奇襲
十一、奇襲
奥多摩、氷川。
周囲は山また山。雪におおわれた山奥を切り開いて小さな運動場ができていた。その中ほどに切り倒した木を三角に積み上げ、土で厚く覆っている。その小山の中はトラックがようやく出入りできるほどの空洞である。運動場も小山も腰まで埋まる雪が積もっていた。周囲の雑木林も雪に覆われ、竹林では粘りを失った竹がバキバキ折れていた。
普段は誰もいない静かな山奥に轟音が響いていた。
しんしんと降りしきる雪が爆音を消していた。山々に積もった雪も爆音を吸収している。
実際、大声で叫んでも声が伝わらないほど音が失われるというのに、その音ははるか遠くまで響いている。
視界を遮るように降りしきる雪を弾き飛ばすように、小山の空洞から青白い炎が太く長く延びていた。その青白い炎の中心には狐の尾がくっきりと現れている。
炎を吐いているのは、大きさといい見た目といい、金属製の俵である。
それこそ、ハンスが職人に励まされて作り上げた、ターボジェットエンジンである。
「……」
防寒着の上に白衣を羽織ったハンスは、両手を擦り合わせてしきりと頷いていた。ハンスが何か叫んだが、誰の耳にも届いてこない。
操作盤の計器を睨んでいた男の肩を小突いて運転を止めさせると、口をパクパクさせて両手で作業員を呼び寄せた。そして盛んに口をパクパクさせながら握手を求めている。
だが残念なことに誰の耳にも声など届いていない。
いくら雪が音を消してくれるとはいっても、すでに二時間もの間全力運転を続けていたのである。キーンという耳鳴りばかりで他の音など聞こえるわけがなかった。
「これだけ全力運転ができれば心配ない。すぐにでも機体に取り付けて試験飛行すろよう報告しよう」
ハンスは大喜びで作業員をねぎらっていた。
「君たちのおかげだ。あのヒントがなければ完成しなかった。今日はお礼に温泉で酒を飲もう、全部私が払うよ」
一人ひとりの手を堅く握り、踊りださんばかりに喜んでいる。そして最後にもう一度職長の手を握ろうとした。
「まだ使い物にならねえなあ。違うかおい、みんな考えを言ってみな」
ハンスの眼をのぞきこみながら呟くと、ストーブに手をかざした。
「せっかく喜んでんだからよ、明日にしてやれよ」
一人がマキを放り込む手を止めた。
「だめだ。こんな中途半端な物使い物になるか? 違うか?」
「……まあなあ」
作業員は気の毒そうに口ごもった。
「どこが中途半端だ! どこが気に入らない! 最初の頃と比べると耐久力が二倍だぞ! もう実機に載せられる。完成したんだ」
ハンスは顔を真っ赤に染めて怒鳴った。
「じゃあきくがよ、燃料は何だ?」
職長の声は冷たく沈んでいる。
「ガソリンだ。しかも70オクタンでも作動する」
子供が自慢するような勢いの返事だった。
「そのガソリンだがよぅ、貴重品だぜ、それに燃えやすい。爆発でもされちゃかなわねえんだよな。あれだろ? ガソリンを精製するときには軽油が先にできるんだよな。ガソリンは飛行機が使うんだろ? だったら、軽油は使えねえのか?」
ウッとハンスは呻いた。たしかに水素燃料から始め、ガソリンでの運転を可能にはした。しかし、爆発の危険ということを考えると、ガソリンも十分危険なのである。
「それとなあ、一回の試験で使った燃料を考えてみろや。あんなに飛行機に積むのか? どんな飛行機にするつもりだ? そんな目方をどうにかできるのか?」
「だからそれは……、エンジンを二機載せるとか……」
「ケッ、エンジンを二台にするってか? そんなことしたら倍の燃料がいるんだぞ、子供でもわかる理屈じゃねえか」
「言いたくないけど、飛び上がったら止まれないのが飛行機だからなあ。ここは日本だしなぁ、野ッ原なんかないんだしよ、どこにでも降りられるか? ましてや周りは海だし」
そこで掻き落としていた灰の中から燃えさしを摘み出すとタバコに火を移した。
「……俺あ職長の言うのが正しいと思うがな」
そして煙が眼に入ったのか、指先で眼をこすった。
「じゃあどうしろと……」
ハンスは言いよどんだ。職人の指摘が的を射ているのは事実である。しかし、燃料を軽油に変更するには課題がある。その課題を克服する方法が見つからないのである。
「軽油を使うにはもっと圧縮比率をあげなければいけないけど、その方法が……」
