前夜
十、 前夜
この地球上に存在する物質の総量は決まっている。食料も例外でなく、地球の摂理からはみ出すことはありえない。その中で穀物や野菜は比較的人間が増産することが可能だが、魚肉となると簡単に人間が支配することはできない。
人々の諍いの源はその食料であった。それと、水。
まだ人間が支配力をもたない昔は、とどのつまり、水と食料を確保することが最大命題であったはずだ。
人間の技術力が向上すると、食料を多く確保できるようになった。それが富である。
余った食料を他人に譲る時、それは形を変えて戻ってくる。便利な道具がそれだ。
が、道具がひろくいきわたると、こんどは朽ちないものを大事にするようになった。それも、他に出回っていない珍しいものが好まれた。それが金であり、銀である。
やがて、人は他人を支配することでそれが得られることに気づいた。
少し富める者が貧しい者を使役し、一層の富を掘り出したのである。より多くを望めば、人も土地も支配せねばならなくなった。そうして富は肥大し、偏ったのだ。そして、人はそれだけで飽き足らず、他の富を奪うことを思いついた。
欲が欲をよび、一生かかっても使い切れぬ富を得ようと人間は夢をみる。その夢のために、食い散らされる儚い夢が無数にあるのに、節度をうしなった亡者は後を絶たない。
人が集団を意識し始めた頃から、それは宿命的に増殖の一途を辿った。それは商人も国家も同じである。
真っ当な方法で富を得たとしてもいつまでも続くものではなく、やがて他人の富を奪うためにあらん限りの手段を講じるようになる。
それが乗っ取りであり、詐欺であり、そして戦争である。
富の得方の根本的違いは、日本とイギリスの間にもあった。それは、イギリス一国というより、西欧諸国全般に共通したことである。
彼らが考えるところの未開発地域とは、きれいな言葉でいえば国としての力が整っていない地域を指すのだろう。国家体制が整っていないということは、支配者がいないということなのだ。つまり、持ち主がいないモノを拾って、どこが悪いという論理なのである。
それを都合よく拡大解釈すると、強者が弱者を支配するのは当然の帰結となる。
早くから国家と意識し、産業を発展させて強力な武器を持った国が、自国で産み出される富だけに満足できなくなったのである。それに、未開とされる地域には大地の恵みが無尽蔵にあった。労働力もあった。
それは神の恵み。神様の下されものはありがたく受けねばならないと理屈をつけるのである。つまりは、資源を独占的に持ち帰ることで自国を富ませる。そうするのが善だという考え方である。
支配にはいくつもの方法があるが、武力で畏怖させる方法と共に採用されたのは、宗教による服従であった。
丸腰の宣教師が真っ先にキリストの教えを広め、西洋の考え方を浸透させておく。そのうち宣教師は国の中心人物に接近する。キリスト教を保護するようささきかけ、そして西洋の進んだ技術を少しばかり与えるのである。
まったく異質な文化をみせられ、畏敬の念を抱かせたらしめたもの。大砲の一発もぶっ放せば縮みあがっていまう。
それが一般的なやり口であった。
そこには手付かずの自然(資源)が眠っている。そして、住民はその活用法を知らない。つまり、採り放題なのである。
しかし彼らは反論するだろう。
病院を建て、学校を作り、電気を使わせ、鉄道も敷いたと。あらゆるインフラを整備したと胸を張るだろう。が、それは、富を運び出すための投資にすぎないのである。なによりの証拠は、何物も得られない土地には一顧だにしない。そして本音は、儲からなくなったところからは、早く逃げ出したいのである。
最も多くの植民地を握っていたのはイギリスである。
イギリスは、インドからマレーシアまでを地続きで植民地にしていた。そこには多数のプランテーションがあり、大英帝国に富を供給してきた。そうなのだが、ドイツとの戦争が始まった頃には利幅が薄くなっていた。
