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天使と魔女の別居婚

作者: 空色蜻蛉

 海の見える街タルミーナ、斜面の上に並んだ建物の二階からは、島ならではのどこまでも広がる海が見渡せる。

 朝の風を感じたくて、ラズベリーは窓を開け放った。

 途端に海鳥たちが飛び立って、青い空と海を背景に、白いハンカチのように舞い上がっていく。

 朝食は何にしようか。

 昨日の晩に買ったクロワッサンを温めて、ピスタチオクリームと一緒に食べようか。卵を泡立てて、ふわっふわのオムレツを作ってもいいかもしれない。いや、火を使うと暑くなる……でも、どうせ、あの男がアイスクリームを持ってくるか。

 この島では、夏は朝からアイスクリームを食べるのだ。

 ほら、噂をすればチャイムがなった。


「……朝早くから、うるさい男め」


 ラズベリーは、軽く身なりを整えながら、階段を降りる。

 二階は居住スペースで、一階は店になっている。

 通りに出された看板は【魔女の店】。

 あんまりにも「そのまんま」だと、使い魔の黒猫から酷評を浴びている店名だ。


「おはようございます」


 一階に降りて、扉を開けると、上品な身なりの男が挨拶してくる。

 雪のような白銀の髪を長く伸ばし、碧にも青にも見える不思議な色合いの瞳をした、細身の青年だ。いや青年と呼ぶには、やや年かさか。他人のことは言えないが、年齢が分かりにくい容貌の男だった。

 着ている白シャツのボタンは上からいくつかが外れ、引き締まった胸板がのぞいている。夏場だから外しているという訳ではなく、この男はわりと服装を着崩しているのだ。口調や動作は貴族らしく丁寧な癖に、普段は荒くれの船乗りを率いて自分の船で海の見回りに出ている。

 陽光の下で薄着しているわりには、日に焼けていない。男の癖に、女性垂涎の白い肌をしている。別に羨ましくなんてないぞ。

 ラズベリーは半眼で突っ込んだ。


「うちはモーニングカフェではないのだぞ、グレイス公」


 彼は、このグレイス島で一番偉い統治者、グレイス公爵その人だ。

 名をセファイドという。

 

「客としてではなく、身内として来ています。妻と朝食を取るのは、当然のことでしょう」


 セファイドは、仏頂面のラズベリーに構わず、笑顔で言い放つ。

 説明すると長くなるのだが……彼は、ラズベリーの夫でもある。


「手土産にグラニータ(アイスクリームの別名)を持ってきました。要りませんか?」

「……要る」


 彼が持参したアイスクリームが入った保冷陶器を受け取り、ラズベリーはむっつりした顔のまま「おはよう」と返した。

 朝からアイスクリームの誘惑には勝てなかった。



◇◇



 ラズベリーは魔女である。

 数百年生きた偉大な魔女だ(自称)。外見は、二十代に差し掛かったところで成長が止まってしまっている。柔らかい夜のような黒髪に、ピンクと緑色のバイカラートルマリンの瞳が特徴。そのたぐいまれな色彩と、何を考えているか分からない無表情が重なり、神秘的と評判になっている。

 威厳を出そうと古めかしい言葉遣いをしているため、お婆ちゃん言葉を日常的に使う。外見は少女、中身は婆、それがラズベリーという魔女だ。

 ラズベリーは最近グレイス島に引っ越してきた。元はビジュー王国という海向こうの小国に住んでいたのだが、故郷の森は時の王政に焼き払われ、ラズベリー自身は騙されて王家に幽閉されていたのだ。

 ビジュー王国は帝国との戦争に敗北し、和平の証という名の人質のため、フローラ姫をグレイス公に差し出すことになったのだが、そこで身代わりとして白羽の矢が立ったのがラズベリーだった。そして蓋を開けてみれば、婚約の話もビジュー王国が勝手に帝国の要求をはき違えただけだった。

 魔女のラズベリーにしてみれば「知らんがな」という話である。途中で逃げ出そうとしたのだが。


「私はビジュー王国で一番大事なものを差し出すように要求しましたが、彼らは曲解したようです」

「それでは、私は姫の代理をしなくてもいいのじゃな?」

「いいえ。国と国とのやり取りなので、そうはいきません。ビジュー王国は、一番大事なものとして、あなたを差し出しました。それが間違いということになれば、帝国はビジュー王国を糾弾し、もっと高価な物を要求し直さなければならなくなります」

「……」

「あなたはビジュー王国の民を、必要以上に苦しめたくないでしょう。私は、再交渉などという面倒なやり取りを省きたい。あの国はこれ以上出せるものがないことは分かりきっていますから」


 グレイス公セファイドとこのような会話の末に、ラズベリーは王家の隠された姫という名目で、グレイス公に嫁入りすることになった。

 しかし、ラズベリーは、おとなしく妻になるつもりは毛頭なかった。

 繰り返すが、ラズベリーは数百年生きた魔女である。

 年下の人間の男なんか興味はない。

 セファイドと交渉し、自分の店を作りたいと言って、別居を始めた。

 にも関わらず、セファイドは毎朝手土産を持って、ラズベリーのもとに押しかけてくる。

 率直に言って彼が嫌いではないので……ラズベリーは困っていた。



◇◇



 セファイドは卓に着くと、さっそく手土産の内容を説明してくれた。


「今日のグラニータは、葡萄で作ったんですよ。かの有名なフォレスタの葡萄は秋にしか収穫できませんが、我がグレイス島の葡萄は、夏にも出回ります」

「へぇぇぇ」


 赤紫のシャーベット状のアイスをのぞきこみ、ラズベリーは感嘆の声を上げる。

 彼が持参するアイスは、日替わりで味が変わる。


「クロワッサンにたっぷりグラニータをサンドしてください。美味しいですよ」


 ラズベリーは、ごくりと唾を飲み込み、たっぷりあるアイスをヘラですくって、パンに分厚く塗りつける。

 こんな贅沢が許されていいんだろうか。

 パクっと頬張ると、爽やかなアイスが甘露のように喉をうるおす。


「これぞ至上の美味! セファイドそなた、アイス作りが得意だから氷の公爵と呼ばれているのであろう!」


 ラズベリーの賞賛に、セファイドは頬をひきつらせた。


「いえ、私が氷の公爵と呼ばれるのは、エルモ火山を治めているからでして」


 グレイス島の中央には、大きく立派な火山がそびえたっている。

 百年以上前に火山活動を休止したので、暑い夏でも雪をかぶったエルモ火山は、今やグレイス島のシンボルと言える存在だ。グレイス島は年中気温が高いが、標高の高いエルモ山の雪が溶けないので、年中アイスが食べられる不思議な場所だ。


「口の端にアイスがついていますよ」


 朝食を頬張っていると、セファイドが不意に手を伸ばしてくる。ハンカチでラズベリーの口元をぬぐってくれた。

 彼の紺碧の瞳は穏やかな海のように優しく、ラズベリーを見つめてくる。

 途端にラズベリーの胸は早鐘を鳴らすように高鳴った。

 街の娘が騒ぐのが分かる。セファイドは綺麗だ。


「朝からアイス以上にけしからん男だな、そなたは」

「何のことだか分かりませんが誉め言葉と受け取っておきましょう」


 このようなイケメン(死語)が、外見は少女だが中身は婆のラズベリーの元に通うなんて、もったいない。

 若い人間の娘のところへ行けばいいのに。

 その方が、彼のためだ。


「セファイド、あの」


 近所の若い娘を紹介しようとして、ラズベリーは途中で言葉を止めた。

 この幸せな時間を壊したくない。

 薄暗い店内でも、彼がいれば光の下にいるようだった。ただ向かい合って朝食を取るという日常が、どれだけありがたいことなのか、ラズベリーはよく知っている。少し前まで数百年も暗い塔に閉じ込められ、向かい合って食事どころか、まともな朝食も味わえない日々だった。