「なあ学士さんよ、圧縮機を設計し直さねぇか? なぁに、燃焼室は一応できたんだ。圧縮機だけなら熱の影響を受けねえから、材料だって融通きかせるんじゃねえか?」
「だから、どうやって圧縮するか考えつかないんだ」
「だからよ、燃焼室みたいな仕組みで圧縮できねえか? 要は空気をしこたま送り込めばいいんだろ?」
「だからそれはターボファンで」
「今のターボファンじゃだめなわけだ。だからよ、燃焼室みたいに羽根を埋め込むってのはどうだ?」
「そんなことしたって……。それに加工のことも考えて設計してあるんだから」
「また屁理屈ばっかりこねてやがるな。この際だ、羽根を二重にも三重にも並べるんだよ。やってみる価値ねえか?」
「学士さん、そういうこった。もうちょっと付き合ってもらうよ」
職長はハンスにそう告げた。
「みんな、聞いてたな? そういうことだ、特急で片付けてくれ。今夜は繰り出すぞ、腰が抜けるほど芸者抱かせてやるからよ」
職長の掛け声に全員が一瞬動きを止めた。そして弾かれたように撤収作業にかかるのであった。
他の発動機開発はどうなっていたか気になるところである。先にスコット大佐がつれてきた技師による指導がいきわたり、日本人による発動機が開発されていた。ただし、構造の簡単な空冷発動機である。六百馬力、九百馬力、千百馬力と順次開発が進み、最近になり千七百馬力発動機の実用試験が終わったところであった。
それを得て、機体設計が製作会社に発注されることになった。
要求項目は、滞空時間、高度、速度性能、そして搭載能力である。これは、偵察機はもちろん、大型爆撃機でも戦闘機でも同じ要求であった。
より遠くまで進出でき、相手の上がれない高い空をより速く、しかもたくさんの荷物を積んで。
イギリスのスピットファイアの性能を、まずは超えなければならない。それは西欧諸国の飛行機に並ぶためである。そして、さらに突き放す性能を求められていた。今後進むであろう、性能向上レースで生き抜くための布石である。
千百馬力の発動機を搭載した機体は、見事に欧州の飛行機を凌駕していた。上昇限度も上昇力も他の追随をゆるさず、速度は同レベル。滞空時間は圧倒的な優位にたっていた。
それを主力に据えておき、新型発動機で画期的性能をもった飛行機を秘密兵器として効果的に運用する予定なのである。
ただ、イギリス製発動機に装備された過給器の能力は端倪すべきもので、新式発動機に組み合わせれば、優に二千馬力をひねり出すことが期待できる。
機体というものは、一度できあがってしまうと融通のきかないものである。
エンジンを強力なものに取替えようとしても、取り付け架台を変更しなければならないし、重量が増加すれば前後のバランスが狂ってしまう。それを修正するためにバランス錘を搭載する方法もある。バランスタブでの修正もできよう。が、機体強度が不足してはどうにもならない。
それならば強度に余裕をもった機体を用意すれば良いと考える向きもあるだろう。が、機体というものは設計された安全係数を超えた荷重がかかったら壊れなければならないのだ。強すぎる機体というものは、裏返せば無駄な肉がついているのであって、それだけ重いということだ。重ければ鈍重になってしまう。
せっかく名機を完成させたのもつかの間、機体設計者はほっとする間もなく、苦闘を宣告されていた。
日本から東南アジア、インドへと、友好国のつながりが一本の道となってきた。そしてオーストラリアもまた同盟国である。つまり、太平洋とインド洋のどちらも、外縁部が安全地帯となっていた。
若干の不安要素は台湾である。まだ国としてのまとまりが弱く、外部からの圧力で情勢不安を招きかねない状態であった。なんとか独立宣言をさせたい。そうすれば、イギリスや東南アジア諸国をまきこんで外敵を牽制できると日本は考えていた。
前政権がつくった借金におわれ、国民党を指揮していた蒋介石は、しばしば行過ぎた徴税を行い、反対する者を容赦なく血祭りにあげていた。そこからくる民衆の不満を逸らすために沿海部での小競り合いを繰り広げていた。
その余波は遠からず台湾にも向けられるだろうと日本は考えていた。
