日露戦争
七、日露戦争
奇しき縁で朝鮮を併合した日本は、その朝鮮が足枷となって工業化の速度が鈍化していた。基礎知識が違いすぎることが一番の理由、学問や仕事に対する向上心の違いにも差がありすぎた。
その根本理由はわかっている。そして、わかっているからこそ水準を上げさせることができないのである。その根本原因とは……。
何百年にもわたる朝貢、奴隷扱いされた民衆。その暗すぎる歴史が精神を捻じ曲げていたのである。
指示されなければ働こうとせず、指示されても口実をもうけて怠けようとする。
失敗を他になすりつけ、不正がばれそうになると平気で嘘をつく。
逃れられなくなると意味不明な言い訳をまくしたて、最終手段として恥も外聞もなく大泣きしてみせる。
行動に理屈がなく、粗暴になることもある。
これは、個人的な利益を最優先する主義、思想がそうさせていたのかもしれないが、手抜きをしてはいけないことでも、ちょっと目を離せば白々しくしてのけるのである。
要は、他と比較されて、自分が劣っていると思われたくないからだろうが、一度の不正が後々まで信用を失うと考えないからであろう。
そのくせ自尊心だけは超一流で、あれもこれも朝鮮人が考え出したものだと言い張るほどの厚顔さである。そういう価値観は、日本人には理解できないことだった。
それを改めさせることなどできようはずがない。強制すれば、あるいわ成果が得られる場合もあるだろう。しかし、それでは未来永劫支援し続けねばならないのである。誰にとっても益にならないことであることは明白である。そういうことで困りぬいていた。
併合なんてしなけりゃよかった、というのが本音なのだ。
ただ、その反作用というべき効果があがったことも事実である。
朝鮮でのインフラ整備が進むにつれ、国内から派遣した技術者は効率的な設計を心がけるようになり、技能者はめきめき腕を上げていた。
技能者の要望を満たすために、建設機械の改良が進み、貨物船に直接資材を積み込めるよう船腹に大きな入り口を設けた船も建造された。
特に秀逸なのは、船倉にレールを敷いて貨車ごと積み込む船が就航したことである。
すべて好まざる負担にこたえた褒美であった。
朝鮮の整備をする一方で、国内では電気が広く普及しつつあった。しかし悲しいことによく停電する。それも夜間にきまって停電するのである。
それはひとえに発電機の能力不足が原因であった。なんとか安定して電気を供給しようにも、朝鮮への支援のために予算がなく、結果的に昔ながらの行灯に頼る状況である。
朝鮮への支援といえば、急務なのが食料援助である。
せっかく蓄えた備蓄米も緊急用を除いて放出しなければならない。今年はそれで何とかなったにせよ、来年は必ず食料不足に陥る。
今さら無駄かもしれないがと、時期外れの田植えが奨励されていた。
残るは新田開発しかない。その技術指導のために連れて来た朝鮮人が、身勝手な理由をつけては厳しい労働を怠けたのである。
さすがに温厚な民衆もそれには怒った。いったい誰のために、何のために努力しているのか考えろと罵声を浴びせもした。すると対馬での殺戮を思い出すのか、朝鮮人は皆が皆、腰を抜かしてしまうのである。それには政府もお手上げだった。
教育もそうである。ほぼ全員が読み書きできる日本人とは正反対に、ほぼ全員が文盲なのだから始末に終えない。それに、朝鮮語に堪能な日本人は皆無である。どうすれば間違わずに意思疎通できるか、そこから取り組まねばならなかった。
他方、同盟を結んだイギリスからは新技術が続々ともたらされていた。