Uボートの跳梁が激しくなり、日本に援助を求めてきたときがきっかけであった。
ドイツへの宣戦布告と軍需物資の供給を合意し、大任を果たした特使はすっかり気が緩んでいた。
「ところで、お国では植民地をいつまで管理されるおつもりですかな?」
夕食会が終わり、宿舎にあてられたのは議場内の東屋。粗末な木柵で囲まれただけの変哲ない建物である。障子を開けると糸のように痩せた月が夜空に染みをつくっていた。
何度目かの協議で気を許しあう仲になっていた一行は、寝巻きに着替えて夕涼みをしていた。とはいえ、政治の中枢にいることからどうしても話が政治に限られてしまう。
朝鮮人がなかなか自立しないここを日本側が愚痴ったことから植民地経営に話が発展したのである。宗主国と直接取引をしているようにみえない日本が、どうして資源を得ているのかを訊ねられ、正直に祖先の交易の仕方を守っていることを打ち明けた。
「実を言いますと、このところ採算がとれなくなってきています。だからといって今手を引けばフランスやポルトガルの思う壺です。アメリカだって黙ってはいないでしょう。ですが、そろそろ潮時かもしれませんね」
イギリス特使が苦しい胸中を打ち明けた。
「内密に願いたいのですが、各地で抗議がおこっていまして、今のところ抑え込んでいるのです」
イギリス大使も困った顔になった。
それを気の毒そうに聴いていた内務長官が遠慮がちに発言を始めた。
「どうでしょう、この際思い切って独立させたら。まあ最後までお聞きなさい。抗議の声が上がっているなら、それを利用するのです。密かに首謀者と諮って民衆の声を煽り、話し合いで解決したことにするのです。そうすれば民衆も自助努力を始めるのではないでしょうか」
「そんなことをしたら資源が他国に流れてしまいます。それに、これまでの投資を回収できなくなります」
「資源が流れないようにするには、信頼関係が欠かせません、それと買取価格。他国より高く買う約束をして買い占めてしまうのですよ」
「投資した分の回収は?」
「きっぱり諦めるのです。投資分はすでに回収したでしょう? 商人の損益などは気にする必要ありません。元々失敗を覚悟しているはずです。命と金、どちらが大切ですか?」
「そんな無茶な、他人事だと思って……」
「他人事ではありませんよ。日本は朝鮮を抱えて困っているのですから。でも、お国が気を決めるなら協力させていただきますよ。アジアの民衆には信用がありますからね」
愚痴のこぼしあいであった。何気ない世間話であった。しかし、やがてそれが実行に移されるなど、だれも本気で思っていなかった。
第一次大戦の終結により世界の力関係が微妙に変わり、日本は連合国の一員として欧州での海戦で目覚しい活躍をしたとして、列強国家に名を連ねることになった。
アメリカも、連合国の一員としてアフリカ方面で功績をあげていた。
フランスは……、この国はまったく日和見な国である。初めはドイツと歩調を合せていながら、ドイツの旗色が悪くなると、あっさり見限ってしまう国である。最終的に連合国の仲間入りをしたおかげで東南アジアの植民地を守り通すことができたのだが、みずからの行動になんら負い目を感じないのか、厚顔な発言を繰り返している。
肝心なのは戦後復興のはずなのだが、どうにか民衆が生活できるようにするのが精一杯。
生産設備も労働力も、技術者さえも失った今、民衆は購買力を失い、世界的な不景気が地球全体を真綿で締め付けた。世界恐慌である。
各国が景気浮揚対策を打ち出す中、二つの対照的な政策が粛々と実行されていた。
片やアメリカのニューディール政策であり、もう一方はイギリスの植民地独立支援政策である。
アメリカは国土が広く、手付かずのところが至るところにあった。それを整備して住みやすくする、つまり公共工事の推進である。
