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Clavem ad caelum (1)

 その日ケファが三善の自室を訪れると、三善はまだ着替えすら済んでいない状態でおたおたしていた。ベッドの上に放り出された白色の服と、紙切れを一枚。三善はそれらを交互に見返しつつ、あれこれと服の金具をいじっている。

「……お前は一体なにをしているんだ」

「ケファ」

 思わず呆れて声をかけてしまった。その声に反応し、三善はぱっと顔を上げる。

「もうそんな時間? まだ間に合う?」

「間に合う。とりあえず、今着ている寝巻脱いでくれる?」

 なぜ十三歳の少年に対して幼児向けの発言をしなければならないのだ。ケファはそう思いつつも、今日だけはその言葉を飲み込むことにした。

 今日のために用意された儀式用の聖職衣は、造りがかなり複雑にできている。具体的には、どのボタンがどのホールに対応しているのか見分けがつかないこと。そして、その留め金の掛け方がかなり難しいことが複雑さの原因として挙げられる。エクレシア内では密かに「この衣装をきちんと着られることが一種の通過儀礼なのではないか」と噂されているほどだ。

 それを知っているケファは前日の段階で少々心配だったので、念のため早起きして様子を見に来たのだった。

「昨日仕立屋から衣装を預かった時に、ボタン配置一覧表をもらっただろ。寝る前に確認しとけって言ったじゃん」

「図面と実際の服が違うんだよ」

 違わねぇよ、どこ見てんだとケファは三善の言い訳を一蹴する。

「大体にして、なんでこの服こんなに留め金多いの。いじめたいの?」

「どうしてと聞かれてもなぁ。俺が洗礼受けたときから既にそんな感じだったし」

 文句を言われてもこればかりはどうしようもない。今も昔も、この聖職衣だけは型が変わらないのだ。かつてケファがこれを着たときも彼と全く同じことを考えたものだが、それに慣れてしまった今は何も言えない。慣れとは恐ろしいものである。

 それにしても。ああ。

 ――ようやくここまでたどり着いた。



 今日、姫良三善の洗礼の儀が執り行われる。

 ケファは思う。彼を例の地下室からひきずり出し、ホセが正式に後見人に就任してから約半年。三善がものすごく特別……というより、特殊だということはよく分かっていたつもりだ。

 まず一番に驚いたのは、この三善という少年には「ろくに教育らしい教育を受けた形跡がなかった」ということだ。というよりも、「現在に至るまでの記憶がほとんどなく、辛うじて自分の名前が書けるくらいの技量しか残されていなかった」の方が正しいか。

 そこでケファはホセに相談し、無理を承知で最低限日本語を読み書きできる技能と『釈義』の訓練、ある程度の一般教養を半年で叩きこむことにした。教会史や今後必要になるであろうラテン語修得はこの時点で諦めた。三善が途中で根を上げるという前提で無茶なスケジュールを組んだのだが、これが特にすごいところで、三善はそれを全部、本当に半年でやり切ってしまったのだ。

 彼は本当に聡い。吸収力も柔軟性も高く、一回やれば大体のことはできる。そして、一度覚えたことを別のことへ応用するのが非常に上手いのだ。来日する前孤児院で教鞭を執っていたこともあるケファは、教育の過程でなんだか面白くなってしまった。調子に乗って三善に色々教え込んだところ、のちほどホセから以下の苦情が入った。

 ――ケファ、今ヒメ君が解いている媒介変数っていうやつ、十三歳の子供が解く問題じゃないです。

 ――え、俺これくらいの年にはもう修得済みだったけど。

 ――あなたが十三歳の頃って、大学に入学したあたりでしょう。媒介変数は普通十七歳くらいの子が解く問題ですよ。

 ――そういうお前はいつ頃やったの。

 ――ええと、十五歳くらい、ですかね。

 ――じゃあ別にいいんじゃないの? コイツ出来るし。

 頭脳があまり普通でない親が自分基準で子を育てるとこうなる、というモデルケースが生まれた瞬間でもあった。

 そんなことが繰り返された結果、齢十三歳にして高卒レベルの頭脳を持つ少年を生み出してしまった。これに対してはさすがのケファも反省している。

 まさか、冗談でやってみたら本当にできるなんて思っていなかった。これが本音だ。

 ここ半年の出来事を呑気に思い返していると、今度はきちんとボタンを留めたらしい三善が、「これでいい?」と尋ねてくる。ぐるりと一周回ってもらい確認すると、コートの留金が半分しか留まっていなかった。

 ケファはそれを留めてやり、彼の柔らかな灰色のくせ毛をわしゃわしゃと撫でてやった。

「まあ、頑張れ三善。あいにく俺はお前の洗礼には立ち会えない」

 ケファがさらりと衝撃的な発言をしたものだから、三善があからさまに動揺した。不服そうにケファの肩帯を引き、声を荒げて見せた。

「えっ、そうなの? 何で?」

「何でって言われても。位階が足りないので」

 実はエクレシアの規定上、洗礼に立ち会うことができるのは司教以上の聖職者のみなのだ。現在大司教の席は空いているため、今回は実質司教のみの出席となる。ケファは司祭故に位階が足りず、付き添いすら叶わないのだった。

 今回はたまたま日本滞在中のホセが出席できると言っていたので、正直なところ何かあったとしてもそんなに心配はしていない。

 ケファは内心そう思っていた。

 しかし当の三善はというと、ケファから宣告された一言が相当ショックだったらしい。今までの穏やかな表情が一転、さっと青ざめたまま頬をひきつらせている。

「やっぱりやめようかな。神父さんになるの、やめようかな」

「はあ?  何言っているんだ。俺がいなくても、ホセがいるだろ」

「違う。僕、あの人たちが怖いんだ」

 あの人たち?

