傲慢の代償
十二、傲慢の代償
その日の花蓮には厚い雲が垂れ込めていた。全天を雲が覆い、わずかに北の方角に穴のような切れ目があるだけであった。
雲をつきでてきたのはアメリカの大型爆撃機B17であった。
胴体と翼にくっきりと星が描かれている。雲すれすれを大きく迂回して花蓮港上空にやってくるなり、慌てて避難を始めた貨物船めがけて爆弾の雨を降らせ始めた。
まばらな対空砲火に安心したのか、低空を航過しながら機銃掃射をするものまであらわれた。
携帯式ミサイルで応戦するものの、距離がなさすぎてまったく効果なく、ようやく動き出したばかりの船が恰好の標的となっていた。
同日、テニアンとサイパンも突然の空襲に騒然となった。
マリアナ諸島を軍事基地化しないというのが日本に委任統治を託された当初の協定であった。それを愚直に守り、水産業と南国果実の生産を行っていた両島には、周辺海域の警察活動をする小型艇しか武力らしきものはない。しかも、警察活動主体のために小火器が備えてあるだけである。空襲を受ければひとたまりもない。
不毛な戦いを挑んで海上の足を失うよりも、逃げ廻ってでも船の確保を図るのが精一杯であった。
港や水産加工場や、漁船のための燃料タンクを中心に爆撃が始まり、めぼしい目標を破壊しつくしたと判断したのか、住宅街にも爆弾を投下して去って行った。
花蓮もサイパンも、そしてテニアンも、軍事施設などどこにもない。すべて民間用施設である。あろうことか住宅街を爆撃するなど言語道断である。
続々届く悲報に、政府は中日アメリカ大使を呼びつけ、激しい言葉で詰っていた。
「貴様らは、無抵抗の民間人をなぶり殺しにするのがおもしろいか! いいか、たとえ軍事基地を攻撃したとしても、こんな卑怯なやりかたをするのか! いつ開戦通告をしたのだ、黙っていないではっきり答えろ!」
「いや、それは……。今朝七時にもってきたはずだが……」
「馬鹿か! 相手国に対する文書なら、相手国の言葉に翻訳するのが常識ではないか、ごまかすな! それが仮に本物であっても、翻訳に時間がかかるのはわが国の責任というのか! 冗談にもほどがある、違うか! 貴様たちは無法者の集まりなのか、恥を知れ! こんなやくざ者が大使だと? 大統領だと? あきれ果てて言葉がないわ!」
「だから、翻訳に手間取って、開戦時刻に間に合わなかっただけだ。むしろ難解な日本語の責任というべきであり、我々の責任ではない」
「なんだと? 日本語が難しいのが悪いだと? 貴様が馬鹿なだけではないか。人殺しのくせに居直るのか? なんだその物の言い方は、何様のつもりだ!」
「と、とにかく、至急本国に連絡をとるので待ってもらいたい」
「馬鹿野郎! お願いしますだ!」
「お、おねがいします」
「大使館から出歩くな。誰かに見つかったら指一本、腕一本、そのたびになくなると思え。わかったか!」
「わ、わかりました」
へらへらとした顔しか知らない大使は、髪を逆立てて怒鳴り上げる姿に仰天し、ズボンの前をぐっしょり濡らしたのも気付かず膝をがくがく震わせながら退室した。
「註日大使からの確認伝はまだか、すでに攻撃開始時刻を四時間過ぎている。間違いなく通告文を渡したか大至急報告しろ」
ルーズベルトは嫌な胸騒ぎを感じている。杞憂であってほしいと念じつつ、不安を取り除くことで頭がいっぱいであった。
日本に対する通告文を大使館宛に暗号で送ったのは昨日である。
攻撃開始時刻はワシントン午前零時。
少なくともその二時間前には通告するよう厳重に指示をしておいたはずである。
そして通告を済ませたら必ず報告することも。
なのにまだ報告がきていない。
なんらかの手違いがあったとしたら……。いや、そんなことがあってはならない。まず間違いなく日本を屈服できるだろうが、西欧諸国に対する信用を失ってしまう。少なくとも、非難されては大統領でい続けることはできないのである。
「あらためて本国からの開戦通告をお持ちしました」
日本人の怒りを初めて知ったアメリカ大使は、今にも刀で斬りつけられる不安で、翻訳した通告文を差し出す時でさえ膝を震わせていた。
「たしかに受け取った。しかし、通告前に行ったことは、あれは犯罪である。あのだまし討ちにかかわった全員を死刑にしてやる。三尺高い獄門台に首を晒してやる。いいか、忘れずに伝えろ」
アメリカ大使にくらべれば肩ほどしかない小男なのに、二回り以上膨れ上がったような威圧感を漲らせていた。
「いや、これは翻訳に手間取ったことが原因ですから、決して」
「聴きたくない。即刻国外へ退去を命ずる。ひとつ忠告しておく。首を刎ねられる時は小便を漏らすな。着替えも忘れるほど怖いか、小人ばらが」
確かにまだ濡れたままの股間から異臭が漂っていた。
マリアナと台湾がほぼ同時に攻撃されたことを受け、琉球と鹿児島から急遽艦隊が出撃していた。
琉球にいた艦隊は、台湾を通過してニューギニアをめざし、鹿児島の艦隊はまっすぐにテニアンへ向かっている。
共に双胴の空母二隻と駆逐艦三隻、それに十二隻の魚雷艇と輸送艦からなっていた。
どの船も船首に魚雷のような突起がついていて、派手な波しぶきをたてずに快速を発揮している。鈍重な輸送艦でさえ二十ノットの巡航速度を保っていた。
鹿児島を出港して丸一日、速度を三十ノットに上げた艦隊は進路を南西にとり、マリアナの弧状列島を左手にして驀進していた。
一方のアメリカは、二日にわたる空襲にほとんど抵抗がなく、もともと海軍力がない日本を侮っていた。サイパンとテニアンを占領してフィリピンへの海上交通路確保が最優先課題でもある。太平洋艦隊はその既定方針に従い、すでにテニアン東方海上に進出していた。ほとんど軍備のない島であることはこれまでの調査から判明していたので、共に主力が先行することなく、上陸占領する海兵隊を伴っての進撃である。輸送船の足であと一日の地点に達していた。
「グアムから何か連絡があったか? 作戦が成功したぐらい報告があってもいいはずだ」