イギリスの採った政策は、植民地の独立を奨励し住民の購買力を育むもので、公共投資より効果の表れ方が穏やかという側面をもっていた。だが、仮に購買力が急進しなくても、植民地に割く経費を国内に循環させられる。そして、連鎖的にアジア地域の独立気運が高まるという副次効果を狙っていた。
もし他の国が独立したならば、貿易相手国としていち早く名乗りを上げようという目算もあった。しかしそれは、列強国のなかでは異端の方針であり、フランスやアメリカはそれに強く反発した。近隣でそのようなことをされたら必ず累が及ぶからである。逆にアメリカは、強力な生産力を背景に軍備を強化し、恫喝により発言力を保とうとしていた。すでにこの時、アメリカこそが世界一という妄想を信じ込んでいた。
さて、肝心の日本は何をしていたかというと……
大戦の戦時賠償としてマリアナ諸島を得た日本は、またしても負担を強いられていた。
不本意であれ日本に統治権が移譲されたからには、島民の暮らしに責任が発生したと政府は考えた。しかし、島民にしてみれば誰が来たところで違いはない。別に生活の面倒をみてもらおうとは思っていないのだから、父祖の代から続くように、起きて食べて寝る毎日でしかない。
食べる物は森にあり、海にある。
靴などなくてかまわないし、服さえ必要なら作ればよいのである。その気質は、海を渡ったオーストラリアでもニューギニアでも同じであった。
それをあえて否定しないのが日本人である。雪国には雪国の、山の民には山の民の生き方がある。海には海の生き方があってしかるべきなのだ。
宗教も同じで、地域ごとに異なった信仰があるのを当然とする日本人には、どれかの宗教に統一しようという考えなどまったくない。民衆の信仰を尊重するだけである。
ニューギニアの民衆があまりに素朴な生き方を望んでいることを知った政府は、あえて手を加えないことが幸せだろうと考えた。とはいえ、風土病の心配もあるので、学校と診療所を設け、生活に役立たせるよう手配した。それと、農機具と漁具を配る程度で様子をみることにした。
その穏やかな接し方によるものか、徐々に民衆が心を開いたのである。
時が前後するが、大戦の中頃にイギリスで軽快な戦闘機が開発され、飛行機の性能が大幅に向上した。
早速取り寄せて調べてみると、航続距離で大きく水を開けられたことが判明した。軽量な帆布張りなのが理由か、それとも天地を覆うような翼が理由なのかわからないが、長い時間空に浮かんでいられる。飛行機の発達は眼を見張るものがある。
しかしながら、まだ自国で飛行機を設計できる段階ではなく、練習機をくみ上げるのがやっとであった。
そのほかには、清国が崩壊したことがあげられる。孫文が旗手となった辛亥革命で中華民国が樹立されると、時を移さずチベットが、モンゴルが、新彊までもが中国から独立した。
国家運営で対立した孫文は、再び革命を企図するも失敗。袁世凱が初代大統領になったのである。
しかし、借財による国家財政は破綻。列強国の格好の食い物になってしまった。
イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカがこぞって進出するのを横目に、日本は国力の充実に努めていた。
そしてロシア帝政が崩壊、共産党一党支配の独裁国家が誕生した。
その影響を受け、中国にも共産党が成立、一党独裁体制を敷くことになったのだが、そんなてんてこ舞いの状態なので国内が固まらない。ソビエト軍の満州進出を機に、各地で地方政府が樹立され、それをつぶすための不毛な戦いが繰り広げられたのである。
国境のすぐ先で軍事衝突がおきているのは穏やかではないが、先の日露戦争のトラウマがあるのか、鴻緑江を渡る一発の銃弾もなかった。
また、建艦競争も激しさを増していた。
一発命中すれば轟沈できるような大口径の大砲を搭載した戦艦がもてはやされ、大口径の砲を搭載するために船体は際限なく巨大になっていた。
しかし、それが大きな負担となっているのも事実である。
