僕には死、君には夢を見るということ
空が、濃い紫色に滲む。
水平線は、ほんのりと白い。
もうすぐ夜が明ける。
夜中、さんざん海を狂わせた嵐はもういない。
ただ穏やかな朝ぼらけ。
そのうち日が昇り、辺りをオレンジ色に染めるだろう。
波打ち際には、少年が一人佇んでいる。
誰もいない砂浜で、まだ冷たく透明な波に足を濡らしている。
やがて少年は歩き出した。
波の音に包まれ、潮風に吹かれながら。
足下には、海の底から運ばれてきた石や貝の殻や珊瑚の欠片が散らばる。
ふと、少年が足を止めた。
そして何かを拾い上げる。
初めて見るそれは、少年の手の中できらきらとまたたいた。
丸というにはいびつな、それでいて角はなく。
石にしては薄すぎるが、貝よりは厚い。
すべらかな表面は、珊瑚のものでもない。
不思議なそれは、透かしてみると七色にきらめいた。
そのとき、遠くの砂がきらりと光った。
その光に誘われて、少年は砂浜を駆けていく。
波が、シャラシャラと音を立てた。
光へ近づくにつれ、少年の顔もほころんでいく。
駆け寄って拾い上げた新たな光は、さっき見つけたものと同じ、七つの色。
二つとないようなものへの喜びと、それが一つだけではなかったことの喜びが、少年の胸に弾ける。
波打ち際に、笑い声が零れた。
──パシャン。
不意に、音が聞こえた。
波のものではない。
もっとしなやかで、ずっと小さな響き。
少年は二つの光をポケットにしまうと、耳を澄ませた。
ここは、砂浜と岩場の境。
辺りは打ち寄せる波の音で溢れている。
──パシャン。
再び聞こえた。
おそらく、向こうの岩の陰から。
少年は、その岩の方へ歩いていった。
この辺りには波はきていない。
なのに、周りの岩々が湿っている。
潮が満ちれば、ここは海の中なのだ。
──パシャン。
三度目の音。
近づいているはずなのに、だんだん遠くなっていくようにも聞こえる。
岩にたどりついた少年は、その陰をそっとのぞきこんだ。
「じゃあ君は、海に落ちた鳥を助けてここへ?」
「うん。でも波が強くて、気を失ったんだ。起きた時には取り残されてて」
「どうすれば帰れるの?」
「待っていれば、海が迎えに来てくれるよ」
岩陰で、同じくらいの年頃の少年が二人、話をしている。
一人は黒髪。
もう一人は、金色の髪。
黒髪の少年は、さきほど七色の光を拾った少年。
金色の髪の少年は、さきほどまで聞こえていた音の正体。
黒髪の少年が岩の上から顔を出したとき、金色の髪の少年は、青白い顔で横たわっていた。
声をかけてみると海の水がほしいと頼まれ、黒髪の少年は、岩と海を何度も行き来した。
今、金色の髪の少年は起き上がり、顔色も良い。
「そういえば、君の名前は? 僕はターナー」
「僕はビーノス。助けてくれてありがとう」
金色の髪のビーノスが礼を言うと、黒髪のターナーはにっこり笑った。
二人の外見は、全く違う。
ターナーの瞳は森のように深い緑色で、ビーノスの瞳は海のように澄んだ青。
ターナーの頬は淡い薔薇色であり、ビーノスの唇は燃えるような紅だった。
そして、手足が長く、すらりとしているのがターナー。
腰から下がきらきらと七色に光る鱗におおわれて、その先に魚のように大きな尾びれがついているのが、ビーノス。
二人が初めて交わした言葉は、互いに「君は誰?」であった。
「僕は、人間……」
「……僕は、人魚」
二人は同じく少年であったが、ターナーは人間で、ビーノスは人魚だった。
出会った瞬間はお互いに驚いたが、二人はもうとっくに友達だ。
それから二人は、いろいろな話をした。