 あと、もう少しだけ。

 もう少しだけ、このままでいてもいいだろうか。


「ラズベリー。私は、義務でここに来ている訳ではないですよ。来たいから来ているのです」


 セファイドは、ラズベリーの飲み込んだ言葉を察したのか、そんなことを言う。


「これから汗臭い男どもと共に、海へ出勤するのです。その前に、あなたの小栗鼠こりすのような可愛い姿を見て、癒されたいと思ってもいいでしょう」

「私は栗鼠ではない!」


 ラズベリーは真っ赤になって立ち上がり、机を叩いた。

 その姿は、ぴょこんと立ち上がって跳ねているようにも見えて可愛いと、彼女自身は気付いていない。


「私は魔女だぞ! 恐ろしい魔女だ!」

「はいはい」

「はいは一回!」


 ぜんぜん動じていないセファイドに、ラズベリーは心の中だけで安心する。

 彼と別れたいのに、嫌われるのは怖いなど、ひどく矛盾している。


「ご馳走様でした」


 ラズベリーが用意したサラダやオムレツを食べ終わると、セファイドは立ち上がる。


「……そうだ。ラズベリー、しばらく港に近寄るのは遠慮頂けますか」

「どうしたんじゃ?」

「外国から船が来ているのですよ。帝国との貿易が初めてのようで、いささか処理に手間取っています」


 グレイス島は、帝国の海の玄関口で、関所でもある。

 友好国の船なら通し、企みのある敵国の船なら止めるのが、グレイス公セファイドの役目だ。


「そうか。気を付けるのじゃぞ」


 セファイドは、か弱い人間だ。

 あまり危険な場所には行って欲しくないのだが。

 表情を曇らせるラズベリーに何を思ったのか、セファイドは出て行く直前で振り返り、さっと屈んで、ラズベリーの頬にキスをした。


「なっ」

「行ってきます」


 キスの衝撃で「行ってらっしゃい」と言い損ねたラズベリーは、呆然と彼の出立を見送った。





 朝食後、ラズベリーは開店準備を整える。

 と言っても、店内を軽く掃除して、薬の仕込みをするだけだが。

 扉にかかげた「CLOSED」の札を裏返して「OPEN」にし、しばらくカウンターで本を読んでいると、最初の客が現れた。


「ラズベリーさん、惚れ薬を追加で下さい!」


 黒いワンピースとベールをかぶった修道女が、騒々しい音を立てて入ってきた。

 仕方なくラズベリーは本を閉じ、客の対応をする。


「カテリーナ、そなた天翼教会の修道女であろう。修道女というのは、男と関わらない誓いをすると噂で聞いたのだが」

「よくご存知ですね」

「うむ。勉強したのだ」


 ラズベリーは重々しく頷いた。

 王家に幽閉され百年近く引きこもりだったラズベリーは、解放されてから現世のことを勉強し直している最中だった。

 帝国では、天翼教会という組織があり、人々は天使という存在を信仰しているのだそうだ。修道女とは、天使に仕えることを誓った、未婚の女性がなるものらしい。

 天使とは、人の姿をしているが、人と違い真っ白な翼を持つ、神の代行者だ。ラズベリーは天使に会ったことはないが、教会の壁画や彫像で、彼らの姿を知っている。天使は怪我や病を治したり、天候を操ったり、さまざまな奇跡を起こすという。慈悲と慈愛、正義を象徴する帝国の絶対的な守護者であり、清浄で神聖な存在とされる。

 天翼教の司祭や修道女は禁欲をして、天使に近い清浄な状態を保つのだそうだ。

 

「禁断の愛だからこそ、熱く激しく燃え上がるものです!」

「なるほど分からん」


 カテリーナは歌手のように声を張り上げ、片手を胸に当てて訴えた。

 修道女が酒場で男を引っ掛けまくっていいのかどうか、魔女ラズベリーには判断しづらいことだ。


「相手のことを想えば、手を出すべきではないと思うがのぅ」


 金を払ってくれるなら、修道女も客である。

 一応、注文の惚れ薬を用意しながら、ラズベリーは淡々と言う。

 脳裏に浮かんだのは、人間なのに魔女のラズベリーを妻にすると言い張る、グレイス公セファイドの涼しい美貌だった。

 

「ラズベリーさんは優しいのですね」


 薬の入った袋を受け取りながら、カテリーナは微笑む。


「私は自分第一ですので、相手のことは考えません。アイラブ自分。理想の男をゲットするまで、未婚をつらぬくのです」

「そなた本当に修道女か」

「自分を救えないのに、どうして他人を救えるでしょうか。まずは自分が幸福にならないといけませんので」


 ラズベリーは、どきりとする。

 一見、快楽主義なカテリーナの意見に、一片の真実があるような気がしたからだ。

 薬を胸に抱いたカテリーナは、笑顔でとんでもない事を言い出した。


「そういう訳で、旦那様を紹介してください。グレイス公セファイド様…超極上の男ですわぁ」

「却下じゃ」


 ラズベリーは即座に要求を棄却する。

 カテリーナは不思議そうにした。


「おや。別居されているのに、いっちょまえに妻の権利を行使されるのです?」

「別居だろうと何だろうと、そなたのような尻軽に、うちのセファイドを紹介できぬ!」


 こんな居心地のいい店を用意してくれた礼に、セファイドは幸せにしてやると心に決めているのだ。

 女を紹介するとしてもカテリーナではない。

 ええいっ、もっと気立ての良い清楚な美女はおらんのか?!


「ほほほ。なんだかんだで、熱々夫婦ですのね」

「ちがう!」


 要求を退けられたにも関わらず、ころころ機嫌良さそうに笑い、カテリーナは店を去っていった。

 欲深い修道女のあとも、何人かが店に訪れ、薬や雑貨を買っていく。ラズベリーの店にあるのは、ちょっとよく効く毛生え薬や風邪予防薬など、生活を便利にするものだ。毒などは扱っていない。

 

『たっだいま~』

「重役出勤じゃな、アルテミス」


 午前最後の客は、雄の黒猫だった。

 ラズベリーの使い魔である黒猫アルテミスだ。

 黒猫は午前中、港の方で魚の拾い食いをしているらしい。主であるラズベリーとは別行動が多い。


『外に出ようよ、ラズベリー様。体にキノコが生えちゃうよ~』

「そうじゃな。気晴らしが必要な頃合いじゃ」


 ラズベリーは黒猫を抱いて店を出た。

 通りを歩いていくと、市場の店主が声を掛けてくる。


「おお、魔女様じゃないか。桃を食べていかないかい? 甘いよ!」


 店主は平べったい形の桃を投げてくる。

 ラズベリーはありがたく頂いた。


「魔女様! キュウリが売るほど余ってるから、持っていってくれないかい? サラダにしてセファイド様に食べさせてあげて」


 野菜籠を持った年配の女性がキュウリを追加してくる。


「トマトは要らんかね」

「生きの良い海老が入ったんだ」

「採れたての牡蠣……」


 お裾分けが持ちきれんわ!!

 ラズベリーは困惑した。

 ちょっと道を歩くだけで、この有様である。

 何故か、この島の人々は、魔女を恐れていない。それどころか「セファイド様の選んだ女性なら間違いない」と好意的に受け入れてくれている。

 別居婚についても皆知っていて、このような反応である。温暖な島の気候は、人の心も穏やかにするのだろうか。


「荷物を置きに戻る必要があるか……?」

『リスタートでまたお裾分けされると思うよ』


 買い物した訳ではないのに袋いっぱいの荷物を抱えたラズベリーは、戻るか進むか途方に暮れた。


「おい、聞いたか」

「今港に来ている船に、超美人のお姫様が乗ってるって」


 すれ違った若い男たちが噂話をしている。

 ラズベリーは思わず立ち止まった。


『港は暑いよ。行かないでいいじゃないか〜』


 黒猫はぐずったが、ラズベリーは通りを下って、港町に足を向けた。

 タルミーナは山の中腹にある街で、港までは、少し距離がある。しかし、下り坂なので、そこまで大変という訳でもなかった。

 時間は掛かったが、徒歩で港に辿り着く。

 紺碧の海には、さまざまな大きさの船が停泊していた。


「あれは……」


 ひときわ大きく立派な船の前に、武装した集団がいる。

 その集団の中央に、金髪を海風にそよがせた、白いワンピース姿の女性が立っていた。ワンピースの裾から、華奢な手足が見えている。その肌は、白蝶貝のように染みひとつない。

 遠目に見ても清楚で美しい女性だ。

 

「セファイド」


 部下を連れた銀髪の男が、波止場を悠々と歩いて、彼女に近付いていく。

 向かい合うセファイドと、金髪の美女は、一対で製作されたワイングラスのように、よく似合っていた。


「っつ」


 ラズベリーは何故か胸の痛みを覚える。

 あの男は私のものだと、心の奥にいる醜い自分が訴えるのを、理性で底に沈めた。いずれ人間はラズベリーを置いて去っていく。期待してはならない。

 セファイドと女性を見ていられなくて、視線を外す。

 すると、港の倉庫付近をネズミが駆けていくのが目に入った。

 倉庫でネズミが走るなど珍しくない光景だ。しかし、そのネズミは妙に一生懸命、走っている。何かから逃げているような……

 嫌な予感を覚えて注視すると、物陰から黒い縄のような生き物が這い出て、ネズミに遅いかかった。

 あれは蛇か?

