奈落
十四 奈落
この冬は寒気が厳しく、東京では、三度目の雪に覆われていた。
アメリカからの一方的な攻撃で幕を開けた戦火は、大火にならぬうちに沈静化し、国内では新年を迎える準備に大わらわであった。
イギリスからの急報が届いたのは御用納めの日。帰宅前に職員が一年の奮闘を慰労している最中であった。
至急電を入れた電信箱を抱えた若い職員が、酒に顔を火照らせたまま駆け込んできた。
「イギリス大使からの至急電です」
なるほど、表紙には大至急のスタンプが真っ赤に捺されている。はらりと目次に目を通した外務長官は難しい表情になって書類を届けた職員を凝視した。
盗み見を疑われでもしたと受け止めたのだろうか、職員は真顔で首を横に振った。
「誰も盗み見など疑っておらんよ。すまないがついでに用を頼まれてくれないか」
苦笑した長官は何か言いかけ、口を閉じた。
「いや、私が直接やろう、君では無理かもしれん。早く帰ってやれ、子供が喜ぶぞ」
長官は職員をさがらせた。
「イギリスから何か言ってきましたか?」
御用納めの訓示を終えた局長が何人か、長官室で歓談をしていたのである。イギリスという一言で、欧州局長が様子をうかがった。
「最近の情勢を報告してきたのだが、チャーチルから艦隊派遣要請がきた。どうも、空母を派遣してほしいようだ」
長官は、一座の者に至急伝を見せると、ポケットの時計をちらりと見やった。
「早くしないと誰とも連絡がとれなくなります。手分けして召集しましょう」
外務省からの緊急招集がかかったのは、総務長官、軍参謀総長、陸海軍長官、軍需省長官、国会の正副議長たちであった。
冒頭、外務長官が口火を切った。
「年末の慌しい時にご足労をお願いし、申し訳ありません。さきほどイギリスより緊急電が入りました。欧州での戦況報告に加え、チャーチル首相からの艦隊派遣要請がきております。しかも、急を要するようなので審議いただきたいと思います」
「外務長官、審議はよいが何も……資料はないのかね?」
どの席にも茶碗があるだけなのを見やって、総務長官が皮肉を言った。
「さきほど届いたばかりです。今日中に資料を用意しますので、それまでお待ちください」
「いいじゃありませんか、総務。口頭で説明してもらうだけで十分でしょう」
参謀総長は冷ややかな目で総務を見やり、外務長官に本題に入るよう促した。
「では、まず戦況を説明しますと……」
「なるほど、欧州諸国には、アメリカに対抗する海軍力がないということか、ある意味、正直に手の内を曝したということだな。それでわが国に援助を願い出たと……」
総務は相槌をうちながら喉を湿らせ、懐から皺くちゃのたばこを取り出した。
「待ってくださらんか、軍の派遣は議会の承認が必要ですぞ。それをどうなさるおつもりかな?」
一人だけ羽織を着た議長が穏やかに声を上げた。
「いかにも。年末で議会は休みに入りました。議員も郷里へ戻ってしまいましたが、呼び戻すのですかな?」
議会の正副議長は、政府だけで決定することに懸念を示した。今回が非常時だということは理解できるが、これが慣例になってしまうと議会が形骸化されてしまう。それはなんとしてでも防がねばならないことである。
「申し訳ないが、今回は特例措置として、事後承諾とさせていただくほかありません。これを前例として議会を蔑ろにすることはないと申し上げます」
外務長官は、正副議長に深々と頭を下げた。
「……そういうことなら、今回だけですぞ」
恩着せがましく議長が方眉を上げてねめつけた。誰が主導権を握ってもよさそうなものだが、どうもこの議長は権力志向が強いらしい。
「海軍長官、これは君の管轄だ。最短でいつ出港できる?」
議長の態度などどうでもいいと言いたげに、参謀総長が海軍長官に正した。
「二日の猶予をいただきたい。ただ、どのくらいの規模にするかを指示していただきたい」
海軍長官は即答した。二日という猶予も、物資の積み込みを考えれば実現可能か微妙なところであった。