ターナーの話はビーノスにとって知らないことばかりであったし、ビーノスの話はターナーにとって不思議なことだらけだった。
時間がたつのも忘れて、二人はずっと笑いあった。
太陽が空高く昇った頃、二人に波しぶきがかかった。
ターナーが指差すと、ビーノスも嬉しそうな顔になる。
海が、すぐそこまできていた。
ビーノスが、ひらりと海へ飛び込んだ。
ターナーは岩から身を乗り出して、海面に顔を近づける。
海の中に、きらきらと水をまとって泳ぐビーノスの姿が見えた。
何度か行ったり来たりしたあと、ビーノスはターナーのもとに戻ってきた。
「見て、ターナー。海が迎えに来てくれた」
「よかった。泳いでるビーノスは、すごく綺麗だね」
「ターナーのおかげ。ありがとう」
「僕もそんなふうに泳げたらいいのに」
「僕が隣にいる。一緒に泳ごうよ」
そう言って、ビーノスは手を差し伸べた。
ターナーは迷わずその手をとると、勢いよく海に飛び込んだ。
泡が、ふわりと体を包んだ。
ターナーの指先に、ビーノスの指が絡む。
そのまま優しく引き寄せられて、ターナーは目を開けた。
海の中は、信じられないほどの青。
そして、どこまでも広い。
初めて触れる鮮やかな世界に、ターナーの胸は高鳴った。
水はあたたかく、軽い。
いたずらな波が、髪をもてあそびすりぬけていく。
すぐ隣では、まるでこの海を切り取ったかのような、美しい瞳がこちらを見つめていた。
「ビーノスは、いつもこんな世界を見てるんだね。君の瞳と同じ色の」
「海からも、陸にあるあの森が見えるよ。ターナーの瞳はその色だね」
二人は微笑みあい、それから海面へ上がった。
「水の中って綺麗だね。驚いた。ずっといられればいいのに」
「僕もそう思う。陸の上は素敵だよ」
「どっちもだね」
「うん」
二人はしばらく、ゆらゆらと浮かんでいた。
空には太陽が輝き、頭上を鳥が飛んでいく。
ふとターナーが言った。
「僕は水の中だと息ができないけど、ビーノスは平気なの?」
「うん。僕は、水の中でも水の外でも大丈夫」
「海の水で元気になるのは、人魚だから?」
「うん。僕たちは海の一部だから」
「陸の上でも、水があったら平気なの?」
「ううん。陸にいる時間が長いほど弱くなるし、海から離れるほど苦しくなるっていわれてる」
「人魚って、たくさんいるの?」
「うん。海の中の、もっとずっと奥に、僕たちの王国があるよ」
「みんな、ビーノスみたい?」
「うん。でも、みんな色が違うんだ。僕と一緒の人魚もいないよ」
「みんな言葉を話すの?」
「うん。人とも魚ともクジラとも、鳥とも貝とも珊瑚とも。水だけが言葉を持ってない」
「どうして?」
「言葉は必要ないんだ。僕たちは海の一部だから」
太陽が傾き、海が一面オレンジ色に染まった。
溢れるような夕焼けの中、手を繋ぐ二人には、潮風さえ甘く感じられる。
やがて、水平線は最後の光を放つだろう。
そしてまた、濃い紫色が世界をおおうだろう。
「帰ろうか。砂浜まで送るよ」
「また会いたい。会える?」
「呼んで。僕はどこにいても聴こえるから」
「どうすればいいの?」
「貝殻を、水の中で吹いてほしい」
「わかった。じゃあ、明日」
「うん。またね」
二人は波打ち際で別れた。
ビーノスは、何度も何度も振り返りながら海の中深くへと潜っていく。
ターナーは、手を振っていつまでも見送った。
一番星が、二人のあいだの空に現れた。
翌朝の海は、とても凪いでいた。
黒髪の少年が、浜への道を駆けてくる。
その胸に、一晩はどれほど待ち遠しかったことだろう。
砂浜へ降りたターナーは、貝殻を探した。
夫婦貝、片貝、巻き貝、角貝、渦貝、三角貝、扇貝、光貝、花貝。
