祝杯の玻璃
満月にほど近い、少しだけ欠けた月を縁側でぼーっと見つめながら、雪は大福に噛みついていた。
大福は彼の好物の一つである。今日の夕方ご近所さんからお裾分けでいただいたもので、どうも巷では有名な老舗のものらしかった。どうりであんこの舌触りが違う、と雪は感心していた。
掌がすっかり白い粉で汚れてしまった。ぱんぱん、と軽く叩いてそれを払っていると、奥から黒い着流し姿の男が近づいてきた。……慶馬だった。
「若。こんなところにいた――みんなと一緒でなくていいんですか」
奥では帯刀と美袋の家の者が盛大に宴会を開いていた。
月に一度、こうやって盛り上がるのがこの家のしきたり、というか習慣で、何だかとても変わった主従関係だと思う。無礼講なのをいいことに、酒癖の悪い美袋家一族はわいわいと騒いでいるようだ。この縁側は大分遠くにあるはずなのに、その声がはっきりと聞こえてくる。
「飲ませてくれないだろ。おめぇさんが」
「んだ、若は未成年だから。あと一年待ちなさい」
「む……」
雪は傍らに積み上げていた大福の二つ目を、もふっと口に突っ込んだ。粉がぶわっと宙を舞い、はらはらと土の上に落ちてゆく。
その隣に慶馬が腰掛けた。胡坐をかき猫背になっている姿は、普通ならば粗野に見えるはずなのにこの男の場合はなぜか高貴に見える。その猫背すら綺麗に見えるのはどうしてだろう。この男はこういう反則技をいくつか持ち合わせているのだ。
雪は大福を飲み込んだのち、わざと突き放すように言った。
「おめぇこそ向こうにいればいい。今日の主役はおめぇさんだろ。慶馬」
今日、九月十日は慶馬の誕生日である。一応曲がりなりにも美袋家当主の男が、自分のための宴会の席を抜け出すとは。まず普通ならば怒られてもおかしくないところだ。
慶馬はいつもの無表情を少しだけ緩ませ、首を少しだけ傾けた。
「俺は飲まないから」
「知ってる」
別に弱いとかそういう訳ではない。むしろ慶馬はザルなのだが、嗜好という意味で「飲まない」。たまにちびちびやっている姿は見るが、そういうときはたいてい嫌なことがあったとか眠れないとか、そういう特別な事情がある。煙草は「守り役が吸うのはいかがなものか」と言い張り、手をつけようとはしなかった。
無駄に健康体な男、それが美袋慶馬である。
「だから、サイダーを倉から出してきました。飲みます?」
「飲む」
あらかじめ二つ持っていていたグラスに、冷えたサイダーを注ぐ。氷に小さな亀裂が入り、涼しげな音が静かに聞こえる。綺麗な音だ。この、グラスに液体を注ぐ純度の高い音が何よりも格別だと雪は思う。
「……若とはまた、歳が離れてしまいましたね」
「えーと。三十一歳だっけか?」
「はい。よく覚えていますね」
「見えねぇ。いつも思うけど、見えねぇ」
「うちはみんな、見た目だけ若いから」
じっと雪が慶馬の黒い瞳を見つめた。
この守り役は、自分が生まれた時から自分についている。年齢が一回りも違う彼を、初めは兄のように慕っていた。しかし歳を重ねるにつれ、彼を『兄』として見てはいけないのだと、そう思い知らされていった。彼は完全なるビジネス・パートナーで、それ以外の何者でもない。
分かってはいる。だが、彼と一緒の期間があまりに長すぎたのだ。
心臓に楔を打ち込まれ、十二時間以上互いに離れてはいけない身体になった今ならわかる。彼は、きっとこの楔がなくともずっと近くにいるつもりだったのだろう、と。気持ちが重い訳ではないが、それほど近い人間が常に近くにいるということに慣れるのが怖かった。
喪ったときが、全く想像できない。
ふ、と雪は息を吐き出した。
「慶馬。おめでとう」
「ありがとうございます。若」
「若はやめてくれ」
気持ち悪い、というかよそよそしくて嫌だと告げると、慶馬は少しだけ悩んだようだ。
「……雪殿?」
「殿はちょっと」
「……ゆっきー?」
「慶馬!」
遊ばれているのが分かり、声色に怒気が含まれた。そこで慶馬はふっと真面目な顔になり、「分かったよ」と囁いた。
「ありがとう。雪」
ん、と無表情で頷いた雪の横顔は、心なしか満足そうだった。
乾杯しよう。そう声をかけると、いつの間にか雪の目線は慶馬ではなく闇色の空に浮かぶ月に向かっていた。しかし手にはしっかりとグラスが。こういうところだけ妙にちゃっかりとしている。
「乾杯」
チン、と鈴の音のような軽やかな音。
それははじける泡と共に、ゆったりと消えていった。