「どうだね、空母二隻、駆逐艦四隻、魚雷艇二隊では。油槽艦二隻と補給艦があれば大丈夫だろう」
参謀総長は通常行動の一個艦隊規模を打診している。
「お言葉ですが、魚雷艇を進出させるのは厳しいと思います」
「前回派遣したが、いったいなぜだ?」
「前回は小型艦艇でしたのでスエズ運河を通過しましたが、空母はスエズ運河を通過できません。となると、魚雷艇への燃料補給が厳しくなります」
「そんなことなら解決できるぞ。運搬船に積めばいい」
「ですが、艦隊速度が……」
「高速船を使え、あれなら兵員輸送にも便利がいい」
参謀総長の言う高速運搬船とは、主に下関から朝鮮や沖縄を定期的に回っている双胴貨物船で、後部に接岸用扉をもつ軽快な船である。実際、広い海域に出れば、二十五ノットの巡航速度を発揮していた。ただし、運搬船と呼ばれるように武装も防御もいっさいない。そのかわり、双胴の特性か横揺れの少ない船である。それなら魚雷艇の六隻くらいは余裕で搭載できるし、乗員を無駄に疲れさすこともない。航走中にでも、工夫しだいで魚雷艇を発進させられるかもしれない。
「では、早速準備させます」
海軍長官が立ち上がった。
「待ちたまえ、大事なことが残っておる」
参謀総長は、苦笑しながら着席するよう促した。
「軍需長官、現在保有するジェット機の数は?」
「現在のところ、三百二十八機保有しております」
「予備のエンジンはどれだけある?」
「予備エンジンは千二百二十機です」
「そうか。そのうち、空母で運用可能な機体は何機だ?」
「九十七機あります」
「海軍長官、無理すれば何機搭載できる?」
「そうですね、小型機を少し降ろせば二十五機可能だと思います」
「では、現用二十、補用五としよう。軍需長官、ミサイルはどうだね?」
「航空機用は存分に用意できます」
「対艦船用、対地上用も念のために準備してくれ。例の試作品はどうなった?」
「射程が二百に延びました。しかし、風や地球の自転の影響を受けるので命中精度が安定しません」
「そうか。しかし、せっかくの機会だから使ってみたい。余裕はないか?」
「そりゃあ、十や二十ならかまいませんが」
「よし、それも大至急手配してくれ」
「そろそろよろしいですか? 総務、こういうことになりました」
外務長官が総務の決裁を求めた。
「よろしい。正月をだいなしにして気の毒だが、ひとつしっかり頼む」
外はすっかり更けていた。
海軍長官と軍需長官から指示を受けた部署は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
二日後の出港となれば、残された時間は一日と半分しかない。
工廠の倉庫に煌々と明かりが点り、軍港とのピストン輸送が始まった。
「さっそく願いを聞き入れていただいて感謝に堪えません。このところそればかりが苦になって睡眠不足になりかけていました」
でっぷり太ったチャーチルは、愛用の葉巻を挟んだまま口にすることもなく、海軍武官と和やかに話していた。
「空母を二隻派遣していただけるそうですな。補給が必要になったら遠慮なく言いつけてください。最優先に揃えさせます」
「それはありがたい。その時がきたらぜひお願いします」
「ところで、今日は二人の友人を紹介したいのですが、会っていただけますかな?」
「さて、どういったお方でしょう。我々は気が小さいので、案外逃げ出すかもしれませんよ」
「いや、その心配はないでしょう。そこに待たせておりますのでな。元ドイツ軍将校、アドルフ・ガーランド少将、そして、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐です」
紹介とともに上背のある、眼光の鋭い将校が現れた。
「こちらは日本の駐英武官、柴田海軍中佐、同じく八木少佐」
驚いて立ち上がったまではいいが、柴田も八木も、相手の眼光に負けまいと睨みつけていた。
暫くの間じっと互いを値踏みしていた四名は、やがて誰からともなく踵をカチンと鳴らし、精一杯の敬礼で挨拶をした。