その最たるものは、無線技術である。今はまだ噂話にすぎないが、その概念は素晴らしいものである。ペリーが披露した電信機は有線式であった。それが無線式になれば海を隔てた島とでも連絡がとれることになる。
しかし、そういう研究を進めるにも基礎技術が乏しい状態ではままならない。世界初の動力飛行に成功したという情報に接した時も同じであった。
情報を元に再現することはおろか、手を尽くして入手した見本を保守することすらできないのである。それほどに日本は工業化の面では世界から遅れをとっていた。
優秀な技術者を育てるべくイギリスに留学させ、その数倍の職工をイギリスで修行させ、一方では開墾につぐ開墾である。多量に収穫できる品種の研究もせねばならない。
まさにてんやわんやだったのである。
そんな国内事情を見透かしたように、突如ロシア軍が朝鮮国境を侵して進撃を始めた。
朝鮮など捨てて身軽になりたい。それが本音なのだが、せっかくつぎ込んだ巨額の費用を考えると黙ってはおられず、反撃せざるをえなかった。
朝鮮北部の山岳地で睨み合った両軍は、互いに手出しできない状況に陥っていた。
業を煮やしたロシアが北西部の丘陵地帯からも進撃を始めると、それに呼応したかのように清が海岸添いに侵攻を始めた。
清の侵攻は海上から牽制できるとしても、二方面に対応するには兵力に差がありすぎる。やむなく日本軍は全面的なミサイル攻撃を決断した。
ただし、それが知れると兵器開発に拍車がかかり、さらに大量殺戮兵器が開発されてしまう。それを避けるためには、ミサイルを使わないか、でなければ全ての口を塞ぐかである。
そして困ったことに、観戦武官が大勢いた。それは日本側だけでなくロシア側にもいるのである。更には李朝時代に栄華を誇った者がいたし、急速な日本化に反感を抱く集団もいた。彼らは以前の暮らしが忘れられないために亡命の手土産を狙っているのである。現に何度も武器庫に忍び込み、捕縛されては後送されている。
高札をかかげて強硬姿勢をみせれば、買収や懐柔が横行する。とにかく頭の痛い問題が次々に湧いて出たのである。
膠着した戦局の挽回をはかってバルチック艦隊が日本海を目指して出港したという情報がイギリスからもたらされた。
万やむなしと判断した政府は、ロシア地上軍と清軍の殲滅を命じたのである。
ロシア軍には、フランスからも清からも観戦武官が派遣されていたし、日本側でも十三カ国から七十人におよぶ武官が成り行きを見守っていた。その中にはアメリカも含まれている。かつてビドルのした行為があるだけに、アメリカ人を信用できない。
そうして攻めあぐねている間にロシアは強固なトーチかを完成させてしまった。
事ここに至ればやむおえぬ。丘陵地域に攻撃をかけるふりをして、山岳を奪い返すことにした。丘陵地なら派手な砲撃をしあうのだから参観武官をはりつけることができるだろう。その間に山岳地域を取り返すのである。相手は高地から撃ちおろしてくるのだからどう考えても寄せ手は不利である。ならば相手の思いもよらない場所から攻撃しようということになった。
山肌一面に引かれた筋が、はるか上空からもよく見える。そのずっと先にゴマ粒のように散らばっているのが日本軍であろう。筋の手前の大きな塊は物資の集積地なのだろう。
そんな塊がいくつも点在していて、それだけでも兵力のほどが窺い知れた。
地面の筋はゴマ粒で埋められ、騎馬隊らしきものが砂煙をあげながら側面に出ようとしていた。
まずは騎馬隊を足止めし、次いで物資を炎上させてやろう。
先頭の機体が音もなく低空に舞い降り、おもむろにミサイルを放った。
その勢いで上空へ舞い上がり、一番後方の集積所に狙いを定めた時、騎馬隊の少し前方で大きな爆発がおこった。下瀬技師の考案した下瀬火薬が爆発したのである。
