1話
――この屋敷に響くのは、沈黙だけだ。
争いはない。だが、平穏でもない。
父は理想に縛られ、姉は権力を貪り、兄は力に酔い、弟は剣を研ぐ。
そして俺は……この家の静寂の中で、何かが壊れる音を聞いている。
ヴァンデール領の中心に構える屋敷は、外観こそ古き良き貴族の格式を漂わせていたが、その内側には張りつめた空気が満ちていた。
まるで緩やかに進む内戦の前夜。剣も言葉も交わされぬまま、各々が駒を置く盤上で視線を交差させている。
ラウル・ヴァンデールは、その中心で、静かに椅子に腰掛けていた。
父の書斎とは違う、自らの私室の隅。机の上に並べた文献の山を前にしても、文字は頭に入らなかった。
窓の外を見下ろせば、町の小道に列をなす人々の姿が見える。
配給所。ヴァンデール家の倉庫から放出された干からびた黒パンと、わずかな豆類を求めて村人たちが並んでいるのだ。
「あれで、冬を越せるとでも?」
自然とこぼれた言葉に、自らの無力を噛み締める。
原因は明白だった。
王都から下された度重なる増税命令。すでに三年連続で徴税率が上昇しており、今年は遂に四割を超えた。
ラウルの領地には、特筆すべき産業も希少資源もない。森も川もあるが、奇跡の恵みなど何ひとつない。
だが、民は働き者で、土地を大切に耕していた。
その彼らが、今や食うにも困る始末だ。
冬前にして、干し草まで食い潰すほどに追い詰められている。
「父上は……動かぬのか?」
心の中で問いかけても、答えは分かっていた。
ヴァンデール領主、グレゴール。
民を想う誠実な人柄の父でありながら、政治には慎重すぎる男だ。
反旗を翻すことなど到底せず、都からの命令に従い続けてきた。
口では「民のためを思う」と言いながら、実際には王都の機嫌を損ねまいと、家族内の争いすら避けてきた。
そして今、その空白を埋めるように勢力を伸ばしているのが――
「姉上か」
エリセリア・ヴァンデール。25歳。
ヴァンデール家の長女にして、魔法の才を持ち、王都との太い人脈を築いている。
表向きは優雅で気品に満ちた令嬢だが、その実は鋼の野心を持つ策略家。
彼女が今、家の家督を狙っていることは明白だった。
そして、その補佐役となるのが、兄・ガルヴァン。23歳。
彼は武人であり、前線での軍功を誇る。領内の兵士や従士の多くは彼に心酔している。
エリセリアとガルヴァン。魔と武。ふたりの連携は、まさに盤石だった。
そこに比べて、自分には何があるのか――
「知恵しか、ない」
呟いた瞬間、扉がノックされた。
「兄上、入っても良いですか?」
低く静かな声。レオニスだ。
「いい、入れ」
ドアを開けて入ってきた弟は、相変わらずの無骨な出で立ちだった。
まだ十八の青年ながら、武人としての身体はすでに鍛え上げられている。
「さっき、城門前で民が倒れてた。餓えと寒さでな。……見たんだな、お前も」
「見ました。それで黙っていられなくなり兄上の元に」
ラウルは静かに立ち上がる。
そして窓の外を指差した。
「明日、私は父に話をしに行く。……このままでは、ヴァンデールは滅ぶ」
レオニスは驚いたように目を見開き、すぐに静かにうなずいた。
「明日の夜また来ます。兄上のお力になれるよう致します。」
その言葉に、ラウルは微かに口元を緩めた。
「ありがとう、レオニス」
扉が閉まり、再び部屋に静寂が戻る。
けれど、その沈黙の中には、確かに決意があった。