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闘わずして勝つ

 十七 闘わずして勝つ


 世界中を見渡すといったいどれくらいの民族がいるのだろうか。単一民族だけで構成された国もあれば、多くの民族を統合している国もある。ソビエト然り、中国然り。特に少数民族だと、族長の思惑ひとつで民衆の暮らしが天と地ほども差が出てしまうのである。

 族長の思惑といってもさまざまである。思想的なものもあれば宗主国との力関係もある。それに歴史的なつながりもある。ただその多くは甘言に惑わされているか、個人的利益である。しかし、いくら族長が決めたからといって盲従する者ばかりではない。自分たちの権利意識が芽生えたり宗教的な反発もおきる。一方の宗主国は少数民族など眼中にない。いかに自国の影響下におくか、つまり支配するかしか考えていない。支配域、要は領土を護り拡大することしか考えが及ばないのである。だから紛争がおきる。紛争を収束させる手段を学ばないから力にたよる。それがなにを生むかといえば、恨みである。

 小数民族の不満につけこみ独立をそそのかせばどうなるか。宗主国と威張っているわけにはいくまい。鎮圧に名を借りた虐殺で封じ込めようとするだろう。そこに隙ができる。

 方々で一斉に蜂起されたら外国への防御すらできなくなるに違いない。

 手を汚さずに事を成すには謀略が極めて有効なのには違いない。が、しかし、のせられた少数民族はどうなる。いいように利用されて疲弊したのでは民族の存続すらおぼつかない。だからといって現状をうけいれてしまえば尊厳までも奪われてしまう。欲というものは、かくも惨い仕打ちをするのである。



 大統領選をめざして活動を始めたアイゼンハワー。彼もアメリカ白人社会を生きてきた男である。まして軍人として頂点に手が届く地位にのぼりつめた男である。いかにリベラルを気取ったところで人種差別を是認している。もっとも、それを表面に押し出す愚はしないで、あくまで庶民的な仮面をかむっているだけである。だからといって庶民ばかりを見ているわけではなく、実業家を取り込むことにやっきとなっている。とはいえ、選挙戦を闘い抜くにはそれだけではだめだと考えていた。

 日本からの戦況報告が全米に流されて以来、捕虜となった将兵の家族が政府に叛旗を翻す動きをみせている。棚ぼたで大統領になったトルーマンは当然対立候補であろう。しかも現職大統領として圧倒的優位を信じているに違いないが、ルーズベルト時代さらの一連の失策がある。それを見逃す手はない。それに、対日戦争の正義が瓦解した以上、早期に戦争を終結させねばならない。そして、対日戦争に勝利する見込みが現時点では一つもないのである。そればかりか、サンディエゴの海軍根拠地を壊滅状態にされ、パナマ運河も使用できなくされてしまった。驚くべきは、サンディエゴから六百マイルも奥地の研究施設を廃墟にしてしまったことである。飛行場をもたない日本軍がどうやってそんな奥地を攻撃できたのかは知らないが、千二百マイル以上の航続距離をもつ飛行機がなければ不可能である。しかも小面憎いことに、ロスアンジェルスを含めた人口密集地域をまったく無視したのである。もし日本軍が大西洋に進出したならば、ワシントンは確実に攻撃されるだろうし、べスペイジの飛行機工場もどんなことになるやら。アメリカ本土攻撃をラジオ放送で全土に通告し、なしとげてしまったことを考えると、早期和解こそがアメリカの生き残る最善の方策としか考えられないのである。その条件は? それを煮詰めることこそが重要だとも考えていた。


 フランス領ギニア。その中心都市コナクリは、突き出た半島の先端に位置する。すぐ先には大きな礁湖を望むまことにのどかな町である。郊外に出ればボロをまとった現地人が力なく座り込んでいるばかりだが、ここコナクリは違う。フランス商人が栄華をうたっている。赤道直下であるのもかかわらず蝶タイを気取る馬鹿が少なくない。ピシッと折り目のついたズボン、ピカピカに磨きあげられた靴。細身の葉巻で夜会びたりである。男ならずとも一度は経験してみたい王侯貴族の生活が再現されていた。もっとも、誰もが裕福かといえばそうではなく、現地人警察官に棍棒で追い立てられて逃げ惑う者も、中にはいる。


