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黒猫と味噌田楽

 襖が静かに開いたと思ったら、ひょっこりと雪が顔を覗かせた。

 その時慶馬はようやく溜まりに溜まった書類整理をする気になったらしく、畳一面にそれらを広げているところだった。一面紙で真っ白になった畳は雪野原を連想させる。降り積もったばかりの雪の上には足跡ひとつない。しかしほんの少しでもこちらが動けば地吹雪の如く書類が舞い上がりそうで、そういった危うさを孕んでいた。

 そう思ったので、部屋に入ろうとはせずに顔を覗かせたまま雪は尋ねた。

「ここにコナツ、来てない?」

「いませんよ」

 一度手を止め、呆れたように笑いながら慶馬が振り向いた。「あの子は若に似て、きまぐれですからね。そのうち戻ってくるでしょう」

 コナツとは、帯刀家の飼い猫である。黒い毛並みの小さな猫で、飼い主である雪はまるで弟のように可愛がっている。帯刀家姉弟に欠けている『夏』の字をその名に宛てているあたりが、もう既に溺愛対象の賜物である。べったべたに可愛がった成果だろう、黒猫は非常に雪によくなついていた。そしてなぜか、この慶馬にも。

 帯刀家にいないときはたいてい美袋家にいるので、てっきりここにいると思っていたのだが。そうか、と残念そうに肩を落とし、雪は出て行こうとする。

「あー、ちょっとちょっと。そんなに肩を落とさなくても」

「寒かったから……」

 湯たんぽ代わりにしようという魂胆だったらしい。呆れた。

 苦笑しつつも、慶馬は立ち上がった。

「せっかくなので温まってから帰ってください。奥の囲炉裏が点いているはずです」

「ん、そりゃあいい」

「味噌田楽でも焼きましょうかね。若、それともマシュマロの方がいいですか?」

 味噌田楽の方に瞳を輝かせた雪に気が付いて、慶馬は豆腐と竹串はあっただろうかと首を傾げた。何せ、味噌田楽はこの人の数ある好物の中のひとつなのである。


***


 現代の生活に合わせて床暖房なども兼ね備えている美袋家だが、個人的に好きだという理由で囲炉裏もそのまま残してある。今もよく使用しているので、そこには必ず誰かがいるのだが。

 今日は一匹の黒猫が居座っているだけだった。

「あー、コナツー」

 雪が近づき、ゆっくりと抱きかかえてやると、コナツと呼ばれた黒猫も目を細めてごろごろと喉を鳴らす。彼もどうやら寒かったらしく、ここでぬくぬくと温まっていたようだ。優しい火による熱を吸収して、すっかり彼は生きた湯たんぽになっている。

「ぬくい」

 雪の蒼い瞳が細くなる。思わず顔が綻んでいるのは気のせいではないだろう。普段仏頂面に等しい彼が、よくもまあ。

 あまりにおかしかったので、慶馬は堪え切れずに噴き出した。

「そこで座っていてください。いま豆腐を持ってきます」

 そして一度外に出、離れの方から豆腐をいくつかと味噌を抱え戻ってくると、コナツがとてとてと走ってきた。そして怪訝そうな表情を浮かべる慶馬を仰ぎ、にゃん、と鳴く。

「君の主人はどうした?」

 当然ながらコナツは答えない。

 まあどうせ眠ってしまったのだろう。そう思いながら囲炉裏のある母屋に戻ってくると、案の定雪は胡坐をかき身体を前に傾けながらうとうととしていた。まあ、この人の場合はいつものことだから仕方ない。ここで眠るのは毎回のことだ。

 きっとコナツは撫でている手が止まったことにご立腹だったのだろう。ふ、と笑うと、慶馬は雪の横に腰掛け、味噌田楽用にしている味噌が入ったパックを開ける。その間にコナツは背中を這い上り、慶馬の肩にぶらさがる形で収まった。この猫は慶馬の肩が好きらしい。

 なるべく猫を落とさないよう、そして隣で眠る雪を起こさないようにただ黙々と、静かに静かに作業してゆく。燃え盛る炎の熱気が頬を焼く。その熱さで目が重くなる。ぱちん、と薪が爆ぜる。赤い火花が散った。

「……ん」

 その音でようやく雪が目を覚ました。「……どれくらい、寝ていた?」

「ほんの数十分だよ」

「そうか。……ああ、コナツ。そんなところに」

 肩にぶら下がったままのコナツは今も気持ちがよさそうに目を閉じている。じっとその様子を観察していた雪だったが、唐突に仕込み作業をしていた慶馬の横顔に目を向けた。それは観察という域を通り越し、最早凝視である。あまりにじいいいいいっと見つめるので、さすがの慶馬も呆れたらしい。