「何も連絡はありません。日本軍の装備は駆逐艦と魚雷艇が大半です。まさか魚雷艇が進出することはないでしょうし、駆逐艦で何ができますか」
「そうか。ではこのまま進もう。明朝にはどの位置まで進出できる?」
「現在、テニアンまで二百マイルです。夜明けには五十マイルに達します」
「いいだろう、昼には上陸できるということだな」
「いえ、上陸ではなく、占領開始です」
「あいかわらず自信家だな、君は。よし、それでは今のうちに眠っておくとしよう」
琉球から進出した艦隊は、翌夜半にはルソン島と香港を結ぶ中間点に達していた。西沙諸島方向に迂回して進路を南にとると、スービックまであとわずかである。
イバ沖五十海里で補給をすませた魚雷艇隊は、本隊と分かれてスービック沖合いに移動を始めた。
スービック湾はサンド島が湾口を仕切っていて、湾奥への水路は二キロほどの幅しかない。
その島の四周に、駆逐艦や巡洋艦が停泊していた。襲撃など予期していないためか、舷燈が煌々と点ったままである。
距離をとって敵の後部に狙いをつけた魚雷艇は、そのままじっと合図の信号弾を待っていた。一度きり、対岸を自動車の明かりが通過しただけで、気付かれた様子はないが、緊張が続いている。五分たち、十分たってもまだ信号弾が上がらない。ジリジリとした苛立ちがつのっていた。
シュルシュルシュル、夜明け前の暗闇に朱に染まった玉が飛んで出た。
「魚雷撃て! 機関、前進半速! 取り舵。後部射手、目標艦の機銃を狙え、命令を待たずに撃て!」
船首に格納してある魚雷が、軽い衝撃とともに排気の泡をひいて目標に向かって走り出した。
艇が左に舵を切りながら速度がつき始めた時、敵艦の艦尾から巨大な水柱が立ち上り、一瞬の間をおいて腹に響く爆発音が轟いてきた。それは時間をおいて何回も響いてくる。
十二隻の放った一斉攻撃が効を奏したのだろう。それで何隻が行動不能に陥ったか確かめる暇はない。帰りの障害となる機銃を沈黙させるべくミサイル攻撃が始まった。
艦尾を攻撃したのには理由があった。舵かスクリュー、できれば両方を破壊すれば追跡どころか今後の行動すらできなくなるからで、最優先に輸送船を攻撃するよう命令を受けていたのである。とはいえ、できることなら大型艦を攻撃したい欲にかられる。しかし、いくら戦艦が横腹をさらしていようが輸送船を使えなくするよう念入りに命令されていた。ただし、もし空母がいるなら攻撃してかまわないとも言われていた。
それとともに、無線アンテナを備えた建物と、燃料タンクをなんとかさがして破壊するようにも命令されていた。
「港内に侵入するぞ、一番管、貨物船のケツを狙え。その次は2番管で巡洋艦をやる。射手、大型艦の無線アンテナを狙え」
艇尾からミサイルが立て続けに三発発射されたのを見届けた艇長が叫んだ。
白んできた空に炎を引いた光の矢が交錯している。くっきりと輪郭をあらわにした敵艦に命中したミサイルが閃光を発すると、命中した周囲からさまざまな物がばらばら撒き散らされる様子がくっきり見えてきた。その頃になってようやく兵士が駆け回る姿もみえてきたが、すでに港内は手のつけられない状態になっていた、
燃料タンクが黒煙を吹き上げて燃えさかり、大きな無線アンテナは建物ごと崩れ落ちている。戦艦も巡洋艦も無線アンテナが崩れ落ち、機銃座は吹き飛んでいる。接岸していた貨物船などは横腹に魚雷を受けたのか、徐々に傾きを増していた。船や司令部設備ばかりか、工廠のクレーンも台座から外れていた。
「おい、変電所はないか?」
工廠の重機が使い物にならなくなったとみた艇長が見張りを呼んだ。
「見えません。高圧線らしき鉄塔はあります」
伝声管から興奮した声が返ってきた。
「射手、鉄塔を狙え」
「無理ですよ艇長、あんなもんに命中するわけないです」
「この役立たずが! ほかに獲物はないか探せ!」
「無理はむりですよ。それより、タグボートが並んでいます。あれを沈めます」
「よし、外すなよ。発射したらひとまず港外に出る。マニラ湾にむかう」
あまりに上手くいきすぎた奇襲に、艇長は高揚感を抑えきれない。
空母を飛び立った航空隊は、スービックに黒煙が上がっているのをチラッと見て、クラーク基地へと高度を上げていた。大きく迂回した航空隊は、朝日を背に受けて鉛筆のように見えてきた滑走路に機首を向けた。
今日もまたどこかへ爆撃に行くつもりなのか、何機かが暖気運転をしている最中である。その前に、戦闘機をつぶしてやろう。第二分隊長の宮原は長機に手信号で伝えるとずっと手前の駐機場に向けて通常弾を放った。即座に反転上昇。振り出しの位置に戻ると驚異的な視力で通信施設をさがした。
ブーンというアブの羽音が聞こえてきた。出撃前の暖機運転を始めた機体があるために音の主がはっきりしない。六機目の給油を開始した整備員は、いぶかしげに辺りを見回した。しかし、ウォーフォークもワイルドキャットも静かに休んだままである。胸騒ぎをおぼえた整備員は、キョロキョロと上空にも目を這わせたが何も見つからない。まさかと思って強烈な太陽を透かし見ると、芥子粒がいくつか見え隠れしていた。眩しくてありもしないものが見えてしまったのかと用心しながら手をかざすと、たしかに芥子粒がゴマ粒になると、埃のようなものを置き去りにして急上昇反転した。
『あんなところで爆弾落としやがって、馬鹿じゃねえのか? 日本人が猿だっていう噂、案外そうかもしれねえな』
整備員は勝ち誇ったような気持ちになって、給油ホースを外す余裕すらあった。
主翼の下に挿し込んだホースを半回転させなくてもホースは簡単に外れるようになっている。その間わずか三秒ほどである。ホースを放り出して主翼の下から埃の行方をさがしてみると、すでに針のように大きく、しかも尻から炎を吹き出していた。それが恐ろしい勢いで自分に向かってくる。
整備員はびっくりして駆け出した。