 沈む夕日を正面に、岸壁で糸を垂れるアイゼンハワーに露天商がさかんに海老を勧めていた。


「旦那、茹でたての海老どうです? ここの海老は旨いですぜ、世界中回ったってこんな旨い海老は食えませんぜ」


 垢にまみれたシャツを着た露天商が振り提げ荷物を置いて声をかけてきた。ひどく訛りのあるフランス語である。


「旦那、ねえ旦那!」


「腹は減っていない、あっちへ行ってくれ。魚が逃げてしまう」


 アイゼンハワーは相手の顔を見ずに呟いた。


「なんだ、イギリスじゃあないなその言葉。アメリカ人だな? じゃあ楽だ」


 露天商はほっとしたように下手なフランス語をやめて英語に変えた。


「なあ旦那、海老買ってくれよ、安くしとくからよう」


 それでも無視し続けるアイゼンハワーの気を引こうと、真横まで近づいてきた。


「ねえ旦那、いいから食ってみなよ。だめか? じゃあ、グアムの海老はどうだい?」


 アイゼンハワーの眉がピクリと動いた。しかし、相手が何者なのかわからないために黙って水面を見続けている。


「グアムの海老は嫌いかい。じゃあよ、フィリピン産もあるぜ。アリューシャンで獲れたやつもあるしよう、内緒だけど、アメリカ産もあるぜ」


 アイゼンハワーの右手が腰に伸びたのを、すかさず露天商が軽く押しとどめた。


「おっと、物騒な物はやめなさい。でなきゃあ、一生涯腕が使えなくなりますよ」


 露天商の言葉が丁寧な物言いに変わっていた。


「お前は何者だ?」


 アイゼンハワーの腕に力が籠められた。


「トルコの雑貨屋ですよ。商談にきたのですがねえ」


 アイゼンハワーがギニアに来た細大の理由、商談の相手が現れたのであった。なにもギニアでなくてもよかった。スウェーデンでもよかったのだが、ギニアでボーキサイトが発見されたことを口実に国を抜け出したのである。ギニアはフランス領だからアメリカ人の渡航はさして不自然ではないし、ボーキサイトの買い付けアドバイザーという立場は、枯渇寸前のアルミ原材料を入手するための、いわば救世主でもある。そこならば各国の商社が集まるのだから外国人と向かい合うことは当然である。それを利用して日本側の考えを知ろうとしたのである。


「日本国外務省諜報員、磯崎です。まずは海老を食べてください。アリューシャンの海老です」


 磯崎は、茹でた海老とともに一枚の写真を渡した。写真には大型爆撃機が写っている。


「これは?」


 アイゼンハワーはいぶかしげにその写真を見た。とてつもなくおおきな飛行機が高い山を背景に飛んでいる写真である。その胴体と尾翼には日の丸を思わせる黒丸が描かれていた。


「それは、樺太で鹵獲したアメリカ爆撃機の性能試験をしている写真です。見覚えありませんか?」


「噂しか知らん。こんな飛行機があったのか」


「爆撃機にしては優秀な機体のようですね。3千馬力ほどのエンジンを四発。上昇限度、速度、航続力、どれをとっても一流です。が、それより与圧と動力銃座が興味深い。ですが、それは地上にあったから助かった。飛行していた機体は全部撃墜されましたからね」