数えきれない貝殻が、波に濡れ、朝日を受けて光っている。
どの貝にしよう。
ビーノスは、水の中で吹いてと言っていた。
やっぱり、巻き貝だろうか。
ターナーは、すぐそばに落ちていた白い巻き貝を手に取った。
そして、海に入る。
息を吸い、貝殻に唇をあて、ふーっと吹いた。
音は何もしなかった。
ただ、泡が出て消えた。
ターナーは海を見つめて、待った。
──パシャン。
音が、聞こえた。
昨日と同じ辺りから、昨日より強く。
ターナーは、あの岩へ向かって走り出した。
「すっぱい……」
「ここ、ここが甘いよ。──ね?」
ターナーとビーノスは、波打ち際に寝転んで果実を食べている。
二人がいるのは、小さな洞窟。
さきほど、岩場を探検していたら見つけたのだ。
「これは、プラムっていうんだ」
「プラム?」
「うん。赤いところが甘くて、黄色いところはちょっとすっぱいの」
「森にはこんなものがあるんだね」
ターナーは、今朝森で採ってきたばかりの実を、ビーノスに手渡す。
ビーノスは不思議そうにながめてから、ぱくりとかじる。
海の中に果実はない。
滴る果汁も溢れる香りも、ビーノスは初めて味わう。
「ほかにももっといろんな実がなるんだ。ベリーとか、チェリーとか、ナッツとか。色もたくさん」
「色?」
「うん、綺麗だよ。季節になったら採ってくるね」
「魚や珊瑚の卵みたいなんだね」
「そうだね。僕見たことないけど、こんな感じなら、きっとそう」
そう言って笑うターナーの手には、大粒の綺麗な玉がいくつも乗っている。
それは、白、薄桃、藤、翠、金、銀、黒の真珠たち。
ビーノスが海から持ってきてくれたものだ。
「綺麗だね。こんなのがいっぱいあるの?」
「うん。姉さんたちがよく髪につけてる」
「すごいや」
ターナーは、髪に真珠の飾りをつけた、ビーノスのように美しい人魚たちを思い描いた。
海の中を自在に泳ぐ、色とりどりの人魚。
その人魚がたくさんいる、海の中の王国。
「行ってみたい。ビーノスが住んでる人魚の王国に」
「ターナーも、水の中で息ができればいいのにね」
「そうだね。でも、人間にはむりだよ」
「そっか」
「ああ、僕、人魚になれたらな」
「……そう思うの?」
「うん。そしたら水の中だって平気だし、ビーノスともずっと一緒にいられるでしょ?」
「なれるかも……しれない」
「え?」
ターナーは、ビーノスを見つめた。
ビーノスも、ターナーを見つめ返す。
ターナーは首をかしげた。
「なれるかも、って?」
「ターナーが人魚になれるかも……ってこと」
「どういうこと?」
ビーノスは、ターナーに話して聞かせた。
人魚の王国に伝わる、一番古い物語を。
それは、人魚のはじまりの物語。
それは、冷たく美しい、恋の物語。
そしてそれは、人間が人魚になる物語──。
むかしむかし。
まだ地の海に人魚がいなかった頃。
天の海に一人の魚神がいました。
天の海から地上をながめていた魚神は、あるとき一人の人間に恋をしました。
人間も美しい魚神に魅せられ、二人は恋仲になりました。
天の海で生まれた魚神は、永遠の命をもつ神々の一人でした。
ですが、地上で生まれた恋人は、限りある命をもつ人間です。
魚神は恋人が老いていき、やがては死に別れていくことを嘆きました。
人間も自分だけが老い、やがては魚神を残して死んでしまうことを嘆きました。
魚神は、恋人を自分と同じ不老不死にしてもらえるよう、天の大神に願いました。
大神は答えました。
「死すべき定めの人間は、我々神と同じ不老不死にはなれない」と。
魚神は悲しみに暮れました。
美しかった鱗は色褪せ、体は艶を失い、瞳に涙が溢れない日はありませんでした。