と、いくらも行かないうちに後ろで轟音が鳴り響いた。
何度爆発したかなど数えてはいない。仲間の安否を確かめるどころではない。誰に報告するという意識すらとんでいる。たしかなことは、自分の周囲はガソリンタンクと同じということである。速く遠くへ、ただそれだけの想いで整備員は駆けていた。
中隊長の放ったミサイルは、見事に暖気運転中の爆撃機を直撃した。
たった十キロの炸薬しか充填されていなくても、下瀬火薬の破壊力はすさまじい。
機体を突き破って地面で爆発したミサイルは、重い機体を支える頑丈な脚をふきとばし、翼内タンクの中身を霧状に撒き散らしてしまう。しかも、希釈された燃料は瞬時に巨大な火球となった。直撃を受けて即死した者は幸運というべきか、全身火達磨になって転げまわる地獄の責め苦にくらべれば。
一方で、弾薬の準備に追われていた者こそ悲惨である。火災から遠ざかるにせよ背中に弾薬庫を背負っているのである。いくら安全ピンが挿されているといっても一発の銃弾で誘爆をおこしかねないのである。車両を捨てて逃げようにも近くに退避所などありはしない。ロシアンルーレットどころのさわぎではなかった。
燃料タンクが大きな炎に包まれている。格納庫も屋根を舐めるように炎がまとわりついている。しかも、基地本館にも大きな穴がいくつも穿たれ、通信アンテナは地上に落ちてねじくれている。まだ健在なのは弾薬庫くらいなもので、もう基地としての機能は完全に失ったように思われた。
同様のことが、ルソン島にある各地の航空基地でおこっていた。しかし、指示を仰ぐにせよ助けを求めるにせよ、無線が使えないではどうしようもない。頼みになるのは陸軍であるが、相手が空から攻撃をしかけてくるのでは太刀打ちできまい。とすれば、一旦退却することになるのだろうか。駐留する軍人だけでなく、多くの民間人を避難させるだけの船があるのだろうか。誰にもわからないことであった。
クラーク基地からの緊急伝は、グアムでもハワイでも受信されていた。切迫した様子で航空攻撃を受けているとだけ告げて、あとは音信不通になってしまった。
航空攻撃をすることができるのはイギリスくらいなものだが、イギリス空母がコロンボに停泊している確かな情報を掴んでいたことが司令部の混乱を余計に招いたのである。なぜなら、イギリス機ではルソン島への攻撃を可能にするだけの航続距離がなかったからである。状況からすれば、日本軍による報復攻撃である可能性が高いが、日本には小型空母でさえ五隻に満たないし、日本最大の中型空母はドックで修理中である。そして、正確な情報を得ようにも、無線は沈黙したままであった。
「どうもおかしいな。無線に応答しないというのが妙だ。すぐに救援にむかおう」
「承知しました。ですが輸送船の護衛はどうしましょう。上陸作戦もありますし」
「巡洋艦四隻と駆逐艦八隻で上陸支援にあたらせろ。まずはフィリピンの状況確認が先だ」
スービックは海の、クラークは空の一大軍事基地である。そこからの連絡が途絶えていることの理由は二つ考えられた。
まず、無線施設が使えないということ。そして、全滅。だがそれはありえないことである。ポンコツ無線機が一台しかないわけではない。長波も中波も、超長波無線機も備えられているし、非常用電源も働くはずである。ましてや全滅などありえない。どう状況を分析してもアメリカに立ち向かう相手などいるはずがない。圧倒的な軍事力、国力、知性。どれをとっても導き出される答えは、アメリカは無敵だということである。
だが、現実に連絡が途絶えている。
そこに日本軍の関与を疑う余地はまったくない。技術的にはまだまだ未開だと信じて疑わなかったのであった。
司令官からしてそうなのだから、艦隊全体にそういう驕りが満ちていた。
せっかくの空母をもちながら周囲を警戒する配慮すらせず、艦隊は速度を上げてフィリピンへの最短コースにつっこんでいった。
日本とアメリカが交戦状態に陥ったせいで、イギリスはアメリカに宣戦布告をしていた。それに刺激されたのか、ドイツがポーランドに侵攻。ポーランドと相互協力協定を結んでいたイギリスは、ドイツとも戦闘を交えることになってしまった。
微妙な立場に立たされたのはフランスである。イギリスとアメリカが交戦状態になった今、植民地を維持するにはどちらかと手を結ばねばならない。交通路を考えればイギリスと手を結ぶことになるが、イギリスは植民地の独立に積極的である。植民地支配を続けたいフランスにとって、それはのめることではない。かといってアメリカと組めば交通路を遮断されてしまう。どちらも不都合なことである。そう思い悩む矢先、ドイツがまたしてもポーランドに侵攻してきた。フランスにとってそちらも心配の種である。先の大戦で、初めは協力関係にあったドイツをフランスは裏切ってしまった。今回はドイツの報復を覚悟せねばならないのである。だがそれは困る。かといって植民地を放棄させられるのも癪に障る。なぜなら、イギリスは元々フランスの属国だからである。
国を滅ぼすのは困る。かといって財産放棄は嫌だ。それに今さらイギリスに頭を下げることなどできない。
世間知らずの若旦那そのものであった。
一方のドイツは、大戦の敗北により疲弊しきっていた。帝政を廃し、一度ならず内閣が交代してもなお、国民の不満は解消できなかった。そこに台頭したのがヒトラーである。
国民の不満を逸らすために強硬な国粋主義を唱え、その方針に批判的な者を強権で排除し始めた。政治家、科学者、芸術家からも多数が強制収用所に送られ、アーリア人こそが世界で最も優れた存在として劣等民族の駆逐を始めてしまった。
そんなやり方に危機感を抱く者は少なくない。しかし、大多数は黙って服従するしかなく、特に貧しい階層の者は声を上げることすら許されなかった。そんな恐怖政治に危機感をおぼえた知識人の海外流出が始まっていた。無論、当局が黙って許すはずはないのだが、戦火を逃れ、身一つでの逃避行が繰り返されたのである。
