日中領土交渉
刀を捨てた武士
一、日中領土交渉
師走もおしつまり、明日は冬至という日である。
冬の大気はキーンと澄み渡り、空には無数の星々が瞬いていた。
世間では年越しにむけた大売出しが終盤を迎え、苦しいながらもうきうきした空気が漂っている。あと数日すればクリスマスである。キリスト教がさほど浸透しているわけではないが、異文化を貪欲に取り込む国民性がそれを遊楽の口実にしてしまい、近年は年若い男女が賑やかに遊ぶ光景が珍しくなくなっている。
そんな世間の営みとはまったく質を異にする話がここで交わされていた。
「いいですか、何度も申し上げているように、台湾は完全にわが国の領土であります。日本が台湾を領有していることは国際法上否定されるべきであり、金門島も周辺の島々も即刻わが国に返還した上で謝罪すべきです」
外務省の奥まった会議室で日本と中国の次官級協議が続いていて、中国の代表が何度目かの言葉を早口にまくしたてていた。
「国際法と言われますが、どこが違反していますか? 台湾は正式な独立国家として承認されていました。中国が主張する島々もまた、台湾領土として承認されていました。決して中国の一部ではありません。ましてや、我が国は台湾を武力で領有したわけでもありませんし、威嚇や恫喝をしたこともありません。両国が合意の上で、我が国の主権の元に統一したまでのことです」
外務次官はうんざりしたように同じ返答を繰り返した。こちらは通訳がまちがわないよう努めてゆったりと話している。
「しかし、台湾は歴史的にも我が中国の領土です。日本がそれを不当に領有していることは間違いない事実です」
「またですか」
外務次官は、あからさまに厭な表情を浮かべた。外交交渉の場で感情を面に表すということは努めてひかえるべきことは十分に承知していた。そんなことは基本のキなのだ。しかし、臆面もなくそうしてみせたということは、それなりの覚悟があるぞと無言で意思表示するのと同じことだ。
「何かといえば歴史問題をもちだすのは中国の悪い癖ですよ。そんなに歴史にこだわるのなら、こちらも対抗措置をとらせていただきますよ」
一旦言葉を切った外務次官は、おもむろに水を注ぎ、一口含んだ。
いくら説明しても理解しようとしない相手に苛立っているのか、眉間に皺を寄せている。
「歴史問題を解決するというのであれば、互いに理解している直近のことを先に解決しましょう。はるか昔の問題は、摂り合えず脇においてもかまわないでしょう」
そこで再び咽を湿らせた次官は、内ポケットをさぐってタバコの包みを取り出した。
「こういう場で口にするのはどうかと思いますが、中国は、日清戦争や第二次大戦の賠償義務をなにひとつ果たしていませんよ。一次二次の日中戦争の賠償もしていません。第二次日中戦争が終わって二十年すぎているのに、無しのつぶてです。わが国が保証を免除した事実は、どこにもありません。にもかかわらずですよ、中国の民衆が気の毒だと思えばこそ、我々は多額の援助を続けてきました。資金援助だけではないことはお判りですね。食料から日用品も医薬品も、十分に援助しました。貸与した製造設備や技術供与を金銭に換算してごらんなさい。第二次大戦直後から続けていますから約七十年もの間、国民の税金を惜しみなくつぎ込んできたのです。それ以外の借財にも応じてきましたね。合計すれば膨大な額になります。その返済を猶予している相手に使う言葉が台湾をよこせですか、呆れてものが言えませんなあ。もし日本が一括返済を求めたらどうなりますか? 失礼ですが、中国にそんな財力がありますか? 理不尽な要求をするより先に、債務返済をすべきではありませんか。まさか踏み倒すつもりではないでしょうね」
次官の言葉に棘が混じり始めた。単なる失言などではなく明らかに挑発を始めたことが会議室の全員に伝わった。
「その件は……、当時の政権が責任を負うべきです。そんな昔話をもちだされては困ります」
次官の意図を悟ったことに加え、債務返済という弱点をつかれて中国代表はたじろいだ。見れば次官は、机をはさんだ向こう側で、自分には顔を背けてトントンとタバコを机の上で弾ませていた。
なるほど間を取る目的でタバコは小道具として使われる。しかし、相手が話しているのに目を背けるなど、明らかに儀礼を欠いた行為だった。
「なるほど……、当時の政権の責任だと。現政権とは無関係ということですか」
次官は、シュッと小気味よい音をさせてマッチを擦ると、咥えたタバコに火を移した。そのとたん、咽たように煙を噴出した。
「うっ……ブハハハハハ……。いや、失礼。まさに噴飯ものですなぁ。支援や借款を申し出たのは共産党政権ですし、一次、二次の日中戦争をおこしたのも共産党政権です。厚顔無恥という言葉、中国から伝わった言葉ですが、ご存知でしょう? とぼけてはいけません」
「話をすりかえないでいただきたい。今は領土問題を話し合っているのですから」
