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新たな問題

男爵邸の執務室。重厚な木製の机に、散らかった書類の山が積み上がっている。窓の外からは夏の陽射しが差し込み、遠くに広がるグランツ侯爵領の緑豊かな風景が見えた。


ショウイチは深いため息をつき、椅子にもたれかかる。男爵となってからの書類仕事は思いのほか重荷だった。かつての格闘家としての直感的な強さは、この書類の山を前にすると無力に思えた。


「また書類か…俺には向いてないな」


そう呟いたところで、扉が静かに開き、リナが入ってきた。侯爵の孫娘であり、領地の一翼を担う貴族。彼女は颯爽とした足取りで机の向こう側に座ると、勢いよく書類を一枚手に取った。


「ショウイチ、まだそれでぐずぐずしてるの? 領地の問題は待ってくれないのよ」


リナの声は厳しくも優しい。彼女の背筋は真っ直ぐで、瞳は熱意に燃えていた。


「お前は本当に分かってないな。俺はもう十分稼いだ。隠居して好きに生きたいんだよ」


ショウイチは率直に言い放った。けれども、その言葉には本当の覚悟が感じられなかった。彼の目にはどこか疲れと諦めが混じっていた。


リナは眉をひそめたが、すぐに微笑みに変わる。


「それじゃ、あなたは本当に何もしたくないのね。でもこの領地は待ってくれない。私たち二人でやっていくのよ。あなたが思っているより、私は頼りにしてるの」


ショウイチはその言葉に一瞬ハッとした。リナの目の輝きは、ただの義務感ではなかった。彼女はこの領地を、そして彼を信じていたのだ。


「分かったよ、リナ。少しだけ手伝ってみる」


二人の間に一瞬の静寂が訪れる。窓から差し込む光が、まるで新たな始まりを祝福するかのように、机の上の書類を淡く照らしていた。



翌朝、男爵邸の庭は爽やかな風が吹いていた。ショウイチは少し重い足取りで執務室へ向かう。昨夜のリナの言葉が頭から離れない。隠居の夢はまだ捨てきれないが、このまま放っておくわけにもいかない。


執務室の扉を開けると、すでにリナが数人の書記と話し込んでいた。彼女の表情は真剣そのものだ。ショウイチを見ると、小さく会釈をする。


「おはよう、ショウイチ。今日から本格的に始めるわよ」


リナの言葉に促され、ショウイチは椅子に腰を下ろす。目の前には領地の問題が羅列された資料が置かれていた。


まずは農業の報告書。最近の天候不順で収穫量が落ち込み、民の食糧事情が危ういらしい。保存食工場の稼働が増える一方、食材確保の問題は深刻だった。


「農民たちの疲弊が心配だ。何か支援策はないのか?」


ショウイチは資料を眺めながら尋ねた。


リナは地図を指し示す。


「新しい灌漑用水路の建設を提案してるの。でも資金面と人手の問題がある。侯爵も後押ししてくれてはいるけど、実行はこれからね」


話し合いは続き、次に労働環境の改善案や交易路の整備計画に移る。ショウイチは書類の山に押しつぶされそうになりながらも、リナの的確なアドバイスに助けられた。


昼休み、バルドとミルザがまるふく商店の新メニューの話を持ってきた。


「男爵様、今夜の新作は炭火で仕上げる牛のローストです。昨晩リナ様と試作しましたが、好評でして」


「いいな、それなら店も盛り上がるだろう。俺もあとで味見に行くよ」


リナが笑顔で応える。


「男爵、少しずつ慣れていきましょう。焦らずに」


午後には保存食工場の管理責任者から連絡が入った。人手不足が深刻化しているらしい。


「うーん…工場長の話を聞くと、熟練職人しか扱えない作業が多いんだ。人材育成も急務だな」


リナが真剣な顔で頷く。


「そうね、でも若い人を集めて育てるには時間がかかる。グランツ侯爵とも相談して、少年隊の活用も視野に入れましょう」


夕方、執務室の窓から見える夕焼けが燃えるように赤かった。ショウイチは疲れがどっと出て背もたれに沈み込む。


「なあ、リナ…俺、本当にやっていけるのかな」


リナは席を立ち、ショウイチの肩に軽く手を置いた。


「私たちは相棒よ。あなたが思う以上に頼りにしている。だから私も頑張る。心配しないで、一緒にやろう」


ショウイチは目を細めて微笑んだ。


「ありがとう、リナ。なら少しずつな」


こうしてショウイチは、重荷に感じていた領地運営に少しずつ足を踏み入れ始めた。隠居の夢はまだ遠い。



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