、どうやらそうではないようだ。外側から、何かが『叩いている』のである。この場合の“何か”とは、もう既に決まっている。
“七つの大罪”だ。
ようやく他の司教も異変に気がつき、騒ぎ始めた。
「何だ、これは!」
「何が起こっている!」
ああ、雑音がうるさい。彼らの声もケファにはただの雑音にしか聞こえていなかった。呆れた素振りでため息をつく。
そんな中、ホセが何か言った。普通ならばその騒音にかき消されるはずなのだが、その声だけはなぜかケファの耳にはっきりと飛びこんでくる。
「ケファ! 展開なさい!」
ケファは恐ろしくゆっくりと席を離れ、親指を噛み切った。小さな傷口から赤い血液が小さな粒となって溢れてくる。それを舐めとると、ぽつりと祝詞を唱えた。
「『釈義展開・装填開始』」
対価を吸収しつつ、待ち切れずに走り出す。壁がぎしぎしと軋み始めた。壊れるのは時間の問題だろう。
その前に三善だ。
「『深層(significance)・発動』!」
ケファがその身に纏う白の聖職衣を派手に突き破り、塩の大翼が背に現れた。ふわりと身体が宙に浮くと、そのまま空を駆け、三善を背中から抱え急上昇する。
二人が飛び上がるのと、壁が壊れ、巨大な破片が内陣の前――三善が座っていたあたりに落下したのはほぼ同時だった。塵がぶわりと舞い上がり、視界が一気に悪くなる。
三善は初めケファの腕の中で抵抗するようにじたばたと暴れていたが、その光景を目の当たりにしてからは急におとなしくなった。
「お前、悪運強すぎだろ」
「そんなこと言われても!」
三善が腕の中でぴーぴー言っているが、とりあえず放っておくことにする。
ケファはそのまま空中にとどまり、上空から“七つの大罪”の姿を確認した。――砂塵の向こうから現れたのは、昆虫に近い形をした生物。“強欲”第三階層だ。しかし、いくら“大罪”とはいえ、わざわざ本部を襲うということは滅多にない。それ故にこの状況は妙だ。まるで、『何者かがわざと“大罪”を送り込んだ』ようにしか見えない。
地上を見下ろすと、司教らの大半は既に外に逃げてしまっていた。残った者はいるにはいるが、彼らの過半数は一般職だ。“大罪”を相手にしろという方がおかしい。その瞬間、ケファはすぐに協力を仰ぐ選択肢そのものを捨てた。
それにしても。
「……ホセの野郎がいない。どこにいった、あのクソ狸」
ケファは小さく舌打ちしつつ、塞がりかけた自分の右手の親指を再び傷つけ、じわりと滲んだ血を舐めとる。
数時間前にホセが言っていたことを思い出す。
――あなたには、あなたにしかできない役目がありますから。
つまりはこのために呼ばれたということだ。
ケファはいつものように首に下げた銀十字に触れようと胸元を探った。しかし、そこには何もない。そこでようやく、銀十字は三善に渡してしまっていたということを思い出した。何か代わりになるものがないか考えたところで、ちょうどそれに近しいシルエットのものがあることに気づく。
すぐに左耳のカフスを外し、釈義を全身に巡らせる。小さな十字が、彼の手の中で白く発光した。
「『深層(significance)・発動』!」
それは巨大な聖十字の剣となり、鋭い音を立てて空を切る。重みに耐えきれず一度バランスを崩しぐらりと身体が傾いたが、左腕に抱えた三善だけは落とさぬようしっかりと支える。こんなとき、彼が異様に軽くて助かったと思う。
本来ならば彼をどこかに下ろした方がいいのだろうが、今の地上はあまり安全ではない。三善はまだ、完全に自身の『釈義』を制御できないのだ。そのまま残していくのは不安だった。
剣を振り被り、二人は一気に急降下する。耳がキンと軋み、強烈なGがかかる。塩の翼の細かな破片がきらきらと飛び散った。
そしてその勢いは殺がれることなく、剣は“強欲”第三階層に突きたてられた。
***
「やはりあなただったんですか、ブラザー・トマス」
その頃、ホセは一足早く大聖堂を抜け出し中庭までやってきていた。
白い聖職衣の裾がふわりと翻り、同時に咲き乱れる花弁がまるで雨のように降り注ぐ。
甘い甘い蜜の匂いに包まれて、その男はいた。
聖職衣に似た黒い上着をまとう、白金の髪色の男だ。背は高く、その口にはシガレットが咥えられている。だが、それに火はついていなかった。