「そこなんですよ。前の政権どころか現政権の責任すら負わないにもかかわらず、他国の領土を狙っている。正当な口実がないからすぐに歴史をもちだす。あまりに身勝手です」
「あなたこそ頑固な人だ。他の何かと違ってゆるがせないのが過去の事実ではないですか。素直に歴史をふり返らねばいけません」
「これでは埒があきませんな。ではこちらはどうですか。中国々内の内紛が深刻化して、現政権の基である共産軍と国民党軍が対立しました。しだいに追い詰められた国民党軍は生存のために台湾へ脱出しました。そこで体力回復を図ったのですがうまくいかなかった。国民党軍が上陸する以前から台湾には数多くの部族が住んでいました。部族間抗争を繰り返すばかりで、国家という認識のなかった人々ですが、協力して自分たちの国をつくるよう我々の祖先が力を貸していました。そして、ようやく国としてのまとまりができたところへ、国民党軍が押し寄せた。その頃にはわが国と密接な交流があったので、応援に駆けつけた。穏やかに融けこむならまだしも、非道なことをしましたよ、国民党軍は。外敵を殲滅した台湾の民衆は、独立を宣言しました。その後独立国家として国際社会に承認され、国連加盟を果たしました。これもゆるぎない、しかも記憶に新しい歴史の真実です。その独立国家がどういう国家運営をしようと、他国が干渉すべきことではありません。そうでしょう?」
「ですが、住民の多くは中国人です。ならば当然中国の領土ではありませんか」
「オーストラリアはどうなりますか? アメリカ合衆国はどうなりますか? たとえイギリス人が移住して独立したからといってイギリス領と主張していますか? たまたま中国人が多いというだけのことで、元から台湾の人々が住んでいたのです。中国は、それを横取りしようとしただけですよ」
「国際社会で承認されたとおっしゃいますが、我が国は承認しておりません」
「確かに反対する国もありました。しかし、国際機関に加盟したということは、独立国として他の加盟諸国に認められた証拠です。それにひきかえ、承認を拒否しようにも中国は国連に加盟申請すらしていなかった、発言権などありませんね。その腹いせに、日本に侵攻をしかけてきた。愚かなことに、二度もです」
「愚かですと? 三千年の歴史を誇るわが中国を愚かですと? 聞き捨てなりませんな」
「なにが三千年ですか。中国は元に滅ぼされてしまったじゃないですか。誇大妄想はおよしなさい」
「誇大妄想? そんな恥知らずな言葉を使う国は初めてです。謝罪しなさい!」
「誇大妄想で悪いなら、亡霊にとりつかれていると言い換えましょう。共産党が台頭した時には、これで王朝の亡霊から解き放たれると期待しましたが、こんどは権力の亡霊に支配されているではありませんか。国民があわれでなりませんよ」
「そうですか、どうあってもこちらの主張は認められないと理解してよろしいのですね。大変残念ですが紛争になることを覚悟しなければなりませんが、その責任はすべて日本が負うべきですぞ」
「またですか。あなたがたは話し合いで解決することを学習していないのですか。三千年の歴史を誇っても、そんな簡単なことすら理解できないのですか? これまでは中国民衆の疲弊が気の毒で援助もし、資金も用立ててきました。しかし、中国はその資金を軍備拡張に使いましたね。失礼ながら我々も独自に調査しております。民衆の生活が改善しないのに軍備ばかり増強している。日本を攻撃する兵器を日本が与えるのはばかげたことです。そんな相手になら情けをかける必要はありませんし、国民が納得しません」
外務次官は開かれていた書類をパタリと閉じ、再び水を飲んだ。
「今年に入って国籍不明機の領空侵犯が相次いでおり、やむをえず交戦した回数も増えています。こちらとしては避けたいのですが、相手が従わない限り応戦するしかありません。まさかとは思いますが中国の……飛行機だったのですか? このままでは領海侵犯の相手にも同様の措置をとらねばならないのかと苦慮しております。なんとか平和に解決したいものです。なんなら国際司法裁判所に裁定を求めてもよいのですが、共同で提訴しませんか? でなければ、次に紛争がおこったら確実に国が崩壊しますよ」
「その件は本国から指示を受けておりません。これでは平行線のままですので帰ります」
「そうですか、やむをえませんな。今回の協議はもの別れということに致しましょう。では次の協議はどうしますか、希望される日程を提示してください」
「残念ですが協議する意味がないようですので本国に帰ります」
中国側の代表が蒼白な顔で席を立つと、同席していた事務官も憮然として立ち上がった。
