序章
ヴァンデール家の屋敷には、かつて栄えた貴族の面影が色濃く残っている。だが今や、その誇りは重税に喘ぐ領民の悲鳴と、家中に漂う冷たい緊張感に押し潰されつつあった。
父グレゴールは書斎にこもりがちだった。理想は高い。だが実行力に欠けるその背中は、長年の政治的敗北の重みを背負い、沈んで見えた。
「民を守るためにこそ、貴族はあるのだ」
それが父の口癖だった。しかし、その理想は誰の心にも届いていない。いや、届かせる力を欠いている。
その象徴が、姉エリセリアである。
彼女は美しく、才気に満ち、そして冷徹だった。魔法の才に恵まれ、王都で学んだ知識を武器に、今や父の影響を完全に否定する立場をとっていた。
「民? 愚民のことなど知ったことか。それよりも、我が家がこの国で生き残るために必要なのは、力よ。影響力と、恐れられる才。それ以外に、誰が耳を傾けるものか」
言葉にすればすぐ叩き潰せる。だが現実は、姉の言う通りだった。国政は腐敗し、力なき理想など笑いものにされるだけだ。
姉の傍らには、次兄ガルヴァンがいた。獣のような気迫を持つ剣士。言葉少なだが、姉にだけは忠実で、姉の「刃」として彼女の言葉を現実に変えていく存在。
そして、二人の最大の障害は――この屋敷にある家督の座だった。
「兄上」
声をかけられて振り返ると、そこには弟のレオニスがいた。彼は珍しく剣の訓練を早めに切り上げたようで、汗ばんだ髪を指でかき上げている。
「父上がまた、領民への減税を進言するつもりらしいです。しかし、王都では相手にもされなかったとか」
「予想通りだ。民に目を向けるほど、今の王政にとって価値のない話はない」
「しかし父上はまだ諦めちゃいない。いつか、王が聞き入れる日が来ると信じてます」
その言葉に、ラウルは小さくため息を漏らした。
父は善人だった。それは疑いようがない。だが、善人であるだけでは国は動かせない。ましてや腐敗した王政では、理想は軽んじられ、無視され、最後には笑われる。
「……父上には、時間がない。姉上と兄上が、いよいよ動き出す」
「家督が姉上に奪われると?」
「いや、奪うというより、自然と押し流される形になる。父上の意志が弱い分、声の大きい者が勝つ。それだけのことだ」
レオニスは眉をひそめた。
「兄上はどうするの? 何もせずに、姉上の傀儡がこの家を継ぐのを黙って見てれるの?」
「黙って見ているつもりはない」
「じゃあ……継ぐ気があるってこと?」
ラウルは少しの間、黙った。そしてゆっくりと首を振る。
「俺は、家督に興味はない。だが、エリセリア姉上のやり方にも賛同はできない」
「……なら、どうする?」
「姉上を正面から打ち負かすのは無理だ。今の俺たちには力も、地盤もない。だが……」
レオニスがじっと兄を見つめる。
「“言葉”ではなく、“政”で勝つ方法を探す。家の中の小さな戦いではなく、国そのものを変える力を持たねば、姉上にも、王にも勝てない」
「……それって、父上が目指したことじゃないか?」
「父上は理想を説いた。俺は現実の中で、それを実現するための道を探す」
その目には静かな炎が宿っていた。何も持たぬ者が、全てを動かす。ラウルが目指すのは、その“力なき者の政変”だった。
「まずは、味方を増やす。屋敷の中でさえ、俺たちは少数派だ。父上すら動かせぬこの家で、どう動くか……」
「なら、まずは僕が兄さんの剣になる」
レオニスは微笑んだ。彼の剣は鋭いが、感情に流されやすい。だが、それでも今のラウルにとっては、唯一の“力”だった。
「……助かる。これから先、俺たちは多くを失うだろう。だが、捨てるべきではないものもある。それを間違えなければ、必ず――」
兄弟の視線が重なる。
その時、遠くから魔力のうねりが屋敷を震わせた。エリセリアの魔力だ。静かな怒りと威圧に満ちたそれは、まるで「始まり」を告げる鐘の音のようだった。
彼女が動く――そして、ラウルもまた動き出す。
理想を抱いた父を継がず、剣と政を手にする少年の、最初の一歩が、静かに踏み出された。