さて、鹿児島から駆けてきた艦隊は、ハワイ艦隊主力が分離した頃にはサイパン北西五十海里で魚雷艇に燃料補給の真っ最中であった。夜明け前から索敵機を放って敵の動向を探ろうとやっきとなっていた。
その索敵機の一機が、テニアン沖をフィリピンに向けて航行中の艦隊を発見していた。
「なかなかの艦隊だなあ、戦艦も空母もちゃんと揃えてきやがった。に、しちゃあ駆逐艦がちいと少ねえのが気に入らねえが、まさかこんな近くにいたとはなあ」
一万メートルの高空から西へ航行する艦隊を発見した偵察機では、呑気な会話が交わされている。
「どうします機長。邀撃機を出したようですよ、もう少し高度を上げますか?」
「慌てなくてもよ、ようやく一機上がったとこだ。どこまで上がってこれるかおちょくってやりてえな、え?」
機長の田所は、敵邀撃機の性能を測ってやろうと目論んでいた。上昇率と上昇限度がわかっていれば相手が戦闘機であっても怖いことはない。イギリス製過給器のおかげで速度も上昇限度もまだまだ余裕があるからであった。
「機長、やめましょうよその言葉。やくざと間違われますよ」
「この野郎、ご先祖様をやくざにしやがったな」
「機長、酸素外れてないでしょうね。気絶しても介抱できないんですからね」
「酸素? 前田! てめえ」
田所は、酸素不足で馬鹿なことを言っているとからかわれたのに気付き、操縦士の前田に悪態をついた。
「それより機長、敵さんも索敵機を出したようですよ」
前田が言うように、空母から攻撃機らしきものが十機ほど舞い上がった。
「こちら鶴四番、田所。敵索敵機発進。鶴四番、敵索敵機発進」
艦橋指揮所のスピーカーが敵索敵機の発進を告げた。
「偵察機を発見して慌てているんだろうな。攻撃隊はどうだ?」
「間もなく発艦できます」
「その前に邀撃機は無理か?」
「先に攻撃隊を発艦させてください。無用に混乱します」
「いや、だめだ。攻撃隊の三機に直衛させろ。索敵機を落としてから攻撃にむかわせろ。まだ鶴を見せるわけにはいかん。攻撃隊の発艦を急がせろ」
「承知しました」
「他の索敵機からの連絡がないが、やつらただ艦隊で押し寄せたのだろうか? どうも腑に落ちん。貴様ならどうする?」
「さして抵抗がないのなら上陸、占領ですね。島は沈みませんからね」
「それが順当だろうが、それらしい動きがないのはなぜだ? 」
「……元々上陸する気がないのか、十分な備えがあるか……。とにかくもう少し待ちましょう」
「覚えておけ、島は逃げられんということを」
双胴空母、鶴。多くの姉妹艦があるこの空母は広大な飛行甲板をもっている。ただ双胴にするのでは飛行甲板が真ん中に窪んでしまうので甲板中央部を一回り小さなフロートで支える構造である。全幅五十メートルの甲板は、腕のいい操縦士なら余裕で同時発進できる広さである。中央に設けたフロートは、燃料タンクになっている。だから実際は胴が三本あるのだが、中央は駆動しないので双胴という位置づけなのである。
飛行甲板の下は通常型空母の二倍ほどもある格納庫で、機関の廃熱を利用して常時高温の潤滑油で飛行機のエンジンを温められなっている。そのため飛行甲板で暖気運転をする必要がなくなり、飛行甲板に上げさえすれば即座に発進可能である。
特に秀逸なのは飛行甲板である。万が一格納庫で爆発が起きた場合を考慮し、そのエネルギーを飛行甲板へ逃がすように工夫されていた。原理はいたって簡単で、飛行甲板に敷き詰めた蓋が開閉するのである。蓋には蝶番がついていて自由に開閉できる。ただし、通常は閉じていなければいけないのでバネで引っ張っているのである。開閉にともなう隙間が気になるところだが、立派なリリーフバルブとして機能するはずである。
この空母、小回りが利かない上に防御を重視されていないので、爆撃や雷撃にはきわめて弱い。だからこそ防御力たる飛行機を多く搭載し、駆逐艦のような細身の船体により、抜群の高速を与えられている。そして、イギリスから供与されたレーダーを搭載していた。
テニアン東方を偵察していた空母亀搭載機は、はるか低層の雲の間に小さなシミを発見した。近づくにつれ、それはおびただしい白線であることが判明した。じっと目を凝らすと、白線の先に船を認めた。慎重に高度を下げてゆくと、先頭の船に発砲の閃光があり、的外れな空域で砲弾が炸裂した。
「こちら亀6番、テニアンより八十五度、四十海里に敵輸送船団あり。巡洋艦四、駆逐艦八、輸送船三十.推定十ノットでテニアンに向かう模様。随伴艦なし」
必要なことのみ送信し、艦隊上空をふたたび旋回してあさっての方に進路をとった。
「連絡してきた場所はここですから、およそ六十海里ですね」
「魚雷艇を急行させろ。攻撃機は亀から出せ。魚雷艇の到着前に機銃をつぶさせろ」
「承知しました」
「攻撃隊発艦後、グアムを叩く。グアムの軍事施設は徹底して叩け。なに、海上交通がなくなれば日干しになるだけだ。島は逃げられんからな」
「そういう意味でしたか」
「しかし、敵艦を漂流させるのは良いとして、その後はどうされるおつもりですか?」
「さあ、そこだ。それについて指示を受けていないから困ってるんだ。どのみちどこかの島にでも押し込める以外にないだろうがな」
「こちら鶴四番、攻撃隊到着。これより帰投する」
巻き舌気味の無線が艦隊司令のぼやきを押しのけた。
「いよいよ始まるな。魚雷艇はどこまで進んだ?」
「予定ですと、あと一時間で到着です」
「よし、ではもう少し近づくとしよう。念のため直衛機を上げておくように」
鶴から発進した攻撃隊は全部で十二機、どの機も翼下にミサイルを吊っている。小型機が二発、大型機が4発。総数で四十二発のミサイルを搭載している。まずはそれで空母の飛行甲板を使用不能にし、残りで機銃を沈黙させることになっていた。たった二発とはいえ小型機にはかなり負担である。先ほどは雷撃機が相手だったので一撃で勝負がついてしまったが、戦闘機を相手にするなら運動性に不安を感じる。まず、加速が悪い、小回りがきかない。そして、片方のミサイルを吊った状態だとバランスが狂ってしまう。特に上空からの航過攻撃の際には、勝手に機体がロールを始めるしまつである。