東南アジア諸国間で相互不可侵及び相互協力協定が結ばれ、その調印式がバンコクで行われた。相互協力は、宗主国相手の独立戦争を見据えたもので、相互に軍事支援をするための付帯決議が含まれている。そのために兵器の統一が議論されていた。とはいっても経済的ゆとりがあるわけでなく、人材育成も工業化もこれから始めるところばかりである。会議の発起人を務めた日本と、積極的に独立を促したイギリス、そして未知の力を秘めたオーストラリアが後ろ盾として参加することが不可欠であった。
調印式には世界各国から新聞記者が取材に訪れていた。
タイ国王がもうけてくれた記念晩餐会。国王を中心に各国首脳がにこやかに食事を楽しんでいた。
「ようやくアジアの民衆が自分の力で歩みだすことになりました。歴史に残る快挙であります。しかしながら、まだ独立に障害を抱えた国もありますが、全員で後押ししたいと願っております。そして、独立に自信がもてない国があります。それは台湾です。彼らは独立を望んでいないのではなく、自信がないのです。どうでしょう皆さん。せっかくこうして互いに助け合う協定を結んだのですから、台湾にも手を貸してあげていただきたい」
日本全権大使は挨拶とともに台湾独立支援の呼びかけをした。
「その件については、別に機会を設けて協議すべきではないでしょうか。こんなことを申してはなんですが、まずは国内を安定させねばなりません。台湾はあまりに遠いし、国として成り立ちますか?」
ビルマの代表が愛想笑いをうかべてやんわりと拒否の姿勢を示した。
「なるほど国内を安定させるのは最優先課題に違いありません。またビルマからでは海のむこうの出来事でしょう。しかし、フィリピンはアメリカから独立するのにてこずっています。悪くすれば、アメリカが軍艦で押し寄せるかもしれません。その時の通り道が台湾沖でしょう。また、フィリピンにアメリカが押し寄せたら、インドネシアも迷惑をこうむるでしょう。マレーはいかがですか? フランスがアメリカと手を結んだら困るのではありませんか? 幸いなことに、琉球からは僅かな距離ですし、イギリスも上海に海軍を常駐させています。ここは台湾を守らねば、やがて中国も脅威となる可能性があります。この場で各国が意思表明すれば、ちょうど世界中の新聞社が取材しているのですから、宗主国に対する牽制になると考えますが」
全権大使はやんわりと東南アジア情勢の予測を語りながら、同意を求めるようにフィリピン代表に眼を注いだ。
フィリピンとマレーの代表は目を見交わしていたが、やがて咳払いを一つしてフィリピン代表が語り始めた。
「どうやら日本代表の言われることが理にかなっているようですな。我々の独立をアメリカは歓迎していません。しかし、哀しいことに、われわれには資金がありません。武器を揃えることができません。が、たしかに台湾を都合よく使われたら、アメリカからの物資は自由に流れ込みます。つまり、今は手も足も出ない状況です。どうすれば打開できますか? また、軍事支援をいただけるのでしょうか?」
「どうでしょう、まずは、この場の全員で台湾独立を承認したら。国際連盟での承認ではありませんが、これだけの参加国が承認したとなれば、無法はできなくなります。われわれは、長年にわたり皆さんの国を植民地にしてきました。そのお詫びはいくらでもさせていただきます。また、日本は発案者ですので率先して協力すると思います」
イギリス代表はそう言って胸を張った。
その発言が場の空気をかえた。
すべての参加国が台湾独立を承認したのであった。
東南アジア諸国間での、相互不可侵と相互協力協定が締結され、特別参加国としてイギリスと日本が加わったというニュースは、瞬く間に世界を駆け巡った。さらに、台湾独立を承認したとのニュースもついている。アメリカ・フランスは一方的な協定であると猛烈に反発した。
ポルトガルは、イギリスからの働きかけで植民地を手放すことを承諾しているので、特にコメントを公表することもなかったが、フランスはマレーの支配を放棄しないと宣言し、アメリカもフィリピン支配を続けると公言している。アメリカにとっておもしろくないのは、イギリスが日本と密接な外交を展開していることである。事あるごとにアメリカの国益を損ない、誇りを傷つけられることが我慢できなかった。もっとも、誇りを傷つけた事実はなく、あらゆる場面で日本と協議をすすめ、アメリカの不当な要求をはねつけただけのことである。そして、ペリーを拉致した日本に擦り寄っていることも納得できない。豆粒のように小さな島の、肌の黄色い猿と手を結ぶなど、白人の風上にもおけないことなのである。ある意味、アメリカは経済発展を背景に傲慢になりすぎている。
