急なこと
「…なあ、向こうの世界ってあると思うか」
高校からの帰り道、私の彼氏に急に振られたセリフ。
「え?」
思わず足を止め、私は彼に聞き返した。
「向こうの世界って?」
「向こうは向こうだよ」
そう言う彼は、早く流れて行く雲をじっと見ていた。
それから1週間もしない間に、彼は自宅で急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
彼と会話をしたのは、それが最後になってしまった。
日は流れ、数年後。
大学院博士課程を卒業した私は、研究所に就職することができた。
この研究所は、最先端の科学を研究していて、核融合炉の実用化、超高温超電導素材の開発、武器としてのレールガンの研究などをしていた。
私はその中で、一般的にはエセ科学といわれるような分野の研究をしていた。
それは、この世界とは違うもう一つの世界を見るということだ。
SFの世界のような話だが、この宇宙は50個目だということを大真面目に言う研究者もいるし、デジャブというのは並行政界にいる自分が経験した事柄だという人もいる。
肯定も否定もされない研究内容に、私は情熱を燃やし続けた。
部下が一人だけという小さな部屋だったが、そこでは、はた目から見れば頭のねじが飛んで行ったのだろうという内容のことをしていた。
「博士、行きますか」
「ああ、頼む」
バッテリーにつないでいたスイッチをONにする。
部屋の中央に据え付けられた円形のニクロム線が赤色した。
「次!」
「はい」
私が言うと、次のスイッチを入れる。
すると、そのニクロム線にシャボン玉のような膜ができ、何かぼんやりとした光景が見えてきた。
「もっと強く!」
「これが最大ですっ」
言った途端に、ニクロム線が千切れ飛んだ。
瞬間的に膜は消えて、部屋の中にあった電子機器類は一時的に使用不可能となった。
「…まただ。どこが問題なのだろうか」
電子機器にたまった電気を静電気除去棒で取り除きながら、言った。
「向こうとこちらをつないでいる何かを切り離す必要があるとか?」
「ふむ、ではその辺りからもう一度考えてみよう」
私は数式を書きだした。
「この世界をA、向こうの世界をBとしたときに、分かっているのは、AとBとの間には重力子分のエネルギー差があり、その定数をΛ(ラムダ)とした場合にΛ+A=Bとなること。BにはAにはない、巨龍の存在があることぐらい…」
「向こうこちらで決定的に違う点って、Λ分のエネルギーがないということなんでしょうか」
「そうか、そのエネルギーを消すことができれば、こちらからもいけるんじゃないだろうか」
私はそう考え、すぐに設備を作った。
すぐといっても1週間かかったが。
1週間が経つと、世界も大きく変動をしていた。
「…戦争が始まってしまったか」
研究所の談話室にあるテレビで、散々戦争がはじまったと繰り返し報じていた。
「いつ終わるのか、誰にもわからないんでしょうね」
「未来を予知できるやつがいるとしたら、それは、証明ができない数学問題と同じさ」
私は彼にそういった。
しかし、それ以上に、彼と一緒に来た少女が気になった。
「それで…」
私は目線を下げ、少女を見た。
「ああ、自分の娘です。紗由里といいます」
「写真にあった子ね。こんにちは、紗由里ちゃん」
私はしゃがみこんで、彼女の目線に合わせた。
「こんにちは…」
人見知りをするようで、彼の足の後ろに隠れてしまった。
「とりあえず、研究は続けましょう。避難命令が下された時には、それも止めなければならないけど」
「しかたありません。紗由里は、ここで遊んでなさい。いい、決して、外に出てはいけないよ」
「わかった」
彼女はそう言って、テレビの真ん前を陣取った。
それを見てから、私たちは研究室へ入った。
研究室に入った私は、早速彼に今回の実験の変更点について説明をした。
「今回は、電圧を上げてみようと思うの」
「人体への影響は?」
「アース線を服につけるわ。それに、周囲に電気を吸い取るように、避雷針の小型版みたいなものも取り付けておいた。たぶん大丈夫」
「それで、なんで電圧を?」
彼が当然に聞いてくるだろうと予想していたことを、すぐに聞いてきた。
「こちらからあちらへ行く時にはΛ分のエネルギーをどうにかして乗り越えないといけないの。つまり、A=B-Λね。こちら側をへたにいじると世界が崩壊しかねない。でも、それは向こう側にも言えること。だとすると、超局所的にエネルギー変移を引き起こさせ、Λ分のエネルギーを取り出すことができれば…」
「もしかしたら、いけるかもしれないと?」
「そういうことね。また、彼に会えるかもしれない……」
私は思わずそう口に出した。
「彼?」
「え?ああ、気にしないで。ひとりごとだから」
