三本足の丸椅子は、明日も貸す
三本足の丸椅子は、明日も貸す
作業台の端の銅皿に、銀貨が一枚だけ載っている。
明日の朝、六時の鐘と一緒に大家のバルトロが来る。今月分の家賃は銀貨三枚。払えなければ、ハルは父から継いだこの木工修繕屋の鍵を返し、道具箱ひとつで路地へ出ることになる。
足りない二枚は、昼間に入るはずだった。注文の椅子の脚を一本、寸法を間違えて短く切ってしまうまでは。良い樫だった。ハルはその切れ端を棚の下へ蹴り込み、それきり見ないようにしていた。
「ハル! 起きてんだろ、開けろ!」
夜の十時を回った頃、木戸が乱暴に叩かれた。バルトロが一晩早く来たのかと身構えて閂を外すと、立っていたのは隣の惣菜屋のルカだった。大きな体に油染みの前掛け、腕には布でくるんだ何かを抱えている。
「こいつを直してくれ。今夜中にだ」
ルカが作業台に布を広げた。出てきたのは三本足の丸椅子だった。座面は使い込まれて黒光りし、脚の一本が根元から折れている。折れた芯は座面の穴に残ったまま、穴のまわりの板には髪の毛ほどの割れが走っていた。
「明日の朝、七時の鐘で、向かいの荷揚げ場に煮込みを五十人前運ぶ。俺はこいつに座って、鍋から椀へよそう」
「椅子なら他にもあるだろ」
「ねえんだよ。鍋の台車にぴったりの高さはこいつだけだ。低けりゃ膝が死ぬし、高けりゃ鍋の底が見えねえ」ルカは座面を裏返して叩いた。「お前の親父さんが、うちの鍋に合わせて作ったんだ」
ハルは座面の裏を見た。焼き印こそないが、脚の開きも、縁の落とし方も見覚えがある。
視線が勝手に、部屋の隅に置いた自分の作業椅子へ動いた。同じ形の三本足。父が同じ型で作った、もう一脚だ。
ルカが折れた脚を布から拾い上げている間に、ハルは脱いでいた上着をその椅子にかぶせ、材木立ての陰へ押しやった。
「……直すのはいい。銀貨二枚だ」
「はあ!?」ルカの声が梁を震わせた。「丸椅子一脚に銀貨二枚!? 銅貨八枚だ。それでも出しすぎだ」
「芯が穴の中で折れてる。ほじくり出して、新しい芯を削って継いで、割れた座面を締めて、膠を固める。一晩仕事だぞ」
「一晩で銀貨二枚なら、俺は鍋を洗うのをやめて椅子屋になる」
「じゃあよそへ持ってけ」
「この時間にどこが開いてる!」
言い合いは銅貨十二枚まで来て止まった。銀貨一枚は銅貨二十枚。どう転んでも家賃には届かない。ハルは銅皿の一枚を見て、つい口を滑らせた。
「……銀貨があと二枚ないと、明日の朝ここを追い出されるんだよ」
ルカの目つきが変わった。
「バルトロの爺さんか」
「六時の鐘で来る」
ルカはしばらく黙っていた。それから腰の革袋を探り、銀貨を一枚、作業台に置いた。
「前金だ。残りの一枚は、明日の六時の鐘が鳴ったとき、俺がこいつに座って何ともなかったら払う」
「……乗った」
「まだ続きがある」ルカは太い指を立てた。「座って折れたら、前金も返してもらう。それから、ひと月うちで鍋洗いだ。タダでな」
「なっ」
「銀貨二枚の仕事なんだろ? 自信がねえのか、職人さん」
ハルは銀貨をひったくって引き出しに放り込み、鍵をかけた。
まずは折れた芯だ。ハルは錐で穴に残った芯を少しずつ崩し、ノミで掻き出した。脚のほうの折れ口も平らに落とし、真ん中に穴を彫る。二つの穴をつなぐ新しい芯がいる。