フランスは、元から不仲であったイギリスが裏工作をしていることが不満だった。ちっぽけな島国のくせに、世界中に貿易ルートをもち、経済力ではフランスを凌いでいること自体が我慢できなかった。自分たちも豊かな富を享受したい。また当然その権利を有しているのに、チャンスを奪うのは許せぬことであった。
そして、両国にとって都合の悪いこと。それは輸送ルートを遮断されることである。
アメリカは、台湾独立によりわずかに確保していた海路を絶たれ、フランスはすでに陸路を絶たれている。事態は切迫していた。
「首相、イギリスはいったい何を考えておられるのですか? たかがアジアの島国と歩調をとっても、なんの益もありますまい。今なら戻ってこられるようにとりなすこともできますが、一旦事がおこったら取り返しがつきませんぞ」
アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルト、二期目終盤の難事であった。
「何をと問われても、ただ自主共存を求めているだけですが、何か不都合でもありましたかな?」
ウィンストン・チャーチル。首相就任早々である。
「失礼」
チャーチルは、上着の内ポケットから葉巻を取り出し、一息ついた。
「ところで、取り返しがつかないとはどういう意味ですかな? このところ忙しくて深く考えない癖がついてしまいまして、はっきりと言っていただかねば理解できないことがありましてなあ、まだ若いつもりなのに困ったことです」
愛用の高級葉巻である。煙は少ないが、強い香りが室内を満たした。
「日本との関係ですよ。このまま続けられると、我々の国益に反することになります。そうなれば、我々との関係を見直さねばならなくなります」
「つまり……、日本と手を切れ。……そうおっしゃるのですな? でなければアメリカと手切れになると」
「そうです」
「うけたまわりました。ですが、この件は即答しかねます。おって返事をさせていただきましょう。それと、東南アジア諸国が全会一致で台湾独立を承認しましたが、その見解をお尋ねしたい」
「新聞報道しか知らないので公式な見解は差し控えます。東南アジア諸国といっても、正式な国家でない地域が含まれていますので、いくら全会一致といっても公式に認めることはできません。のみならず、特別参加として地域外の国が関与していることも懸念材料です。赤子同然の国を、目先の利益のために騙しているようにも受け止められます」
「ご意見、たしかにうけたまわりました。わが国の見解は後日」
「言い忘れるところでした。わが国から供給していた化学製品ですが、最近は生産が落ちております」
「つまり、……出荷を減らすと?」
「出荷できないほど生産が落ちています。その点ご了承いただきたい」
「……なるほど、化学製品で縛ろうとされるわけですな? いいでしょう、そのように伝えておきます。ですが、そうなるとこちらからの新技術も封印せざるをえなくなりますが、当然ご理解いただけますな?」
「技術は互いの利益に直結しますからな、封印されては困ります。もしそうなれば、無理にでも移転していただくことになります」
「なるほど、それがアメリカの方針というわけですな。いや、よくわかりました」
チャーチルは、葉巻を片手に小太りの体を起こし、執務室のドアを開けた。
ほぼ同じ時期、屑鉄が予定通りに輸入できないとの商社の訴えで、在米日本大使が国務長官に契約履行を申し入れていた。輸入元の屑鉄ブローカーを問いただしたところ、商務省からの命令とわかり、商務省を訪ねると国務長官命令だということが判明したのである。
アメリカは契約を重んじる国である。屑鉄輸入に際して契約書はきちんと交わされていて、代金支払いを滞らせたことは皆無である。
「業者間の取り引きに政府がなぜ横槍をいれるのか、それを説明していただきたいと先ほどから何度も申し上げています。責任のある説明をいただきたい」
駐米大使は厳しく国務長官に詰め寄った。