海軍軍縮会議はそんな理由から行われた。
日本が海上警備で活躍したことを重くみたアメリカは、日本に強力な海軍力をもたせないよう、イギリスの抗議をはねつけて不当ともいえる保有比率を提示した。
しかしそれが適用されるのは大型艦、しかも主力艦についてであり、補助艦艇については無制限である。となれば、もとより日本に不服はなかった。ただし、そこで素直に引き下がると疑念を抱かせるので、搭載砲の口径を制限するよう強硬に主張したのである。
概して、戦艦は自らの砲弾で直撃されても破られないだけの装甲を備えているとされる。であれば、口径が小さいほど打たれ弱いものになってしまう。そこがつけめであった。
日本にとって、主戦兵器たる駆逐艦や魚雷艇には何の制限も受けないばかりか、潜水艦や航空母艦については一切おかまいなしである。
その思惑を知っているのはイギリスのみ。そのイギリスは、日本のために一芝居うったのである。
それにひきかえ、フランスとイタリアは自分たちの保有率は不当であると猛抗議した。日本からすれば、無意味な戦術にこだわるあたり、頑迷なのはむしろ西洋人であった。
日本交渉団は、大笑いしたいのを堪えて、苦虫を噛み潰したような表情を無理につくって、後をも見ず帰国したのである。
意気消沈を装いながら、国内は大喜びであった。もしイギリスが手伝ってくれた芝居が功を奏したなら、きっとアメリカは大鑑巨砲を推し進めるだろう。そうさせるためにも、まだ芝居を続けねばならないのであった。
その会議から二年。国内が沸く事件がおこった。といっても凶悪な犯罪がおきたわけではない。
では何か?
日本放送協会が設立され、ラジオ放送を開始したのである。
政府の発表が瞬時に全国に伝わり、落語や民謡、喉自慢。それに相撲の中継もされ、民衆の恰好の娯楽を提供したのである。
国内ほぼ全域に鉄道が通じ、海運会社が新造船を次々に就航させていた。
その行く先は東南アジア。イギリスの政策変更で独立を果たしたマレーから、天然ゴムとスズを輸入するのである。他に、ボルネオやスマトラから原油を、オーストラリアからボーキサイトや鉄鉱石を輸入している。
それで様々な製品を作った。民生品として輸出した。
ひとたび便利な道具の味を覚えると、新興国はそれを使いたがるものだ。支払う外貨がなければ原料で支払うことを新興国側がもちかけてくる。
ところが、日本という国は商売人でもあった。
本来なら物々交換ですませば良いところを、わずかでも代金を支払うのである。
そうすることによって、日本人の正直さを相手に信じさせるのである。支払った金を取り返すくらいわけないことである。いや、相手の富を吸い取ることだって難しくはない。だが、どんなことよりも、その金を国内に循環させれば購買力がつくではないか。
盛んに消費するようになるまで待っても遅くはないのだ。
実際、独立を果たした新興国家は、世界恐慌にもかかわらず比較的堅調に力を蓄えていた。
そこへゆくと、インドはまだ産みの苦しみの中にいた。
インドを独立させるのは容易なことではない。無責任に放り出すならともかく、インドには無数の階層があり、単に独立させればどこぞのサルタンが支配をすることは確実である。それでは身分制度を残したままになり民衆の購買力に直結しない。
チャンドラ・ボースという人物がいるが、この人物にしたところで比較的民主的な傾向があるという程度である。芯になる人物として目星をつけたマハトマ・ガンジーは自宅と留置場を行ったり来たりであった。
真相は、留置場の雑居房を会議室にして、民衆の独立意欲を煽っていたのである。
度重なる収監は、裏で仕組まれた芝居だった。
政治犯を装ったイギリス政府の役人と、密輸商人を装った日本の役人が、ひそひそと相談をする場所。それが留置場だった。
三者とも独立と身分制度解消で一致していたのだが、民衆の意識は簡単に改革できなかったのだ。