ハルは棚の下に腕を突っ込み、昼間蹴り込んだ樫の切れ端を引っ張り出した。椅子の脚には短すぎた。だが芯の一本なら、いくらでも取れる。
「なんだ、そのゴミ」
「ゴミじゃねえ。今夜の主役だ」
削り出した樫の芯は、きつく、しかし入りすぎない太さに収まった。削り屑と残った切れ端は、まとめて炉の脇へ放った。
次は膠だ。棚の壺には魚膠が残っている。魚の皮と骨を煮て作った膠で、乾くのが遅いぶん、組む手間に余裕がある。代わりに、固まるまで動かさずに押さえ続けなければならない。冷えて粘りの強くなった膠を湯煎で緩めると、生臭さが工房いっぱいに広がった。
「くっせえ! 何だこの臭い」
「惣菜屋が臭いで文句言うな」
ハルは割れ目と穴と芯に膠を流し込み、脚を差して木槌で叩き込んだ。あとは締めるだけだ。
道具棚の奥へ手を伸ばし、ハルは固まった。
鉄の締め具を掛けていた釘が、空いている。
先月、家賃の足りない分の形に、バルトロが持っていったのだ。残っているのは手のひらほどの木の締め具だけで、丸椅子の座面を挟むにはまるで届かない。
「……おい。まさか、締める道具がねえのか」
「ある」ハルは麻縄をつかんだ。「これで十分だ」
縄を座面の縁にぐるりと二重に回し、棒を差し込んでねじる。縄が締まるにつれ、割れ目から膠がにじみ出た。脚にも縄を掛け、座面の縄と結んで引き絞る。
見た目だけは立派に仕上がった。そしてハルは、ここで欲を出した。
「魚膠は食いつきがいい。もう座れるくらいだ。残りの一枚、今払っちまえよ。そしたらお前も帰って寝られる」
ルカは椅子とハルの顔を見比べ、黙って椅子を床に立てると、どっかり腰を下ろした。
「ばっ、座るな――」
ずるり、と嫌な音がした。縄が滑り、割れ目から膠がむにゅりと押し出され、脚が外へ開いた。ルカの体が座面ごと傾き、慌てて床に片足をつく。
「どこが座れるんだ!」
「塗ったばっかりだぞ! お前みたいな大男が乗っていいわけあるか!」
「お前が座れるって言ったんだろうが!」
返す言葉がなかった。ハルは脚を引き抜き、溢れた膠を拭った。芯の表面がささくれて、さっきよりわずかに緩い。削り直しだ。
ルカは腕を組んで壁にもたれた。
「決めた。今夜はここで見張る。銀貨二枚の仕事がどうなるか、この目で見てやる」
削り直した芯を入れ、もう一度膠を流し、脚を叩き込む。座面の割れは縄で締められる。問題は脚だった。縄で引くと、どうしても角度がずれる。
「重しを載せりゃいいだろ」とルカが言った。
「三本とも斜めに開いてるんだ。上から重しを載せたら滑って、角度ごと狂う」
「川向こうの家具屋に締め具を借りるのは」
「夜は橋の門が閉まってる」
ルカは鼻を鳴らし、「冷えるより、ましだろ」と椅子を炉の前まで運んだ。ひっくり返して座面を床につけると、三本の脚が天井を向いた。
「なら、俺たちが締め具になりゃいい。今夜中に乾かねえなら、朝まで一緒に押さえてろ。脚の先を手で押さえて、角度はお前が見る。交代で、離さねえ」
「……六時の鐘まで七時間あるぞ」
「銀貨二枚の仕事だろ」
ハルは引き出しを見た。あの中に、明日の自分が入っている。
「両手で脚の先を包め。真上から押すな。脚の向きに沿って、座面へ押し込むように」
「注文の多い職人だな」
ルカの大きな手が、樫の芯をくわえた脚の先に掛かった。ハルは床に膝をつき、残りの二本と見比べる。
「もう少し手前。……そこだ。そのまま」
十二時の鐘が鳴った。
