ねじくれた男
十三、ねじくれた男
開戦から十日たち、二十日たち、やがて三十の日が昇った。
その間、ルーズベルトはジリジリと情報が寄せられるのを待っていた。なのにフィリピンといいグアムといい、派遣艦隊からも何一つ連絡が寄せられていないことに苛立っていた。ただ一度、どことも知れぬ勢力からの攻撃を報せる短い通信があっただけであった。それを傍受したのはウェーク島付近に進出していた機動部隊であった。遠くを見通すより、着艦に便利なように背の低い艦橋しかない空母が電波を拾ったことは僥倖といえた。太平洋艦隊の根拠地であるハワイでは受信できなかったのである。
太平洋方面の情報は偶然に空母が捕えた短い緊急電だけというありさまであった。
対する欧州方面の動きは、盛んに接触をはかるフランスから詳細なものが届いていた。ドイツによるポーランド侵攻を皮切りに、ベルギーとオランダがドイツに蹂躙され、フランス国境をも侵しているとの悲報であった。東南アジアに不穏な雲が覆ったことをきっかけにフランスが急接近し、相互協力協定を結んだのも束の間、イギリスとの仲が決定的に悪化してしまった。それについては、少し性急すぎたとルーズベルトは後悔していた。資材の輸出を統制すれば無理にでもいうことをきかせられると踏んだのが間違いであった。資材供給をとめた見返りに、新技術の流入が途絶えてしまったのである。そして日本との開戦を迎えてしまったことで、イギリスはアメリカに敵対する姿勢を明確にしたのである。
アメリカは資源国である。石炭も石油も鉄鉱石も自前で賄うことができる。その自信が国際社会で高圧的な外交を許される後ろ盾であった。資源を支配する限り、資源小国は尻尾を振ってなついてくるという驕りがあった。
ところが、日本もイギリスも禁輸という脅しに屈しないばかりか、未開の国を糾合して一大勢力を築き始めている。
石油も石炭も鉄鉱石も不自由なく使え、逆に、アメリカでさえ輸入に頼らざるをえないボーキサイトの輸出規制をかけてきた。
そうなると困るのはアメリカである。特に航空機メーカーからの突き上げが熾烈を極めた。
それに、アメリカは重工業ばかりが発展したいびつな国である。手先の器用さを必須とする精密工業は弱点の最たるものである。そのせいで同じ精度、性能の機械を作ることが大の苦手であった。それを補う方法として選んだ道は、大量に作って不良品を淘汰するという生産思想であった。当然、使用者はそれを知っている。知っていればこそ頑丈さをなにより重視していて、それだけに鈍重であった。
ましてや電子工業についてはずぶの素人同然である。
これまでは欧州各国からの技術指導者により成り立っていただけで、自国の技術者養成がまったくといっていいほど進んでいない。高額報酬でつれば技術者などいくらでも擦り寄ってくるという傲慢さが招いた結果であり、それもルーズベルトを無口にさせる一因であった。
とはいえ、この一月を無為にすごしていたわけではない。
ハワイを基点に、アリューシャンからニュージーランド近海までの太平洋全域に機動部隊を派遣して情報収集に努めていた。そこから推測されるのは、日本も東南アジアも、太平洋に進出していないということである。ただ、グアムに向かった艦隊からの連絡は途絶えていた。
一度ならず二度までも艦隊が消滅したことに海軍は困惑していた。海軍以上にルーズベルトは困惑していた。交戦の末に撃沈されたのであればまだ言い訳がたつ。しかし、完璧に全滅することなどありえないのである。またそうであっては困る、実に困る。
莫大な費用をかけて建造した艦隊である。そこに装備した兵器類にかけた費用も巨額である。さらに、消息を絶った将兵が死亡していれば戦時補償額もすさまじい額になる。
将兵の生命よりも経済的損失がいたかった。
なぜなら、戦死は将兵が避けて通れないことであり、一部の者の哀しみにすぎないだけだが、巨額の経済的損失は国民全体にのしかかってくるからで、厭戦気分が世論を支配し、ために大統領から引き摺り下ろされ、最悪の場合裁判にかけられるかもしれないのである。
そう考えると、ルーズベルトの採るべき道は限られている。
開戦から一月になろうかという時に、フランスから重大な情報が寄せられた。
フランス北東部全域から怒涛のごとく侵攻したドイツ軍が動きを止め、にわかに後退を始めたというのである。ドイツ軍が後退する理由など何一つないということである。
機動力を駆使し、航空攻撃を多様するやり方は、これまでの地上戦を一変させた。
歩兵に頼るフランス軍では支えることが不可能であった。
ならば何故後退したのか。軍団司令部に異変があったのか、それとも政変か。しかし、強固な独裁体制を敷いているドイツで外部圧力による政変はありえない。とすれば、なんらかのかたちでヒトラーが死亡したと考えるべきであろうか。
ルーズベルトは情報部に分析を急がせていた。
事態打開の方策を研究させていた海軍から作戦案の説明があったのは、フランスから新たな情報が寄せられた直後であった。
「一度ならず二度も艦隊が消息を絶ちました。もう一度、次は機動部隊を差し向ける方法もありますが、なぜ消息を絶ったのか判明していないことから得策とはいえません。そこで、アリューシャン方面から迫ってみたいと思います」
執務机をはさんで屹立した海軍長官が声をつまらせながら言った。
「キング、アリューシャンなら成功するのだな? 保障するのだな?」