「……なに?」

「いや。慶馬は猫科の動物に似ていると思って」

 ねこかのどうぶつ。あまりに曖昧、というか遠回しな表現だ。猫科ですか、とぽつりと呟きつつも、慶馬はその手を止めない。

「黒豹、となら言われたことがありますけど」

「黒豹。……ああ、なるほど」

「壬生様にですけどね」

「親父殿か。ちぇ」

 似たような感性をしていたことに少し嫌悪感を抱いたらしい。こういうところだけ、かなり分かりやすいひとである。まあ雪本人からしてみれば、あの人に関わるとろくなことがないのに嫌でも似てしまう自分に納得がいかない、といったところだろうか。

「納得がいかないのも分かりますけど。もう少し労わってやってあげてくださいよ。あの人ももう若くないんですから」

「労わりたくても常に行方不明じゃあ、どうしようもないだろ」

 確かに。彼の父・壬生はいつも国内外を自由きままに旅しており、自宅に帰るのは年に一度あるかないかというくらいだけれども。

 ふと、コナツが目を覚ました。顔を上げ辺りを見回すと、軽い身のこなしで床に降りる。たしっ、と肉球の音がした。

 突然どうしたのだろうと思いしばらく観察していたが、そのままコナツは奥へと走っていってしまった。まるで逃げるかのように。ちりぃん、と首の鈴の音だけが聞こえ、それも次第に遠くなってゆく。

「……どうしたんだろ、コナツ」

「何か察知したんじゃないですか? 例えば、噂の張本人が帰ってきたとか」

「まさか。そんなことあるはず――」

 ない、と言い切りたかったのだが。

 その時だった。母屋の戸が開き、ひゅう、と冷たい風が吹きこんできた。突然の出来事に二人は目を瞠り、来訪者に視線を送った。この時点で何となく、嫌な予感はしていたのだが。

「やっぱりここかー。ゆっきー、慶馬君、久しぶり」

 にぱっと笑い右手をひらひらと振る男・帯刀壬生。黒い髪は以前とさほど変わらず、そして独特の薄氷色の瞳も健在だ。塞がっている左手には何やら長いものが入っていると思われる袋がぶらさがる。

 コナツ、逃げたな。内心雪は舌打ちしていた。

「さあ、パパの胸に飛び込んでおいで!」

「断る」

 両手を広げ愛しの息子(やや一方的)を待つ壬生に、鋭利な刃物のような鋭い言葉で斬りかかる。そしてあっさりを切り捨てると、えぐえぐとわざとらしいすすり泣きが聞こえてきた。こういう演技も、狸親父のたしなみなのかもしれない。この冷めきった親子を完全に傍観者となっている慶馬はそういう観点で見ていた。そしてこうも思う。自分が帯刀の子でなくてよかった、と。

「父と子の感動の再会を理想にしてきたのに……いつからそんな冷めきった子になったんだ、ゆっきー」

「いつからも何も。最初から冷めきっている」

 喧嘩が勃発しそうだったので、慌てて傍観者・慶馬が止めに入った。ここでもめ事を起こされても正直困る、迷惑甚だしいのである。なにせここは美袋家、自分の家だ。自分の家で二人が拗ねられると、宥めるのに一苦労だし何より自分の家の者が困り果て「どうにかしてください」と泣きついてくる始末。完全に尻拭いポジションになるのは避けたいところだ。

「まあまあ、寒かったでしょう壬生様。どうぞ温まって行ってくださいな。今味噌田楽を焼いていたところなのですが、よろしければ一本」

「うん? そうか。じゃあありがたく頂いて帰るとしよう」

 実は壬生の好物リストの中にも、この味噌田楽が入っていることを知っている。これでなんとか機嫌を損ねずにいてくれないだろうか。ひやひやしながらも慶馬は二人の顔色を窺っている。

「親父殿。その袋、何?」

 興味を示したらしい雪、隣に腰掛けた壬生の袋に目を向ける。

「ああ、これは慶馬君に。泡盛」

 どうやら今回は沖縄に放浪していた模様。ずいとやたら大きな瓶を差し出され、思わず恐縮してしまう慶馬である。とはいえ、慶馬自身はさほど飲まないので、これは後々分家連中に回すことが密やかに決定していた。酒が好きじゃないと分かりつつも、毎度毎度帰ってくるたびにこのひとは一升瓶を担いでくるので、内心嫌がらせではないかとも思う。

 そう考えていたのはどうやら慶馬だけではないらしい。

「親父殿。慶馬は飲まねえって、何度言ったら覚えるんだ」

「ん、ああそうか。まあでも、美袋の連中はなんだかんだ言ってザルだから、そっちに回すといい。慶馬君はともかく、他は好きだからな。酒」

 つまり横流し前提で買ってくると。そういうことらしい。

 どうやら一枚上手だったようだ。このひとには本当、敵わない。慶馬は小さくため息をついた。

 丁度よく味噌田楽が焼けてきた。香ばしい匂いが辺りを立ち込め、耐えきれずにきゅうっと腹が鳴りだす。

「……まあ、頂きましょうか」

「そうしよう」

「んだ」

 結局、このひとたちに勝てるのはこの味噌田楽くらいなのだ。悲しいことに。

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