押さえる者と休む者を、三十分ごとに入れ替えることにした。休むほうは炉の番をして、押さえているほうの角度を横から見る。言い出したのはルカだった。
「座るもんもねえのか、この店は」
交代のたびに膝をさすりながら、ルカがぼやいた。ハルは材木立ての陰を見ないようにした。
「……ねえよ。職人は立って仕事すんだ」
「嘘つけ。親父さんは座ってたぞ」
ハルの手が一瞬緩みかけ、慌てて押し直した。
一時。二時。手首がしびれ、床の冷たさが膝に染みる。湿った夜気が戸の下から這い込んできた。冷えれば膠の乾きは遅れる。どれほど遅れるのか、ハルにも正確には分からない。
「なあ」押さえながら、ハルは訊いた。「なんでそこまでこの椅子なんだ。高さが合えば、木箱でも積めばいいだろ」
炉の前でしゃがんでいたルカは、しばらく黙っていた。
「積んだことあるよ。十年前、膝を壊したときにな。揺れる箱の上で五十杯よそってみろ。三杯目で鍋ごとひっくり返す」
ハルは押さえる手に目を落とした。
「先代が、お前の親父さんに頼んだんだ。俺の膝と、うちの鍋に合わせて一脚。代金は銀貨じゃなくていいって言われたそうだ。煮込み十杯でいい、ってな」
ハルは知らなかった。だが、父はそういう値の付け方をする人だった。だから工房には、いつも金がなかった。
「お前は親父さんより高く取るんだな」
「その親父のおかげで、こっちは家賃が払えねえんだよ」
言ってから、ハルは自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。
三時を回った頃、炉の前のルカが静かになった。
見ると、膝を抱えたまま首が落ちている。寝息が聞こえる。炉の火は赤い熾だけになり、部屋が目に見えて冷えていく。
「おい、ルカ。……ルカ!」
返事の代わりに、いびきが返ってきた。ハルの手は脚の先から離せない。いま離せば、ここまでの三時間が無駄になる。
ハルは右足を伸ばした。炉はすぐ脇だ。そこに放ってあった樫の削り屑と切れ端を、つま先で熾の上へ押し込んだ。熾火が屑を舐め、ぱちりと音を立てて、樫が燃え始めた。
「……寝てねえぞ」
明るくなった炎の前で、ルカが目をこすった。
「いびきかいてたぞ」
「炉の音だ」
昼間しくじった切れ端が、芯になり、火になった。ハルはそれ以上何も言わず、脚の角度を見直した。
五時の鐘が鳴った。窓の外が白み始めている。
「……どうだ」とルカが訊いた。
「分からねえ」ハルは正直に言った。「表は固まってる。中は、触っても分からない」
ハルはそっと手を離した。脚は動かなかった。座面の縄を解くと、割れ目からはみ出した膠が琥珀色に固まり、継ぎ目に隙間は見えない。
二人で椅子を起こし、床に立てた。三本足は、床がどれだけ歪んでいてもがたつかない。父がよく言っていた。
ルカは椅子の前に立ったまま、座らなかった。約束は六時の鐘だ。
二人とも、それまで口をきかなかった。
六時の鐘が鳴り始めた。
ルカが、ゆっくりと腰を下ろした。
ハルは息を止めた。
椅子は、きしみもしなかった。ルカが尻を左右に揺すっても、三本の脚は床を捉えたままだった。
「……座れるな」
「当たり前だ」声がかすれた。「俺は木工屋だぞ」
ルカが革袋から二枚目の銀貨を出したとき、戸が叩かれた。
「ハル! 鐘は鳴ったぞ、銀貨三枚だ!」