その手を誰もおろさない。しびれをきらしたチャーチルが、早く席に着くよう勧めても、
「自分たちは階級が下であります。どうか先に手をおろしてください」
柴田が言えば、
「我々は君たちに降服した身だ。君たちこそ先におろしたまえ」
ガーランドも譲らない。
「これだから頑固者は困る。……ではこうしよう。私の合図で着席しよう。いいね」
チャーチルは、その頑ななことに呆れていた。
「そう硬くならないでほしい。この場にいる四名はすべて航空士官で、至宝ともいうべき人物ばかりです。これからのこともある、昨日の敵同士ではあるが、今は頼れる仲間同士だ。ひとつ仲良くやってもらいたいものです」
チャーチルはにこやかにふるまっている。
「ドイツ人は頑なです。それが誰であろうと、上司の命令をまっとうしようとする。一方、日本人ほど頑固な人はいません。自分が信じたら最後、欲得どころか命をも惜しみません。それが我々に欠けている美徳でしょう。あなたがた、一斉に敬礼しましたな。それまでは腹の探りあいをしていた。違いますか? でも、通じ合うものがあった。そういうことですよ」
チャーチルは頼もしそうに四人を見回し、思い出したように葉巻をくわえた。
「こうしてお近づきになったのを機会に、ぜひともお願いしたいことがあります」
いとも気軽に付け加えた。
「何でしょう、我々にできることなら」
柴田は用心しながらチャーチルに先を促した。
「たいしたことではありません。この二人を空母に招待してはいただけまいか」
「いや、それは……」
「なにも中枢部を見せろというのではありません。ドイツには空母がなかったそうで、わがイギリスでも空母など僅か三隻しかありません。そこへゆくと、日本は海洋国ですので空母は進んでいる。それに、飛行機の運用方法も世界の最先端といっていいでしょう。ドイツの技術は確かに優れていますが、一度日本の飛行機に触れてごらんなさい。我々の考えが甘いというのを思い知らせてくれるそうです」
チャーチルはガーランドに、日本の技術を認識するよう遠まわしに促した。
「いや、それはどうでしょう。我々を上回る基礎技術は一朝一夕には獲得できないでしょう」
技術にかけてはドイツを凌ぐ国などありえない。今でもガーランドはそう思っている。
「それがです、あなたがたが試乗したジェット機ですが、基本設計はわがイギリスのホイットル中佐でした。しかし、そのホイットル中佐より先に、日本人は実用機を完成させてしまいました。しかも軽油を燃料とし、全力二時間の使用に耐えるのです。製造もずいぶん簡略化されたとか。他にも驚く技術を開発しているのですよ」
さかんに日本の技術を持ち上げるチャーチルを、ガーランドは冷ややかに見つめていた。
「ところで、ひとつ気になる情報を入手しましてなあ。なんでも、ユダヤ人の物理学者が姿をくらましているそうです。確かなことはいえませんが、どうもアメリカに行ったようですな」
「物理学者ですか。それがどうかしましたか?」
「それについてはガーランド少将の方が詳しいでしょう」
「あれは半年ほど前でしたか、ヒトラーが奇妙なことを言い出したことがあります。それで物理学者が大勢集められました」
「意味がわかりませんが……」
「詳しくは知りません。しかし、通常火薬など比較にならない爆発力のある爆弾を製造する目的だったようです。どうも、ウランという物質を核分裂させると、町をまるごと蒸発できるそうです」
「では、アメリカがその研究を始めたというのですか?」
「確たる証拠はありません。しかし、その恐れは非常に高いと考えるべきです」
「町ひとつ蒸発ですか……。 なんだかピンときませんが……」
チャーチルが待ち望んでいる空母部隊は、喜望峰をまわってアフリカ西を北上し、イギリス西方二百海里で魚雷艇を降ろしていた。真冬の横須賀を出港し、赤道を通過して最初で最後の補給地、シドニーは真夏であった。そして最短コースで寒風の吹き荒れる喜望峰へ。