そう取り繕い、すぐに実験の準備へ入る。
「Λのエネルギー量は、私たちの質量をエネルギーに変換させたときの約半分だということが分かっているわ。つまり、ΛはE=mc^2、Λ=E/2の式より、Λ=(100キログラム×c^2)/2ね」
「博士、準備できました」
彼が教えてくれた。
「わかったわ。さっそく始めてみましょ」
私が言うと、電源を入れた。
実験といっても、この部屋に送られてくる電力は少なくなっているため、今日1日の配給量を一発で使い切る形になってしまう。
だから、毎日が一発本番状態だった。
「昇圧、開始!」
私が叫ぶと、すぐに電気がニクロム線に入る。
「一気に上げていって!」
すると、あやふやに見えていた向こう側が、はっきりと見えるようになった。
「できた!」
思った瞬間、ニクロム線は再びはじけ飛んだ。
「ッチ、またか…」
「でも、はっきり見えるようになりましたよ。これで、向こう側へ行けるようになるんじゃないですか?」
「向こうに行けるかどうかは、また別問題だよ。でも、これで残る問題は、唯一つ…」
どうやってこの状態を維持するか、そこにかかっていた。
翌日、どうにか手に入れた鉄線を実験に使うためにセットをしていると、研究室に紗由里が入ってきた。
「どうしたの?」
私がゴム手袋をはずしながら、彼女に聞いた。
「実験って、どんなのやってるのかなって」
「んー…この世界とは違う世界へ行きたいと、そう思ってるのよ。大丈夫。本当に向こうに行くわけじゃないんだから」
私はそう言った。
彼女は、私が何を言っているのかが分からないようだったが、彼女の父親が入ってくると、そちらに興味が移ったようだ。
「実験しますか」
「ああ」
「娘を同席させるのですか?」
「われわれが安全だということは、おそらく彼女も安全だろう」
そう言って、彼女を研究室に入れたままで、昨日の実験の続きを始めた。
昇圧をし、向こう側がはっきりと見えた途端、かなり強い振動を感じた。
「てきしゅー!」
「敵襲?」
私はその言葉に耳を疑ったが、その声も一瞬でかき消された。
「お前らを連行する!ここを開けろ!」
外で研究室の扉を強くたたく音が聞こえてくる。
「逃げなきゃ…!」
「博士、逃げるって言っても、場所がありませんよ」
研究室にはドアが一つしかなく、そのドアの外には、兵士が待ちかまえている。
「電気は?」
「まだ来てます」
彼がドアが開かないように、つっかえとして近くにあった箱や棚を引きずってきて置いていた。
「今のうちだな…」
私は、彼とその娘を見た。
「…逃げるなら今だ」
「彼らにつかまったら、向こうの世界まで崩壊させられる恐れもあります。娘も分かってくれるでしょう」
「では、行くぞ!」
私がいうと、彼は娘を抱き抱え、私はスイッチを一気におろした。
ブゥーンというハエが一斉に飛んでいるような音が聞こえたと思うと、セットしていたニクロム線の内側に、向こう側の世界がはっきりと見えた。
「飛び込め!」
私が言うと同時に、ドアが破られ、誰かが発砲した銃弾が私たちと一緒に向こうの世界へ送られた。
「ん……ん?」
私が起きると、彼も彼の娘の紗由里もおらず、目の前に巨大な竜が座っていた。
「やっと起きよったか」
「どちらの方でしょうか…?」
「儂の名は天雲という。人とともに育てられた最後の龍だ」
「人と一緒に?」
「ああ、話せば長くなる……」
天雲は、私に突如として降ってきた物体に倒れた長老の話をしてくれた。
それは人間が放ったものであり、それをきっかけにして龍族と人間との間に争いが起きたこと、それ以後龍と人は交わらなくなったことなど。
「…あなたは、天雲さんは、それ以来ずっとひとりなんですか?」
私は周りに他の龍も人もいないのを見て、そう聞いた。
「ああ、残念ながら。そこで提案なのだが…」
「なんでしょう」
「儂と一緒に生きてくれまいか。神のもとに選ばれた者もいると聞く。彼らに会わなければならない」
「それと私となんの関係が?」
「神は、人と儂らが仲違いであることをすでに存じておられるが、それでもまだ行けると考えておられる。だから、我々が必要となるのだ」
「…まあ、元の世界に戻るまでの間ぐらいは、ね」
私はこの世界でひとりきりになるリスクよりも、龍族と一緒に生きて行くリスクを取ることにした。
「では、これからよろしく頼む」
アゴヒゲのようなもので、私と握手を交わした。
瞬間、電気が体中を駆け巡った。
「ふむ、さすがに強すぎたか…」
天雲がそうつぶやいているのが、しびれて動けなくなっている私でもしっかりと聞き取れた。
「まあ、仕方ない。家に連れて帰るか。契約もしているしな」
そういうと、アゴヒゲを上手くつかい、私を天雲の家に連れて行った。
意識が遠くなるなか、私は、彼らに再び会えるかどうかを考えていた。