「ですから、国策で屑鉄の輸出規制を行うことになったと申し上げている」
国務長官は椅子にふんぞり返ったまま横柄に返した。
「規制をおこなうことになったのはわかります。では、いつから規制するのですか?」
「もう一週間前から始まっている」
「一週間前ですな? 契約書を見ていただきたい。すでに一ヶ月前に船積みすることになっている。規制とは無関係ですぞ」
駐米大使は、カバンから契約書を取り出し、国務長官につきつけた。
「臨時措置で船積みをやめさせた」
「そうですか、臨時措置ね。では、なぜ輸出規制を商社に伝えなかったのですか」
「その必要はない。なぜそうなったかは見当がつくのではないか?」
「さっぱりわかりませんな。今日はっきりしたのは、アメリカは契約書を一方的に反故にする信用できない相手だということです」
「将来、同様の事態がおこる可能性はきわめて高いと考えてもらいたい。しかし、打開の方法がないわけではない。その助言をまとめておいたから本国で検討されたらどうかね。決して損にはならないはずだ」
「たしかに本国で検討させましょう。しかし、平気で嘘をつく国ですからなあ。助言ということですが、信用できるのですかな?」
強烈な皮肉を言って大使は席を立った。
助言の書、いわゆるハル・ノートと呼ばれ、戦争犯罪の重要な証拠となった冊子である。
すぐさま大使館で複製されたそれが、イギリス大使館に持ち込まれた。
イギリスには、かつてアメリカと独立戦争で闘った歴史がある。アメリカ独立を影で支援し、イギリスが敗退したことを祝って自由の女神像を贈ったのがフランスである。
フランスとは幾多の戦争を繰り返しており、互いに反目しあっている間柄である。
ゆえに、大西洋を国境としてアメリカと、ドーバーを国境としてフランスと。さらには北海を国境としてドイツと。友好的なのはポルトガルと地中海沿いのアフリカ、中東くらいなもので、周囲を敵に囲まれているようなものである。それだから権謀術策には長けていた。
「こんな子供のようなことを、よほど焦っているのでしょう。なに、これを使って身動きをとれなくしてやればいいんです。それにしても愚かな文書を手放したものだ、呆れました」
駐米イギリス大使は、冊子を読むなり愉快そうに笑い出した。
普段はにこやかにこそすれ、人前で、それも外国大使を前にして声を上げて笑うことはない。常に哲学者のような印象を受ける紳士なのである。その紳士が紅茶をこぼすほど笑っていた。
「そうです。この際、アメリカの要求を全面的にのむかわりに、フィリピンから軍を撤退させるよう要求すればどうなるでしょうな。しかも、期限をきって」
日本の大使は物静かな壮漢である。瞳が碧く、鼻筋が通り、イギリス大使と遜色ないほどの上背があった。彼もアメリカ東洋艦隊の末裔なのである。外交官は感情を悟られないために表情を封印する癖がついているが、子供に帰ったように嬉々としていた。
「もしそう要求すると、軍事行動をおこすかもしれませんね。ならば、電波探知機を配備するよう本国に連絡しておきましょう。なかなか高性能な探知機が完成しているそうですよ、日本の八木博士が考案したアンテナと組み合わせると高精度に識別できるそうです」
「そうですか、それはありがたい。きっとアメリカも欲しがっているでしょうな」
「どこから聞きつけたか、大雑把な情報を掴んでいるようです」
「わざと流しましたね。案外、末端の研究者が得意がって新聞記者に話したのでは?」
「ところで、あのジェットエンジンはどうなりましたか、ハンスからは何も報告がないので難航しているのではと皆心配しています。本国では実用実験を始めたそうです」
「その件ですが、現在最終試験を受けているところです。二時間の全力運転が可能だそうで、ありがたいことに軽油を燃料としているようです。機体の木型審査は終わっていますので、ほどなく試験飛行をするはずです」
「軽油が燃料ですか? 全力二時間? いったいどういうことですか?」
「そこまでは知りませんよ。知らないほうがいいことが多いですからな」
「見せてもらえませんか、でなければ資料だけでもけっこうです」
「希望を伝えるくらいはしますが、私にはなんの力もありませんから」
「わかりました、戦闘機に搭載できる無線電話を提供します。ですからぜひ」