 闇が形を作ったような黒い蛇は、ネズミを丸呑みにする。

 

「アルテミス」

『何?』

「あの蛇、性質の悪い魔物のたぐいではないか」


 黒い蛇は、尋常ではない速度で、飲み込んだネズミを消化した。

 そして、目の前でぐんと大きくなる。


『お、大きくなった?!』

「捕まえて殺さなければ、いずれ人間を呑み込むようになる……!」


 ラズベリーは荷物と黒猫を抱えたまま、追いかけようとする。

 しかし、その気配を察したように、黒蛇は慌てて逃げ出してしまった。


「むむむ。探して退治せねばならぬ」

『ほっとこうよ〜。誰にも退治を依頼されてないんでしょ』

「だが、この島の人々には、お裾分けを沢山もらっておる」


 ラズベリーは持ちきれないほどの果物や野菜や海の幸を見おろし、つぶやく。

 穏やかな日常をくれた人々に、恩返ししたかった。



◇◇



 蛇が見つからないまま、日が沈む時刻になり、ラズベリーは街に戻ることになった。

 使い魔アルテミスは、蛇を探す役目を指示されたので、港に残った。


『困ったことになったにゃ〜』


 黒猫は、波止場をさまよって、銀髪の男を見付けた。彼の足元に歩み寄る。


『セファイド、セファイド。ごめんなさい、ラズベリーが港に来ちゃった』

「……どうして止めなかったのですか。何のために君に毎日、魚を与えてやってると思ってるのです。給料分の仕事をしろ、このドラ猫め」


 銀髪の公爵、セファイドは不機嫌そうに言って、アルテミスをつまみあげる。


『だって止めても聞かなかったんだもの。仕方ないよ』

「危険な魔物が侵入したところだというのに」

『それ蛇でしょ。ラズベリーが見付けて、退治してやると張り切ってたよ』


 報告を聞いたセファイドは、溜め息を吐いて黒猫を地面に落とした。


「危険なことは私に任せて欲しいのに」

『ラズベリーは、セファイドのことを、か弱い人間の男だと思ってるよ』

「……」

『いつまで秘密にしておくのさ』


 月光を浴びたセファイドの輪郭が、夜の闇の中で淡く輝いている。

 彼がまとう神聖な空気を感じて「今日は涼しいのぅ」と惚けたことを言うのは、ラズベリーくらいだ。


「秘密にしてはいません……ただ、ちょっと言いづらいだけで」

『それを世間では秘密っていうんだよ』

「とにかく、あなたはラズベリーを港に来ないようにして下さい。私は、その間に魔物を……というか、どうして弱い雑魚ざこほど気配を察知しにくいのでしょう」


 綺麗な銀髪をかきむしり、セファイドは苦悩している。

 夫婦で協力すればいいのに、とアルテミスは思ったが、馬に蹴られたくないので口には出さないでおいた。



◇◇



 あの蛇はおそらく、外国の船に乗ってやってきたモノだろう。探し物を見付ける魔法は、手掛かりとなる品物が必要だ。つまり、蛇がどの船から降りて来たのか、それを調べる事が結果的に早道になる。


「セファイドよ。最近、港に入った外国の船について教えてくれんか」

「突然どうしたのですか」


 翌日の朝食の席で頼むと、セファイドは困った顔になった。

 ちなみに今日のアイスは、桃味だ。


「妻として、そなたの仕事に興味を持ったのだ。いけないか」

「〜〜〜」


 真面目な顔で訴えると、セファイドは渋面になり、苦悩する様子を見せた。


「お飾りの妻が出過ぎた真似かもしれぬが」

「あなたは、飾りの妻などではありませんよ」

「だったら」

「分かりました。教えますよ。ただし、一つ約束して下さい」


 ラズベリーの頼みに音を上げたセファイドは、にわかに真剣な表情になる。


「外国の船は、危険なものや企みを持つ者が乗っていることがあります。あなたが強い魔女だと知っていますが万が一も起こりえます。危険を感じたら、必ず私を呼んで下さい」


 グレイス公セファイドとして、夫としては当然の頼みだろう。だがラズベリーは、彼の妻という立場に納得した訳ではない。

 あまり良い思い出のない故郷だが、人々が不幸せになるのは後味が悪いから、仕方なく自国の姫の代わりに帝国に嫁いだのだ。


「……分かった」


 視線を逸らし、むすっとした顔で頷くラズベリーに、セファイドは何か言おうとして、言葉を飲み込んだようだった。


「今現在、入国手続き中の船は、二隻。一つは、北の海賊の船。もう一つは、東の国サリバンの船です」

「海賊とも取引をするのか」

「利害が一致すればね。友好を取り繕う自称平和的な国よりも、分かりやすい相手ですよ」


 それでは、その二隻のどちらかが、蛇を運んできた船だろうか。沢山の船を調べなければいけないかもしれないと思っていたラズベリーは、二隻と聞いて安心した。


「ラズベリー、私はあなたを愛しています」

「なんじゃ、いきなり」


 脈絡のないセファイドの告白に、ラズベリーは動揺する。

 朝っぱらから、本当にけしからん男だ!


「ビジュー王国の王族が、あなたに対して行った所業は知っています。あなたが、そのせいで他人を信じられないことも理解しています」

「……」

「私を夫だと認めてくれなくても構いません。ただ、私の島で幸せに過ごしてくれればいい。私から離れないで下さい。私の望みは、それだけです」


 切々と訴えるセファイドの言葉は、ラズベリーに罪悪感を抱かせる。

 この男から幸せを受け取っても良いのだろうか。

 見返りを求めないという言葉を信じても良いのだろうか。

 分からない。

 ラズベリーは他人が信じられないのではない。

 自分が信じられないのだ。


「ば、馬鹿なことを言っていないで、牡蠣を食え!」


 混乱したラズベリーは、昨日お裾分けされた牡蠣の身にレモン汁を振り掛けてフォークに刺し、無抵抗なセファイドの口に押し込んだ。

 



 セファイドから船の出入りに関する情報を聞き出したラズベリーは、坂道をくだって港へ向かった。店は午前中のみの営業にして、午後からの散策だ。

 港街の建物は海風にさらされた白い壁が多い。

 その白い壁に、鮮やかなピンク色のブーゲンビリアの花が咲いている。海風に負けないためか、ツタ植物が多く生えており、建物の壁に張り付いて街と一体化しているようだった。

 港町を通り抜けると、真っ青な海に浮かぶ船舶の群れは、すぐそこだ。


「あれが、東の国サリバンの船か」


 ラズベリーは、波止場で船を見上げた。

 さて、どうやって乗り込んだものか。

 波に揺れる船を眺めていると、甲板に人影が立った。

 白いワンピースを着た異国の姫だ。

 彼女はラズベリーを見下ろし、にっこり笑って手を振った。


「失礼。姫様が、アフタヌーンティーをご一緒したいと申しております」


 手を振り返すか迷っていると、船から降りてきた黒服の男が、丁寧に声を掛けてきた。

 向こうからお招きか。


「ご相伴あずかろう」


 ラズベリーは絶好の機会だと考え、誘いに乗る。


『罠だよ、ラズベリー様! ラズベリー様ったら!』


 腕の中で黒猫のアルテミスは警告の鳴き声を上げる。ラズベリーが聞く耳を持たないと知ると、黒猫は『僕は止めたからね!』と鳴いて、腕から飛び降り、港町の方向へ走り去った。