さりとて、ミサイルを捨ててしまっては攻撃に一切寄与しないのだから始末が悪い。
敵戦闘機の排除を命じられた小隊は、それでも泣き言をいわずに逆落としに突っ込んでいった。
反復攻撃を念頭においていたアメリカ戦闘機隊は、空母から四十キロも離れた空域で日本攻撃機の到来を待ち構えていた。その数六機。
アメリカの飛行機は優秀なのだ。決して他国の飛行機に劣るはずがない。それに操縦の腕が違う。同じ性能であっても腕で決着をつけてやる。
戦闘機隊は意気軒昂であった。
日本に優秀な機体など存在しないと信じていたし、爆撃機と雷撃機からなる攻撃と信じていたからだ。だから三機が上空に、三機が低空にと分かれて待ち構えていたのである。
先頭の三機が高度をとり始めたのにつられるように、アメリカ戦闘機も一斉に高度を上げ。
しかし、スロットルを叩きつけるように全開にしても、高度を稼げないのである。
思い切って赤ブーストまで出力を上げてみたが、上昇力に差がありすぎた。
仕方ない、先頭はやりすごして後続を狙おう。気持ちを切り替えた時であった。
上空を通り過ぎるはずの敵機が、背面になって突進してきたのである。
三機は慌てた。我先に反転したのだが、敵も三機。性能限界の操作をしていたために速度がおちている。逆に、敵は高度差を利用して鋭いダッシュをみせている。
蛇行しようにも頭を抑えられ、急降下をすれば直線飛行になって追い詰められる。ロールをうっても逃げられるとは思えなかった。そこでとった最後の手段、背面宙返りに勝負をかけてみた。
背面になった瞬間に操縦桿を思い切り引いた。死にたくない、ただそれだけの理由で生まれて初めての馬鹿力を出していた。
目の前の光景が天地逆転し、正面に大地が見えてきた。その時はすでに頭を巡る血が足先に集まりだしている。目の前が明るさを失い、ありもしない星がチカチカ瞬いている。
その朧な視界に二条の閃光が駆け抜けるのを見た。
『まずい、このままではまずい。もう少し小回りしなければ……』
スロットルを戻すにつれ、操縦桿が腹に届きそうになってきた。
『もう少し、あと少し……』
渾身の力を振り絞って操縦桿を引き続けると、またしても二条の閃光。
この操縦士の魂は、次の瞬間には宙を漂うことになった。
『下手糞な奴だな、中途半端な操作しやがって』
逃げ惑う敵機に軸線を合せたまま急降下を続ける日本の操縦士は、敵機の未来位置へ機首の機銃を一連射した。もとより照準を確かめるための射撃である。そしてほんの少し修正してまた一撃。初弾で照準を確かめて全銃から短く連射した。途中で一瞬操縦桿を緩めている。すると、弾は前後にもばら撒かれた。その何発かがエンジンから機体後部にかけてに命中するのが見えた。操縦士に命中したのか、風防の中が真っ赤になり、機はロールをうちながら急降下を始めた。
しかし操縦士はそんなものの行方など眼中にないかのように、懸命に遁走を諮る敵機を見据えていた。
上空で空中戦が始まり、邀撃機の旗色が悪いことを知った空母では、逐次邀撃機の発艦に大わらわであった。
ただ困ったことに、作戦の予定がない機体は着艦と同時に燃料を抜き取ることが常識になっていて、急に発艦を命令されても準備の時間が必要である。それに弾薬も搭載しなければならない。せっかく飛行準備ができたとしても、弾薬を運び、搭載し、装填するまでは発艦できないのである。
罵声をあげながら準備をしている間に、まだ距離があるというのに敵機の翼下から細長い物体が飛び出してきた。
「右回頭!」
艦長が怒鳴り、二秒ほど遅れて舵が利きだした。
細長い物体が左舷海面に激突して大きな爆発をした。その破片が飛行甲板にも飛び散っている。
この時は艦長の感が効を奏したのだが、規律に厳しい軍隊であることが思わぬ災いを招いたのである。
艦長は右回頭を命じておきながら、舵を戻すことを忘れていた。操舵手は勝手に舵輪を戻すことは許されていない。つまり、艦は右に弧を描いて回頭していたのである。そうなると護衛にあたる駆逐艦と急接近する。そうして空母は、みずから回避しにくい状況に追い込まれてしまったのであった。
またしても敵機が細長い物体を放った。それも二機連続に。
攻撃側に気持ちのゆとりが生まれた。右へ回避できないからには、直進か左しか進むべき道はない。つまり、左舷よりを狙えば必ず命中するということである。
飛行甲板最前部に一発が、次いで艦橋真横で一発が命中した。
「どうなっているんだ? なぜ反撃しない」
「それが、反撃しようにも機銃の射程外から近づかないようで」
「高角砲をなぜ使わんのかね?」
「敵攻撃機が敏捷なので弾を無駄にするだけという判断のようです」
「まったく、なっとらん! 空母の損害は?」
「現在発着艦不能、使用できるまでに二時間必要だそうです」
「一時間でやれ! 損害はそれだけではあるまい?」
「発艦前の戦闘機が巻き添えを食いまして、燃料に引火したようです」
「一つ奇妙なことがあります」
「なんだ」
「敵は機銃や高角砲ばかりを狙っているようなんです。何か意味があるのでしょうか」
「戦闘艦を攻撃する能力がないということだろう。グアムの戦闘機を呼び寄せろ」
遁走した邀撃機を追い落とした小型機が艦隊上空に到着すると、、すでにアメリカ空母の飛行甲板に並んだ戦闘機が炎を上げていて、甲板員が懸命に海中投棄を試みている最中であった。
禁を犯して輪型陣の内側に侵入した攻撃機は、至近距離から空母の艦橋めがけてミサイルを発射した。
編隊でほぼ同時に放ったミサイルは、見事に艦橋上部で炸裂した。避退運動をかけている最中も、機銃弾が雨のように降り注いでくる。右に左に機を滑らせて安全圏に逃れ、残る一発を発射すべく高度を上げた。