粉々に引きちぎられた弾体が驚異的な速度で付近を滅茶苦茶に破壊する。馬といえども生身である。僅かな時間の差こそあれ乗り手と同じ運命をたどることになった。さらに熱風が周囲を焼き尽くす。世界でも類を見ない強力な爆薬である。
爆発の瞬間を見ている者などいなかったのか、何が爆発したのかすらわからないようで、無残な死骸に近寄りさえしている。砲声が聞こえないのに着弾することなどありえないのだから。
海上の台船を標的に訓練してきただけに、移動しない陸上の目標なら決して外すことがない自信を、どの操縦士ももっている。相手の背後から放っておいてすぐさま上昇に転じるのだから気付きにくいし、着弾とともに魂まで吹き飛ばされるのだから死んだことにすら気付かないほどである。
後方で立て続けに爆発がおこっているのに、ゴマ粒の動きは緩慢であった。きっとどこからか得た情報をもとに砲撃しているだろうくらいにしか捉えていないのか、今に攻撃が始まるとでも考えているのか、筋の中から出ようとしないのである。
それこそ好都合であった。筋に見えるのはおそらく塹壕であろう。であれば熱風は塹壕を駆け抜けるはずである。すでに二度の上昇により速度が落ちている。残った二発を同時に放って帰ることにしよう。緩やかに旋回して機首に筋を捕らえた操縦士は、次の上昇に備えて降下角度を大きくした。
上空からのミサイル攻撃により、万と投入された兵士の七割以上が戦闘不能になっていた。その多くは、強力な焼夷効果のある下瀬火薬の犠牲者である。熱風は小銃弾を暴発させて被害を拡大した。特に物資集積所などは、予備弾薬の暴発でゴミ捨て場のような惨状を呈していた。
被害を免れた兵士たちは、弾薬の補給がないことでうろたえていた。進撃を始めた日本軍に対し、攻撃命令がないまま待機し続けることに恐怖心を抱いた兵士が発砲すると、次々に続く者があらわれ、いくらもたたぬ間に弾薬切れとなってしまった。
いくら大声で補給を叫んでも何も届かない。弾を取りにやった兵士も帰ってこない。塹壕を砲撃されて多くの犠牲者がでたことは知っていても、その後方陣地が全滅したことなど知らないのである。命令が届かないことを不審に思うと不安になる。不安がつのれば猜疑心が支配する。それが恐怖心に変化するのにいくらもかからない。
一人、また一人。持ち場を離れて後ずさってゆく。それを静止する将校も下士官もすっかり怯えきっていた。
一方、バルチック艦隊の動向は刻々と伝えられていた。
フランス領ハイフォンで補給をすませた艦隊が清国の沿岸を北上するのを高砂族の者が発見し、島伝いに狼煙で連絡してきたのである。
家康の行った改革以来、長年培ってきた信頼関係は益々堅いものになっていた。琉球に対すると同じく、対等な交易の継続のおかげである。
島伝いの狼煙送りは途中で船をはさみ、わずか一日で鹿児島に伝えられた。
その報せを受け、小倉で待機していた三笠がゆっくり岸を離れる。まっすぐに対馬沖をめざす三笠の周囲に、佐世保や壱岐から出港した駆逐艦や水雷艇が集まってきた。
下関を出港した巡洋艦が釜山に立ち寄り、さらに木浦で待機していた巡洋艦も黄海めざして白波をけたて始めた。
この艦隊、佐世保の駆逐艦隊と下関の巡洋艦隊、そして木浦の駆逐艦隊をかき集めたもので、合同演習をあまりしていない。三笠の指示が遺漏なく伝わるのか不安を孕んでいる。
三号魚雷艇は、清国側に張り付いて敵艦隊の到来を待ち構えていた。
昨夜三笠で伝えられた作戦司令に従い、清国から目視できぬあたりに陣取っているのである。五隻の僚艇は視界いっぱいの距離をおいて、やはりひっそりと波に揺られている。