肘掛に手をのせ、反身になったままルーズベルトは陰にこもった声で訊ねた。
「相手は人ですから確実に成功するとは……。保障と言われましても……」
「じゃあ単なる思い付きかね? 相手は日本人だ。人と思う必要はない、島国の原住民だ」
「……しかし、その原住民に振り回されているのは事実です。ここは意表をついて北から進撃するのがよいと考えます」
「アリューシャンだとどういいんだ?」
「グアムとの連絡が途絶えたことから太平洋から攻め上がる根拠地を失ったと考えねばなりません。どうしても太平洋からというのであれば、航空支援を受けられなくなります。
なるほど空母搭載機がありますが、航空攻撃では威力の点で物足りません。それに、万が一空母が使えなくなった場合、航空支援はまったくなくなります。しかし、アリューシャンなら大型爆撃機を配備できます。それに沈みません」
「なるほど、艦隊は援護を受けられないから行くのが怖い、空母は沈む、いや、撃沈される代物だから島が必要なんだね。島なら大きな飛行場が作れるから大型爆撃機の登場を待つわけだ。恥ずかしくないかキング。大型爆撃機は陸軍の所属ではないか。危険なことは陸軍にまかせて、いったい海軍は何をするつもりだ?」
キングの説明を逆手にとって、ルーズベルトは底意地の悪い質問を浴びせた。
「いや、しかしそれは……」
「もういい、よくわかったよキング。よくわかった……」
赤い顔で説明をしようとするキングを黙らせ、ルーズベルトは組んだ指を遊ばせて暫く考えていた。
「では決定する。キングの案に従ってアリューシャンからの侵攻に切り替える。ただし、こんどこそ失敗は許さん。強力な艦隊をつくれ」
と言って席を立った。
日本は別のことで難題を抱えこんでいた。
サイパン・テニアン攻略部隊と、グアムに駐留していた部隊を根こそぎ捕虜にしていたからである。さらに、フィリピン駐留アメリカ軍や増援艦隊をほとんど手付かずの状態で捕虜にしていた。その数七万。鹵獲した艦艇だけでも百に近いし、武器弾薬、車両なども数え切れないほどである。そんなものを保管する場所は用意していなかった。
しかし、そうも言っておれない。緊急的措置としてテニアン島に収容することになった。
その内、サイパン攻略部隊と増援部隊、フィリピン駐留兵で台湾爆撃に関与する立場になかった兵はテニアンに、開戦前の攻撃に関与した将兵はテニアン沖の小島に分けて収容した。
「諸君は、はからずも日本の捕虜となった。それをよくわきまえてほしい。日本は国際法に従った処遇を行うことを約束するが、一度に大勢を捕虜にしたことで食料を十分に供給できない。暫くは我慢してほしい。島民に危害を加えない限り自由にしてかまわない。ただし、危害を加えたり逃亡を図ったら無条件で殺害する。よく覚えておいてほしい。沖の小島には犯罪者を収容した。アメリカは宣戦布告もせずに、爆撃によって多くの民間人を殺傷した。これは日本の国内法で裁くべき犯罪である。よって奴らは捕虜ではなく、犯罪者である。諸君は捕虜交換によって国に帰る希望があるが、奴らにそれはない。一日も早く戦争が終わり、諸君が帰国できるよう願うものである」
急遽収容所の責任者として赴任した鍋島少将が訓示をしたのは、これで十ヵ所目。今日の予定ではあと二ヵ所残している。
「所長、これで捕虜収容所はすべて視察されたことになります。犯罪者収容所はいかがなされますか?」
訊ねたのはテニアン守備隊長に任命された島本大佐である。間もなく視察が一区切りつくので気が楽になっていた。
「無論行く。収容した者の中には無関係な者も含まれるだろう。きちんと調べて後々の火種にならぬようにせねばならん。そのためにも厳しい言葉を使わねばならんだろうな」
「責任逃れをする者がほとんどでしょう」
「それもよかろう。しかし、武人にあるまじき振る舞いが発覚したなら信用をなくすだけではないか」
「お言葉ですが、信用など気にとめぬ国民性ならどうされますか?」
「それは考えていなかったなあ。だが、身勝手な心がむき出しになれば嘘をつきとおすことは……、違うか?」
「仲間割れをさそうのですか?」
「どのくらい見苦しいまねをするか、後学のためになるだろう」
夏服ではあるが、きっちり襟までボタンをした姿でいればいくら窓を全開にしても汗が噴出そうののなのに、二人とも汗すらかかず車に揺られていた。
日本が犯罪人を大量に逮捕し、裁判にかけるという情報はイギリスの通信社を利用して世界中に配信された。それを知ったルーズベルトは激怒し、国際連盟に問題提起をしたのだが、逆に戦線布告が遅れたことが明るみに出て、振り上げた拳を下ろせなくなってしまった。
同時に、ヒトラーが死亡したことが公表され、反ナチスによる国家再建が宣言されると共に、イギリス連邦の一共和国として存続するよう交渉が大詰めになっていることも公表された。
慌てたのはフランスである。これまでは互いに敵対させることで圧力を弱められていたのに、腹背に敵を迎えねばならなくなってしまった。当然ドイツとポーランド、そしてベルギーやオランダとの関係が修復されることになるだろう。そうすれば周囲を敵に囲まれてしまう。かといって、アメリカに支援を求めようにも意味をなさなくなっていた。