ホセの声に反応してか、空を仰いでいた彼は振り返る。ホセの険しい表情を見ると、彼は目を細めて笑い、手をひらひらさせる。
「久しぶり、ホセ」
「一体なんのつもりですか。あなた――“七つの大罪”についたはずではなかったのですか? ならばこちらの聖域、乱してはならないはずです」
フィルターから口を離し、彼――トマスはにっこりと微笑んだ。花の雨をかき分けるようにゆっくりと歩を進めると、その大きな掌でホセの頬に触れる。驚いた彼は一度目を見開き、反射でその手を払いのけてしまった。ぱしん、と、乾いた音が庭園に響き渡る。
「痛いなあ。叩かなくてもいいじゃねえか」
「あなたの目的はなんですか。返答次第では、私はあなたを始末しなければなりません」
トマスはぱちくりと、その瞳を見開いてやや大げさに驚きを表現していた。ホセが右手に作った握りこぶしが震えているのに気がついたからだ。
「……もう、その右手は使えないのに?」
「はぐらかすな、トマス。これでも私は、『十二使徒』のひとりです。甘く見ないで頂きたい」
「おーおー、恐い顔。……いいよ。教えてやる。今日はあの子供が洗礼を受けるんだろう?阻止しに来た」
ざ、と強い風が吹いた。「あの子供が『大聖教』にいるのはよくない。あの子のためにならないし、なにより誰も幸せにならない。だから“強欲”を一緒に連れてきたんだが、あれは予想外に暴れているな。ちょっとやりすぎだ」
刹那、何か冷たいものがトマスの喉笛に突き付けられた。その正体であるナイフの切っ先が、すぐに喉を掻き切ることのできる距離にある。
ホセのアイボリーの瞳が揺れ動くことなく、一層鋭さを孕んで光る。
「あの子は我々にとっての希望だ」
「知ってるよ。無駄に神格化していることも。俺を斬るつもりかい?」
「聖ペテロの手を煩わせることなどない。私自ら、あなたの生を断ち切ってやる。光栄に思うがいい」
「本望だ」
にこりと笑った顔のまま、彼は言った。「親友に二回も斬られるなんてね。これ以上ない幸福だ」
鈍い、音。
手に重い重い感触が残る。身体は、せっかくの白い服が赤黒い液体に侵食されてほんのりと湯気が立ち上っていた。潮を噴いたような勢いが消えぬうちに、何度も、何度もいたぶるように刺す。とうとう手が滑り、ナイフが抜けなくなった。ず、ず、ず、と間を置いて引き抜こうとした。脂がそれを阻止する。
ようやく抜けた時には既に血液の勢いは弱まり、そこに残ったのは濡れてべたついた手のひらと、赤い色の何か、それだけだった。
胸元で十字を切ると、開いたままの瞼を閉じてやる。花の香りとともに、むせかえるような生臭さがあたりを支配していた。
悪いね、戦友。
ホセが呟いた。
「どうしても、『あの子』をここで失う訳にはいかないのです」
その時、空からぱらぱらと灰が降り注いでいることに気が付いた。見上げると、青空の中に人影が見えた。塩の翼を背負ったケファと、三善――いや、あれは『教皇』だ。いつの間に入れ替わったのだろう。
困ったなあ、とホセは笑い、肩をすくめて見せた。
いくらここが治外法権といえど、自分がまずいことをしたというのは理解している。裁きを受ける心の準備は出来ている。いっそこのまま、自決しても構わない。
ただ、己は『あの子』を守ることができれば、それでいいのだ。
地に降り立ったケファと三善が、一体何があったのかと尋ねた。ホセは笑って、首を横に振るだけである。
三善――否、『教皇』が口を開いた。
「権謀術数主義者になり切れぬか。大ヤコブ」
「一体、どうしてです?」
「……真の権謀術数主義者は、泣かないぞ」
「泣いてなんか、」
ケファの右手がホセの目尻をこする。赤いものとは違う、透明な何かが指先を流れていくのが見えた。
教皇はにこりと優しく微笑み、ホセのアイボリーの瞳を見つめた。紅い瞳は曇りひとつなく、きれいなままである。
「大丈夫、この子は見ていない。――それに、証拠があるまい」
ホセがはっとし、足元を見た。
花弁の嵐がぶわりと視界を隠してゆく。風が思いのほか強いのだ。一度だけ瞳を閉じ、再び開けるとそこには。
何も、なかった。
