Ethica
コバルト・ブルーの空を遮るものは何一つなかった。おそらく、今吹きつけた風により舞い上がり、視界を白く白く濁らせたこの砂塵ですら、美しい空の青を多少薄める程度のものでしかない。事実上、――そう、この土地には何もなかった。
否、あるにはあるのだが、それを「モノ」と呼ぶか「ヒトだったもの」と呼ぶのか、多少判断に苦しむものがある。
吹き上げた風が頬を撫ぜる。緋色の肩帯がふわりと翻り、青と白の世界にわずかな華を与えた。
「――ひどいな」
ぽつりと呟いたその声は、誰の耳にも届くことなく消えてしまった。神にすらきっと聞こえない。この、声は。
その場所にゆっくりとしゃがみこみ、右手で花のように地面と垂直に突き出た“それ”に触れる。
乾き切った大地に堆積する割れた破片と共に“咲いている”その――元々人間の腕だったものは、触れた瞬間にぱきりと割れ、白い破片の一部となり消えていく。
掌に僅かに残ったのは、塩独特のざらりとした粗い感触と、すっかり抜けきった体温のみ。
胸に掲げる銀十字が太陽の光を享受し、きらりと瞬いた。
「――Acta est fibula,plaudite.(芝居は終わった、喝采せよ)」
もしも本当にこれが、この光景が芝居だったならば、どれだけ幸せだったろう。空に向かい真っ直ぐに伸ばされたその腕は、緞帳が降りるのを待っているのだろうか。ただひたすらに、じっと。
それならばわたしは彼らに申し訳ないことをしてしまった。それが降りてしまう前に、わたしは、全てをぶちこわしにしてしまったのだから。
そこまで考えると、急に舞い上がる風によって思考を中断させられた。びゅう、と笛の音のような高らかに響く風の声が耳を劈く。
巻き上げられる砂と同じ色をした白い聖職衣がめくれ、そしてそこから覗く土色をした腕に目が止まる。赤く赤く、線が幾度もなく引かれたその色は逆に、きれいだなと思う自分がひどく憎らしい。
短い黒い髪を撫で上げると、右腕に巻いたロザリオがしゃらりと軽い音を立てる。
「……ここも随分荒れてしまったな、ブラザー・ホセ」
背後から突然話しかけられ、はっとして彼、ホセ・カークランドは振り返る。そしてその声の主が誰なのか分かると、頬を緩ませながら言った。
「ああ、ブラザー・トマスでしたか。居るなら居ると仰って下さいな」
「お前の独り言なんか、誰も聞かないだろうから安心しろ。そもそもお前が何を考えているかなんて、あまりに恐れ多くて誰も知りたがらないだろうよ」
困ったようにホセは肩をすくめ、それから自分がトマスと呼んだ男ににこりと笑いかける。その微笑みは慈悲深い、とでも言うべきか。非常に優しいものではあったが、それに中身は伴っていなかった。空虚な笑み。それは一種の、彼が持つ自己防衛のための武器のひとつであった。
「君は相変わらずだな。そうやって誰も寄せ付けない気でいるのかい?」
「プロフェットの性ですよ。私はこんなにも血で汚れています。たとえそれが、“七つの大罪(Deadly sins)”のものであろうと、……そうですね。こうして『聖戦』と主張し、暴力を正当化している教会自体、私の倫理からは大きく逸脱しているのですよ。この気持ちを知られてはいけない、誰にも、ね」
「知られてしまえば、君は司教の資格を剥奪され、煉獄への道へと放り込まれる。それは良いことではないだろうな。君にとっても、勿論エクレシアにとっても」
トマスはそこまで言うと、ふ、と息をついた。そして地面に生えている塩の手を握る。案の定、ぽっきりと手首に当たる部分から折れ、脆く崩れた真白き破片が砂の上に散らばる。
「……なあ、ブラザー・ホセ。君は『死海文書』を知っているかい?」
「『死海文書』? ああ、聖都で発見された古写本と宗団文書のことですか」
「そう、それだ」