アメリカからの支援はたかだか艦隊をくりだして海上から攻撃するにすぎない。ロンドン上空での激しい航空戦を経験したイギリスに勝てるかといえば、甚だ疑問である。ましてやヒトラーを爆殺した能力は侮れない。古風な考えに囚われていたことを今さらながらに悔やむのであった。
それと共に、アメリカは孤立感を強めていた。豊富な資源と強大な軍事力を背景に国際社会でごり押しを重ねてきた日は幻であったのか、友好的であった国々がアメリカと距離をおきはじめている。友好国であったフランスが腰砕けになってしまってはどうしようもない。加えて、アメリカから他の開発途上国に協力を求めることはできなかった。あまりにも格下の国に擦り寄って得るものがなかったのである。イタリアもスペインもポルトガルもすでに歴史上の国でしかない。手を組むとすればソビエトくらいだが、狡猾なスターリンと組む危険を悟っていた。
なにより腹立たしいのは、日本が、国際指名手配の筆頭にアメリカ大統領を名指ししたことである。国際連盟の中核を担う国々は犯罪人引渡しの相互協定を結んでいる。それだけに外交交渉にどれだけ不利になるのか想像できない。
来る日も来る日も頭を抱えていたルーズベルトがたどりついた結論、それこそ起死回生の切り札であった。
「今日は皆さんに重大な報告をせねばなりません。わがアメリカは日本に対し、国際法に則った手続きをふんで開戦を通告しました。が、日本は採るに足らぬ難癖をつけてだまし討ちをした卑怯者国家だといきまいています。そして、フィリピンとグアムに駐留していたアメリカ将兵を犯罪者として扱っています。彼らは、私や軍作戦部長を国際指名手配しました。また、サイパン・テニアン攻略部隊全員を捕虜にしてしまいました。わがアメリカは世界一強力な軍隊をもっております。その強力な部隊が全員捕虜になるとは常識では考えられません。きっと内通者がいるものと調査したところ、縦横に連絡網を敷いた組織が浮上してきました。その構成員を逮捕し、全容解明を急いでいるところですが、イギリスを中心としたスパイ組織も絡んでいるとの情報が得られております。そのため、組織の全容を把握し、全員逮捕するまでの期間、皆さんの自由を一部制限させていただかねばなりません。不自由をおかけしますが、皆さんの安全を守るために必要なことなので、どうかご理解いただきます。また、アメリカ国籍のない人を、戦争終結までの間隔離することにしました。どうか政府の指示に従っていただけるようお願いします」
大統領執務室からの中継放送が始まった。
一区切りまで語り終えたルーズベルトは、冷たい水で咽喉を湿らせた。
「さきほど申し上げたように、アメリカは海軍も陸軍も世界一強力ではありますが、緒戦に多くの艦船を失いました。飛行機や軍需物資も失いました。今はそれを回復せねばなりません。しかし、すでに今年の予算は枯渇しておりますので財源確保に迫られています。そこで皆さんにお願いします。どうか国債を買って財源確保にご協力いただきたい。もちろん私も買いますので、一人千ドル、五百ドルでもけっこうです。どうかよろしくお願いします」
そこまで語ってアナウンサーを手招きした。
「さすがですな、大統領」
「感心するほどのことはない。それよりハル、カリフォルニアは大丈夫なんだろうな」
「すでに整えてあります。しかし、経費がかかりますぞ」
「心配するな。強制収用だ、当然財産は没収されるべきだろう。それを使えばいい。ところで長距離爆撃機の生産は順調かね?」
「……それが、アルミの在庫が限られていますので……」
「だからどうだと言うのだ。今必要なのは長距離爆撃機だ。」
「ですが艦載機も必要ですので、配分が難しいのです」
原料の輸入が止まったとはいうものの、アルミは地金の状態で需要を補って余りあるほど保有しているはずである。ハルともあろうものが何という泣き言を言うのか、苛立つ気持ちをなんとか抑えたルーズベルトはハルを見据えた。
「なんと言いますか、わが国は大量生産技術に優れていますが、不良率もかなりありまして、どうしても無駄がでてしまうのです。ですから長距離爆撃機のような大型機の生産は……」
「そんな言い訳は聞きたくない。不良率をゼロにすれば解決することだ。それより、中国に飛行場を用意させろ。日本全土を攻撃できる場所でなければならん。もう一つ、情報部から興味深い報告があった。移民局へ行ってこの人物を保護しろ。そしてこのリストの人物を集めろ。今すぐにやれ」
こうまで横柄ではなかった。特に自分にはパートナーの立場を崩すことはなかったのに。ハルは、差し出された書類を受け取りながら、芽生えた違和感に困惑していた。
秋、霜月。暦はどうあれ、ここ小笠原には本土のような季節の移り変わりがさほどない。気がつけば凌ぎやすくなった程度で、とても暮らしやすい時期である。
ここには潜水艦隊の根拠地がある。おりしも定点監視の任を帯びて航行を始めた潜水艦があった。艦首は水中にあり、水を持ち上げるようにして進んでいる。波を切って颯爽と進む姿は、今の日本潜水艦にはもうなくなっていた。艦首で水を押しのけるようでは速力が出ないと誰しも思うのだが、あにはからんや、こちらの形式に変更して速力が倍増した。特に水中速力に大きく貢献し、水中で二十ノットを越す速力を発揮する。その速度を獲得する障害はすべて取り払われ、小さな艦橋が前よりに突き出ているだけで、備砲もないあっさりした姿である。しかし、水中から見ると、大きな翼をもち、艦尾には十文字に大きな舵がそびえていて、単軸推進の大径スクリューを併せると、さながら海中の大型飛行機である。