 その言葉の真意についてケファは思案し、それが枢機卿団を指していることにようやく気が付いた。

 事の起こりは半年前に遡る。地上に出たばかりの三善の処遇を巡り、枢機卿団と派手に言い争いをしたことがあった。その時にホセが執拗なまでの論理攻めを繰り広げ、結果三善は侍祭をスキップし助祭を受階することとなったのである。三善はその現場を直に見た訳ではないのだが、その一件があって以降ひと月くらい周りから白い目で見られたという経緯がある。

 そんな訳で、三善は現時点で軽い人間不信に陥っていたのだった。

 ケファはしばらく考えた後、

「今の教会(エクレシア)の情勢はめちゃくちゃ悪いからな。昔とは状況が違いすぎる。――でも、大丈夫だ。誰も怖いことしないから」

とだけ返答していた。

 それでも嫌だと言い張る三善を何とか言いくるめようと、ケファがあれこれ躍起になっているところに、突然後ろから助け船の如く声が聞こえた。

「何をもめているのです? ヒメ君、ケファ」

 その声の主はホセだった。儀式用の真っ白な聖職衣に緋色の肩帯を下げ、左手には聖典を携えている。アイボリーの双眸が、わめく三善、そしてなだめているケファを順に捉えると、彼はすぐに状況を察したらしい。

 刹那、ホセはぞっとするほど優しい笑みを浮かべる。

「ケファ。あなたも準備なさい」

 その言葉に三善はすぐに反応した。

「本当!」

「ええ。ブラザー・ケファの位階は確かに足りていませんが、曲がりなりにも司教見習ですからね」

 途端に三善の表情がぱっと明るくなる。

 ――ちくしょう、いい顔しやがって。

 そうは思ったが口には出さず、しかめ面のままケファはホセのすぐ隣に寄った。そして三善に聞こえないよう、彼の耳元でぽつりと呟いた。

「俺なんか出席させて、どうする気だ」

「あなたには、あなたにしかできない役目がありますから。『十二使徒』としての、ね」

 それに、と満面の笑みで、今度はわざと三善に聞こえるようにホセは言う。

「どうせあなたは心配で心配で、ナルテックスを右往左往するのでしょう? 視覚的に面白すぎるので、一緒に来なさい。もう枢機卿に許可は取っています。一応研修目的ということにしているので、ちゃんと見習用の方を着てくださいね」

「なっ……!」

「ケファ」

 殴りかかる勢いで拳を握ったケファの身体をぐい、と引き寄せ、彼の耳元にホセが近づく。そしてぼそりと囁いたのは、

「……洗礼を受けている間、ヒメ君から絶対に目を離さないでください」

という、不穏な内容であった。

 三善がぽぉっとした顔で、ケファとホセの一連のやりとりを観察していた。二人の顔をしばらくきょろきょろと見比べていたが、最終的に、

「ねえ、さっきから何もめているの? やっぱりケファはダメなの?」

と悲しげな表情で問いかけた。

 ホセは首を横に振り、三善の目線に合わせてゆっくりとしゃがみこむ。

「いいえ。ただちょっと打ち合わせをしただけですよ。それよりヒメ君。洗礼の儀にあたり、きちんと聖典の内容を覚えてきましたか?」

 三善はこくんと首を縦に振る。

「そうですか。別に間違えても構いませんから、ゆっくり、落ち着いて唱えればいいのです。ええと、見たところ身支度は出来ていそうですね」

「あっ、忘れてた。ヒメ、ちょっと」

 そういえば肝心なものを忘れていた。これから聖職者になる者として、何番目かに重要なアイテムが彼には欠けている。

 ケファは自分の首に下げていた銀十字を外し、三善の首にかけてやった。革紐が少し長すぎる気もするが、この際どうでもよい。洗礼の間をやり過ごせればいいのだ。

「これを持って行け。本当はヴァチカンから取り寄せるんだが、間に合わなかった。だから今日は俺のを貸してやる」

 つまりは聖典の内容を暗記させることに躍起になりすぎて、取り寄せるのをすっかり忘れていたらしい。呆れたのか、横でホセが小さくため息をついていた。しかし三善はそんな些細な表情の変化になど気がつくはずもない。下げてもらった銀十字に目を輝かせ、

「いいの?」

 と声を弾ませた。

「ああ。俺はまあ、銀十字なんかなくても大丈夫だ。肩帯か何かで隠していれば司教連中も気付かないだろうし。それに、あれはロザリオみたいに祈りの数を数えるためとか、そういう実用的なものじゃない。だから、なければないで全く問題ない。多分」

 三善はうん、と頷いて、その銀十字を手に取りまじまじと眺める。小さな指で彫刻の模様をゆっくりとなぞると、ぽつりと呟いた。

「……随分傷だらけだね。どうして?」

「俺の扱いが悪いからだ」

 事実、彼は普段それを武器として戦っている訳だから、ぼろぼろになるのはまあ当然である。司教集団の中には、祭器をそんなことに使うなと文句を言う者も少なからずいるが、ケファは全く気にしていない。むしろ勲章だと思っていた。

 ホセは微かに笑い、「それじゃあ、行きましょうか」と手招きをした。

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