北上するにつれまたしても真夏の暑さに喘ぎ、そして真冬の大西洋で波にもまれている。
比較的穏やかな太平洋。異様に大きな三角波が特徴のインド洋。そして冬の大西洋は波風ともに荒い過酷な海であった。
運搬船が後部扉を倒すと、肌を刺す寒風が遠慮会釈なく船倉に吹き込んでくる。一旦吹き込んだ風は逃げ場をなくし、奥で吊り上げ準備をする作業員の頬を震わせていた。
そんな風が吹かなくても、鉛色の空を見るだけで体の芯まで凍みつくような気分にさせられる。今日は熱い汁粉にありつきたいと、多くの兵士がそう思った。
異形の艦隊が港口に姿を現しても、チャーチルは埠頭にまで持ち込んだ肘掛椅子に深く座ったままである。
ガーランド少将とルーデル大佐は、三つの胴体をもった巨大な空母に圧倒されていた。
柴田中佐と八木少佐でさえ、最新改良型を初めて見るのである。従来の松型空母でさえイギリス正規空母が子供に見えるくらいに巨大だったのに、飛行甲板の幅も長さも十分すぎるほどに延長されていた。
やがて将旗を掲げた連絡艇が埠頭に横付けされ、ようやくチャーチルが身を起こした。
ステッキを肘にかけた手で中折れ帽を取ると、案外達者な足取りで埠頭の先端に小走りになった。
「ウェルカム、ウェルカム……」
ウェルカムの連発である。繰り返される短かな言葉に、チャーチルは万感の思いを込めていた。
「日本海軍、三川少将です。貴国の要請に従いお手伝いに参りました」
ちょび髭をはやした小柄な三川は、第二次遣英艦隊の到着を告げた。
「遠路はるばるありがとうございます。これでアメリカの脅威から開放されます。しかしまあ、とてつもない空母ですなあ」
「その前に、ご紹介いただけますかな」
三川は、チャーチルの後ろで屹立するドイツ軍服から目を逸らさない。
「これは失礼した。元ドイツ空軍のガーランド少将、隣はルーデル大佐。後列はドイツの至宝たる戦闘機パイロットです」
「そのドイツ将校がどんな用ですか?」
「日本の航空に触れさせてやっていただきたい。彼らにはソビエトと闘う使命があります。業突く張りのソビエトを弱体化させねばヨーロッパの安定は程遠いことです。確かに我々も欲張りですが、日本式に改めています。力押しはいかん。ですから、どうか願いを聞き届けていただけまいか。柴田中佐、八木少佐、口ぞえをお願いしますよ」
三川は、直立したまま微動だにしない柴田と八木をギロリと睨んで、何を思ったか無造作にガーランドの前に立った。
両者睨み合ったまま一分すぎ、二分すぎ、それでも互いに目を逸らさずにらみ合っている。
三川がフッと力を抜いたとたん、ガーランドが踵を打ちつけ、ビシッという音の出そうな勢いで敬礼をした。
三河もそれに答え、やがて手を下げると、はめた白手袋を取ってガーランドの手を硬く握った。
「大変失礼しました。どうやら信用に応えてくれる御仁のようです。ぜひ懇意に願いたいものです」
「うかがってもよろしいでしょうか」
「何ですかな?」
「失礼ですが、戦艦も巡洋艦もおりませんが、これで守れるのですか?」
「はい。我々には戦艦より強力な戦闘機があります」
「いえ、戦闘機では戦艦を攻撃しても意味ないと……」
「いや、意味はありますぞ。……そうか、あなたは戦闘機というのを航空機と捉えているようですな。我々には、空の戦闘機も、海の戦闘機もあります」
「海の戦闘機? どこにそのようなものが……」
「ほら、ポンツーンに並べてある」
「魚雷艇ではないですか、少し大型なだけですが……」
「わかっていただけないようですな。首相、これから何か式典でもあるのですか?」
「いや、何かなさりたいのならどうにでもしますが」
「せっかくですから、ドイツ将校を信用するという意味で魚雷艇をお見せしましょう」
出迎えてくれた人々に挨拶をすませた三川は、魚雷艇隊司令のムーア大佐に命じて、空母「くまたか」への襲撃演習をさせた。
湾口から全速で港内に侵入した魚雷艇は、完全に船体を水上に持ち上げたまま猛烈な速度で港内を駆け巡り、後部から榴弾を一発発射してみせた。