 ラズベリーは黒服の男にしたがい、船の中に入る。

 

「こちらです」


 立派な船室の中央には、丸テーブルが設置されており、その前の椅子に異国の姫が座っている。テーブルの上には、果物が盛られた皿があった。飾りつけに、皮を剥いていないオレンジもある。あれは皮ごと食べられる品種だろうか。


「はじめまして。わたくしは、サリバン国第二王女のエスメラルダです。あなたは、グレイス公爵が大切にされている方ですね」

「よく知っておるな」


 椅子に座るよう勧められ、ラズベリーはエスメラルダと向かい合うように腰かけた。


「お世話になるかもしれない家の方ですもの。存じ上げておりますわ」


 エス…エスメラルダ。舌を噛みそうな名前だのぅ。


「我が国は、ビジュー王国などより、ずっと広くて豊かです。きっとグレイス公も私のことを気に入っていただけるわ」


 なんだ人間同士の権力闘争か。

 ラズベリーは、清楚な美人だと思っていたエスメラルダが欲深い姫だと知り、がっかりした。


「もしや私に、妻の座から退くよう言うため、アフタヌーンティーに呼んだのか」

「まさか。そんな下品なことをするつもりはありませんわ。ただ、知りたかっただけです。ビジュー王国から嫁いだ姫がどんな方か。あなたは、グレイス公を愛しているのですか」

「愛……」


 セファイドには、もっと条件のよい姫君から縁談があるだろうと思っていた。そのときが来たら、ラズベリーは身を引くつもりだった。

 しかし、毎朝こりずに愛をささげにくるセファイドに、ラズベリーは心動かされている。


「私には、愛も恋も分からない。ただ、大切にしたいのだ」

「何を?」

「そなた、港に蛇を放ったな」


 この船に乗ったとき、ラズベリーは色濃く残る魔の気配を感じた。

 それは、あの黒い蛇から漂っていたものと同じだった。

 指摘を受けたエスメラルダの表情に、動揺が走る。


「私を受け入れてくれたグレイス島の者たち、そしてセファイドを、私は守りたい。それを愛というなら、そうなのだろう」

「……」

「この島の平穏を乱すつもりなら、容赦せぬぞ」


 ラズベリーの宣言に、エスメラルダの顔から笑みが消えた。


「蛇のことを知られてしまっては、無事に返すことはできませんわね」


 その時、船が大きく揺れ、テーブルの上のオレンジが転がり落ちる。


「姫様。港から出航いたしました」


 黒服の男が船室の外から、エスメラルダに報告した。

 先ほどの揺れは、船が海を走りだしたかららしい。

 エスメラルダはもう、隠すつもりはないようだった。


「ビジュー王国の方、残念ですが、あなたにはここで死んでもらいます」

「はっ。使い古された脅し文句よのぅ」


 ラズベリーは嘲笑する。

 皆つごうよく忘れているが、ラズベリーは恐ろしい魔女なのだ。

 海の妖精たち、クラーケンやセイレーンは皆、魔女の味方である。

 ほら、揺れがどんどん激しくなる。


「うわっ」

「何が起こっている?!」

「嵐です! 船長、嵐に突っ込みました!」

「なっ、さっきまで快晴だったろう!」


 船員たちは、姫を放り出して右往左往した。

 ころころ、ころころ、床をオレンジが転がっていく。

 その一つをラズベリーは拾い上げた。


「もったいないのぅ。これから船は沈没するのだから、今のうちに食べ物を拾っておかんか」

「あなた何を言って」

「私は魔女だ。不幸を呼ぶ、な。今は夏で水温が高いから、ちょっと海水浴で済むじゃろうよ」


 しかし、泳いでグレイス島に帰れるだろうか。

 自然に宿る妖精たちは、ラズベリーをいつくしみ、守ってくれるが、思い通りに動く訳ではなかった。頼みを聞いて嵐を起こしてくれたが、アフターフォローまで保証してくれない。

 

 ―――私から離れないでください。


 セファイドの言葉が脳裏をよぎる。

 すまんな、セファイド。でも、これが私たちの運命だ。いずれ別れるのなら、早い方がいい。そなたは若い人間の娘を見つけて、ふつうの恋愛をするのだぞ。


「魔女だと?! おい、そいつを海に突き落とせ!」


 ラズベリーの言葉に、水夫たちは興奮してにじりよってくる。

 

「分かった、分かった。甲板に出るから、近寄るな」


 連れていかれるくらいなら、自分で飛び降りる。

 ラズベリーは、階段を登って甲板に出た。

 外は真っ暗で、雨と風が激しく荒れ狂っている。

 暗闇の中、ちかりと光が走った。稲光が、もう一隻の船影を照らし出す。


「―――ラズベリー!!!」


 波を蹴立てて、船が近づいてくる。

 あれは、セファイドが船長を務める氷鳥号だ。白い木材で組まれた、優雅で力強い印象の中型軍船である。嵐に揺られながらも巧みに進路を調整し、すぐ近くまで船を寄せてくる。

 舳先に立った銀髪の男は、セファイドだ。

 見通しのきかない暗い嵐の中だというのに、彼はこゆるぎもせず、まっすぐ紺碧の瞳でラズベリーを見つめてくる。


「この、魔女めっ」


 サリバン国の船員が背後から、ナイフで斬りかかってくる。

 ラズベリーはそれを避けるため甲板を走り、暗い海に身を投げた。



◇◇



 サリバン国の船から、黒髪の女性が落ちた。

 暗い海に吸い込まれていく彼女を追い、セファイドも船から飛び降りる。


「船長?!」


 氷鳥号の副長を務めるシンは、仰天する。

 嵐で空が暗すぎて、海の様子が分からない。

 闇の中に消えた二人が無事かどうか、まったく見えない状態だった。


「やっば! セファイド様が!」

「え。でも、あの方なら大丈夫じゃ」

「大丈夫かな? だって船長は鳥類じゃん。しかも海を泳げない種類な気がする」

「あの方を鳥類と言っちゃう不敬者は、シン副長くらいっすね」


 氷鳥号の面々は、混乱して甲板でおろおろした。

 そうこうしている間に、嵐は収まり、海は徐々に平穏を取り戻す。

 波間に浮かんでいるのは、氷鳥号だけで、サリバン国の船は難破してしまったようだ。あたりの海面には、木板や布が浮かんでいるばかりである。


「……グレイス島に戻ろう」

「それしかないっすね」


 船長は自力で戻ってくると、信じるしかない。

 シンの判断に、氷鳥号の船員たちはしぶしぶ同意し、帰路を目指して帆布を広げ始めた。



◇◇



 セファイドが追って来ているのは、気付いていた。

 暗い海の中で、彼の姿は一条の光のように、ラズベリーの前に射し込んだ。白い肌に銀髪、灰色の軍服の彼は、闇の中で浮き上がるような光を放っている。

 それはまるで絵画のようで、ラズベリーはどこか夢心地で、彼から差し伸べられる手を見つめていた。

 しかし、夢のような時間は、実際は一瞬だけだった。

 あと少しで手が触れあいそうなタイミングで、セファイドは苦しそうに顔をゆがめる。それでラズベリーは、彼が溺れていると気付いた。


「助けに来て、自分が溺れるとはのぅ」


 いや、助けに来た、のは間違いか。

 たぶん、遠くに行こうとしたラズベリーを、命がけで引き止めに来た、が正しい。

 目の前で溺れられたら、自称冷血な魔女のラズベリーも、あきらめざるをえない。

 ラズベリーは力を失ったセファイドの腕をつかみ、海面を目指して水を蹴った。

 泳いでいる間に波が押し寄せ、元いた場所から遠く流されている。

 立ち泳ぎをして、海面に顔を出すと、船は遥か遠くになっていた。


「ウミガメに島まで送っていってもらうか」


 ラズベリーは、近くを通ったウミガメに頼んで、引っ張っていってもらうことにした。

 ぐったりしているセファイドを抱きかかえ、ウミガメの引率で海を渡る。

 砂浜に辿り着いたときには、夕方になっていた。


「セファイド、セファイド。生きておるか」


 動かない男の頬を、ぺちぺち叩く。


「……また、あなたに助けられてしまいましたね」


 目を開けたセファイドが、ぼんやりした様子でつぶやく。

 また?