最後の最後まで魚雷を使うなという命令を受けた時、五隻の艇長は魚雷艇隊司令に噛み付かんばかりの形相で抗議をした。駆逐艦のように、小なりとはいえ砲を装備しているならともかく、魚雷を撃たぬ魚雷艇にどんな価値があるというのだろう。なけなしの二本が持てるすべての武器なのである。肉薄攻撃を基本とする駆逐艦隊司令なら気持ちをわかってくれるはずだ。そう信じていたのがあっさり裏切られたのである。
しかし、それには司令も同じように憤ったのであるが、三笠での作戦会議で消し飛んでしまった。なんと、連合艦隊参謀は、三笠を標的艦にするというのである。
最も大きい三笠に攻撃を集中させ、その隙に敵の指揮系統を奪ってしまう作戦であった。
しかし、それでは撃沈はおろか航行不能に至らしめることすらできないと異論が噴出した。
参謀は、正攻法をとって勝てる相手ではないことを強調し、指揮所や操舵室の破壊を命じた。
特に小回りが利く駆逐艦こそが、この海戦の主役だとまで言い切ったのである。
そう激励されて、駆逐艦隊指令はニコニコ顔で戻ってきたのだった。
そして、万一観戦武官に目撃されないよう、黄海に侵入させないよう誘導することを厳命されていた。それも連合艦隊司令長官の命令である。多少の不服があっても従わないわけにはいかない。
その三号魚雷艇には、イギリス武官が同乗していた。
操舵席の後ろ、一段高く艇長の席があり、その横に椅子を与えられている。司令の駆逐艦が信号旗をひらめかせて前方を通過すると、艇長は、武官の体を椅子にベルトで縛り付けた。
「何をする、冗談にしては趣味が悪いぞ」
武官は、きっと見られたくないことがあって拘束するのだろうと思った。
「失礼した。でも、そうしないと怪我をしますよ。これからは誰も手を貸せません。絶対にこのままでいてください。絶対に手すりを放さないようにしてください」
言いながら艇長は自分の体も椅子にくくりつけ、ご丁寧に膝もベルトで固定した。そして床のベルトに爪先を差し込み、体が固定されたことを確かめるように揺すってみせた。
操舵手も射撃手もまったく同じように体を固定し、それぞれの持ち場でも準備ができたのか伝声管から報告が届いてきた。
「微速前進、面舵とお(一〇)! 風向きを見失うな」
三号艇は白波を立てぬよう、ゆっくり移動を開始した。
「機関半速。舵の利きを確かめろ」
「機関半速。舵試験。面舵三〇をとります」
速度がついてきた。武官は当然左に傾くものと思い、動かない体を右に傾けようと力をこめた。ところが、艇は自ら右に傾いたのである。長年海軍で生活していた武官はきょとんとしている。多少は左向きの力が働くが、どちらかといえば座面に押し付けられる感覚がする。同じように左に向きを変えると速度を上げた。
「右、滑る」
操舵手が右足をぐっこ踏み込んだ。すると、どちらにも回頭しないまま右にずれてゆく。左も同じであった。ただ、滑る間中、横向きの強い力で体が放り出される感覚がした。
「舵、異常ないか」
「異常ありません」
「よし、戻って出迎えに行くぞ。取り舵十五」
元の進路に戻った三号艇は、半速のまま前進を開始した。
「今の動きはどういうわけだ? どうしたらあんなことができるんだ? 説明してくれ」
艇が直進を始めると、我慢しきれなくなった武官が、唯一自由になる首を捻じ曲げて叫んだ。
「黙ってろ! 舌噛むぞ。あとで教えてやるよ、生きてたらな」
艇長は仏頂面で吐き捨てた。すでに前方では沖合いに進路を変更させるべく、攻撃動作が始まっている。艇は敵四番艦との衝突コースにのっていた。
「目標、敵四番艦。いっさい攻撃するな」