その水中飛行機は、まだその性能を存分に発揮できない海上を、もうもうと排気煙をたなびかせながら次第に速度をあげていった。
この潜水艦、拿捕した艦船を日本に回航するための前路警戒のためにマリアナ東方で監視にあたることになっていた。母島泊地を出港して三日、サイパン島北東三百海里に進出して行き足を止めた。
そこは台風の巣ともいうべき海域で、夏から秋にかけ低気圧が発達する海域である。すでに盛りはすぎているが、お約束のように気圧が下がり、分厚い雲が視界いっぱいを覆っていた。
予定ではすでに本国からタグボートがテニアンに到着し、大型艦の曳航準備を整えているはずである。
そして三日が事もなく過ぎようとしていた。
「聴音室、感あり。艦首三百三十度、多数。感一、接近中」
完全浮上して監視の最中であった。いつ潜航しても困らないように充電と空気の補充は欠かせない作業である。あまりに平穏なので交替で甲板に出て遠慮なく空気を吸うことを許可していた。
「機関停止。潜航用意」
聴音室からの報告に、艦長は間髪をいれず命令を下した。そして艦橋備え付けの双眼鏡にとりついた。
「聴音室、何も見えんが、そっちはどうだ?」
「近づきます。駆逐艦からなら目視できる距離と思われます」
「機関停止、ハッチ閉鎖完了。いつでも潜航できます」
発令所で怒鳴る副長の声が聞こえた。
「微速前進。潜望鏡深度まで潜れ」
ハッチにむかって怒鳴ると、艦長は手早く双眼鏡に防水をしてハッチを閉じた。その瞬間にツーンと耳鳴りがした。耐圧のために艦内空気圧が高くなったのである。
「潜望鏡深度です」
発令所で海図に鉛筆を走らせ、大雑把に音源との位置関係を想定し始めたところに、目標深度に達したと報告があった。
チラッと時計を確認して、艦長は艦内マイクに手を伸ばした。
「艦長だ、全員に達する。母島を出て平穏な時間がすぎている。そのせいで皆の動作がダラダラしている。この潜航時間は何だ! 平時でも三分三十秒という無様なことはなかったはずだ。一人の不手際が全員の死につながることをよくわきまえろ。次は赦さん」
不機嫌そうにマイクを戻して航海長を一睨みした。
「停止。潜望鏡上げ」
潜望鏡を僅かに露頂させ、機影のないことを確認して一旦潜望鏡を下げた。
「聴音室、音源の方位を報せ」
「音源、艦首方位三百四十度。感四」
もう一度時刻を確かめて海図に走り書きをした艦長は、再び潜望鏡を露頂させるなり、視野の十字線に先頭艦を捉え、
「これ、先頭。巡洋艦。下ろせ」
「巡洋艦ですか。艦隊規模はいかがでしたか」
海図に一本、鉛筆を走らせて副長が訊ねた。
「いたぞ。空母二杯、戦艦二杯、巡洋艦、駆逐艦は数えておらんが、ざっと三十杯くらいの規模だ」
「本腰をいれてきましたかね。それで、どうされますか?」
「攻撃の許可は得ておらん。見張りだ、見張り」
「艦長の機嫌が悪い理由はそれですか。まかせてください、スカッとしてさしあげますから」
「どういうことだ?」
「指くわえて見ているのが癪に障るんでしょう?」
「何度も言わせるな。攻撃の許可を得ておらん」
「そうです、攻撃許可は得ていません。でもね、攻撃禁止を命令されてはいませんよ。据え膳喰わぬは何とやら……。パーッと賑やかに繰り出しましょう」
副長は他の者に聞こえぬようヒソヒソと言って、ニヤッと頬を緩めた。
なるほど副長の言うとおり、攻撃禁止命令は受けていないことに艦長は気付いた。
「よし、やろう。ただし、花魁だけを狙う。用心棒や太鼓もちに用はない。きっと補給部隊が続いているはずだ。そっちのほうが気にかかる。水雷長を呼んでくれ」
ジワジワとにじむ汗を拭って、艦長は再び艦内マイクを握った。
「艦長より達する。本艦は敵部隊と遭遇した。しばらくの間戦闘配置が続く。当直から先に用便をすませろ。十五分後から戦闘配置とする」
「これ、先頭艦。距離、およそ八千。気付かれていない」
きっかり十五分後に潜望鏡で艦隊位置を確認した艦長は、副長にも見るよう促した。
「なるほど、なかなかの行列ですな。ご丁寧に輪形陣のようです」
副長も狭い視野の映像を目に焼きつけていた。
海図台では航海長が鉛筆を走らせ、聴音室に艦隊速度を報告させていた。
聴音室の推測が正しいとすると、十五分で進んだ距離は約四海里。デバイダをひいた線になぞらえていた航海長は、二ヶ所に印をつけ、それを線で結んだ。
ちょうど艦の正面を横切るかたちで、約四海里離れている。
今行動をおこせば、あまり時間をかけずに攻撃位置につける。海図を囲む四人はそれぞれに確信していた。
「空母は二杯いる。定石通り足をとめたい。せっかくの客だから丁重にもてなしたい」
艦長の視線を受け、水雷長はわずかに顎を引いた。
「魚雷は四本。失敗しても深追いはせん。たのむぞ」
「まかしてください。では、魚雷の調定があるので失礼します」
年季のはいった水雷長は挨拶もせずに発令所をあとにした。
「航海長、襲撃経路を算出せよ。この位置で二十分待機し、十ノットでこのまま直進する。回頭時期を指示せよ。副長は聴音室で状況を報告せよ。以上だ」
短い命令を下してマイクを取った。
「操舵手、螺旋降下で三十まで潜れ。進路このままで十ノットにせよ。艦長だ。現在本艦の前を敵艦隊が横切っている。戦艦二、空母二を含む三十杯ほどの艦隊だ。本艦はこれより敵空母を攻撃する。後方には補給艦隊がついてきているはずだから、攻撃に失敗しても再攻撃はしない。補給艦隊発見を優先する。訓練の成果をみせよ。以上」