「故郷の森での生活を、思い出したくないほど、つらい思いをしたのですか。私のことも、思い出せないほど……」

「セファイド?」


 うわごとのように言うセファイドに、ラズベリーの動悸が激しくなる。

 確かに、故郷の森に住んでいた頃、見習い魔女だった時期の記憶は、あいまいになってしまっている。昔、セファイドと会っていた? ありえない。あれは百年以上も前のことだ。

 詳しく聞きたかったが、セファイドは海水で体力を奪われてしまったらしく昏倒してしまい、揺さぶっても起きなかった。

 仕方なくラズベリーは、流れ着いた先の砂浜で、セファイドと休める場所を探すことにした。




 どうやらラズベリーたちは、グレイス島に近い、小さな無人島に漂着したらしい。ウミガメには「人のいるところに近い島に連れて行って欲しい」と頼んでいたのだが、グレイス本島までは運んでくれなかったようだ。

 ラズベリーは島を探索して、遠くにグレイス島が見えることに気付き、現在位置を悟った。

 もう日が暮れているし、グレイス島に戻るのは、明日で良いだろう。今夜は、この島で休憩だ。

 薪を拾って元いた砂浜に戻り、火を起こす。

 しばらくすると、やっとセファイドが目覚めた。


「……ここは」

「目が覚めたか。すまぬが、自分で服を脱いで乾かしてくれんかのぅ」


 ラズベリーはセファイドが寝ている間に、自分の服を乾かしはじめていた。着替え中の裸を見られずに済んだから、セファイドが寝ていて良かったかもしれない。

 状況を見てとったセファイドは「あちらの岩陰で服を絞ってきます」と立ち上がった。

 

「すみません、あなたの手をわずらわせてしまいました」


 戻ってきたセファイドは、ラズベリーと火を挟んだ向こう側に座り込む。


「構わんが……そなた、泳げないのか」

「全く泳げないという訳ではありませんが、水は苦手です」


 水は苦手なのに船長とは、これいかに。

 セファイドは不機嫌そうだが、それは水が苦手だとばれて恥ずかしいからのようだった。

 ここから会話をどう繋げようか。

 静かな無人島で、二人きり。何か話をしないと間が保たない。いつも朝食の席では、セファイドから話しかけてくるのだが。


「セファイド、そなたは何歳じゃ?」


 唐突なラズベリーの質問に、セファイドは戸惑った顔になる。


「あなたより年下だと思いますが……どうしたんですか」


 島に流れついてすぐ、セファイドが言っていたことが気になっている。

 昔、彼と自分は会ったことがある……?


「何歳かと聞いておる」


 百歳以上なら、計算が合うのだが。

 二十代後半に見えるセファイドをじっと見つめる。


「私は、いつ生まれたか分からないのです。なので、正確な年齢はちょっと」

「帝国の貴族なら、生まれた年を帳簿で管理しておるのではないか」

「残念ながら、帝国の生まれではないのですよ。いろいろあって、グレイス公の爵位を頂戴していますが。ラズベリーが私のことを聞いてくるなんて、初めてですね」

 

 セファイドは何故か喜んでいる。

 微妙に聞きたい答えではなかったので、ラズベリーは焦れったい気持ちだ。

 しかし、確かにセファイドと向かい合い、きちんと話したのは、彼の言う通りこれが初めてかもしれない。いつか離れると思い込んで、彼に興味を持たないようにしていた。


「グレイス島は、あなたの帰る場所になりませんか」


 投げやりになっていたことを見透かしたように、セファイドが穏やかに問いかけてくる。


「私が来なければ、サリバン国の船の沈没のどさくさに紛れて、出奔しゅっぽんしていたのでしょう?」

「……もう、失いたくないのだ」


 一つの場所に留まり、大切な人々を作ると、裏切られた時のダメージが大きい。

 ビジュー王国の王族に騙され裏切られ、故郷の森を焼かれたラズベリーは、臆病になってしまった。

 失うくらいなら、最初から大切なものを作らなければ良い。

 

「私が、あなたと、あなたの大事なものを守ると約束します」


 セファイドが静かに言う。


「だから、グレイス島に留まって欲しい。私も、そして島の民たちも、あなたを必要としています」


 命がけで海の中まで追ってきたセファイドの言葉は、今まで逃げ回っていたラズベリーの心に強く響いた。

 信じても、良いのだろうか。


「あなたは覚えていないようですが、昔、私はあなたに助けられた事があるのです。だから今度は、私があなたを助けたいのですよ」

「だから、それはいつじゃ?」

「ふふ。秘密です」


 セファイドは、にっこり笑って答えない。

 持ってまわった言い回しをしおって、私をからかっているのか。私は恐ろしい魔女だぞ。呪ってやるぞ。

 ラズベリーは頬を膨らませ、目の前の銀髪の男を睨む。思い出の箱をひっくり返したが、こんな綺麗な男に会った記憶は無い。いったい、いつの話をしているのだろうか。




 その夜は快晴だったため、ラズベリーとセファイドは、星空の下で眠ることができた。

 男の近くで寝るのは、初めてだ。

 ラズベリーは密かに緊張していたが、セファイドは一定の距離を保って、こちらに近づいてこなかった。安心したが、どこか物足りなく感じる自分もいる。私は、妻ではないのか。妻ということは、い、いかがわしいこともするのでは。

 おかしなことに、彼と仮の婚約を結んでから、貞操の危険など想像したこともなかったのだ。魔女のラズベリーを襲う男がいるとは考えていなかったのもある。

 結婚式は、聖堂で簡略の誓いを取り交わしただけで、披露宴などは無かった。結婚直後に別居に入ったので、近くで眠ったこともなかった。だからかもしれない、いまだセファイドと結婚した実感がわいていないのは。

 しかし、空に輝く星を数えていると、自然に眠くなって、眼を閉じていた。

 

「おはようございます。ラズベリー」

「……むぅ」

「あなたの寝起きの顔が見られるなんて、幸せですね」

「?!」


 フレンチトーストより甘い言葉で起こされて、ラズベリーはぎょっとして目が覚めた。

 自分も彼も服を着ている。

 そして、見上げた天井は青空で、陽光がまぶしい。

 逆光に透かされたセファイドの銀髪が、きらきらと輝いている。

 朝から綺麗すぎる男だ。


「うぅ。私から離れるのじゃ」


 ラズベリーは接近するセファイドを押しのけた。

 特に抵抗することなく離れるセファイドは、上機嫌な様子だ。

 さて……どうやってグレイス島に戻ろうか。


「迎えを呼んでおきました」


 セファイドが立ち上がり、島の方向を指さす。

 すると、こちらに向かってくる白い軍船が目に入った。

 あれは氷鳥号だ。


「いつのまに……どうやって」

「海で溺れる失態を見せてしまいましたが、取り返せそうで何よりです」


 セファイドは余裕を取り戻したようで、嬉しそうに笑っている。


「帰りましょう。私たちの島へ」


 まるでエスコートするように手を差し伸べられ、ラズベリーは頬を赤く染めながら、ためらいがちにその手をつかんだ。




 迎えに来た氷鳥号の副長は、シンという名前らしい。

 海の男らしい日焼けした逞しい体格の青年だ。


「船長! お邪魔だったでしょうか?!」

「私に対して、そんな邪推をしてくるのは、君くらいです。まったく、私の清いラズベリーの前で、余計なことを言わないでください」

「痛ってえ!」


 セファイドは、笑顔でシンの頭にチョップを落としている。

 

「船長、シン副長は船長が泳げるか心配していましたよ!」

「ちくるんじゃねえよっ」

「君たちは、私に対する敬意が足りませんね……」


 水夫たちはセファイドを囲んで、わいわい楽しそうに騒いでいる。セファイドは島の民にとても好かれているようだ。

 無人島とグレイス島の距離は、そう離れていないので、帰りの船旅はあっという間だった。

 氷鳥号はすべるように海の上を進んで、グレイス島の港に入った。

 いかりを下ろすのを待っていたかのように、港の役人が駆け寄ってくる。


「セファイド様! お戻りになられましたか! サリバン国の者を捕らえておりますが、いかが対処いたしましょう」

「そうですね……」


 戻ってすぐセファイドは仕事につかまってしまった。

 ラズベリーは彼を置いて、先に自分の店に戻ろうとする。魔女の店を開店していないので、馴染みの客は困っているだろう。


「―――大変だ! タルミーナの南で、魔物が暴れてる!」


 歩き始めたところで、汗をかいて走ってきた男の叫びが耳に入る。

 あの蛇の魔物だと、ラズベリーは直感した。

 魔物は、普通の人間では太刀打ちできない。

 ラズベリーは足早にタルミーナの街へ向かった。タルミーナは坂道の上にあるので、途中で馬車に相乗りさせてもらう。ほどなくして、エルモ火山の中腹に広がる街並みが見えてきた。