 磯崎はあっさり言い放った。


「これが撃墜された? 全機? いったい何機撃墜されたんだ?」


「おや、極秘にされているのですか? 少なくとも百は下らない数ですよ。無理ないか、たった一度の作戦でそんな大規模な犠牲をだしたのですからね」


「グアムやフィリピンもあるのか? アメリカがどうだと言ったな、写真があるのか?」


「もう十分でしょう。見れば見るだけ哀しくなりますよ。ところで、今日呼ばれたのはどういう用向きですか?」


「トルコの雑貨屋が力になるという噂を耳にしたのでな」


「それは内容しだいですよ。自分本位でなければ、そういうことがあるかもしれませんがね」


「詳しい話を聞きたいものだが、どうすればいいのだ? そう時間に余裕があるわけでもないし、気軽に国外へ出ることもできんのだが」


「私が窓口になります。私に許されていないことについては先送りにせざるを得ません。二時間後に食事をしましょう。そこでなら邪魔されません。閣下の安全も保障します」


 そう言って磯崎は店の地図を渡した。


「見たところ丸腰のようだが、どうやって守ってくれるんだ?」


「ああ、丸腰だから不安ですよね。いいでしょう、一度だけ見せましょう」


 辺りを見回した磯崎は、手のひら大の薄い石を拾ってきた。一点を地面につけて斜めに持つと裂帛の気合を籠めた。

 ふぬっ 気合とともに振り下ろした拳が石を見事に割った。


「閣下の骨を砕くくらい簡単なことです。私よりすごい奴が何人も周囲を固めています」


 そう言って無邪気に笑ったのである。


 磯崎の指定したのは下町の食堂であった。みすぼらしい身なりの者はいないが、さすがにパリッとした外国人の姿はなく、猥雑な喧騒とタバコの煙が満ちていた。


「では、どんなことを望んでいるかを聞かせてください。我々がどういう形で協力できるか、代償は何かはそのあとでお話ししましょう」


 二人の間には海老や蟹が大皿に盛られている。磯崎は何気ない会話を演出しているのか、そう言ったきり海老の殻をむき始めた。


「私は、ある事情があって政府の考えを受け入れることができなくなり、軍を離れた。私が大統領になってアメリカの建て直しをするためだ。しかし、選挙は来年、もう時間がない。このままではトルーマンが再選され、戦争が続くだろう。それではアメリカがつぶれる。世界での信用をなくしてしまう」


 アイゼンハワーは用心に用心を重ねて話した。この話がどんな影響をおよぼすのか皆目見当がつかないのだから仕方がないのだが、政府関係者が聞けば卒倒するような内容である。

 自分が大統領になる手助けを敵国に求めること自体がすでに売国行為であろう。しかし彼は、まだ政治的な責任を一つも負う必要がないのである。


「これを見てください」


 磯崎が何枚もの写真をテーブルに並べた。


「グアムの司令部です。現在はフィリピンに駐留していた軍人、軍属、資産家もすべてグアムに移しています。そしてカムチャッカに建設した基地。樺太、ウラジオストック、サンディエゴ。それとサイパン攻略部隊、偵察艦隊、アラスカ偵察部隊やサンディエゴ沖の戦闘で行動不能になった艦隊。我々はそのことごとくを捕虜にしました。当然、名簿を作ってあります。写真と名簿を公表したら和平へ前進しませんか? 和平への期待がたかまれば閣下の当選が現実味を帯びないでしょうか」


「では、あれは謀略放送ではない、真実だというのだな?」


「ラジオ放送の内容はすべて事実です。以前に放送した強制収用所の話も事実です」


「私には何も聞かされていなかった。国民にもだ。だとすると、開戦通告の問題はどうだ? 政府の発表とは違うのか?」


「まったくの出鱈目で、通告前に民間人の住む地域を爆撃しました。だから、開戦前の組織的犯罪として、関係者を国際手配したのです」


「どういうことだ! アメリカは常に正々堂々としていなければいけない。正義の闘いでなければいけない」


「そうではないことを閣下はご存知のはずです。正義などアメリカの歴史に存在しなかった……。が、そんなことは今話題にすることではありません」


「では訊ねるが、日本は何を望んでいる?」


「戦争の早期終結です。それには和平がベストかと」


「日本が降伏するというのは?」


「ありえません。その証拠に、アメリカは太平洋において無力です。基地をことごとく失い、艦隊ごと壊失してしまいました。ハワイが無事なのは、日本が積極攻勢を仕掛けていないからです。なんならアメリカ本土に上陸してもよい。都市を占領して占領地域を拡大するだけの能力はありますよ」


「馬鹿なことを、アメリカは強い!」


「強がりはよしましょうよ。閣下がギニアへ来た本当の目的はボーキサイトですね。アメリカではアルミに困っているはずです。他の鉱物も輸入できなくなっています。それなのにあんな馬鹿でかい飛行機を百機以上失いました。それで何機の戦闘機が作れますか?。ニッケルがないはずです。すると耐熱合金ができない。だから輸入交渉に来た」


「私は輸入などにかかわっていない」


「とぼけなくてもいいですよ。我々は鬼ではありません。この貿易がうまくいけばいいと思っていますよ。ですが、アメリカはおろか、どの国にも輸出できなくすることができます」


「馬鹿な、そんなことができるものか」


「失礼ですが、閣下は経済について詳しくない、いや、素人ですね。そんな仕組みくらい誰でも考え付くことですよ」


「いったい何をしようとしているんだ、お前たちは!」


「アメリカは、日本向けくず鉄の輸出を一方的にキャンセルしました。契約書に積み出し期日が明記されているのに、それを反故にしてしまった。アメリカは自分たちのしたことを身をもって判らねばなりません」