変わり果てた魚神の姿を哀れみ、大神は言いました。
「それほどまでに願うのなら、そなたは神の座を、その人間は魂を捨てることで、そなたたちをともに生まれ変わらせ、巡り会わせよう。ただし、そなたたちに記憶は残らない。再び恋に落ちるかどうかは、そなたたち次第」と。
二人は、大神の言葉に喜んで従いました。
魚神と人間は、人魚として生まれ変わりました。
そして、地の海で出会いました。
前世の記憶はありませんでしたが、二人は互いに惹かれあい、愛しあうようになりました。
二人は地の海に王国を創り、子宝に恵まれ、末永く幸せに暮らしました。
こうして地の海には人魚が生まれたといわれています。
物語を話し終え、ビーノスは言った。
「ただ人魚のはじまりを伝える話だと思ってた。けど、もしこの物語が、人間が人魚になれるってことを教えてくれてる話だったら?」
「僕も、人魚になれる……」
ターナーが、呟いた。
ビーノスはうなずく。
そして、続けた。
「海の中には、神様に一番近い場所っていわれてるところがあるんだ。二人でそこに行けば……」
「神様に会えて、願いを叶えてもらえる?」
「もしそうだったら、僕たちずっと一緒にいられるよ」
ビーノスは、ターナーの手をとった。
その手を握り返したものの、ターナーは少し考え込んでいる。
ややあってから、ターナーはビーノスに聞いた。
「その神様に一番近い場所って、どこなの?」
「海の中の、すごくすごく深いところっていわれてる」
ビーノスの答えを聞いて、ターナーは肩をすくめながら言った。
「なら僕、まずその場所に行けないと思う」
「あ……そっか」
人間は、水の中では息はできない。
当たり前であり、どうにもできないことに、二人は黙ってしまった。
小さくため息をつくビーノスに、ターナーは笑いかけた。
「でももし本当にできるなら、夢みたいな話だね」
そのとき、浜から物音が聞こえた。
「なんだろう。誰か来たのかな」
穏やかだった海岸が、騒がしくなっている。
ターナーは、洞窟の入り口から浜の様子をうかがった。
浜辺に現れたのは、毛皮を着た大人たち。
「狩人だ。ビーノス、隠れよう」
ターナーは、とっさに、ビーノスを水の中へ引っ張りこんだ。
海はほんの少しざわめき、そして二人を隠した。
ビーノスが尋ねる。
「誰?」
「生き物を捕まえる人間だよ」
ターナーは小声で答えた。
二人は海面から頭だけ出し、浜辺の狩人たちを見た。
不思議そうな顔のままのビーノスが、また尋ねる。
「どうして捕まえるの?」
「売ってお金にするためだよ」
ターナーは真剣な顔で言った。
ビーノスはきょとんとして聞いている。
「狩人は、ちょっとでも綺麗だったり珍しいものを見つけると、捕まえて売ってしまうんだ。ビーノスが見つかったら大変だ」
「どうして? どうなるの?」
「こんなに綺麗なんだもの、きっと捕まってしまう。それに、人魚なんて、人間は誰も見たことないはずだよ。僕だって初めて会った」
「僕も、会ったのはターナーが初めてだからよくはわからないけど、狩人もターナーと同じ人間でしょ? そんなこと、あるかな」
「陸には優しい人間ばかりじゃなくて、怖い人間だっているんだ。人魚の世界では、人間はどういう生き物っていわれてるの?」
「物語がいくつかあるけど、怖い人間なんて出てこないよ。そんなに心配しなくても、見つからなければ大丈夫だよ」
「大丈夫なもんか。ビーノスは人魚なんだよ。もし捕まって、閉じ込められたらどうするの? 二度と海を泳げなくなってしまうかもしれないんだよ」
「そんなことないよ。大丈夫、落ち着いて」