艦長が状況を説明している間に鈍い振動とともに艦が左に傾いていた。急潜航するのに一番都合の良い方法であった。
「間もなく深度三十、あと二メートル」
「潜舵中央に戻します」
「深度三十、なお沈降中」
「後部タンクに移水、二トン」
すかさず航海長が指示をだした。
「沈降が止まりました」
「増速します」
「こちら副長。敵艦隊進路、艦首方位百十五度、速度変わらず」
「あと一分で変進点」
増速とともにストップウオッチを睨んでいた航海長が告げた。
「艦長だ。間もなく転舵する、何かに掴まれ」
「発射管室、注水完了。転舵と同時に前扉開けます」
「変進点、面舵」
各部からの報告が交錯するなかで、航海長が転舵を命じた。
「副長だ、誘導する。敵艦隊まであと二十度。十度。舵水平に戻せ。あと五度、面舵戻せ。
三度、当て舵! 敵艦隊の進路にのりました。距離、およそ五海里、敵速変わらず。離れてゆきます」
五海里か、それだけ離れていれば発見される危険は少ないな。
艦長は、空母の位置を確かめるために潜望鏡深度を命じた。かなりな白波がたつことを予想しながら、それでも減速を命じない。
「副長、発令所に戻れ。聴音室。敵艦隊手前二海里になったら報告せよ。通信室、原稿を取りに来い。敵艦隊のすぐ後から平文で発信する。速度二十まで増速」
「二海里で通信するのですか? 居場所を教えるようなものですよ」
潜水艦勤務三年目、まだ肝の据わっていない航海長があわててさえぎった。
「副長が来たら説明する。貴様は現在位置を把握していろ」
「なんだ、やけに堅くなっているが、緊張しているのか?」
発令所に現れた副長は、青ざめて突っ立っている航海長をちらっと見やった。
「何でもありません」
「敵艦隊手前二海里で潜望鏡を上げる。同時に敵発見の一報を送る。そう言ったら固まってしまった」
「なるほど、存在を知らせて混乱させるのですな? さすが艦長だ、剛毅ですね。航海長、金玉握ってみろ。縮みあがってたら揉め。なんなら一発抜いてこい」
声を押し殺して笑うと、艦長をまじまじと見つめた。
「艦は敵陣の右翼にいる。右側の空母まで約二キロ。左の空母とは更に一キロだ。殿には巡洋艦。巡洋艦の前には前後二列で駆逐艦がいる。左右だからつごう四隻だ。その一隻でも減らしておこうと思う。航海長、アメリカ潜水艦の水中速力は?」
「八から十二ノットと聞いています」
「そうだ。だが本艦は二十ノットをこえる。つまり、まだもたもたしていると思い込ませて内懐に入り、後ろからぶっすり根元まで串刺しだ。隣の女もついでにぶっすり。いつまでも腰を振らずに一目散。貴様のように三擦り半で逃げる。やり逃げってことだ。まだ後ろから年増が続いてくるんだからな、一網打尽に囲い者にしてやるのが男というものだ」
艦長は下品た言い方で作戦を説明し、にやりと笑った。
「この進路ということは、マーシャルからヤップでしょうか」
「そんなとこだろうな。北緯十度を西へ一直線、ちょっと芸がなさすぎだなそれでは」
「とすると、補給部隊はクェゼリンあたりかもしれませんね」
「ちょっと離れすぎではないか? 二百海里ほど後方ということはないか?」
「そうであってくれればいいんですが、当て外れにならんともかぎりません」
「よし、二段構えでいこう。クェゼリンに逃げ込まれたら手出しできんから慎重にせんとな」
たかだか三海里とはいえ、その三海里をつめるのに三十分以上を要する。しかし、海中を猛追する潜水艦がいるなど世界のどこにもないことである。
潜水艦からの連絡は、サイパンや母島で受信した。また、グアムでも、フィリピンを解放した部隊が間借りしているニューギニアでも受信していた。
折りしも、鹵獲品を本国へ輸送する護衛でサイパンが留守になるのを避けるために、トラックへの移動準備をしている最中であった。フィリピン襲撃にあたって敵と交戦していないことに不満を抱いていた隊員は、出発時刻を早められたにもかかわらず嬉々として荷揚げ作業に汗していた。
バナナ、椰子の実、マンゴー。食べきれないほどの果物である。
戦闘行動の最中だったので赤道を初めて越える祝いをせずにニューギニアへやってきた隊員たちは、浜に臼を持ち出して餅つきをして騒いでいた。赤道直下のことであり、皆そろって軍服を脱ぎ、下帯一本である。ほとんどが二十代の若者である。餅をつき、酒を飲み、浜に線を引いて相撲に興じていた。
彼らは心の底から楽しんでいたのだが、見慣れぬ男達が大勢上陸して大騒ぎしているのを海辺の樹間から覗き見ている者たちがいた。何代も何十代も前からニューギニアで生きてきた人々である。肌の色こそ違え、身に着けているものはどちらも下帯だけである。刀だけでなく、槍や吹き矢を携えた男ばかりであった。
ただ様子を窺っているだけで、敵意は伝わってこない。
「おい、家主がお出ましになったぞ。どうする」
めざとく一人がそれを見つけた。
「どうした? 家主だと? おお、これは本当に家主のお出ましだな。ここはひとつ、挨拶がわりに引越し蕎麦でも食べてもらえ」
「馬鹿か、貴様。蕎麦なんぞあるものか」
「ない? 蕎麦がない? ……じゃああれだ、餅をさしあげろ。酒も忘れるな」
酔った勢いで怖いものなしである。