「敵、発砲!」
その命令を打ち消すように射撃手が叫んだ次の瞬間、右舷後方に水しぶきが上がった。
「敵発砲、続けて発砲」
水しぶきが徐々に近くなり、三発目の着弾はわずかに右舷ぎりぎりである。
「進路そのまま、右に滑る!」
艇長が叫ぶと同時に艇は右に横滑りを始める。
今度こそ命中と信じて撃ったであろう弾は、左舷真横で水しぶきを上げた。あのまま直進していれば見事命中していた位置である。
そのまま右に左に滑らせて雷撃の必中距離になったところで艦尾に向かって急旋回し、そのまま後続艦の鼻面に正対する。艦尾をかわったところで、水平線近くを敵艦隊と並走する三笠の巨体がちらっと見えた。
魚雷艇隊司令の座襄する駆逐艦が大きな黒煙を吐き出すのが攻撃合図であった。
一旦五番艦に正対した三号魚雷艇は、黒煙を確認すると大きく舵をきった。敵艦の船腹すれすれを前方に通り抜けた三号艇は。敵艦の射程外で大きく輪を描いた。
「指揮所を狙う、風にのれ。強速! いつでも撃て」
大きなうねりに乗り上げていた艇が胴振いしながら突進を始めた。速度が上がるにつれわずかに船体が持ち上がり、うねりの呪縛からいくらか自由になっている。そして、船体が持ち上がったことで速度も上がっていた。
「ちょい右、ちょい……。よし」
そして数呼吸。射撃手が静かに引き金を引くと、屋根の覆いを押しのけてミサイルが飛び出した。
「面舵五……、戻せ。よし」
照尺に前側煙突がじわじわ重なったところで回頭を止めさせた射撃手は、敵艦の舷窓をめがけて引き金を引いた。
「艇長、次は?」
「面舵、後続を狙う」
射撃手の自信ありげな催促を満足そうに短く答えた。
武官は、駆逐艦を皮切りに大型艦の乗艦経験が長い。そのせいか、今日ほど激しい機動を体験したことはなかった。うねりの頂点が近づくにつれ背もたれに押し付けられ、うねりの底では前に吹っ飛ばされそうになる。しっかりと身体を個縛していなければ、艇長が言ったように怪我ではすまなかったかもしれなかったのである。しかも、見たことも聞いたこともない奇妙な操船をするのだから尚更である。
そしてもう一つ。頭の上を飛び去った物体の正体を明かさずにはいられないと考えていた。赤黒い炎をひいて錐をもむように回転しながら、しかも十分に眼で追える速さなのに落ちることもなく。命中した瞬間の爆炎も異常に大きく感じられたのである。
武官の知識にある爆薬で、最も激しい爆発をおこすのはTNTとピクリン酸である。しかしTNTは豊富に出回ってはいないし、日本に輸出した記憶がない。ならばピクリン酸しかないが、あれほど敏感な爆薬はなかった。鉄とすぐに反応するのだから始末が悪い。それに加えて、充填のしかたも難しいのである。うまく流し込んだつもりでも細かな気泡はつきものである。その気泡が生じることで爆発の危険度が増すのである。
できればあの物体を本国に持ち帰りたい。武官は強く願った。そうすれば歴史に名を刻むことができると心底から思ったのである。
次々に指揮所付近を破壊された敵艦隊は、統一行動どころか各自の操艦すらままならなくなり、砲台が勝手気ままに撃ちかけてくるばかりである。自然に行き足が鈍り、貨物船団の様相を呈していた。
標的艦として沈没を覚悟していた三笠は沸いていた。
次々と魚雷が敵艦に命中する様が乗員に活力を取り戻させていた。司令部はそれでももったいぶって周囲を睨みつけている。
やがて敵二番艦がゆっくり傾きをまし、ついに横転するとほっとしたように微かな笑みをこぼしていた。
それにしても、魚雷艇の活躍が帰趨を制したことは事実であった。
もし同じような攻撃を受けたら。