『よし、あの大物を片輪にしてやる』
まだ無傷な戦艦に向けて突入を開始した。
『なに、戦艦だって目と口を潰せばタライと同じことだ』
ここでいう目は艦橋の指揮所で、口は無線アンテナである。下から撃ち上げる機銃弾はめくら撃ちである。簡単に当たるものではないと言い聞かせての突入である。
油断すればロールをうちそうになる機体を力でねじふせて肉薄してゆく。
目の前をアイスキャンデーが束になって迫ってくる。まるでシャワーを仰ぎ見ているような感じだ。
発射レバーを引いたとたんにバランスが崩れ、逆方向にロールしそうになる。フッと操縦桿から力を抜き、すぐにおもいきり引きつける。
艦橋の直前での宙返りとなった。
三機が同時に放った渾身の一弾は、一発は指揮所下に、一発は窓ガラスを破って指揮所に飛び込み、そこで下瀬火薬の威力を発揮、そして一発は艦橋を逸れて煙突に命中した。
三機は、操縦士の喜びをそのまま表すように大きな蛇行を繰り返しながら安全圏に出た。
日本機による攻撃はわずか十分ほどであった。その十分で空母が使用不能になり、旗艦は発令所が全壊してしまった。艦隊司令以下、伝令にいたるまでそこにいた者は肉片すら残らぬありさまである。また、輪型陣の外側にあたる機銃はほぼ全滅していたし、空母は艦橋に被害を受けたことで操艦が不能になっていた。
海軍軍縮会議で日本が不当な裁定をのんだ裏には、こんな戦術があったなど誰が予想したであろう。
盛んに燃える戦闘機に決死の覚悟で海水をかけていた甲板員は、水平線に白波がたつのを訝しげに眺めた。グアムからの救援が到着したのだろうか。しかし、あの白波が豆粒ほどの大きさでしかなく、何の助けになるのだろうとも思った。
艦隊最後尾に位置する駆逐艦からもその白波を認めていた。
味方であってほしかったが、あまりに凄い勢いで近づいてくることに合点がいかない。なぜなら、それは常軌を逸した速度であった。それに、近づくにつれ、船体が水上に浮いているのに気がついた。そんな船など噂にも聞いたことがない。
みるみる近づいたそれは、輪型陣の外側すれすれに周囲を巡ったのである。そしてイギリス式の正式な英語でなにやら喚き始めた。
「我々は日本海軍である。停船して降服せよ。無駄な人殺しはしたくない。停船せよ。もし交戦を望むなら撃沈する」
何度も何度も同じ言葉を繰り返し、やがて最後尾で速度を落とした。
降服を勧告されたにせよ、自分たちには戦う力が残っている。実際、砲弾などは手付かずなのである。誰がそんな言葉をまともに聞くだろう。損傷したのは、旗艦と空母だけではないか。ただ機銃が使えないだけなのである。
しかし、悔しいことに、この小型艇を攻撃するすべがないのも確かだ。
自分たちは世界一強いアメリカ海軍なのだ。こんな無様な負け方は許されないと誰もが思っていた。
「我々は忙しい。お前たちに付き合う暇はない。五分待つ。停船しないなら攻撃を開始する。白旗を掲げて停船せよ」
スピーカーが喚きたてたが、どの艦も従うことはなかった。
「よくわかった。鮫の餌になるがいい」
一隻が艦の真後ろに近づき、狙い済ました魚雷攻撃をかけてきた。
艦隊の速度が落ちており、転舵で避けられない距離だった。
尻を蹴りつけられたような衝撃が走り、艦は行き足を失った。あの位置と距離である、舵とスクリューがやられたのは誰にも想像できた。
次の艇が右前の駆逐艦に近づくと同時に魚雷を放った。左前の艦も同様にして行き足を失った。さらに一隻、また一隻。次々に血祭りにあげられてゆく。僚艦を援護しようにも砲が下を向かないのである。無理に発砲すれば、艇より先に僚艦に命中しかねない。
そうして手をこまねいているうちに自力で行動できる艦がどんどん減ってしまった。
やがて旗艦に白旗が掲げられ、艦隊は行き足を止めたのである。誰の判断かは知らないが、満足に闘うことすらできないまま日本軍に完敗したのであった。それにしても、駆逐艦ならたった一本の魚雷で船体をへし折られてしまいそうなのに、どの艦も浸水こそすれ笹舟のように自由を失っただけですんでいることが不思議で仕方なかった。
上陸をめざしていた船団でも同じようなことがおきていた。
巡洋艦の砲に対してミサイルが連射され、甲板上に人の姿がなくなると降服勧告が始まった。一隻の巡洋艦が主砲を放って増速したとたん、海面を跳ぶ魚雷艇が一斉に艦橋をめがけてミサイルを放ったのである。
三隻がグルグル回りながら立て続けに十発をこえるミサイルを放った。半数以上が外れたものの、命中した何発かは確実に艦橋上部をスクラップに変えていた。
指揮所が破壊されては艦の制御ができなくなる。それを理由にしてか、魚雷が発射された。
左舷ばかりに三本も受ければ、いくら威力の小さな魚雷とはいえ無事にはすまなかった。
十五分も浮いていただろうか。みるみる左舷に傾くや、赤い腹を見せて横倒しになってしまった。
一部始終を見ていた巡洋艦に動揺が走った。しかしアメリカ海軍の誇りが安易な投降を許さない。どうにか打開策はと逡巡していると、決断を促すかのように煙突を飛ばされてしまった。
一艦が行き足を止めると他の二艦もそれにならい、やがて船団は洋上に停止した。
一方の鶴。アメリカ艦隊を攻撃した部隊には上空警戒を命じ、グアム島攻撃隊の発艦作業に追われていた。
きっとアメリカ艦隊の支援に戦闘機がやってくると見越してのことだが、そうなったほうがグアムの防備が手薄になるので歓迎したい。
それよりも、グアム攻撃については温厚な司令が徹底破壊を厳命したのである。
サイパン・テニアンの無垢な市民を殺した罪を償わせる意味で、一兵残らず殺してもかまわんと檄をとばし、すべての物資を燃やすようにさえ言ってのけた。
フィリピンはどうだったのか。
ルソン島の航空基地がしらみつぶしに攻撃を受け、満足な機体も燃料も急速に失われていた。海上では駆逐艦と魚雷艇が沿岸を徹底して偵察し、小型であれ船舶はすべて沈めていた。他の島からの救援もすべて阻止され、事実上幽閉されてしまったのである。