さて、大戦終結から十年。世界は列強の思惑に振り回されつつ、民衆自身が自分の力を意識し始めた。といっても、次々に植民地が開放されたというくらいの意味である。
そして、ここで画期的な内燃機関が発明された。
イギリスのフランク・ホイットル少佐が、ターボジェットの基礎理論を確立したのである。
彼は、それに対する特許を申請せず、多くの研究者に基礎理論を分け与えて実用化を望んだ。しかし、あまりに先駆的な考えなために、従来の技術者の硬直した頭では、その将来性を予見できなかった。結局、素晴らしい発明も、異端者のように忘れられてしまったた。
それに興味を抱いたドイツ人学生がいた。
基礎理論を学び、実験をしてはホイットルの助言を求めに足しげく通うドイツ人学生。その噂は、スコット大佐の耳にも届くほど有名であった。ことのしだいを知ったスコットは、二十年近く昔に日本で見た飛行機を思い出した。
特殊なエンジンなら尚更のこと、無思慮に実験を繰り返して実用化してしまう日本人と共同研究することが一番の近道と判断し、ムーア大佐に連絡をとった。
翌年、学生を説得したスコットは、日本側の返事を待たずに来日してしまった。
当の本人と、飛行機設計とエンジン開発の技師も、それぞれ三名ずつ同行していた。
先の大戦で飛行機の有効性が証明され、新型飛行機の開発が加速されることになったのは、なにもイギリスだけではない。列強各国が、性能向上に鎬を削っているのである。もちろんイギリスだって、優秀な機体を開発できたと安心してはいられない。どこまで競争が続くのか、先がまったく見えないのだ。さらに、アメリカとの関係が険悪になっていた。
自国の都合で植民地を解放独立させたことで、他国の植民地経営を阻害し、オーストラリアと日本が同盟を結ぶ手伝いまでしたイギリスを許せなかったのだろう。
日本は、後進国のくせに方々で原住民を手なずけ、東南アジアの海をわがもの顔で席巻している。辺境の小さな島国が、世界に台頭してきたことに我慢できないのである。ましてや日本とは国境を接している。
しかしイギリスにしてみれば、日本の考えを取り入れたことで経済負担が減り、新たな商売が始まったのである。世界恐慌を無難に乗り切る筋道がついたのである。
日本とアメリカ。どちらかを選ぶとすれば、答えは出たようなものだが、そうなると特殊物資の供給が絶たれてしまう。
いずれその日がくるのを見越して先手を打とうという意図でいた。
来る日も来る日も協議を重ね、導き出した結論は、インドを早く独立させることであった。
インドの民衆は総じて理知的である。それに技能を覚えさせ、生産拠点としたい。
インドなら、イギリスにもオーストラリアにも近い。加えて、マレーもインドネシアも大変友好的である。北にはヒマラヤがあるので、東西の防御に専念すれば安心ではないかということである。
その生産拠点で、途絶が予想される石油化学製品と、飛行機エンジンである。
そのために、インド独立のシナリオは、ずいぶん端折られることになった。イギリスが民衆の圧力に屈服したかたちで独立させることになり、新興インドへのはなむけとして、石油プラントやエンジン製造工場を贈るという、面子丸つぶれを演出したのだ。当分の国家経営のために、そのプラントで生産されるすべてを日本とイギリス、オーストラリアで買い取る協定を締結し、イギリスのメーカーから委託を受けて、エンジン生産が開始された。
化学プラントでは合成樹脂を製造することになっているが、裏ではエンジンの冷却剤を作ることになっている。それこそ、アメリカから入手していた薬剤である。その生産さえ軌道にのれば、アメリカからの脅しに屈することはなくなるからであった。
エンジン製造で重視されたのは、工作精度を安定させることである。腕利きの作業者であっても許容誤差の範囲を行ったり来たりして、同じ精度で加工することは困難なのだ。