バルトロだった。集金袋を手に踏み込んできた大家は、工房の真ん中で丸椅子に座っている惣菜屋を見て、怪訝な顔をした。
ハルは引き出しの前金と、銅皿の一枚と、いまルカから受け取った一枚を並べて、大家の手に載せた。
「今月分だ。文句ねえだろ」
バルトロは銀貨を一枚ずつ噛んで確かめ、忌々しそうに鼻を鳴らした。
「どこで工面したんだか。来月遅れたら、今度は鉋を持っていくぞ」
大家の足音が路地に消えると、ハルは床に座り込んだ。工房は、ひと月だけ守られた。
ルカが立ち上がり、丸椅子を抱え上げた。
「じゃあな。七時の鐘に間に合わせる」
「待て」
ハルは自分でも驚くほど早く言っていた。
「そいつは、今日は使うな」
「あ? 座れただろ」
「お前ひとりが、じっと座っただけだ。五十杯よそうってのは、鍋に向かって何百回も体をひねるってことだろ。中がまだ乾いてねえ。今日一日もつかどうか、俺には言い切れない」
ルカは抱えていた椅子を床に下ろし、顔を険しくした。
「じゃあ荷揚げ場には何を持っていけってんだ。木箱か」
ハルは立ち上がり、材木立ての陰から、上着をかぶった塊を引き出した。上着を取る。
三本足の丸椅子が現れた。ルカの椅子と同じ脚の開き、同じ縁の落とし方。
「親父が同じ型で作ったやつだ。高さも同じだ」
ルカは長いこと、その椅子を見ていた。
「……一晩中、それがそこにあったのか」
「あった」
「俺は膝の悪いのを押して、一晩中、床を這いずり回ってたんだぞ」
「知ってる。……最初からこれを貸せば済んだ。銀貨が欲しかったから、黙ってた」
ルカの手が、ハルの胸ぐらをつかんだ。踵が浮くほど引き上げられ、ハルは目をつぶった。
拳は来なかった。代わりに、ルカは低い声で訊いた。
「なんで今言った。黙ってりゃ、銀貨は全部お前のもんだった」
「荷揚げ場でそいつが外れたら、お前は鍋ごとひっくり返るだろ」
ルカはしばらくハルを睨んでいた。それから手を放し、ハルの椅子を引き寄せて座った。腰を落とし、鍋をかき回す手つきをして、目の高さを確かめる。
「……銀貨は返さなくていい。うちの椅子を一晩かけて直したのは、この目で見た。直ったやつは、乾くまでここに置いてく」
ハルが息をつきかけたところで、ルカは指を一本立てた。
「だがな、俺の膝の分は別だ。こいつは乾くまでタダで借りる。それから明日から十日、朝六時にうちへ来て、鍋の台車を荷揚げ場まで押せ。俺の膝の代わりにな」
「……十日もか」
「一晩で十日分、膝をやったんだよ」
ルカは立ち上がり、ハルの椅子を片手で抱えた。
「乾くまで、ってのは明日か」
「たぶんな」
「たぶんかよ」
ハルは、床に残された継ぎたての椅子を見た。
「乾いてなかったら、明日も貸す」
ルカは鼻を鳴らし、戸口で振り返った。
「台車を押した朝は、一杯食わせてやる。腹が減ってちゃ押せねえからな」
「……タダでか」
「十日で十杯だ」ルカは抱えた椅子を揺すってみせた。「お前の親父さんが、椅子一脚に付けた値段だよ」
ルカはにやりと笑い、朝の光の射す路地へ出ていった。
工房には、座るものがなくなった。
ハルは逆さにした木箱に腰を下ろし、魚膠の臭いの染みた手を眺めた。目の前には、継いだばかりの丸椅子が立っている。
今日は誰も座らせない。明日になったら、自分が最初に座ってみる。
ハルは木槌を手に取り、次の客が来る前に、散らかった作業台を片付け始めた。




