Prolog
「――ようやく、また会えた」
その声は、風に乗ってどこか寂しげな空気を纏ったまま、数秒遅れて脳に届いた。
何故数秒も遅れたか。
彼のその澄んだ瞳から目を話せなかったから。吸い込まれる様な光を湛えたその瞳に思考も呼吸も、何もかもが奪われた。
――あぁ、綺麗なひと。
そう、脳が言葉を紡ぐより先に、心が先に落ちていた。
その目に、その横顔に、身に纏うその儚げな空気に。
夕焼けが差し込む黒髪が、まるで絹のように風に揺れていた。
歩道橋の上だけが、まるで世界から切り離されたように、時間の流れを忘れていた。
彼がなぜそんな場所に立っているのか。
自分がなぜここにいるのか。
そんなことすら、思い出せなくなっていた。
ただ、美しいと思った。
見惚れていた。言葉も、思考も、感覚も、五感の全てが霞むほどに。
そのとき、不意に指先から何かが滑り落ちる。
――スクールバッグだった。
はっとして、まばたきを一つ。
音を合図に、ようやく現実が押し寄せる。
ここは歩道橋。そして、彼が立っているのは――柵の向こう側。
「――ちょ、なにしてるんですか!? 落ちますよ、死にますってば!」
叫びながら、少女――凛花はバッグも拾わずに駆け出していた。
歩道橋の真ん中。男のすぐそばまで駆け寄り、咄嗟にその腕を掴む。
強く――自分でも驚くほど、強く。
「んー……まあそりゃ、見ての通り。死のうとしてるからね」
男は肩越しに少女を見て、どこか楽しげに、穏やかに微笑んでいる。
この状況で、なんて顔してるんだ――。
「い、いや、早く降りて来てください! そっちじゃなくて、こっち側に!」
「そんなにしがみついてたら、君まで落ちちゃうよ?」
「しがみついてるんじゃなくて、引き戻そうとしてるんです! 一緒にこっち来るって選択肢はないんですか!?」
「それってつまり、君が俺と一緒に生きてくれるってこと?」
「は……? いや、え……?」
言葉が詰まった。頬が、ほんの少しだけ熱を帯びる。
「ははっ、冗談だよ。真に受けないで、忘れてくれていい」
男は肩をすくめて、わずかに目を細めた。
「――ところで、死ぬまでの間、少し話でもしようか」
「は? いま!? この状況で!? というか、本気で死ぬ気なんですか!?」
「まぁまぁ、落ち着いて。深呼吸して。……君、すごい慌てっぷりだね。見ててちょっと面白いよ」
「そ、そんな場合じゃ……!」
「それで? 名前、なんていうの?」
「な、名前……ですか?あ、綾瀬……凛花、です」
「凛花ちゃん。ふぅん、いい名前だ。歳は?高校生っぽいけど」
「え、あ……高二、です……」
「へぇ。若いね。青春じゃん。てことは今は部活帰りってとこね。なんか眩しいなぁ」
「……そんなこと言ってないで、早く戻ってください……!」
「うん、それはあとで考える。でもまずは、凛花ちゃんの話を聞かせてよ。だって君、助けに来てくれたんでしょ?」
「それは……放っておけなかっただけで……」
「うん、そういうの、嬉しいよ」
ふわりと笑ったその顔が、思っていた以上に近くて――
凛花は思わず頬を染め、視線を逸らすように下を向いた。
「……あの、私たちって……会ったことありますか?」
「――いや、無いね」
「そ、そうですか……」
最初に聞こえたあの言葉――「ようやく、また会えた」。
やっぱり気のせいだったのかもしれない。
そう思いかけたそのとき。
「ところで凛花ちゃん、『聖なる光と堕ちた神』って知ってる?」
「し、知ってますよ! ていうかやってます! あの乙女ゲーム、人気だし!」
「じゃあ話が早い。というわけで――一旦、死のうか」
「――え?」
言葉の意味を理解する前に、世界が傾いた。
気づいたときには、男の腕が凛花の体を抱き上げていた。
「ちょ、なっ――なにして……っ!」
「大丈夫。すぐ終わるよ。次はちゃんと、すぐに会いに行くから」
「や、だ……やめ――!」
風が耳を裂いた。景色が裏返る。
落ちていく。重力が肌に食い込んでくる。
凛花の叫び声は、すぐに風にかき消された。
その刹那――
男の声が、耳元で、微かに囁いた気がした。
「……次こそは、絶対に見つけるから」
――そして、世界は、一度終わった。