『ラズベリー様、おかえりなさい! セファイドと会えた?』


 馬車から降りると、使い魔の黒猫アルテミスが駆け寄ってくる。

 黒猫はラズベリーを見て嬉しそうにした。


「アルテミス、魔物はどこじゃ?」

『魔物なんて放っておこうよ。お腹空いてない? 今日、魚フライを挟んだサンドイッチが半額だったよ!』

「買い食いしている場合ではないのだ」


 ラズベリーは耳を澄ませ、悲鳴の聞こえてくる方向を探す。

 

「あそこか」

『ちょっとぉ?!』


 黒猫は悲鳴を上げる。

 タルミーナの街の南側にある、商人の住む二階建ての屋敷に、火の手が上がっていた。

 煙がもうもうと立ち上り、多くの人々が遠巻きに火事を見物している。


「離せっ、中に娘が!」

「危険です、火事だけではなく、魔物もいるんですよ!」


 煤まみれの太った男が必死の形相で叫び、それを使用人が数人がかりで止めている。

 オレンジ色の炎の中に、黒くて細長い影を見つけ、ラズベリーは目を細めた。


『ラズベリー様?!』


 黒猫が止めようとするのを振り切り、炎の中に突入する。

 火除けの呪いを唱えているので、それほど熱くない。火はラズベリーを避けている。


「娘よ! どこにおる?!」


 取り残されている子供を探し、火の勢いが強い一階から、まだ火が回っていない二階に上がった。


「お、お姉さん」


 二階の部屋の中で、幼い少女がクマのぬいぐるみを持って震えている。

 

「大丈夫か。怪我はないか」


 ラズベリーは、少女を抱きしめた。

 少女はラズベリーを抱き返しながら、小さな手で背後を指さす。


「後ろ、へ、蛇が」


 振り返ったラズベリーが見たものは、人の胴体ほども膨らんだ黒い大蛇の姿だった。大蛇の尾から、ゆらゆら炎がこぼれる。この魔物が火事の原因になったらしい。

 大蛇は、少女を見ている。獲物を狙う視線だ。

 

「しっかりつかまるのじゃぞ」


 ラズベリーは大蛇から目を離さず、少女を抱えて後ずさりする。

 あいにく一撃で魔物を倒すような魔法は知らなかった。

 ラズベリーが知っているのは、罠に誘い込んで殺すような、地道な魔法だ。魔女らしく毒をくらわせたいところだが、今は手持ちがない。

 後ろには、大きな掃き出し窓がある。

 そこから飛び降りるしかない。

 だが、二階の高さから飛び降りて無事で済むだろうか。

 いや、子供さえ無事なら……ラズベリーは骨を折っても、魔女だから時間をかけて元通りになる。人間の子供は簡単に死ぬし、死んだら戻ってこない。

 決意を固めたラズベリーは、ベランダに出た。

 少女を抱きしめ、手すりから飛び降りる。

 

「ラズベリー!!」


 その瞬間、白い羽が視界に舞った。

 重力がラズベリーをつかむ前に、浮遊感に包まれる。

 力強い腕が、少女ごとラズベリーを抱きとめた。


「無茶をしないでください。間に合うか、肝が冷えました」


 優しい低い声が、頭上から降ってくる。

 陽光に透ける銀髪が、ラズベリーの頬をくすぐった。


「セファイド……?」


 ラズベリーは宙に浮いている。

 火事で取り残された少女とラズベリー、両方を抱えて、セファイドは空を飛んでいた。

 彼の背中には、白銀に輝く一対の翼が広がっている。


「―――凍てつけ」


 セファイドが呟くと、彼を中心に雪風が沸き起こる。

 どこからともなく冷気がただよい、火の勢いが弱まった。

 二階のベランダに這い出そうとしていた黒い蛇の動きが止まる。

 蛇の魔物は、パキパキという音と共に全身を痙攣させ、白い霜におおわれた。外の壁を這おうとした恰好のまま、二階の高さを落下し、地面に落ちて粉々になる。

 ゆっくり地面に降り立ったセファイドの腕から、少女が待ちわびたように飛び降りた。


「お父さん!」

「おお……」


 少女は、父親に飛びついて再会を喜んでいる。

 一方のラズベリーは、まだセファイドの腕の中だ。


「離せ」

「もう少し、あなたの温もりを感じていたいのですが……仕方ありませんね」


 セファイドは残念そうに抱擁をといた。

 ラズベリーははじかれたように、セファイドから距離を取る。

 地面に降りたセファイドの背から、翼が幻のように消えた。

 しかし、もうばっちり翼が生えた姿が目に焼き付いている。

 ラズベリーは、わなわな震えた。


「そなた……そなた……」


 白い翼を背負った姿を見て、ラズベリーは急に思い出した。


「セフィちゃんじゃろ! 女の子だと思っておった!」

「……だから秘密にしておきたかったんですよ」


 ラズベリーに指をさされたセファイドは、片手で顔をおおってうなだれた。



◇◇



 それは、まだラズベリーが苗木の背の高さで、魔法のことも人間のことも、ろくに知らなかった幼い頃。

 ビジュー王国の魔女たちは、古い森に閉じこもって暮らしていた。魔物の血を引く彼女たちは、能力も寿命もふつうの人間とちがうので、大勢の人々が暮らす街で生活できない。衝突を避けるため、用事がある時だけ森から出るようにしていた。

 森の中には、魔女たちが住む小さな村があって、こじんまりとした田畑にはニワトリが放し飼いになっている。外の世界で人間たちは戦争をしていたが、森の中だけは穏やかで平和な日常が守られていた。

 しかし、その日は、少し様子がちがった。

 

「お母さん、村のはずれに、傷付いた鳥さんが倒れてる!」


 ラズベリーは興奮して母親に報告する。

 母親は眉をしかめた。


「ラズベリー、また外を見に行こうとしたの? 外は危険だから行かないように行ったでしょ」


 好奇心の強いラズベリーは、おとなの言い付けをやぶり、外の人間たちの生活をのぞきに行っていた。

 森を出る手前あたりで「傷付いた鳥さん」を見つけたのだ。


「まったく、この子は」


 母親は困った顔をしたが、強く叱らない。

 子供のすることだと、大目に見ていた。

 ラズベリーは、この魔女の森で唯一の子供。今や滅びゆく魔女たちの、最後の一人だ。だからこそ、魔女のおとなたちはラズベリーが大事過ぎて、彼女のすることを強く止めたり、閉じ込めたりしなかった。


「その小鳥さんは、どこかしら」

「あのね。お母さんに教えてもらった、薬草と治癒のおまじないを試したの!」


 母親とラズベリーは、仲良く連れだって「傷付いた鳥さん」のもとへ向かう。

 枯れ葉の山の上に横たわる「傷付いた鳥さん」を見て、母親は驚いた。


「神の遣い……天翼じゃないの」

「?」


 鳥は確かに白い翼は持っていたが、人間の子供の姿をしていた。

 ラズベリーより少し年下の背格好で、気を失って倒れている。

 翼が血によごれ、具合が悪そうな子供を、母親はそっと抱き上げる。


「可哀想な子。私たちと同じように、人間に住みかを追われ、行き場がないのね。しばらく、この森で羽を休めていきなさい」


 それが、ラズベリーと翼の付いた女の子セフィの出逢いだった。



 

 魔女の森は、男がいない。

 介抱した母親はセフィの性別を知っていたが、子供なのを良いことに女の子ということにして、自分の養子にした。

 ラズベリーは妹分ができて嬉しかった。子供は自分ひとりしかいなかったので、今まで一緒に遊ぶ相手がいなかったからだ。


「セフィ! ニワトリをどれだけ遠くに飛ばせるか試そうよ!」

「え?! それは、お母さんに止められたんじゃ」

「早く早く!」


 ラズベリーはお転婆だった。

 一方のセフィは、おとなしくて真面目な性格だ。

 いつも危ない遊びを提案するラズベリーを、セフィは最初止めようとするが、結局ながされて一緒にやってしまい、二人で母親に説教されるのだった。


「森の外に行きたいな」


 小川に足をひたして、ピチャピチャ水を蹴りあげながら、ラズベリーは夢をかたった。


「外の世界で、王子様と出会って、素敵な恋をするの! この前、屋根裏で見つけた物語の絵本に、描いてあった!」

「……」


 隣で同じように草むらに腰をおろしているセフィは、無言だ。

 賢い彼は、性別をごまかしているので、ここで本音を言えなかった。

 ねえ、ラズベリー。

 それって、王子様じゃなくて、僕じゃ駄目なの?