「最後に申し添えますが、仮に紛争となったら今度こそ中途半端ではすませません。心配しなくても、我々には領土拡大の野心など毛頭ありません。疲弊した国などなんの価値もないですからな。そのかわり賠償請求は厳しくさせてもらいます。当然、一切の援助を打ち切ります。過去の分も含めて賠償が完了するまで、海上交通を封鎖します。輸入は陸路しかないでしょうな。しかし、中国は周辺国と紛争を続けていますから陸路での貿易は見込めない。今の言葉をどう受け止めるか、国に帰ってじっくり相談してください。なに、十億も十五億もの国民がいるんです。八割が死んでも三億残る。三億も残れば国を再興できるでしょう。我々は人殺しはしないから、すべて中国政府の責任で飢え死ぬのです。あなたがたの対応しだいで鬼にも仏にもなるとお伝えください」
瞬間、中国代表団は凍りついたように外務次官を凝視した。誰がどう聞いてもそれは最後通牒と受け取ることができるからである。外交責任者の言葉なら文字通り決定的な一言になってしまうからである。最終責任を負う立場にない者の発言にしてはあまりに不穏当なのに、他の出席者に訂正する動きが全くないことも異常であった。しかも、言った本人は世間話をしているような表情をしている。
席を立ったてまえ座りなおすこともできず、中国側は退出していった。
中国政府が何を言おうが日本政府の腹は既に決まっている。むしろ相手を苛立たせる方針に転換したのである。失言などは心配しなくてもよいから存分にやれとさえ政府から指示をうけている。この日のために三年ほどかけて進出企業の転出もほぼ完了していたからだ。
第二次日中戦争の痛手から回復した中国は、周辺諸国と地域的な紛争を頻発させていた。紛争という手段だけでは発言権を得られないことに気付いた中国は、地域和平のために提唱された東南アジア諸国連合設立協議に際し、積極的に参加を希望した。勿論、目的は主導的立場を得るためだが、その程度の目論見など紛争相手国にすれば子供だましのように見抜かれてしまったのだ。特に紛争当事国が口を揃えて拒否したのは当然のことで、国境を接していない周辺国にも中国の関与にたいする懸念を問題視する意見が強かった。このまま参加したとしても、良くて対等、悪くすれば発言の機会さえ制限されかねないことを察した中国は、参加することを取りやめた経緯がある。ここであらためて国土の広さや過去の幻影がまったく意味をもたないことを悟った。中国の目論んだ国土と強引な発言では我儘を通せないことを思い知ったのだった。
採集ばかりで栽培をしないために、魚が捕れなくなってしまった。工場廃液の垂れ流しによって川が死滅し、作物すら育たなくなってしまった。そうした内政の失態を補うために他国を侵略した。それしか生き延びる道を見出せなかったのだろう。しかし、そのすべての企ては失敗続きであった。東南アジア諸国と良好な関係を維持していた日本が協力して、中国の侵略を撃退していたのであるが、その発進地が台湾だった。だから強硬に返還を求めるのだろう。それに、日本の州として整備が進んでいた台湾には、本国と同じ生産設備が整い、あらゆる産業が移入されていた。中国としては、日本式の工業生産力や技術は何をさしおいても手に入れたい宝なのだろう。
たとえば今、日本政府が援助打ち切りを発表すれば、中国に対する外貨の流入は、まず間違いなく止まるだろう。大手銀行が撤退を公表すれば、外貨が一斉に流出し、取りつけ騒ぎに発展する。無責任な予測では決してなく、きわめて確実な結果が秒読み段階に入っているのである。そのきな臭さを中国政府の中枢は感じ取っているかもしれない。が、徐々についてきた経済力に自信を抱いた大多数が、強硬姿勢を貫いているのである。しかし、彼らの自信は軟弱な基盤でしかないことに気付いてはいるまい。とはいえ、中国に残された選択肢は数えるほどしかないことを危ぶむ者は少なくない。残念ながらその声が反映されないのが中国であった。
台湾で撃墜した航空機の残骸には、中国機である証拠がはっきり残っていた。しかし、その現物を目の前にしてさえ言い訳に終始して、とうてい認めはしまいから国籍不明と表現しただけなのである。撃墜されたことで驚いたのか少しおとなしくしていたのに、最近また同じように挑発行動をとるようになっている。退去を求め、強制着陸を試みても従わないのでやむなく撃墜しているもので、すべて領空内の出来事である。どうにかして領空外で撃墜させたい中国側の意図は明白だが、日本としては国際法を頑なに守っていた。
欧米列強と互角に対峙し、他国に制服されることなく着実に国力を増してきた先祖の伝統を絶やしてはならない、とは民衆の総意である。最近中国が盛んに主張する台湾領有問題についても、政府には確とした理念がある。
少しづつ日本が洩らした近代化技術によってようやく近代国家の入り口にたどりついた中国が、拡大思想にとらわれることは止むを得ないとしても、ならばなぜ教育に力を入れないかと不思議でならない。先進技術にせよ軍事技術にせよ、日本が要になる部品を供給しているからこそ成り立っている現実を直視すれば、覇権主義の愚を悟るはずである。しかしそれができない国である。覇権主義をとなえた国々がどういう末路を辿ったか、もっと学ぶべきなのにと哀れにさえ感じているのである。