「では、いくら交渉しても意味がないと?」


「閣下の返事しだいです。このまま三等国に落ちるのを承知ならそうなさい。それが嫌なら我々の言葉に耳を傾けるべきです」


「その条件というのは何だ」


「いくつかの制限を我慢してもらいます。別に経済的損失を与えるということではありません。国際社会での発言力を弱め、戦争を推進した企業の既得権益を放棄してもらいます。そして、今後戦争をしないような仕組みを作ってもらいます。他にはたいしたことを要求しません。国際手配した犯人は引き渡してもらいます。それくらいですね。それならあなた方の不満も我慢できる、ちがいますか?」


「引き渡した者はどうなる?」


「刑事被告として日本の法律で裁きます。なにしろ戦争状態ではなかったのですから、刑事事件とするのが当然でしょう」


「だからどうなるのかと聞いている」


「それは裁判所が決めることです。もっとも、最高刑は死刑ですが」


「死刑? 直接攻撃をしなかった者でも?」


「我々の国では地位が高い者ほど罪が重いのです。政府のお偉方などはいつでも死ぬ覚悟があります。覚悟のない者は指揮者になる資格などありません」


「では訊ねる。もし、仮にそれを全部受諾したら何をしてくれる?」


「まず、政府が公表していない事実の詳細なリポートをさしあげましょう。そして、国民にとって関心が高い捕虜名簿をプレゼントします。鉱物を輸入できるようにもしましょう」


「なるほど、大統領選挙に有利にはたらくことばかりだな」


「そして、極秘情報をさしあげる。国民にも秘密にして研究していたことをね」


「どういうことだ? 極秘研究?」


「まずはこちらの条件をのむかどうかです。即答しろなんて言いません。しかし、時間を戻すことはできないですから、なるべく早い決断が閣下のためでしょうね」


 磯崎は、アイゼンハワーの見ている前で写真に火をつけた。海老の殻の上で一枚、また一枚、アメリカ人の誰も知らない写真が煙になってゆく。その灰を手のひらですり潰すと磯崎は席を立った。


 その夜、アイゼンハワーは見せられた写真のことばかりを考えていた。

 我先に写ろうとひしめく将兵、さほど損傷がみられない艦船。まだ十分すぎるほど闘えるではないか。それがすべて捕虜になった? その理由がどうしても理解できないのである。考えて考えて、唸りながら考えて……。そしてアイゼンハワーは岸壁でのやりとりを思い出した。そう、別れ際に素手で石を割ったあの光景である。

 あの写真は、その程度のことしかしていないという意味を悟らせるための道具だったのだろうか。だとすれば、日本が本気で反撃を始めたらどうなるだろう。アメリカの誇りや伝統など海の底に沈められてしまうのだろうか。いや、アメリカは広い。いくら占領拠点を増やしたところで線にすぎない。きっと反撃できる。国民が全員立ち上がるだろう。

 いや待て、そうなれば国内は疲弊してしまう。三等国以下に成り下がってしまう。対する日本はアメリカを離れればよいだけのことだ。それではジリ貧だ。

 彼は決して愚かではない。それどころか将兵に絶大な人気のある優秀な指揮官であった。

 情報を冷静に分析する能力にも秀でている。その彼が眠ることもできずに呻吟しているのである。


 まんじりともせず考え続けた彼は、磯崎の提案をのもうと思うようになっていた。ただ、単に条件をのむのではよくない。弱腰と誹られるだけである。だが、磯崎の示した条件は多くない。譲歩を迫って納得するだろうか。いやいや、これは相手にとってかなり譲歩した条件と考えるべきだろう。ではどうすれば……。