シュルシュルと煙を吐いてとびだしたロケットが周囲に何もいない水面に激突した。その瞬間、爆雷が爆ぜたような水柱を立てた。
速度を落とした魚雷艇が、ガーランドの立つ岸壁めがけて突っ込んでくる。
たしかに真っ直ぐ突っ込んでくる。なのに、フッ、フッと位置をずらしていた。そして、まるでオートバイのように、いや、飛行機のように内側に傾いて向きを変えたのである。
それは、ドイツ人が見たことのない機動だった。衝突寸前まで肉薄する敢闘精神も披露した。
一連の動きに無駄がなく、流れるように襲撃動作をするのは、三川の言うとおり海の戦闘機といって当然に思えた。
その夜、ポーツマスのレストランで歓迎会が催されていた。
日本艦隊がやってくるということで、もしやと顔をのぞかせたスコットは懐かしいムーアと再会をはたした。
「やあ、ジジイが船酔いで苦しんだのだろう」
スコットが遠慮のない大声を出すと、
「貴様こそ、骨ばかりになって」
ムーアも負けていない。二人の喜びようがあまりに大げさだったので、三川はムーアを呼びつけた。
「ムーア大佐、ここはイギリスだからな、日本人の評判を落とさないでくれ」
「申しわけありません。スコット大佐とは日本海海戦以来の戦友ですので、つい気を許してしまいました」
「そんなに古いつきあいか、それはそれは」
あらためて三川が相手を見ると、なるほど旧来の友人のように心を許している姿があった。
「日本海海戦では、観戦武官として私の魚雷艇に同乗し、前回の派遣では最新式のエンジンを調達してくれました。さらに、ジェットエンジンの開発者を日本によこしてくれたのもスコットだと聞いております」
「そうか、それはわが国にとって大恩人というわけだ。スコット大佐、私とも仲良くしてほしいが、迷惑かね?」
「とんでもない、光栄です。日本がいなければジェットエンジンの完成がいつになったかわかりません。あんな強力な魚雷艇ももてなかったでしょう。ミサイルなんか夢物語ですよ」
スコットは三川に日本式の礼をしてみせた。そして、ガーランドに親しげに話をむけた。
「閣下、ドイツ人は自分を理知的だと思っています。何事も理屈通りにうまくゆくと考える癖がある。なにもドイツ人だけでなく、イギリス人もその傾向が強い。しかし、日本人は違います。失敗だろうがなんだろうが、試すことを躊躇しない。理屈はあとからいくらでも。閣下が試乗したジェット機は、イギリスの機体です。日本の機体とはまったく違うかもしれない。日本の機体に試乗させてもらえたら、日本人の優秀さが理解できるでしょう」
暗に、ガーランドに試乗させろと三川に迫っていた。
「よかろう、近くに飛行場があるかね? 明日の午前中は試乗を許可しよう。望むとあらば模擬空中戦をやってもよい。ドイツの至宝かなんか知らんが、こっちにも神様がいる。何人腕試しをするつもりか知らないが、ここは全部勝たせてもらいましょう」
三川はスコットの願いを快諾した。
遣英艦隊は、飛行機による哨戒を繰り返しながらアゾレス諸島付近に達した。そして、哨戒機が波間を漂う小型漁船を発見したことで、驚愕の事実が世界に報道されることになった。その事実とは……。
アメリカ西海岸、ロスアンジェルスに家族経営のイタリアンレストランがあった。奥行きは深いが間口の狭い、アパートを改造したようなレストランであった。『あなぐら』というレストランだが、名前などはどうでもいい。その店はイタリア移民が営む、わりと繁盛した店であった。
提供される料理によって客筋がきまるように、『あなぐら』には主にイタリア系の客が多く集まっていた。いたって温厚な店主は、客の要望にこたえて店を課し切り、パーティー会場として使わせることを嫌がらなかった。
パーティーといっても、大勢が馬鹿騒ぎすることもあれば、小金を手にした客が金持ち気取りで借り切ってしまうこともあった。それに客層も雑多である。金融関係に勤める者もいれば、工員風のものもいたし、もちろん如何わしい風体の者もいた。とにかく、場所と料理を提供していただけである。