一番年下の一人が、つきたての餅を木箱に入れ、一升瓶とともに木立の手前にそっと置いて戻ってきた。
それが現地人との交流のきっかけである。
身に着けているものはほとんど同じ、そして武器らしいものは何も持っていないのである。それが敵対心や悪意のないことをわからせるなによりの手段であった。
ニューギニアでの補給を兼ねた休養は十日間の予定であった。それが五日目の今日になって急遽繰り上げられることになったのである。
燃料は停泊と同時に補給が始まり、清水も十分に補給が済んでいた。いつでも出港できる状態であった。
日本を遠く離れて、はるか遠洋で漁をする船がいた。遠洋マグロ漁船である。それらは単独で遠洋に進出し、漁をしながら敵の動向を探る任務を担っていた。あるものはハワイ近海に、あるいわミッドウェーに、ウェーキにと敵艦隊の行動圏内に入り込んでいた。どの船も本物の遠洋漁船で、当然ながら乗組員はすべて漁師。いくら臨検を受けても軍関係の装備は小銃一丁として出てこず、ただ獲物と漁具ばかりである。
しかし、南洋にくらべて北洋は監視が手薄であった。
中部太平洋方面からは貨物船との遭遇が多くよせられていたが、ベーリング海方面からはきまって鯨が獲れないという連絡ばかりであった。
当然皆の目は中部太平洋に向けられる。しかし、その虚をついてアメリカの作戦が着々と進んでいた。
アメリカ西海岸からアラスカにむけておびただしい貨物船が進んでいた。カナダ北岸にさしかかると寒波をともなった強風がまともに叩きつけてくる。豪雨のように叩きつけるしぶきが瞬く間に凍ってしまう寒さであった。
船団の行く先はアラスカ、ウニマク島。そこに後方拠点を建設し、カムチャッカに前進基地を建設する。いずれも大型爆撃機しか展開できないが、中部太平洋へ進出させた艦隊がことごとく消息を絶っていることから、大統領の強硬な命令による作戦である。
しかし、その先の展望があるのだろうかというのが現場の疑問であった。
スターリンを欲でたぶらかし、カムチャッカやウラジオストックに拠点を設けることしかり。千島列島沿いに南下することしかり。ウラジオストックからならば日本全土を爆撃できるだろうが、凍てつく大地に着陸できるという保障はどこにもない。つまり、どれも現実味の薄い絵空事のように思えてならない。
素人が作戦に口を出すなと言いたいが、言えない事情がある。グアムもフィリピンも連絡が途絶し、サイパン占領にむかった艦隊からの連絡も途絶えた今、現場で何がおこっているのかまったくわからないのである。そして、やたら口出しする相手は国の最高権力者である。
また、強制収容所での待遇維持に頭を痛めていたルーズベルトは、体力を失った者を治療すると称してフロリダに移送し、ワニに喰わせる暴挙に出た。
フロリダには広大な湿地がある。そこに宿舎を建設した。安全を図るという名目で湿地に高床式のバラックをいくつも作ったのである。
温暖なフロリダで健康を取り戻してほしい。うたい文句は慈愛に溢れていた。だが、食事は湿地を渡って取りに行かねばならず、そこには小型のワニがウヨウヨしていた。
監視兵は何もしない。そう、人々を殺すことはしない。と同時に、人々を保護することもしない。ただ義務的に決まった場所に食事を置いて、逃げるように去るだけである。
人々が死ぬのは事故である。犯人がワニなのだから事故である。
どうせ衰弱して先の見込みがない人ばかり。それがルーズベルトの言い訳、いや、本心であった。
戦争に勝利さえすれば、国民の記憶から消え去る些細なできごとでしかない。ルーズベルトは心底そう思っていた。
日本潜水艦に狙われた二隻の空母。潜望鏡を発見するまではまったく気付かずにいた。
艦隊の最後尾を守る巡洋艦の見張りが白波を発見して、初めてその存在に気付いたのであった。
慌てて駆逐艦を差し向けたが、駆逐艦が回頭を終えた時には通信アンテナをたたんで海中に没しようとしていた。
大急ぎで現場に駆けつけたせいで水中の音を拾えなくなっており、やみくもに投下した爆雷が更に海中を沸騰させてしまった。
せっかくの機会を自らだいなしにしてしまったのであった。
それでも未練がましく潜水艦の潜んでいそうな場所に気前よく爆雷を投下し続けるしかできなかった。と、思わぬ場所で潜望鏡が顔を覗かせた次の瞬間、二条の泡が空母に向かって延びていった。
急転舵で回避を開始しようにも、舵が効き始める頃にはすでに泡は空母に迫り、艦尾左舷に派手な水柱が噴き上がった。
相手が姿を現さないのでどうしようもないが、襲撃点とおぼしきあたりに駆逐艦が到着した時、すでに健在な空母の後方で潜望鏡が上がるのが確認された。爆雷投下が繰り返された。攻撃を受けた空母は左回頭を戻せないどころか、いっそう回転半径を小さくしていた。
「駆逐艦近づきます」
「ようやく見つけたか。呑気な奴らだ。面舵十五、速度八、八十まで潜れ。電池残量は?」
「全速三時間です」
「いいだろう、八ノットなら五時間はもつな。このまま三十分進んで、停止。様子をみよう」
駆逐艦では、ふっつり消えた音を探し続けていた。空母を襲撃した時間差から考えて、日本はドイツのとった群狼作戦を採用したと考えられる。
そう長く全速で走ることはできないだろうと、あてずっぽうに爆雷を投下してみることにした。鉄砲は撃たなければ当らない。爆雷も抱え込んでいれば何の脅威も与えない。敢闘精神を評価してもおらうためにも、盛大に攻撃を繰り返すのがアメリカである。