ましてや慣れない作業者であれば、叱られるのを恐れて不良品を良品に混ぜてしまう。
そうすると、設計通りの性能が出ないばかりか、悪くすると人命を失ってしまう。不具合をみつけ、修理するのに無駄な労力を要する。作業者の意識改革だけを叫んでみても解決しない問題を抱えていた。
そういうことになると、応用力のある日本人は抜群の能力を発揮した。
設計図と少しばかり寸法が違っていても、嵌合する相手を合わせれば良いとして勝手に図面を書き換えてしまった。
加工の難しい部分を簡単に加工できる工具を作り、それに合せて相手の寸法を変更したのである。寸法変更といっても僅かなもので、紙の半分もない。
それを知った設計技師は猛り狂った。図面に指示した寸法には意味があるから、変更は許さないというのである。要は、プライドを傷つけられたと思ったのだろう。しかし、加工された部品を見せられ、構造的にまだ誤差を吸収できる余裕があることを説明されると、さしもの技師も黙ってしまった。
ずぶの素人が、腕利き職人をしのぐ部品を作っているのである。しかも、寸法はまったく同じにできあがっていた。
不承不承組み上げて本国に送り、実際に使用してみると、目には見えない違いが浮き出てきた。
定期検査で解体整備すると、従来の部品なら磨耗が進んでいるのだが、インド製エンジンはあまり磨耗していないのである。その噂が広まると、原因追求が始まった。
材料試験をしても違いはない。違うとすれば、表面硬さが微妙に違う程度である。
そして、仕上げ面粗さは格段に違っていた。
どうにも混乱した技師は、インド工場の技師長に理由を説明するよう求めた。
インドからの返信には、特記する変更点はないと記載されていた。注釈として、一部の加工法を変更したとだけあった。
業を煮やした技師はインドへ出向いた。
すると、自分の思い描いた方法と違う加工方法がとられている。それも技師の知らない加工法であった。その発案者は日本人で、すでに帰国していることをきかされ、技師はその足で日本にやってきた。
どうしてあんなことをしたのか、追求する技師の眼は血走っている。詰問された方は不具合でもあったのかと恐るおそる説明をした。
「要は、最終的に寸法になっていてばいいわけで、途中の加工法を指示されてはいないから……」
どもりながら語ったのは、最終的に仕上がる寸法で相手型を作り、それを押し込む方法を採ったというのだ。つまり、ほんの少し小さくしておいた穴に、正規の寸法の軸を押し込むということだそうだ。何段もの段がついた穴でもひとつの工具で下加工をし、同様に一つの工具で仕上げをするらしい。その際に、押し込まれた加工面は素材の密度が高くなって表面強度が増すらしい。そして、じゅうぶんな潤滑を忘れなければ、仕上がった表面はツルツルになるのだそうだ。
作業工程を複雑にするほど不良率がたかくなるのだから、極限まで作業工程を減らしてやろうと考えた結果だという。
そんな素人に仕事をさせるのかと技師がいきまいたのだが、それならプレスはどういう意味なのだと、その日本人は呟いたそうだ。
プレスを引き合いに出されて、技師は沈黙せざるをえなかった。
ここでも、失敗を糧にする日本人の思考方法を知ったのである。
そうやってイギリスの技師を翻弄した事件は、他の部品加工にも積極的に応用されることになった。その最も効果が上がったのがネジ製造だろう。
ネジによらず、一般的な機械要素は削るという方法で作り出しているのだが、金属の可塑性を利用して成型することを思いついたのである。
つまり、オネジは二枚の洗濯板で挟んで揉んでやればネジ山を成型できる。メネジには、溝のないタップをねじ込んで成型する。
両者とも粘土細工のような考え方ではあるが、金属組織を破断せず、むしろ緻密にする効果で強度が抜群に上がったし、加工速度も上がったのだ。
この技術は、同盟国間の秘密とすることで合意された。