ある日、FBIが突然訪ねてきて工員グループに貸し切った日のことを寝掘り葉掘り訊ねて帰った。
それから暫くして、家族全員に事情聴取ということで任意同行を求められた。
いったい何の嫌疑があるのだろう。移民とはいえ、まだ正式に居留を認められていない家族は、たとえわずかでも審査が不利にならぬよう、警察に睨まれるようなことはしていなかった。とはいっても暫定的な居留の身分である。任意同行を拒むことなどできなかった。
何を尋問されるのだろうと話し合っていたら、スパイ活動防止のために無国籍者を強制的に施設へ収容することになったと告げられた。
所持品は何もない。抗議や抵抗をしようにも、すでに銃を構えた兵士に取り囲まれていた。
小窓すらない貨車に押し込まれ、着いたところは生き物のいない荒野であった。
「カリフォルニアではないか。以前よく似た景色を見た」
そんな無責任な話しが広まった。
二段ベッドが並ぶ粗末な兵舎をあてがわれたのだが、そこは寒い。与えられた毛布だけでは寒くて寝付けない日が続き、夫婦して風邪をこじらせてしまった。救いだったのは若い二人娘が丈夫だったこと。しかし、下痢と高熱で衰弱していることが知られ、娘と引き離されてしまった。
次に列車が止まったところは暖かかった。冬だというのに蚊に悩まされるほど暖かかった。
見渡すかぎり水が広がっている。なんという草なのか、背丈を越える草が水の中からびっしり生えていて、風に吹かれて鮮やかな緑を揺らしている。幸せな時なら感心して眺められようが、そこもやはり酷いところだった。いや、地獄だった。
宿舎は水の上に建っている。食事は岸まで行かねばもらえない。
初めは何もわからなかった。しかし、便所で用を足すたびに下で激しい水音がするようになった。
見張りの兵士は、食事を運ぶ兵士と共にトラックででかけ、何時間も姿を見せないこともあった。そこにあるのは高くまで張られたバラ線だけである。
ある夜、思い悩んでいた夫婦が脱走を試みたのだが、闇にのまれてほどなく、耳をふさぎたくなるような悲鳴が聞こえてきた。それがどういうことなのか、身をもって体験するまで誰にもわからない。
このままじっとしていてはいずれ殺されるだろうと皆で話し合い、体力の回復した者だけで柵を乗り越え、国の非道を公表しようということになった。
その決行の夜、悲惨な光景を目撃することになった。
空に星がきらめくようになり、そっと水に足をつけた。行く先の検討はついているが、月明かりしかない。武器らしい物はフォークとスプーンだけである。心細いのを奮い立たせるように一歩踏み出した。
ザバッという水音とともに呻き声が、すぐに悲鳴にかわり、絶叫になった。その間、ザバザバという水音は激しくなっていた。
駆けた、妻の手を引いて無我夢中で駆けた。宿舎へ戻ると恐怖で一睡もできなかった。
翌日の食事? 二度と水に入るのは嫌だ。そう思ってその翌日も、またその翌日も食事を食べなかった。
もう我慢も限界だ、だから皆と話し合った。
明日は監視兵がいなくなる寸前に食事を取りに行こう。明るいうちは安全かもしれない。監視兵が去るまで草に隠れ、そのまま脱出しよう。
もうそれしか方法がないと思った。
夜通し歩いて海に出た。うまく、漁にでかける漁船を乗っ取り、耳が聞こえないふりをして警備艇をごまかした。とにかく逃げたい一心だったのでどっちに向かえばよいのかわからない。ただ一目散に沖をめざした。
ところが、陸がかすむくらいに遠ざかると、真後ろに見えていた山が横に流れてゆくではないか。
流されていると気づいたものの、ここがどこなのかわからない。もちろん船乗りなど一人もいない。どうせなら流れに乗れということになり、北へ向きを変えた。そして燃料がなくなり、流れにまかせるしかできなくなった。
食べ物に困った。水槽で泳いでいた魚は何日ももたずに食べつくしてしまった。かといって、たまに釣れる魚だけではとても足りない。