「もう一声!」
東南アジアでの会議以降、各地の造船所周辺は外国人の立ち入りが厳しく制限されていた。
それまで誰に見られてもかまわなかったというのに、造船所を見渡せる高台まで立ち入りを制限されている。というのは、協定締結を望まない国が対抗措置を発動する懸念があるからで、特に性能を左右する船首、船尾、そして水中翼の工事をいっさい省いていたからである。あらかじめ工場内で作られた船首部分を溶接し、大径のスクリューを取り付け、そして水中翼を取り付ける作業は外国に知られたくない秘密であった。
また、細長い船体を並べて船台に据え、その上に大きな一枚ものの甲板にする作業も進められていた。実験用につくった一万トン級の航空母艦をはるかに上回る飛行甲板をもつ航空母艦の建造である。海軍軍縮会議で規定されたとおり三万三千トンの排水量であるが、並の空母の二倍もある飛行甲板を備えている。
回頭半径に難があるかわりに、波の影響を受けにくく、速度と直進性に力点をおいた設計であった。
そこに搭載するのは偵察機と戦闘攻撃機だけである。そうした方がなにかと便利であろうという、いわば賭けである。
潜水艦も艦首全体を球状にし、二軸推進を廃して巨大なスクリューを二重に備えている。海中でどんな効果が得られるのか未知数だが、潜舵のほかに姿勢制御用の大きな翼を備えていた。
そのどれにも共通するのは、目立った砲が搭載されていないことで、パイプを重ね合わせたようなミサイル発射機を装備しているだけである。もっとも、それは身内の欲目というやつで、誰の目にも打ち上げ花火の火筒が林立しているようにしか見えない。なんともなさけない恰好をしていた。
ちょうど旧暦の盆が近づいているだけに、海上から花火を打ち上げるなんて海軍も粋な計らいをするもんだと住民の目に映ったものであった。
駐米イギリス大使から本国に伝わった情報を確認するために、使節が大急ぎで来日したのもこの頃であった。
いつもと違い、今回は百名を超える使節団で、巡洋艦に護られた貨物船から電波探知機や超小型無線電話が慎重に陸揚げされた。
ジェットエンジンの総責任者であるホイットル中佐以下、三十名もの技術者が派遣されたのは異例なことであった。
一行が案内されたのは奥多摩の実験棟である。その施設には長い滑走路が併設されていた。
「挨拶はいい、早速見せてくれないかね。我々の開発したエンジンよりすごいという怪物を」
再会した師を大喜びで歓待しようとするハンスを押しとどめて、ホイットルは冷たい眼差しを向けた。そこには自分の技術を超えられるわけがないという誇りが満ちている。
「わかりました。では運転から御覧いただきます」
鼻白んだハンスは、不服げに始動を命じた。
ブーンという唸りをたててモーターが回りだし、変速機のツマミでどんどん回転が上がってゆく。やがてヒューンという音にかわった。
「始動回転数です」
「耳あて確認! 間もなく始動する!」
ハンスは全員が防音用の耳あてをしたのを確認して作業員の肩を叩いた。
キーンという独特の唸りを上げてエンジンが始動すると、排気口から青白い炎が長く吐き出された。その長さはホイットルが完成させたエンジンよりはるかに長く、二重ガラスをビリビリ震わせていた。そして、二時間の全力運転をみごとにしてのけたのである。
こんな馬鹿なことがあっていいわけない。研究は自分たちのほうが進んでいて当然なのである。人材にしても設備にしても自分たちを凌駕することがあってはいけないのである。
「燃料を見せてくれないか。あの出力だとガソリンを使用しているはずだ。そうでなければ考えられない。だいいち軽油で始動させるのは無理だ」
ホイットルは、すさまじい咆哮の原因は燃料にあると睨んでいた。ガソリンか、あるいは軽油を混ぜたガソリンであるに違いないと思ったのである。そうでなければ説明がつかないのである。
しかし、作業員がタンクから抜き取った缶からは、軽油の臭いが立ちのぼっていた。
「先生、それはまざりっけなしの軽油です。なぜ軽油で作動するのか、隣に部品を用意してあります。それを見ていただいたほうが納得できると思います」
ハンスは、眉をしかめて考え込んだままのホイットルを別室に誘った。
そこには本体と、抜き取られたローターが並んでいた。