トマスは頷いた。「この世を光と闇の抗争の場と観じ、前者の勝利、救世主の到来を信じる、ってやつだ。そしてこの世界は終わりを告げ、新しい世界になる――と」
そう、とホセはさも興味がなさそうに適当に返事する。相変わらずその顔に心からの表情はない。今の彼はまるで精巧な造りをした人形であった。
「光があれば闇だって存在します。それでいいんですよ。――それにしても教皇が逝去してから、本当に、世界は変わりましたね。私たちはどうして戦わなくてはならないのでしょうか? その意味は?」
「君は本当に司教なのか?」
「司教、の前に人間ですよ。ただの“わたし”という名前の一個体に過ぎません」
あなたは気づいていますか? とホセはぽつりと呟いた。砂と塩が混ざりあい、かろやかな音が楽しげに聞こえてくる。まるで海辺にいるようだ。ここは砂浜で、目の前には空の色と同じ、濃い青が広がっているのだ。そうだったら、どんなにいいことだろう。一度アイボリーの瞳を閉じ、架空の海に思いを馳せる。心がしんと落ちつくのが分かった。
ようやく、彼に伝えることができる。
そして瞳を開けた。
「私、どうやら釈義を失ってしまったようです」
トマスは言葉を失った。驚きのあまり、その後に何を言えばいいのか全く分からないようだ。
釈義を失う? あの最大戦力として最前線にいるこの男が、なぜ? どうして?
ホセはその様子を見て、苦笑しながら左手をひらひらさせた。
「そんな顔しないで下さいな。私などいなくても、この十字軍は充分成り立つでしょう? あなただって、立派なプロフェットなのですから。ねえ?」
「どういうことだ? 釈義を失う、って――お前の釈義は先天性だろう?」
「ええ。ただひとつだけ、ですが」
「ひと……?」
「私の持つ三つの釈義のうち、二つは後付け、すなわち……後天性です。言いませんでしたか?」
聞いていない、とトマスは眉を上げて怒鳴りつけた。後天性釈義は、あとあとリバウンドとして返ってくる可能性が高い。だから細心の注意を払い、なるべく使用する回数を減らすよう教団から指示されているはずなのだ。
それなのにこの男は、平然とその事実を告げている。どういう神経をしているのか、まったく理解できなかった。
「……釈義が後から付加できる、という事実が判明した二十七年前に、私は試験的に与えられたのですよ。まあ、いつかはこの日が来るとは思っていましたが――」
「試験的、だと? 何を言っているんだ、ブラザー・ホセ! だとしたら君は……!」
「わたしは」
ぴしゃり、とホセはトマスの怒声を遮った。
「わたしは、生まれながらのサンプルですよ。今までも、そしてこれからも」
そう、だから私は今ここにいる。ここに立っていられるのは、すべてエクレシアによる。三十年間陰ながら監視されて、検査も幾度となく行い、……未来のプロフェットのための実験を繰り返している。
今までは“預言者”として。そしてこれからは、“喪失者”としてのサンプルとなるだろう。
「……君は教会に立たされているのかい?」
「いいえ。ここにいるのは、確かに教会が元凶ですが――、自らの意思で立っているつもりですよ。まだ、私にはやることがありますからね」
ホセはそこまで言うと、両手を広げ、空を仰いだ。
「神はどこまで、わたしを見守っていてくださるのか」
その姿は、まるでひとつの十字架のようだった。
「――これが“最期”の釈義、ですよ」
口から紡ぎ出される美しい讃美歌は風と共に流れ、塩と化した死体を葬る。風葬は、きっと正しいものではないのだろう。しかし今ならば、それが一番よいのだと思える。
この口から、もう“釈義”という名の祝詞は告げられないだろう。彼の釈義はたった今、死に行くのである。だから、“最期”なのだ。
悲しみなどなかった。
それは、己が持つ、倫理(Ethica)。
それだけのことなのだから。