「外の世界は地獄なんだよ。この魔女の森の中だけが、天国みたいに平和なんだ。外から来た私の言葉を信じてよ」

「……」


 セフィはそう言ったが、今度はラズベリーの方が沈黙してしまう。まだ幼いラズベリーは、森の中だけが全てで、セフィの言う「地獄」が想像できない。


「私は、外の世界に行きたい……」


 その好奇心が魔女の森を滅ぼすと、子供のラズベリーは知らなかった。

 成長したラズベリーは、森のはずれで、お忍びで狩りに来たビジュー王国の王子と出会う。物語のようだと浮かれたラズベリーは、セフィの忠告を振り切って、王子と密会を繰り返した。

 この時のラズベリーは、セフィを妹分と見下し、警告もうざったく感じていた。女性ばかりの魔女の森で育ったラズベリーは、男性に免疫がなく、見た目と言動だけは格好いい王子に、すっかり騙されたのだ。一方、成長が止まっており子供のままのセフィは、歯がゆいままで見守るしかなかった。

 王子を通し、ビジュー王国の王族は、古い魔女の森を知った。

 魔女の力に目を付けたビジュー王国の王族は、森を焼き討ちにし、ラズベリーを塔に幽閉する。自分が故郷を滅ぼす原因になったと知ったラズベリーは、塔から逃げ出す気力が無くなり、百年以上、囚われの身になった。

 一方のセフィ―――セファイドは森を守るため戦おうとしたが、珍しい天使もどきと兵士に捕まり、そのまま帝国の遠征軍に引き渡され、帰れなくなってしまった。

 未熟な二人は状況を打開する力がないまま、それぞれ生き延びるために、できることをするしかなかったのだ。



◇◇



 歳月は、性別をも変えるらしい。

 幼い頃のラズベリーは、セフィちゃんを自分と同じ女性だと思い込んでいた。真実は、ラズベリーの母親のみぞ知る。


「セファイドは、女性だったのか。では結婚は無効ということで」

『ちょっと待って! こいつ、どう見ても男だろ!!』


 追い付いてきた黒猫が、びっくり仰天で突っ込んだ。

 愕然とするセファイドだが、誤解をとく前に、またもや役人たちがやってきた。


「セファイド様! こんなところに!」

「飛んで逃げられると困りまする!」

「……君たち、天使の私に遠慮なさすぎでしょう」


 後処理に領主のサインが必要なのだと、セファイドは仕事に連れ戻されてしまった。

 はからずしも置いてけぼりにされたラズベリーは、冷静につぶやく。

 

「店に帰るか」

『コロッケを買ってかえろうよ~』

「その前に、蛇を回収する」


 氷漬けになって地面に落ちている蛇を荷袋に放り込む。

 蛇は、良い薬の材料になるのだ。

 ちなみに、この島のコロッケはミートソースととろけるチーズが入っていて、とても美味い。ラズベリーは屋台に寄ろうと主張する黒猫を抱いて、帰途についた。



 

 昼間のグレイス島は、日光がさんさんと射し込む南の島だが、夜になると雪をかぶったエルモ火山から冷たい風が降りてくる。

 ラズベリーは風通しをよくするために、窓を開け放った。

 賑やかな街の明かりが、夜景を美しく彩っている。

 暗い静かな海も、街の明かりを際立たせる背景なら、安心して見ていられる。

 窓際にたたずんで夜風を感じていると、夜はめったに鳴らない一階のチャイムが音を奏でた。

 

「……はい」

「私です。ラズベリー」


 店まで降りると、通用口の前に、セファイドが立っていた。

 彼は、手に持ったバスケットをかかげる。


「パンと葡萄酒を持ってきました。たまには晩酌をしませんか?」


 セファイドが夜にやってくるのは、初めてだ。

 

「……少しだけなら」


 夜に男を招き入れるのは、と一瞬考えて、首を横に振る。

 一応、セファイドは夫だ。

 それに相手は、あのセフィちゃんの成長した姿だ。いざとなれば、腕力(?)で押し返してしまえばいい。

 自分の思考が少し変だと自覚しつつ、ラズベリーはセファイドを自宅兼店に迎え入れた。なんだかんだで、一度きっちり話がしたかったのだ。


「そなた、天使なら、人間の女に興味ないのではないか。なぜ戦利品にビジュー王国の姫を要求した?」


 グラスを持ってきて、セファイドの分をついでやろうとしたが、彼は「自分でできますよ」とラズベリーの手を押さえた。

 軽い接触に、どきりとする。

 幼い頃に、さんざん一緒に遊んだセフィの手は小さく繊細だったが、今のセファイドの手は角ばっていて大きかった。


「誤解ですよ。だいたい、ビジュー王国の姫を要求したのは、そこのバカ猫の作戦です」

「は?」


 隅っこで残飯を食べていた黒猫のアルテミスが、視線を浴びて尻尾をピンと立てた。


『だ、だって! 正直にビジュー王国に、ラズベリー様の身柄を要求したら、逆にラズベリー様の身に危険が及ぶと思ったんだよ!』

「ビジュー王国の姫を差し出すよう言い、外交筋には、私が不細工な中年の男だという情報を流す。そうすれば、娘かわいさに国王があなたを代理に立てるだろうと……うまくいくとはつゆとも思っていませんでしたが、うまくいってしまいました。ビジュー王国の王は本当に阿呆ですね……」