「何されるかわからないじゃない。陸のどこか遠くに売られてしまったら? 何かひどいことされたら? もしも……もしも、殺されたら?」
「そんな。人間がそんな生き物なわけ──」
「人間は、綺麗なものと珍しいものが大好きで、すごく勝手な生き物なんだ。隠れるだけじゃだめだ、逃げて。人魚の王国に帰って。ここは危険だよ、ビーノスがいていいところじゃない。もう来ちゃだめだ」
「ターナー」
ビーノスが驚いて声を上げた。
ターナーは、唇をきゅっと結んでいる。
それから、ビーノスをまっすぐに見て言った。
「僕のせいで、僕に会いに来たせいで、ビーノスが見つかって捕まるなんて、そんなのいやだ。だからもう会わない」
「ターナー……」
「ここには二度と来ちゃだめだ。僕ももう……呼ばないから」
「そんな……」
ビーノスの頬を、涙が伝わった。
大粒の雫が、次々と溢れて落ちていく。
それはまるで、透明な真珠。
息を呑むほど美しい、その姿。
ターナーは思わずその頬を両手で包み、口づけをした。
それから言った。
「僕ら人間は、ずっと愛してるって約束するとき、こうするんだ。僕、ビーノスのこと、ずっとずっと大好きだよ」
そしてもう一度口づけた。
ビーノスの頬を伝う涙が、ターナーの唇に触れる。
優しい、海の味がした。
「人魚でも、涙はしょっぱいんだね」
「僕たちは……海の……一部だから……」
ターナーはビーノスを抱き締めた。
肩を震わせながら、ビーノスもターナーに腕を回す。
「僕が人魚になれるかもしれない方法は、すごく難しいし、君がここに安心していられることも簡単じゃない。だから、もうお別れ。でも、ずっと友達だよ。離れても、会えなくても、ずっとずっと友達」
ターナーは緑色の瞳で、ビーノスの青い瞳を見つめ、微笑んだ。
ビーノスは、小さな声で言った。
「……僕のこと、忘れないでね」
「忘れないよ。ビーノスも、僕のこと忘れないでね」
「……約束だよ」
「約束する」
ターナーがうなずき、ビーノスも涙をぬぐった。
二人はもう一度抱き締めあい、互いの頬へ最後の口づけをした。
ビーノスの手が、ターナーの手を離れる。
海の中と砂の上で、見つめあったまま、二人は少しずつ後ろへ下がっていく。
「さよなら」
風が吹き、二人のあいだの波打ち際がゆらいだ。
二百年が過ぎた。
幼いあの日、人魚の涙を口にしたターナーは、普通の人間より長く生きていた。
だが、その命もじきに尽きるだろう。
涙の力は、消えてしまった。
この世にはもう、見てみたいものはない。
行きたい場所もない。
ただひとつ、ただひとつの、夢があるだけ。
この日、ターナーは初めて宝物入れを開けた。
木を削って作った箱に入っているのは、誰にも秘密の宝物。
ずっと大切にしまっていた、白い貝殻。
海は凪いでいる。
ターナーは小舟を出した。
白い貝殻だけを持って、静かに乗り込んだ。
小舟は、波のままに沖まで出た。
一面、見渡す限り、海。
ターナーは小舟から降りて海へ入り、水の中で白い貝殻をそっと吹いた。
──パシャン。
懐かしい音が聞こえた。
振り返ると、大好きな姿が見えた。
それは、きっと自分を探している、一人の美しい人魚。
「ビーノス」
ターナーは、愛しさを込めて呼びかけた。
人魚はこちらを向く。
その瞳が、ターナーをとらえた。
「ターナー?」
時が、一気にあの頃へ戻っていく。
今はすっかり老いたターナーと、今も変わらない美しさのビーノス。
それでも、二人のあいだの時は、あの頃のまま。
ビーノスが泳ぎ寄ってきて、ターナーを抱きとめた。
力強く、優しく、引き寄せられる。
ターナーもビーノスを抱き締め返すが、その手に力はない。
「会いたかった」