露天甲板で戦況を見守る司令部は、指揮所の重要性をひしひしと感じていた。
船体に大穴を穿つ主砲弾にしても、分厚い防御を撃ちぬくだけの威力はなく、その焼夷効果によって甲板の戦闘員を殲滅しただけである。それにひきかえ、たった一本の魚雷がもつ威力は計り知れないものであった。
艦の行動をとめ、深く傾斜させる威力がある。小型艦などはたった一本で海の藻屑となったものさえあった。その現実を真摯に受け止め、兵器の研究を督励すべきだと悟ったのである。
日本軍は、バルチック艦隊を殲滅したことを観戦武官に報告し、鹵獲艦の調査に立ち会うよう求めた。海戦の結果を知らしめることが目的には違いない。しかし本音はそこにない。これから起こることを外国人に見せないために移動させたのである。
観戦武官が釜山に移動したことを確かめて、宣川に謎の部隊が降り立った。
つい先ごろの山岳戦で敵の後方から攻撃をかけた航空部隊である。今回も国境である鴨緑江を中心に補給路を絶ち、逃げ道を塞ぐ作戦である。その数十二。しかし、臼砲に匹敵する殺傷力のあるミサイルを四発搭載できるし、目標は高空から丸見えである。
野戦である。そして高空から見られる心配がないから弾薬の集積場所もよく見れば見分けがつく。弾薬さえなくなれば闘う術をなくしてしまうのである。
火薬の進歩は飛行時間を大幅に延ばした。それは進出距離が延びることを意味する。燃焼煙があまり出なくなったのは目視による発見を遅らせることになる。まして、攻撃に際しては滑空しかおこなっていない。攻撃姿勢で点火しようものなら地上に突き刺さってしまうのである。誰でもいいが、鷹が狩をする音を聞いた人がいるだろうか。
ただ静かに、たとえ翼が空気を震わせても、耳元を吹き渡る風にまぎれてしまう。そして最大の長所。頭の上から狙われているなど世界中の誰も思わないのである。
世界の誰も知らない戦法で闘うことができる日本軍は、圧倒的優位に立っていた。
丘陵地帯に陣取っていたロシア軍は悲惨な最期をとげた。
日本軍の動きが緩慢なことで安心したのか、トーチカの裏側では大勢の兵士が休憩しており、小隊ごとにバタバタ倒れたのだ。司令部らしき天幕などは、たった一発の攻撃で動くものさえいなくなってしまった。弾薬は地響きをたてて弾け、暴発した銃弾による死者も多数でていた。
分厚いコンクリートで固められたトーチカでさえ、銃眼を泥で埋められては打つ手がないし、銃眼から携帯用ミサイルを撃ち込まれると焼却炉と化してしまう。浮き足立って後退する時に、鴨緑江に架けた浮き橋に兵士が殺到するところを狙われると、まるで射的場であった。
戦後処理にあたり、ロシアは多額の賠償をつきつけられた。
その捻出を焦った皇帝が重税を課すと、それを利用して私腹を肥やそうとする貴族や軍人が現れた。それを機にロシア帝国の崩壊が始まり、皇帝にとってかわった権力者が、より圧制を押し付けたのである。
一方の清国は、比較的小規模な侵攻であった。よって賠償額は少なかったのだが、疲弊しきった国には賠償する体力が残っていない。そこで、沿海部を放棄するということで決着がついた。
そうなるとおかしなもので、民衆が大勢沿海部に流れ込み、内陸部に取り残された民衆は不満のやりばをなくしていたのである。
その沿海部、日本は最初から自国に組み入れるつもりなど毛頭ない。イギリスに管理しないかともちかけたのだが、そのイギリスさえ、管理の負担と収益とを照らしあわすと採算がとれないと断ってきた。一部地域のみ租借するという結論を下した。
結局日本が選んだのは、東南アジアへの交通のために、金門島を租借することだけであった。