 セファイドはやれやれと肩をすくめる。

 笑い話のような成り行きで、自国の姫に代わり嫁に出されたラズベリーは釈然としない。

 だが、一連の「作戦」とやらは、どうやら自分が目的だったようだと、聞いていて気付いた。


「最初から、私をビジュー王国から連れ出すために……?」

「バカ猫の作戦がうまくいくと思っていませんでしたから、他にも策は考えていましたが……ええ、そうです。私は、あなたを解放する方法を、ずっと探していました」

「……」

「あなたは、自分で自分を幽閉してしまっていましたから、力づくで連れ出す訳にはいかなかったのです。何か理由がなければ、塔から出なかったでしょう」


 故郷の森が滅んだのは自分のせいだと思い詰めたラズベリーは、生きる気力を失くし、王城裏にある塔に幽閉されるままになっていた。

 それが自分の罰だと思っていた。

 王家は、自責の念に囚われたラズベリーと魔法の契約を結び、魔女の力を都合よく利用した。

 ラズベリーが幽閉から解放されるには、王家側からの契約破棄も必要だった。

 王家に伝わる契約内容があいまいになり、王族がみずから契約破棄を言い出すまで、百年以上の年月が必要だった。


「私を助けようとしていたのか?」

「当たり前じゃないですか。最初からずっと、私は、あなたを迎えに行きたかった。ラズベリーは、私に会いたくなかったのですか」


 帰る場所は、故郷の森と共に燃えて無くなってしまったと思っていた。

 ちょっとそこまで遊びに行ってくると、気軽に森を出た日から、とても長い年月が経ってしまった。別れる直前に見たセフィは、どんな顔をしていただろう。


『ラズベリー。必ず帰ってきてね。約束だよ』


 そう、言っていなかったか。


「……会いたかった」


 ぽろりと、口から言葉がこぼれおちる。

 それは郷愁の念であり、懐郷と共に思い出されたのは、最後まで自分を心配してくれていた大事な友達の姿。

 どうして忘れていたのだろうか。

 目の前のセファイドは、少女のセフィとは全く違ってしまっているが、清水のような白銀の髪と、不思議な紺碧の瞳の色は変わっていなかった。

 彼は戸惑うラズベリーの腕をつかみ、そっと体を寄せる。

 力強い腕が、ラズベリーの背中に回る。


「おかえりなさい。ラズベリー」

「……ただいま」


 帰りを待っている人がいたのだ。胸の奥が、火を灯したように温かくなる。同時に、こんなに心が凍えていたのかと、思い知った。

 しっかり抱擁をかわしながら、ラズベリーは密かに、セファイドの性別を確かめる。


「……胸がない」

「当然でしょう! もしかして、まだ私が女性だと勘違いしてるんですか?!」


 セファイドは、途端に狼狽した様子になる。

 抱擁をとき、やおら自分のシャツの襟に手をかけた。


「私は生まれた時から、男です! 疑うなら、証明しましょうか」

「待て。落ち着け!」


 いきなり服を脱ぎ始めるセファイドに、ラズベリーも慌てた。


「なぜです? 私が女性なら、脱いでも何も問題ありませんよね?」

「どうして脱ぎたがる?!」

「いつになったら、私を夫と認めてくれるのかと、待ちくたびれていたのですよ」


 やけになっているのか、あるいは彼なりの意趣返しなのか。

 セファイドは、慌てるラズベリーを見て、愉快そうにしている。

 シャツのボタンをいくつか外すと、健康的に盛り上がった胸板(もちろん平だ)が見えて、ラズベリーはドキドキした。百年以上生きた魔女で婆だと自認しているが、さっぱり色恋の気配もない百年だったのだ。

 男性の裸身に、免疫がない。


「やめろと言っておるだろうに!」


 腕で目の前を隠すラズベリーに、セファイドはふっと笑って、手を伸ばしてきた。

 混乱して、ろくに抵抗できないラズベリーを、あっという間に姫抱きにする。


「寝台は、二階ですか?」

「?!?!」

『ごゆっくり~』


 薄情にも黒猫はラズベリーを見放した。

 さてはセファイドから賄賂わいろを受け取っておるな?!

 それなりに体重がある大人の女性のラズベリーを腕に抱え、セファイドは軽い足取りで階段を登る。この安定感と力強さ。細い見た目に反して体を鍛えているらしい。そう言えば、火事現場から飛び降りる時も、軽々とラズベリーを抱えていた。

 彼の凛々しい横顔を見上げ、ラズベリーは「セフィちゃんは男だった」という衝撃の真実と向き合わざるをえなかった。


「うっ、うっ、私の青春が……可愛いセフィちゃんが」

「今の私にも、可愛さを見出してほしいものですが」


 仮にも結婚しているのですよ、と言われ、そうだとラズベリーは思い出した。ラズベリー的には、世間体を装うための結婚だった。人間の男は眼中にない。いずれ適当なタイミングで逃げ出そうと画策していたのだ。

 しかし、セファイドが自分と同じ寿命を持つ天使なら、話がちがう。


「待てい、私は知らなかったのに、そなたは私のことが分かっておって……結婚はだまし討ちか?!」

「はい、そうですね。形だけでも、あなたと目に見えるきずながほしかった。私は、騙してでも、あなたと結婚したかったのですよ」

「!」


 優しい動作でふわっと寝台に下ろされ、ラズベリーは硬直する。

 セファイドの告白は、つぎつぎに心臓を直撃してくる。

 そろそろ、手加減してほしい。

 寝台に横たわるラズベリーの上にかがみこみ、セファイドは顔を近づけてくる。やわらかな感触が唇をかすめ、すぐに離れた。

 キスをしたセファイドは、上体を起こし、ラズベリーの黒髪を愛おしそうに撫でる。


「これ以上は、何もしませんよ」

「……」

「男として意識もしてもらえていなかったのに、同じ想いを返してほしいと、そう願うのは贅沢でしょう」


 名残惜しそうに黒髪をすいた後、セファイドはゆっくり立ち上がった。


「今日はもう帰ります。……真実も知ったことだし、私の家で同居しませんか」


 魅惑的な誘いに、ラズベリーは理性をかきあつめて返事をした。


「ならぬ。当分は別居じゃ!」


 これ以上、日常生活に密着して糖度マシマシで迫られたら、心臓がもたない。健康のため、別居が望ましいと、ラズベリーは結論づける。その答えは想定内のようで、セファイドは返事の代わりに楽しそうに笑うだけだ。

 部屋を出た後、彼は振り返って言う。


「でも、夕食は食べに来ていいでしょう。夫婦ですし」

「……おかずが、余っている時なら。朝にちゃんと申告するのじゃぞ」

「はい、また明日の朝食時に。おやすみなさい、ラズベリー」


 とんとんと階段を降りる軽快な足音が遠ざかる。

 ラズベリーはどきどきしすぎて寝台から動けず、彼が店から出て行く物音に聞き耳を立てた。


「夕食も食べにくるのか……」


 どんどん外堀を埋められている気がするのは、気のせいだろうか。





 先日の火事現場で拾った蛇の死体だが、麻痺毒の材料に使えそうだった。

 麻痺毒は、薄めて適切な量を配合すれば、麻酔薬に転用できる。毒は、薬なのだ。ラズベリーは、医者相手にこの薬を売りさばこうと思った。


『セファイドに養ってもらえば良いじゃないか。どうして魔女の店に固執するの?』


 窓辺に座った黒猫が聞いてくる。

 確かに、ふつうの女性ならば、立派に成長した幼馴染の男に養ってもらうという選択肢もあるかもしれない。

 しかし、恋が原因で故郷の森を失ったラズベリーは、結婚に臆病になっている。


「もう男に振り回されるのは、こりごりじゃ。この店は、私の城。ここでは私が王も同然。セファイドに養ってもらう? 逆だ。私がセフィちゃんを養ってやるのだ!」


 ラズベリーはガッツを込めて宣言し、フライパンにとき卵を回し入れた。

 今朝の卵料理は、ふわトロのスクランブルエッグの予定である。


「開店資金は、返済できる目途が付いている。あと少しじゃな」

『ラズベリー様、この島に来てから、楽しそうだね』


 黒猫の指摘に、どきりとする。

 百年以上ひきこもって自分を責めていたラズベリーは、この島で人々に必要とされることで、自信を取り戻しつつあった。

 それもこれも、ここに連れてきてくれたセファイドのおかげだ。

 認めたくはないけれども。


『まあ、もう結婚しちゃってるし。好きにすればいいんじゃないかな』

「だまし討ちのような結婚じゃぞ。私は納得していない」

『え? じゃあ離婚する?』

「……」


 離婚する理由がなかった。

 相手が嫌いならともかく、ラズベリーは彼を嫌っていない。その他の離婚理由も、特に思いつかない。


「……セフィちゃんなら、仕方ない。ゆるしてやるしか、あるまい」


 子供の頃は、ラズベリーの無茶ぶりに付き合ってくれた。

 故郷の森が焼けた原因のラズベリーを怒ってもいいくらいなのに、今も彼はラズベリーをしたい、若さゆえの過ちを受け入れてくれている。

 だから、今度はラズベリーが許す番なのだろう。


『素直に好きって言ってあげなよ』

「誰が言うものか!」

「―――何を話しているのですか?」


 黒猫に言い返していると、開いていた通用口から、セファイドが顔をのぞかせた。


「なんでもない!!」


 ラズベリーは顔を真っ赤にして言う。

 話が聞こえていなかったのか、セファイドはきょとんとした顔だ。

 

「呼び鈴を鳴らしたのに、出てきてくれないから、勝手に入ってきてしまいましたよ。今日のアイスは、バナナ味です」


 バナナは、グレイス島の沿岸部の暑い場所で収穫できる。

 いつも通りアイスの入った陶器を受け取ったラズベリーの頬に、接近したセファイドがふわりと素早く口づけをする。


「!」

「おはようございます。ラズベリー」


 きらきらした笑顔を見上げ、ラズベリーは胸やけがしそうなほど甘い声を聞く。


「……おはよう」


 仏頂面で小さく返事をした。

 今日も、グレイス島は良い天気だ。


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