遠く離れた海中で、爆雷の爆ぜる打ち上げ花火のような第一発を耳にした瞬間、艦長はすかさず通常速度を命じた。
「新米のようですな、あんな馬鹿みたいに投下したら、じきに在庫切れになりますよ。音は聞こえなくしてしまうし、考えの足りない艦長のようですな」
「放っておけ。それより補給部隊を捕まえるのが肝心だ。進路戻せ、深度三十」
新たに派遣した艦隊が、補給部隊ごと消息を絶ったことに海軍長官は苛立っていた。
すでに大統領は大量虐殺を何とも思わなくなっていることから、こんな間抜けな報告をすればキング自身の命さえ奪われかねないからである。
考えろ、考えろ。なぜこんなことばかりがおきるのか。
人を遠ざけた執務室で、キングは独り考え込んでいた。
「日本の軍備に詳しい者を集めてくれ。それと、イギリスで戦った日本軍を見た者もだ。大至急集めろ」
キングの悲壮な招集で集められた者が頭を寄せていた。
「君たちは少なくとも他の誰より日本のことをよく知っている。この部屋にいる間は階級を取り払え。どんなことでもいいから気づいたことを話せ」
集められた者たちはいずれも駐在武官を経験した少壮仕官であるが、海軍トップと直接面会したことはなく、緊張しきっていた。皆一様に背筋をピンと伸ばし、正面を向いたまま目玉すら動かせないほど堅くなっていた。だから、いくら階級を取り払うよう言われても、咳ひとつしないまま時だけがすぎていった。
「そう緊張するな。これは正式な会議ではない。君たちに教えてもらうために集まってもらったのだからな、とにかくコーヒーを飲みながら話そう」
しんとしたままの空気にうんざりして、キングは事務官にコーヒーの用意を命じた。
「では、開戦前の日本の装備を知っている限り教えてくれないか、ええっと、……中佐」
「デニングスです。日本は海軍軍縮条約を馬鹿正直に守っておりました。ですので、戦艦の建造をしておりません。私が知る限り、巡洋艦ですら十隻に満たないかと」
「馬鹿を言ってはいかん。そんなひ弱な海軍では国を守れるはずがない。きっと秘密に建造していたはずだ。でなければ、どういう理由で艦隊が二つも消息を絶つのかね? 他に何を建造していた?」
「はい、比較的大型の魚雷艇を多数。それと潜水艦を見ました」
「そんな、話にならん。たかが魚雷艇ごとき、いくらも攻撃力などない。他には何もなかったか?」
「そういえば、やけに長いフロートがありました」
「フロート? 何のために?」
「わかりません。おそらく沖合いの補給所にするのではないかと……」
「曳き船はあったのか?」
「曳き船ですか?」
「タグボートだ。君の推測通りならタグボートが必要なはずだ。どうだった?」
「特に見ておりません」
「腰を折って申し訳ありません」
「君は?」
「マクガイヤー中佐です。イギリス武官をしておりました」
「何か不満かね? マクガイヤー」
「イギリスに派遣された日本艦隊は魚雷艇六隻でした。詳しい情報が遮断されていたので確かなことはわかりませんが、とても機動性のよい船体だそうです。それと、拿捕されたドイツ艦は上部構造物、特に艦橋を集中して狙われたようで、魚雷攻撃による損傷は軽微だったようです」
「魚雷の被害が軽微? それでなぜ拿捕できるのかね」
「つまり、艦橋を狙われたことで集中制御ができなくなった。指揮系統が壊滅したと考えられます」
「なにも操船は艦橋に限ったわけではないぞ」
「ですが、舵機室と機械室は離れています。それに艦底にあるので外が見えません」
「ちっぽけな魚雷艇なら、簡単に追い払えるだろう」
「至近に寄られたら機銃すら使えません」
「いや、それはない。考えてみろ。魚雷艇の乗員は何人だ? それで遠洋に進出できるか?」
「では、たかが魚雷艇がどうやって艦橋を破壊できたか、疑問が残るままです」
「なるほど……。艦橋を集中的にか……」
「それだ! それに違いない。艦橋を集中攻撃して指揮系統を壊滅させ、どうにかして艦の自由を奪ったに違いない」
「それで連絡が途絶したことを説明できますか?」
「アンテナを破壊されたらどうだ? 手も足も出せまいが」
「では、どんな兵器を使ったのでしょう。魚雷艇に搭載できるのは口径の小さな機銃くらいしかありませんが」
「ウゥム……」
キングは唸ったきり目を閉じて考え込んだ。
キングの読みは正確に的を射ていた。指揮系統と通信手段さえ奪えば、手の内が洩れることはないのである。膨大な捕虜を抱え込むことにはなるが、武器・弾薬、艦船や航空機すらほとんど無傷で手に入れることができる上に、アメリカの被害ははかりしれないのである。大国だから兵器や装備の損失くらいでは困りはしないだろうが、人的損失となれば簡単に補充がきかない。毎回何万という将兵が、戦闘すらできぬ間に捕虜になっている。本国ではそれを知らない。なぜなら、軍も政府もその事実を知ったとしても公表できないからである。フィリピンが陥落した、グアムも陥落した。サイパン占領に向かった将兵が全員捕虜になった。状況把握のために派遣した艦隊も消息を絶った。
そんな事実を公表したらどうなるか。
即時戦争終結を社会が叫ぶだろう。利己的な社会風土にあって、いかに大統領といえども無事に任期を勤め上げることはできまい。
だから大統領は悪魔に魅入られたように狂ってゆくのであろう。
自分は本心でないのに片棒を担がされている。
キングの懊悩はつきない。