***
ざばりと勢いよく水中から顔を上げた三善が、一度大きくむせかえり、飲み込んでしまった聖水の一部を吐き出した。肩で息をしながら、濡れてぺたんこになった髪の水分を取るために頭をぶるぶると横に振る。
結局洗礼は初めからやり直しとなった。大聖堂は思いのほか損傷が激しかったため、今は北極星内にある仮聖堂で儀式を執り行っている。
その様子をケファとホセはじっと見つめていた。ホセは一度着替え直し、身を清めてから参列している。
ぽつりとケファが呟いた。
「それにしても。お前、よく壊れなかったな」
「もう駄目かと思いました。……あの人の前で、あんな醜態を曝した訳ですから」
あの時、あの場で『彼』により罰せられるのだとばかり思っていた。しかしあの子の中にいる『彼』は、それを潔しとしなかった。その理由は分かっている。
今「大ヤコブ」が欠けたら、『十二使徒』は機能しなくなるからだ。『教皇』はそれを危惧しているのだろう。
どこまでもずるい人だ、あの人は。
ホセは唇を噛みしめ、ゆっくりと吐き捨てるようにして呟いた。
「……まさかあいつを二度も殺す羽目になるとは」
ケファが怪訝そうな顔をする。何を言っているのか、彼には理解できなかったようだ。
「何でもありません」
なにはともあれ、三善はこれで正式に助祭として活動できるわけだ。本部内をうろついても怪しまれることはない。二人はそれに安堵し、三善を再び見つめる。
ようやくここまでたどり着いた。
あの子供は、我々にとっての唯一の希望だ。
だから、今一度天国の扉を開ける時が来たならば――
この少年に、言えるだろうか。
一緒に、連れて行ってはくれまいか、なんて。
「――あなたはどうか、正しい道を」
「――おまえはどうか、正しい道を」
思う節があったのだろう。同じ内容のことを、二人は同じタイミングで言い放った。はたと我に返り、ケファは睨みを、ホセは毒々しい笑みを浮かべる。
「真似すんな。狸」
「そちらこそ。狐」
冷戦が繰り広げられている中、まだ完全に体を拭き終わっていない三善が二人の存在に気がついた。がばりとこちらへ振り返ったかと思うと、急ぎ足で走ってきた。その胸元で先程ケファが貸してやった傷だらけの銀十字が揺れている。
「ケファ! あのね!」
「走るな、転ぶぞ」
と言った矢先、三善はずるっと滑って転倒していた。まるで漫画のような見事な転びっぷりである。お約束というか、外さない奴である。近くにいた司教に起こしてもらい、三善は起き上がる。きちんと「ありがとうございます」の礼は忘れない。そしてにこにこと笑う。
とてとてと、今度は競歩レベルまで速度を落としてくる。
「だから言っただろうが。走るな、あと頭はちゃんと拭いてこい、水垂れてる!」
「うん、ケファ。お願いがあるんだ」
聞いているのか聞いていないのかよく分からない返事の後に、三善がすがりつくように言った。
ああー、濡れるからやめろって。当のケファはそう突っ込みたいのを我慢しているらしい。なかなか面白い光景である。
「この銀十字、ちょうだい!」
「あーうん……ええ?」
予想外のお願いだった。こればっかりは、ちょっと問題があるのではなかろうか。一応この銀十字、洗礼の時にヴァチカンから頂戴するものである。三善の場合はケファが手配し忘れたためにまだ手元にないだけで、そう簡単に譲渡してよいものではない。
ケファはそんなことを考えているようで、渋い表情のまま低い唸り声を上げている。
「それはちょっと」
「……だめ?」
ケファが救いを求めるように周りの司教連中に目を向けると、相手が三善だからだろうか、完全に知らん顔されてしまった。そういう変なところだけ団結する司教連中に、ケファは怒りを通り越して呆れてしまっている。
「ホセ、」
この気持ちを代弁してくれ、と声を漏らして訴える。
ホセはふむ、と胸の前で腕組みをし、僅かに逡巡して見せた。
「別にいいじゃないですか。新しいものはあなたが使えば」
それはつまり決定事項と同義である。
三善が顔を明るくしながら「ありがとー」と礼を言ってくるものだから、ケファはそれ以上反論できず、あふれ出る感情を胸の内に無理やり押し込むこととなった。
――こうして、姫良三善は正式に大聖教の一員となったのである。