そうしているうちに、衰弱のひどかった人が一人、二人、眠るように死んでしまった。
十日たち、十五日がすぎ、もう何日目になるかを思い出すこともできなくなり、そして、妻が死んだ。
「私を食べて」
掠れた声で言い残して、浅い眠りから覚めた時には、すでに息をしていなかった。
それからのことは覚えていない。
弱々しい声で語るのを聞き、ドイツ将校がまなじりをあげて大声を出した。
「アウシュビッツだ、アメリカにもアウシュビッツがあるんだ。ヒトラーがいるんだ」
リュッツオウ少佐が特に激していた。蒼白になり、両の眼が血走っている。かつてゲシュタポに食ってかかった時のように、憤怒にかられていた。
「三川閣下、お願いがあります」
ドイツ将校を代表してガーランドが三川の正面で屹立した。
「ガーランド君、ドイツ将校諸君、それから、この部屋にいる全員に言っておく。我々はイギリスをアメリカの攻撃から守るのが本務である。また、好んで相手国に攻め入ることは控えねばならん。この男の言葉は真実だろうが、鉄槌を下すのは我々ではない」
「では放置するのですか」
「まずはこの男をイギリスに運ぶ。そして、男の語ったことを世界中に報道する。その後、本国から攻撃命令があれば躊躇しない」
「では、見捨てるのですか?」
「我々に何ができる? 単なる制圧しかできぬではないか。仮に制圧したところで、奴らは次々と同じ事を繰り返すだけだ。ましてや救出などできまい」
三川に諭されると、ガーランドも一時の激情であることに気付いき、悔しそうに下を向いた。
「ポーツマスに帰る。最大速度にせよ」
三川は航海参謀に短く告げた。
イギリスの通信社はいろめきたって世界中に驚愕のニュースを流していた。ラジオ局などは、軍の協力をえて発信出力を極限まで上げ、アメリカ国内のラジオ番組と同じ周波数で流したのである。通常出力であっても条件さえ整えばイギリスにいながらアメリカの放送を聴くことができる。その出力を五倍にも十倍にもして放送をしたのである。混信するどころか、アメリカのラジオ放送を聴けなくしてしまった。
ヒトラーの非道から逃れたユダヤ人の多くはアメリカに移り住んでいる。そのユダヤ人から非難の声が上がりだした。政府はそのもみ消しにやっきとなっているが、一旦わいた疑念を払拭することなど到底できない。議会は紛糾した。
強硬に大統領を擁護する一派があれば、戦争とそれは別次元だと息巻く一派がある。
一歩下がって全体を眺めれば、どちらも欲に凝り固まった同類である。
しかし、大統領を追い詰め、辞職にもちこむ恰好の材料ではあった。
「ガーランド君、これで我慢してくれまいか。ホワイトハウスを空襲することはたやすい。摩天楼を崩すこともできるだろう。しかし、そうすればするだけアメリカ国民に火をつける。わずかな良識派さえ戦争拡大に積極的になるだろう。もどかしいが良識派を増やすことが一番の近道だろう」
アゾレス諸島近海に戻り、あいかわらず哨戒だけの日々が続いていた。すっかり打ち解けあった三川とガーランドは、艦橋の前に椅子をもちだし、風に吹かれながらいろんなことを話し合っていた。漂流者から知らされたアメリカの秘密。それはガーランドや彼の部下にとって黙過できないことである。しかし、誰にも解決のすべがないのである。
「閣下、この任務が終わったら、私と部下を日本に連れて行ってはいただけないでしょうか」
「私はかまわんが、しかし、ドイツ空軍が困るのではないですか?」
「いえ、なにも国を捨てるわけではないですから、残った者がちゃんとやってくれますよ。それより、日本には閣下のような人物がたくさんいるのだろうと思うと、ぜひとも行ってみたくなりました」
「国には、ガーランド君のような真っ正直な男がたくさんいます。皆が歓迎するでしょう」
「そういえば、柴田中佐と八木少佐には驚かされました」
「ほう、奴らが何かしでかしましたか?」
「初めて対面した時、私の心の奥底まで見られているような、それは厳しい目で睨まれました。敬礼にしても、先に下ろすよう求めてもびくともしません。閣下もそうでしたな。心の奥の奥まで調べられ、嘘でごまかせる相手ではないと思い知りました」