しかも、島内で連絡をとろうにも携帯型の無線以外の手段も失われていた。それというのも、独立軍がアメリカ兵の掃討にのりだしたからである。
ジープが通れるような道路は倒木でふさがれ、徒歩で移動するとどこからか矢が飛んでくる。音をたてない矢は兵士の恐怖をおおいに煽った。目立たぬようにジャングルに分け入ると、さまざまな罠が仕掛けてある。そのため身動きがとれないまま一人二人と姿を消しているのである。だが、兵士の恐怖はもっと違うところにあった。
フィリピン人の先祖は首狩族だったことを思い出したのである。彼らはジャングルを自由に行動できる。それに反して、アメリカ兵は臆病であった。彼らが大威張りでものを言えたのは、圧倒的な武力で相手を威圧したからにすぎないのである。外部との連絡を絶たれた今、ただの鉄パイプ同然の銃も、燃料不足で動かない戦車も武力とはいえなくなっている。彼らは焦っていた。追い立てることばかりしてきた者が追いたてられる立場に落とされると、もうなすすべがなくなっていた。
独立軍はなにも男だけではない。女もいれば子供もいる。つまり、誰が敵なのか見当がつかない。その疑心暗鬼が不用意な災いを招く。
つまり、ルソン島にいるアメリカ兵は恐怖にかられていたのである。わけてもプランテーションを営んでいた者、その縁者。ここが稼ぎ時とばかりに慰安所を経営した者などは、護衛を雇い、門を堅く閉ざして国外脱出の機会を窺っていた。
それはマッカーサーとて同じであった。軍司令官の地位を利用して邸内に大勢の女を集めて悦楽にふけったことを後悔していた。大半を開放したものの、恐怖心を忘れるために女を求める毎日である。すでに中年となり、体力の回復がままならないにもかかわらず、明けても暮れても女を抱え込んでいた。昨夜から今朝にかけて何人の娘に悲鳴をあげさせたことか。下目蓋にくっきりと隈を浮かせていながら、それでも彼は飢えていた。
やがて哀れな娘たちの手によって青白い首を棒杭につきたてられた姿を曝すのを、彼はまだ知らない。マッカーサーのみならず、側近もプランテーションの経営者一族も、慰安施設の経営者も、すべて内臓を全部はみださせた体から、首だけ斬りおとされて衆目に曝されたのであった。
フィリピンを攻めた空母、ノスリとミサゴは、インドシナのフランス軍を襲った。
独立ベトナム軍の要請に応えての侵攻である。
気位が高く、時の情勢を利用することばかり考え、強国を手を組むという節操のなさが日本人には受け入れられない。素直にインドシナから手を引けばよいのに、彼らはアメリカと歩調を合せて植民地支配を継続しようとし、意味もなく民衆を虐げた。
理由はそういうことであった。
それにともない、米仏が急接近した。
さらに、インドシナの南端から扱き上げられたフランス軍は、はかない抵抗を続けながら北上し、ついにはかねてからの友好国であった中国へ逃げ込んでしまった。
中国にとってはいい迷惑だったろうが、新生ベトナムにとってはありがたいことであった。宗主国が引き上げるのならともかく、二万を超える捕虜を養う余力などありはしない。それはフィリピンでも同じことだった。完全武装解除をしたうえで、絶海の無人島にでも幽閉するしかなかった。
ドイツはイギリスと戦端を開いてからというもの、徐々にフランスにも侵攻を始めていた。東南アジアと違い、欧州では英仏は共通の脅威にさらされていたのである。ただ、イギリスには海という防波堤があった。地続きのフランスとは比較にならないほど安全だったのである。とはいえ、毎日定期便のようにやってくる爆撃機への対応に追われていた。
「まだ情報が入りませんか。早くしないとロンドンが瓦礫の山になります。国民の気を引くために演説会をすることが多いというのは嘘ですか」
ヒトラー爆殺の特命を帯びた飛行隊長が情報将校に詰め寄っていた。彼はそのために日毎繰り返される邀撃戦に参加せず、新機材の習熟に励んでいたのである。
「そうはいっても確実な情報がはいってこんでは仕方ない。もう少し待て。きっと近いうちに確実な情報が寄せられるだろう」
情報大佐は困り果てていた。ヒトラーが演説会をするのは夜が多い。大型機ならいざ知らず、単座戦闘機に夜間出撃を命じることは死ねというようなものである。それに、攻撃が成功する保障はない。攻撃に失敗し、秘密兵器を敵に知られることになったら国の浮沈にかかわるのである。ここは用心を重ねるにこしたことはなかった。
「大佐、私も部下も厳しい訓練を重ねてきました。たとえ単機になっても任務はやりとげます。這ってでも帰ってきます。どうか一刻も早く出撃命令を出してください」
血走った目を見据えされては情報大佐も拒むことができなくなった。確実な情報を得ているのだが、単座戦闘機に夜間出撃を強いることになるので黙っていたのである。
「実は……、今夜も演説会を予定しているらしい。ベルリンの運動場だそうだ。これはまず確実だろう。だが、夜間攻撃になる。できるかね?」
根負けしたとでも言わんばかりに僅かに首をふりながら大佐が答えた。
「もちろんです。必ずし遂げてみせます」
「言っておくが、今からでは爆撃隊を編成できん。それでも行くかね?」
「行きます。余計なものが行けば狐が穴に隠れてしまいます」
「よし、わかった。では基地司令に許可を求めよう。詳しいことはそこで説明する、ついてきてくれ」
そしてせかせかと歩き出した。つい先ほどの思い悩むような表情はきれいさっぱり消えうせ、狐狩りを始めるような溌剌とした顔つきになっていた。
「注目、これからの予定を説明する」
飛行隊長は、基地司令の命令をとりつけると隊員全員に夜間出撃訓練を言い渡し、無理にでも眠るよう命じていた。
「
では説明する。今日の目標はベルリンだ。ヒトラーと取り巻きを殺す」