しかし、ホイットルが考えたものとはまったく違う構造になっている。ターボチャージャーを発展したようなホイットルのエンジンとは違い、圧縮機にあたる部分には夥しい羽根が生えている。そして先端にも大きな直径の風車がついていた。
「ハンス、私はこんな設計をしなかったが」
「はい、初めは先生の設計にしたがって試験を繰り返しました。ようやく安定して回るようになると、熱で羽根が溶けてしまいまして……」
ハンスは試験がうまくいかなかったこと、熱対策を作業員が暗示してくれたこと。満足するエンジンが完成したのに作業員に笑われたこと、そして、燃焼室と同じ構造の圧縮機に変更して燃料問題が解決したことを説明した。
「今日は技術的な質問にお答えします。明日は、午前中に実験を見ていただき、午後から製造工場を見学していただきます」
「資料は、実物資料は持ち帰ることができるのかね?」
「すみません、それは私の権限ではないので……」
「それは私がお答えしましょう。基礎資料一式、すべての図面はすでに梱包してあります。部品は五台分用意しました」
横浜からずっと案内についている海軍の技術少佐がハンスの言葉を引き継いだ。
「それはありがたい、実物を見せてもらえば開発に拍車がかかるでしょう。まさかこんなことになっているとは想像もしなかったです」
「いえ、それだけではなくて、電波探知機のお礼に完成品を提供するよう命令を受けています。まだ百台に満たないので、二十台で我慢してください」
おもいがけない完成品の提供に、イギリス技術陣に笑顔が広がった。
「もうひとつお知らせします。明日午前八時より実機による試験を行います。ジェットエンジンを搭載したものだけでなく、スピットファイアーと互角の戦闘能力をもつ機体や、新型エンジンを搭載した機体も使います。そして、今回は特別に門外不出の機体も使います。さて、どうなることか楽しみです」
技術少佐が意味ありげに微笑んだ。
「ハンス、君にとって悪い報せがある。だが、ここまでジェットエンジンに関わった君には選択肢はもうない」
宿舎に借り上げている温泉宿で夕食前の涼を楽しんでいる時、ホイットルが気の毒そうにハンスに語りかけた。イギリスとドイツがまたしても紛争をおこしかけていることを新聞で知っているハンスは、きっと帰国できないことを慰めているのだろうと思った。
「イギリスかドイツか、どちらかが降服するまで君は日本にいたほうがいい。そうでなけりゃ……」
死ぬぞの一言をホイットルはのみ込んだ。
「先生、実は僕、父親になるんです。もう帰国なんてできません」
ハンスは晴ればれとしていた。常に戦火にまみれる祖国より、おだやかに暮らせる日本のほうがどれだけいいか。それにハンスは日本の風習が好きなのである。
折りしも今夜は盆踊り。ハンスは用事をつくってでも盆踊りに行きたくてたまらないのである。
提灯のはかない明かりを少し避ければ、そこには鼻をつままれてもわからない闇が広がっている。広場の縁に立てば、いつ腕をひかれるやらわからないぞくぞくした興奮が満ちてくる。ましてや、あたりを憚らない嬌声やうめき声がそこここから聞こえてくる。それだけで血がたぎるのに、暗闇へ引きずりこまれるスリル、誰ともわからない相手との荒い息遣いに満ちた逢瀬。なんて素晴らしい国だとハンスは思っている。あからさまでいながら慎ましい芸者の腰使いもたまらない魅力である。
盆踊りを想像するたびにハンスは虚ろな目になった。
「学士さん!」
平手で背中をどやされ、ふっと我に返るハンスであった。
宿舎で朝食をとっているホイットルの耳に、暖機運転の爆音がかすかに届いていた。
早々に食事をすませて滑走路へゆくと、待機所にスピットファイアーが駐機してあった。そのほかにスピットとほぼ同じ大きさの小型機が一機。かなり大型の単座機が一機。そしてプロペラのない単座機が一機駐機していた。
すでに暖機運転が終了したようで、作業員が燃料を補給していた。
必死で逃げる小型機を大型単座機はぐんぐん追い詰めてゆく。大空に飛行機の競争が繰り広げられていた。いくらもたたないうちにあっさり小型機を追い抜くと、そのまま引き離しにかかった。
上空がそんな展開になったのを見届けてジェットエンジンに火が入れられた。