特許を申請すべきかもしれないが、他の国に秘すべき技術と判断されたのである。
スコットが連れて来たドイツ人学生はどうしていたか。
彼は、ホイットルから受け継いだ基礎理論をもとに実験用エンジンの製作に取り組んでいた。学生の名は、ハンス・フォン・オハイン。流体力学を専攻する大学院生である。
ドイツ人の特性なのか、ハンスも理論が先行するタイプであった。
ホイットルの理論を証明するためには、燃料に着火できるまで空気を圧縮しなければならない。では何気圧にすればよいのか。机の前で考え込む毎日であった。
圧縮させるためのターボファンがなかなかうまく作れないので温度が上がらない。窮余の一策で水素燃料でためしてみた。しかし、水素は自然界に存在しないし、保管しづらい。
もう少し危なくない燃料をと、ガソリンで試してみた。
回りはするが、消費量が多いことで躓いた。そうとなれば軽油を燃やすしかないのだが、圧縮が足らないので着火しない。
丸二年かけてそこまでこぎつけた。
そして三年目、ようやくできたエンジンは快調に回り、……続けるはずが壊れてしまった。
燃焼ガスを受けるタービンが熔けてしまったのである。それほどに燃焼ガスは高温だった。
なら、高熱を受けても大丈夫な材料に変更すればよさそうなものだが、耐熱性をもたせると加工が極めて困難になるのである。ハンスは失意の底に落ちた。
ハンスの研究を手伝っていた職人たちは、あまりに気落ちしているハンスが気の毒になり、一大宴会で気分転換をはかった。
酔うにつれ垣根をなくして好き勝手なことを言い合う。
その中で、タービンの羽根だけを別で作り、軸に差し込めばいいと言い出した。ハンスが腹を抱えて笑い飛ばすと剥きになっていいつのってくる。羽根は、鍛造したものを仕上げるなら手間がかからずに作れるし、いつだって取替えがきくと言って入れ歯を外してみせた。
そういうことなら、圧縮タービンだって作れるし、段数を増やすこともできると言う者もいた。
ハッとしたハンスは、早速それを作ってみた。
半年かけてできたエンジンは、二時間回り続けたのであった。
そして、国内の飛行機エンジン製作も黎明期を迎えていた。インドでの加工方法を採用することで安定した精度が得られたために、ぎこちない動きがなくなり、潤滑油の消耗も大幅に減っていた。
ただし、イギリスが好んだ液冷式直列エンジンではなく、コンパクトな空冷星型エンジンだった。むしろそのほうがエンジンの選択肢が増えるし、日常の手入れが簡単という意味もあった。
では機体はどうか。
押し出し成型が可能になり、それを再び冷間圧延する技術が開発されたことで、機械加工の時間が大幅に短縮した。そればかりでなく、金属組織を分断せずにすむことで、計算上の強度を超える荷重に耐えられるようになったのである。その余剰強度を重量軽減に使うのか、はたまた機体強度を向上させるのに使うのか、これは設計者の思想にかかっていた。
また、枕頭鋲が考案され、操縦索に新たな考案がされ、設計以上の性能を引き出してくれたのであった。
海はどうか。
各地の造船所では魚雷艇が増産されていた。ムーアが乗っていたものより大型の、百トンクラスばかりである。
短魚雷を五本搭載するほかに、五十発ものミサイルを隠している。
潜水艦と駆逐艦も船台に載っていた。しかし、大型艦は油槽艦と補給艦があるだけで、巡洋艦すら新造されていない。わずかに、どんな用途なのか、細長い船殻がいくつか建造されていた。装甲を施せば浮かないような建造物である。国内で諜報活動をしているアメリカ人も興味をひかないようなもので、奇妙なことに船首部分は人が出入りできるような穴が開いたままである。
こうして遠大な擬態が、ここでもくりひろげられ、あとは飛行機さえ完成すれば外敵からの備えは完成であった。
それから二年、東南アジアでの住民蜂起を知り、なんとなくきな臭さを感じながらも堅調な景気の恩恵を享受していた。