だらしなく足を投げ出して退屈そうにしていた隊員が皆して動きを止めた。
「隊長、今何と言われましたか?」
一番前の席で足を投げ出していた男が遠慮がちに尋ねた。
「驚いたか? 今夜はベルリンを襲ってヒトラーを殺すのが任務だ。まさか自信がない者はおらんと思うが、行きたくない者がいるのか?」
「行きます、絶対に成功させます」
皆一斉に経筋を伸ばして行儀よく腰かけなおした。
「楽にしろ、いつも通りでかまわん。今夜ベルリンの運動場でヒトラーが演説をするそうだ。そこを狙う。段取りを説明するから疑問があればすぐに質問しろ」
広域の航空図とベルリン周辺の詳細な地図を黒板に貼り付け、濃い鉛筆でいくつかの印を書き込んだ隊長は、細々とした注意をしながらルートの説明を始めた。
「何度も言うが、ミサイルは左右同時に撃て。わずかでもバランスを崩すと危険だ。攻撃は三回、必ず一回分のミサイルを残すように。それと、聴衆を狙ってはいかん。ドイツ降服後に恨みを残すのは得策ではない。いいな」
隊長は、こともあろうにドイツが降服すると信じて疑わず、その先の占領政策を夢見ていた。当然それは隊員に伝染する。
「ヒトラーが死んだらドイツは降服しますか? その時は誰が首相なんでしょうね。ヒムラ―ですか? ゲッペルスですか? やつらならきっと死ぬまで降服しませんよ」
「そんな心配しなくても、全員まとめて今夜殺せばいいんだ。まあいい。出撃まで残りわずかだ。目を休めておけ」
ヒトラーの出番は午後八時ということだった。しかも、いつも三十分ほど遅れて登場し、実際に話し始めるのはそれからさらに五分は後だということである。その情報が確実であるなら、午後八時四十分に攻撃すればドンぴしゃりということになる。今日もおなじとは限らないが、ヒトラーの習慣に賭けるほかなかった。
ロンドンからドイツまでは思ったより遠くない。航続距離が千キロに遠く及ばないドイツ戦闘機でさえ、ロンドン上空で十五分の空戦が可能なのである。しかも、空戦は巡航の倍以上の燃料を消費するのである。しかし、それはあくまでイギリスに近いドイツ軍基地であり、ベルリンまでは二倍の距離がある。そして、ドイツの防空網をさけての侵攻であるから片道九百キロにならんとしていた。
パパッと短く点滅させた翼端灯を合図に、八機の編隊が全力急上昇を開始した。隊長機を先頭に五十メートルから一万メートルまで上昇したあとは、なるべく排気炎を出さぬよう出力を絞って山岳地帯を選んでベルリンに迫るのであった。
ドイツの夜はとても暗い。人々が外出する状況でないこともその一因であるが、明かりを最小限にしか点さない習慣がある。そのため地上目標を探すことが困難である。ましてはるか高空からともなれば困難の度合いは比較すべくもない。それでも速度計とコンパスだけでベルリン上空に到達した。しかし、そこはよくしたもので、一角だけが異様に明るいのである。おぼろな輪の頂点だけが煌々と輝いていた。
まさに僥倖であった。中高度に降下しながら輝点を凝視すると、二つの強いライトが一瞬掠め去った。
聞きなれない轟音が届いたのであろう、強く輝いていたライトが消され、目標を見失ってしまった。
ここで迷っていることはできないと、隊長は唯一真っ暗な空間にむけてミサイルを放った。
後続も同時に一対、また一対とミサイルを放った。
初弾の爆風によるものか、あるいは敢えて狙いをずらしたのか、微妙な撒布界で次々にミサイルが破裂した。しかし、これではヒトラーを確実に捕らえたのか判断がつかない。
途方にくれて上空を旋回していると、いくつかの光がてんで勝手な方向に動きだした。
『隊長、右に曲がった奴は俺が仕留めます』
『じゃあ左は俺だ』
『隊長はまっすぐ逃げた奴をお願いします。俺は反対に行った奴を仕留めます』
部下が勝手に目標を決め、あまつさえ隊長に指示まで始めている。腕と度胸では太刀打ちできない部下のありがたい申し出であった。
光の行く先を予測し、いざという時になると急に方向を転じてしまう。それに、旋回するたびに目標を見失いそうにもなった。そのたびに二番機が機銃で行き先を教えてくれていた。
ブシューッ。強い光を伴う炎が目標の未来位置へむけて飛び去っていった。
パッパッと光る閃光の中に立派な乗用車が姿を現した。爆風にとばされ、横転した乗用車のドアが開いた。すかさず二番機が降下をし、機銃の弾幕にそれを包んだ。
それを機にドイツ軍の進撃がとまったことからヒトラーの死亡が噂され、それを確定するかのように停戦の打診が参謀総長名でロンドンに寄せられたのである。
さて、世界を眺めるのは一休みして、肝心のアメリカがどうしていたかというと、宣戦布告が不手際により攻撃開始後になってしまったことを知るのは、何日か後のことである。
フィリピンやグアムからの提示連絡が途絶え、サイパン、テニアンを攻略にむかった部隊との連絡も途絶えてしまい、何一つ状況が把握できないでいた。
アメリカ軍情報部でさえ日本の戦略を知らないのだから、まさか制圧されてしまったとは考えもしなかった。それならなぜ連絡がとだえたのか説明ができないから困っていたのである。
ルーズベルトは、軍を厳しく詰問し続けるしか方法がなかった。陸軍に対してはフィリピンからの連絡が途絶えたことを、海軍にたいしては作戦終了の報告がないことを。そして情報部には、日本やイギリスに関する確実な情報を得ていないことを。
軍をおこし、多くの将兵を動員しながら成果を国民に報告できず、安否すら不明に陥ってしまったのである。これでは戦争継続どころか、今日にも大統領の椅子からひきずりおろされる事態に陥ってしまう。そんな無様な引退など死んでも受け入れられない。
しかし、まだ何も知らないからこそ大統領でい続けようと軍を怒鳴りちらしていられたのであるが、まだ理性を保っていられる幸せな時間であった。誰にとって幸せか? もちろん、国民が普通に生きられる幸せ。残り少ない幸福な時間であった。