「チャーチルが言っていました。ドイツ人は頑なだと。しかし、日本人はもっと頑固です。自分か決めたことなら死をも厭わないところもある。それでも日本に?」
「ぜひ……」
きっぱり言い切るガーランドに、三川は笑顔で応えた。
大西洋での哨戒はすでに二ヶ月半になろうとしている。チャーチルの不安は杞憂に終わったのか、アメリカの蠢動は芽すら感じられなかった。一旦哨戒をやめ、ポーツマスへ戻った三川に、帰国命令が届いていた。
命令を受領し、帰国する旨をチャーチルに電話すると自分が行くまで待てという。
どんな内容かわからぬまま、三川は活動記録をまとめていた。
「何もお役に立てずに帰国することになりました」
三川はチャーチルに簡単な挨拶を述べた。
「いや、あなたがたのおかげでポーランド開放に集中することができました。お礼の言い様がありません。まあ、そんな儀礼はどうでもよろしい、本題に入りましょう」
「さすが、辣腕のチャーチル首相ですな、回りくどくなくてよろしい」
「重大な情報です。以前から物理学者が姿を消していたのですが、どうもアメリカで核分裂を利用した爆弾開発をしているそうです。そうらしいという情報はすでに入手していましたが、例の、強制収用所問題が報道されて理性的な研究者がリークしたようです。場所は、ニューメキシコ、ロス・アラモス。最高責任者は、ロバート・オッペンハイマー。主にハンガリー生まれのユダヤ人が中心となっているようです。開発にかかわっている科学者はリストのとおり。副大統領や陸軍参謀総長。実業家も名前を連ねています」
「それは困ったことですな。それがどれほどの威力か知りませんが、人間には犯してならない領域があります。特に、アメリカのような野蛮な国が手にする兵器ではありません。正確な地図をください、国で検討させることにします。ところで、今回の褒美をいただきたい」
「何がよろしいでしょうな、何でも言っていただきたい」
「では、遠慮なく言わせていただきます。まず、ガーランド少将以下六名のドイツ将校。それと、首相愛用の葉巻をいただきたい」
「ガーランドですと? 彼はドイツの軍人です」
「断っておきますが、ガーランド君の希望なんです。どうにかなりませんか」
「いいでしょう。日本で技術研修を受けるという名目にしましょう。葉巻は出港までに届けさせます。そのかわり、日本の酒をいただきたい。これはゆずれませんぞ」
世間では底知れぬ謀略家と異名を取るチャーチルが、心から楽しそうに応じた。
議会の追及により、ルーズベルトは一層精神を病んでいた。少なくとも個人的利益のために何かをしたことはなく、すべては国を思えばこその結果である。しかし、隠し通せると高をくくったのが失敗であった。
あの選択は間違いであった。白人も黒人も、黄色い猿どもも十把一からげにしたのがいけなかった。やはり肌の色で区別すべきだった。
ルーズベルトは一人寂しく机にむかい、ブツブツと独り言を呟くようになっていた。
こうなってしまっては部下が離れてゆく。
「これまでさんざん我慢してきたが、もう限界を超えた。あんたと心中するのはまっぴらだ」
今日も商務長官が辞表を叩きつけてしまった。後任を探そうにも誰もとりあってくれない。
辞めるしかないだろうなと心の底ではわかっているが、引き摺り下ろされることへの不満が鬱積していた。大統領の座に未練があった。名大統領として歴史に名を残したかった。
しかし、もう時間は残っていない。
「ハルはまだ来ないのか?」
ルーズベルトは何度目かの催促をした。
「あいにく連絡がつきません」
「情報部長は? ハロルドはまだか?」
「どなたとも連絡がとれません」
秘書官が冷ややかな眼差しを向けた。無作法にも座ったままである。
「わかった。皆忙しいのだろう。……すまないが、トルーマンを……」
外圧に屈して辞任を決めるのは、実にあっけないことであった。