「僕もさ」
「また呼んでくれたんだね」
「約束したでしょ?」
思い出の中と変わらない、青く澄んだ瞳がこちらを見つめている。
ターナーはその目を見つめ返し、微笑んだ。
そして、ビーノスの耳元で囁いた。
「ね、つれていってくれる? 神様に一番近い場所へ」
「え……?」
「僕はもう生きられない。君ともし見られる夢があるのなら、見ておきたい」
「でも、水の中じゃ……」
「大丈夫、頑張るよ。一緒に行こう」
ターナーは、ビーノスに身をゆだねた。
ビーノスは、力のないターナーの体を、もう一度抱き締める。
そして、大きく跳ねると、ざぶんと海の中へ飛び込んだ。
海の中は、曇りのない青。
そして、どこまでも深い。
懐かしいぬくもりに、ターナーの心がふわりとほどけていく。
ターナーを抱いて泳ぐ、力強い腕。
すぐそばにある美しい横顔は、ただ海の奥深くだけを目指している。
波は、静かに二人に道をゆずる。
ついに二人は、神様に一番近い場所へたどり着いた。
そこは闇に照らされ、世界のどこよりも静まり返っている。
「ターナー。着いた。ここだよ」
ビーノスが、腕の中のターナーに呼びかける。
ターナーは、安らかな顔で瞳を閉じていた。
ビーノスは、その頬に、その唇に、その指先に、愛おしそうに触れる。
ターナーを見ていたら、ビーノスはとても眠たくなった。
まぶたがゆっくりと落ちてくる。
辺りは、いつのまにか波が止み、水の流れもなくなっている。
ビーノスの美しい瞳が、ターナーを見つめたまま、閉じた。
闇が二人に寄り添う。
二人は抱きあうように重なり、沈んでいった。
二人のあとを追うように続いていた泡も、やがて、見えなくなった。
嵐が、海を狂わせている。
うねる波と爆ぜる泡の、なんと激しいことか。
生き物たちはみな息をひそめ、じっとしている。
鉛色の海の中を、一人の人魚が泳いできた。
鱗を漆黒に光らせ、頬を薔薇色に染め、黒髪を波になびかせて。
誰もいない、荒れた海原を、暴れる水に乗って泳いでいる。
ひときわ強い流れを楽しんでいると、ふと彼方に、大きな渦を見つけた。
人魚は今度はそちらへ近づいていく。
すると波間に、きらりと光る何かが見えた。
それは、波に揉まれる一人の人魚。
懸命に体をくねらせているが、そのたびに水に煽られ、飲み込まれてしまっている。
黒い人魚は渦めがけて泳いでいき、迷わずその中へ飛び込んだ。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう……」
「どうしたの? 巻き込まれた?」
「うん……。波に吹き上げられて……」
渦から離れた海の上。
人魚が二人、波にゆれながら浮かんでいる。
黒い人魚の腕に抱かれた、一人の人魚。
その人魚の外見は、黒い人魚と全く違っている。
七色にきらめく鱗、紅の唇、金色の髪。
黒い人魚が七色の人魚の顔をのぞきこんで、二人の目が合った。
緑色の瞳と、青い瞳。
一瞬、互いの時が止まる。
少し経って、黒い人魚が口を開いた。
「あれ……? ねぇ。僕ら、前にどこかで会ったこと、ある?」
「……わからない。ないと、思うけど……」
じっと見つめあっていたが、答えは出そうになかった。
「そっか。君、名前は?」
「ビーノス」
「ビーノスは、嵐は苦手?」
「うん……。助けてくれてありがとう。君の名前は?」
「僕はエミオン。僕、嵐は好きなんだ。一緒に行こう。そうすれば怖くないよ」
「うん。ありがとう」
手を繋いだ二人は、互いのあたたかさに微笑みあった。
大きな尾びれが二つ、海面をゆらす。
──パシャン。
二人が潜ったのに合わせて、波が跳ねた。
<終>