一人の男が大統領執務室から出てきた。戦時統制により粗末な服装が奨励されているにもかかわらず、きちんとした身なりで中折れ帽を手にしている。胸ポケットにはピンクのチーフがのぞき、足元は漆黒の編み上げ靴が今まさに磨き上げられたばかりのように輝いている。天然にカールした髪にこってりとポマードをなすりつけ、金縁眼鏡と蝶ネクタイを自慢げに見せびらかしている。銀行の支配人然としたこの男。政府情報部欧州局長のハロルド・オーウェンという。
ハロルドが公的な場所に姿をみせるのは極めて稀である。
今、彼は口笛でも吹きそうにウキウキしていた。というのは、かねてから狙っていた人材確保がうまくゆき、新型兵器研究の許可を得たからである。参謀総長と国防軍情報部長を説得したのをかわきりに、反ナチ運動家の糾合にも成功していた。そこで語り合った結果を報告しがてら、新たな企画を提案しにきたのである。
大統領は、ハロルドの言葉をいちいち反復しながら興味深そうに聴いていた。そして、概略を理解すると、具体的な人材確保について何度も何度も説明を求め、大いに満足そうにうなづき、研究資金や人手の確保にも必要な措置をすると明言した。
ハロルドの役目はすでに決まっている。大統領にも見せたリストにしたがい、ドイツから逃れてきたユダヤ人科学者を引き込むことである。そのうえで、トルーマン副大統領やスチムソン陸軍長官、実業家のバーナード・バルークを篭絡すれば完璧であった。
後にマンハッタン計画と名づけられる企てが始動したのである。
イギリスとフランスの関係は複雑である。
ドイツがイギリスに降服し、イギリスの共和国として再生を図りだしたことは先に述べた。
ドイツが健在であった時、フランスはドイツと戦端を開いていた。敵の敵は見方。そう言い切れないのがイギリスとフランスの関係である。東南アジア各国の独立運動においてフランスはイギリスと立場を異にし、イギリスが日本と同盟を結んでいたことで敵対関係となった。さらに歴史を紐解けば、フランスこそイギリスの宗主国である。そのために一世紀にもわたり紛争を繰り返してきた。
さらに追い討ちをかけるように、フランスと国境を接するスペインとベルギーがイギリスとの友好関係を深めようとしている。チェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリア、ギリシア、ルーマニア、トルコ。欧州の主要国のほとんどがイギリスと何らかの関係を築いている。それにひきかえ、先の大戦でも領土を奪われ、この戦争でもすでに半分以上の国土を侵されたフランスに組する国はひとつもなかった。
このままぐずぐずしていたら、国の存亡すら危ういことはわかっていても、プライドを捨てきることができない。かといって、ヒトラーを爆殺する力をパリに向けられたら。
答えを見出せないまま時が過ぎていた。
その間隙を狙ったのがソビエトである。
ソビエトは、ナチス崩壊により独立を取り戻したばかりのポーランドに何の通告もなく押し入り、瞬く間にドイツ国境に迫ったのである。
ドゴールはそこで勘違いをした。
ドイツ国境防衛のためにイギリス軍が急遽出動したことを知るや、ドーバー海峡を渡ってイギリス本土上陸を画策した。
しかし大部隊を動員するだけの国力は残っておらず、いわば伸るか反るかの大勝負である。
フランス北中部を出港したのは雑多な船団でsる。貨物船から漁船までも借り出されていた。そんな小船にひしめくように詰め込まれた兵士は、北洋の荒波に翻弄されながら集結地点にたどりついた。しかし、その動きはイギリスに洩れている。
イギリスとしては、沿岸に兵士を配置し、航空攻撃をかいくぐった船だけを相手にすればよく、あえて船を沈めるまでもなく漂流させればよかった。
心理的負担は比べるべくもなく、無謀にも船酔いの兵士を駆り立てるドゴールに対する不信は、フランス兵士の間に急速に広まっていた。
対フランス戦が一段落すると、イギリスとドイツの反攻が本格化した。
重量級の戦車を前面におしたて、機動力を発揮した作戦でヨーロッパからアフリカまで席巻した旧ドイツ軍にイギリス歩兵が随伴し、数で勝るソビエト軍をジワジワ押し返し、かろうじてポーランドを奪還した。徐々に後退したソビエト軍は、バルト三国を押しつぶしてスロバキアに打ちかかった。これには周辺国が協力して戦線を膠着させた。察するところ、ヨーロッパ域内での仲たがいとソビエト侵攻はまったく別次元のもののようで、うまくいっていない近所同士が協力するようである。その中で浮いたのがフランスということらしい。
ただ、懸念されるのはアメリカ侵攻であった。
ヨーロッパ諸国は概して陸軍国である。強力な海軍を擁する国はイギリスただ一国である。
かろうじてソビエトの圧力を跳ね返したはいいが、今アメリカが攻め寄せてきたら、チャーチルは暗澹たる思いで電話をとった。
「日本大使館、武官室です」
「チャーチルです。今日は重大な相談で電話しました。一度官邸にご足労いただけるとありがたいのですが、午後四時ではいかがですかな。夕食をとりながら相談したいことがあります。陸海軍参謀長を同席させますので、ぜひ」
戦時下に夕食の誘いである。しかも陸海軍参謀長が同席することを告げていた。それ以上いわなくても事の重大性は容易に察することができる。
電話対応をした駐在武官は、海軍武官と大使に連絡をとった。