一瞬で辺りの物音がすべてかき消されてしまう轟音が鳴り響いた。後部にかげろうを揺らめかせて滑走路に停止する。それまでただやかましいだけだったのが、耳の奥に錐を揉みこむような不快な音にかわり、脱兎のごとくとびだしてゆく。離陸してすぐ、機首を上げ気味にしてぐいぐい上昇に移った。その速いこと。わずか二分ほどでバンクを振ってなおも上昇し、先行する三機をいとも簡単に抜き去った。
「速い……」
視察団はその速度に声もなく圧倒されていた。
「スピットファイアーの最高速度はおよそ三百ノット。大型機は四百ノットです。ジェットエンジン搭載機はおそらく五百ノットくらいでしょう」
「そんなに速いのですか……。なら敵機に撃墜されるおそれがなくなりますな。まてよ、そんなに速ければ敵を撃墜することもできなくなりませんか?」
「そうですね、機銃で撃墜するのは困難かもしれません。ですが、方法はあるようです」
「何か名案があるのですか?」
「ジェットエンジン搭載機が近くを通過すると機体を制御できなくなるらしいのです。どんなに操作しようがバランスを取り戻せないらしいです」
「制御不能? バランス? ……もしかすると、あまりに速すぎて真空状態を作っているのかもしれませんね。そうか、一瞬で空気をおしのけるから気圧が低くなり、それを排気熱で増幅しているのですよ。きっとそうだ。それと風圧。つまり衝撃波で制御不能に陥るのですよ。だったら簡単です。猛烈な速度で近くを飛び回るだけでいいんです、機銃なんか必要ないですよ」
「あなたがたに謝らなければいけない。出発前にスコット大佐がわざわざこられてあなたがたの技術を侮ってはいけないと忠告されました。どうせただの戒めだろうと気にもとめなかったのです。技術力なら十年は先を行っている自信がありました。……スコット大佐は正しかった。いや、もうしわけない」
ホイットル中佐が素直に詫びた。背筋をピンと伸ばし、直立不動である。
海軍中佐たる彼の、誇りを傷つけない精一杯の謝罪なのだろう。
「気になさることはありません。我々は常に教えていただいていると思っていますよ。ところで、これからお見せする物は誰にも見せたことがないものです。以前四国沖で遠くから御覧いただいたのが最初で最後です。くれぐれも内密に願います」
技術少佐の目配せで、赤旗が左右に大きく振られた。
燃焼実験場から異形の機体が滑走路に押し出されてきた。尖った機首にはプロペラがなく、空気取り入れ口もない。背の高い垂直尾翼と、機体中心より後ろに取り付けられた主翼。機体は台車に載っていた。
「あれはいったい……。 どうやって飛ぶのですか?」
ホイットルはその動力の見当すらつかない。
乗り込んだ操縦士が酸素マスクをつけた顔を向け、手を高く上げた。
「離陸します。耳をふさいでください」
少佐はそれしか言わず、きびきびした動作で回れ右をし、軽く手を振った。
カン! としかたとえられない音を残して猛烈な勢いでそれは走り出した。
滑走路を半分も使わずに台車を蹴飛ばすと、操縦席をはっきり見せながらまっしぐらに天空に突き刺さっていった。
火薬の改良により燃焼煙が薄くなりはしたが、やはり他とは違うことを誇示しているのか遠くからでもはっきりわかる
煙を吐きながら圧倒的な速さでぐいぐい上昇した機体はきっちり二分後、それまでの煙を途切れさせた。
「あの機体は二分で一万メートルまで上昇します。速度は、五百ノットを超える速度計がないので……」
「は、速い……。速い……」
視察団は言葉を失っていた。
その日の台湾・花蓮は、台風を思わせる分厚い雨雲が海面近くにまで垂れ込めていた。
上空からブーンという爆音が遠雷のように響いている。空襲警報が遅れた花蓮港では、停泊中の船が沖合いに避難しようと出力を上げている最中であった。すでに戦闘機を上げる暇はなく、対空砲の用意をするのがやっとの状態で、完全な奇襲であった。
ハル・ノートに対する回答を延ばしに延ばし、要求をのむ交換条件としてアメリカに対し、フィリピンから軍を撤退させることを要求した矢先のことである。
開戦を伝える公式文書は一切届いていない。宣戦布告なき攻撃が開始された。
厚い雲から吐き出された大型爆撃機が、ゴマ粒をばら撒き始めた。
とりうる対抗措置は、超小型ミサイルを敵機にむけて発射することだけであった。