「日鉱の澤田という者です。磯崎にあなたの護衛を言い付かりました。磯崎は昨夜のレストランでお待ちしております。観光客のように歩いてください」


 朝食を終え、商談に余念のない商社マンを見送ったアイゼンハワーは、ホテルのボーイを磯崎の元に走らせていた。そのボーイの持ち帰った返事により、ホテルを出たのである。

 通りを渡ろうとしたら牛に引かれた荷車に行く手をはばまれて立ち止まっていたのである。

 同じように立ち止まった商人風の男が、前置きなしにそう言った。

 やがて荷車が通り過ぎると、二人は人並みで離れてしまった。


「お待ちしていました。さすがに決断が早い。名宰相の絶対条件ですね。ところで、こちらの条件を受け入れる決心がつきましたか?」


 磯崎は昨夜と同じテーブルでコーヒーを飲んでいた。燻らしていたタバコを灰皿にねじり、正面の席をすすめた。


「まだ信用できん。それに……」


 結局眠られなかったアイゼンハワーは、眠気覚ましにコーヒーをたて続けに飲み、さんざん考えたことをボツボツ語りだした。


「それに? どんなことでしょうか?」


「つまり……、そっちの条件を丸呑みするということは……」


 大筋では納得したのだろうが、少しでも有利にはこぼうと言い澱んでいる。


「つまり、閣下の交渉能力を疑われる……、ということを心配されていると?」


「……まあ、そうだ」


「では最大の譲歩をしましょう。台湾攻撃に参加した将兵のうち、重要な命令を下すことができた者以外に政治恩赦を与えましょう」


「それだけでは弱い。もっと成果がなければ」


「でしたら、みかけの要求を吊り上げましょう。十五項目の要求を僅か三か四に絞ったようにみせかければいい」


「元値を吊り上げて値引き幅を大きくか……。そっちが強行に出てさえくれれば交渉力を評価されるだろうな」


「こんなことを言いたくありませんが、他の方ならこんなに有利な条件を提示しません。交渉すら取り合わないかもしれません」


 もうこれ以上譲歩しないということを磯崎は暗に伝えた。右か左か、決断を促すためである。


「……わかった。大統領になれたらきっとそうしよう」


 大統領になることが何にもまして大切なのである。絶大な権力を握らねば何事も始まらないのである。そのためにアイゼンハワーは日本と手を組むことに決めた。


「本当ですか? アメリカは嘘をつきましたからなあ。どうやって信用させてもらえますか?」


 二つ返事で交渉成立とふんでいたアイゼンハワーは、磯崎の疑わしげな視線に当惑した。自分が条件をのみさえすれば次の段階へ進展すると思い込んでいたのである。が、過去に政府のとった対応で不信感を抱いている。いら、信用を失っていることに気付かされたのである。


「どう? 私の言葉では信用できんか?」


「はっきりいえば、いつまた同じことをしないとも限らないし、そもそも協力を要請したのは閣下ですからねえ。我々は閣下に協力しなければならない義理はないのですから」


 磯崎は立場の違いをアイゼンハワーに認識させようとしていた。どこまでいっても日本が主導権を握っていることを解らせねばならないと考えていた。相手をそのきにさせ、退くに退けない状況に追い込んでおかねば、どんなしっぺ返しをされるかわかったものではない。


「どうでしょう閣下、我々の社会では決して嘘をつかないということを誓い合う儀式があります。もし背いたなら命をもって償うという意味が込められています。どうです? できますか?」


 磯崎は元海軍中尉。戦闘機搭乗員である。普段は商社マンのように振舞っているが、こういう場面になると鋭い眼光をのぞかせる。


「どんなことをするのだ」


「簡単なことです。誓詞血判という方法もあります。ですが、閣下を武人と見込んで鉦打ちにしましょう。刀を鞘から少し抜いて、戻すだけ。たったそれだけです」


「わかった、やろう」


「間違えてもらっては困りますよ、これはただのセレモニーではありません。武士同士の固い約束です。破れば命はありませんよ」



 この密約により、日本はアイゼンハワーを次期大統領に当選させるべく正面切った駆け引きを始め、一方のアイゼンハワーは、日本との交渉窓口として発言力を増したのである。

 それを支えたのは、磯崎が託した分厚いファイル。アメリカの採った作戦とその結果が詳細に整理されていた。そして、行方不明により戦死扱いされている将兵のほとんどが生存していること。その詳細な名簿も沿えられていた。


 彼は、ルーズベルトとトルーマンこそがアメリカ最大の敵であり、物資の輸入が見込めない現状を打破するためには日本との早期講和しかないと民衆に説いた。

 当然政府による妨害はあったが、民衆の間に厭戦気分がたかまり、そしてついに大統領の座を射止めた。

 大統領に就任した彼は、真っ先に日本の示した講和条件を受諾すると宣言し、外国に出兵していたすべての将兵に戦闘停止を命じた。

 それでもアメリカの民衆は彼の手腕を大いに評価した。無条件降伏ともとれる講和条件を大幅に緩和させたのだから。

 いずれ近い日に国際手配された者が獄門台に晒されることになっても、きっと民衆は日本を恨まないだろう。それどころか、無用な死者をださずに完璧な闘いをしてのけた日本に尊敬の念さえ抱いていた。

 恨みを残さず、勝ちすぎず。その方針が見事に花開いたのであった。


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