導きの大導師と、再起の火
第1節:やけ酒と悪夢、そして声
カイン・アークライトは、ギルド酒場の隅っこにうずくまっていた。
宵闇が窓辺を染める頃、魔導灯の揺らめく明かりが酒場の木目を柔らかく照らしていたが――彼の心は晴れなかった。
グラスに注がれていた琥珀色の酒は、すでに底を尽き、三本目の空瓶が無造作に転がっている。
(……クソっ、俺は……)
拳がわずかに震えていた。
スライム。それも、“ただの魔物”だと思っていた。けれど実際はどうだ?
まるで赤子のように扱われ、剣も魔力も通じなかった。
どれだけ叩きのめされたって、相手は艶っぽく笑って――
「ざぁこ♡」
煽り文句とともに甘い声が脳裏をよぎる。
だが、記憶の最後に浮かぶのは――
「好きになっちゃったんだもん♡」
――その一言だった。
(……なんで、あいつに……“恋された”なんて)
身体は傷ついていない。だが、心は確かに折れかけていた。
勇者として転生したはずの自分が、情けないほど無力だった。
(女神に選ばれて……異世界に来て……でも、俺は一体、何ができたんだ?)
酒が喉を焼く。けれど、その熱も心を癒してはくれない。
むしろ、現実の無力さを濃く染み込ませていく。
――そして、気づけば机に突っ伏し、眠っていた。
***
そこは、真っ白な空間だった。
天も地も、輪郭を失い、ただ柔らかな光だけが満ちている。
気がつけばカインは、その中心に立っていた。
「……夢、か……?」
ふと、風が吹く。
それとともに、彼の前にふわりと現れたのは――あの時と同じ、女神のような存在だった。
だが、その姿は以前よりも少しだけ“形”を帯びていた。
輪郭のぼやけたそのシルエットは、長い髪と、細い腕、そして慈愛をたたえた微笑みだけをはっきりと映していた。
「目覚めなさい、勇者カイン……」
声は風のように優しく、そしてどこか切ない響きを帯びていた。
「君の道はまだ始まったばかり。そして、ある“導き手”が近くにいる」
「導き手……?」
女神は小さく頷いた。
「彼女は君と似ている。想いを抱え、過去を隠し、それでも誰かの未来を信じている」
カインは思わず口を開いた。
「それって、誰だ……?」
女神は何も答えなかった。だが、わずかに口元が綻んだように見えた。
「やがて気づくでしょう。“名前”が導く先に、“真実”があると……」
そのとき――足元の光が崩れ、世界が溶け出した。
「まって……まだ――!」
声を上げた瞬間、現実の空気が彼の鼻腔を刺した。
***
「――っ!」
目を覚ますと、頬に木の感触。ギルドの片隅で突っ伏していた。
魔導灯はほのかに灯り、酒場の空気はゆるやかに夜へと沈んでいた。
(……あれは、夢?)
けれど、確かに“声”は残っていた。
あの女神のような存在の、静かで、そして深い“想い”のこもった声。
(導き手……“名前”……?)
胸の奥が、ほんの少しだけざわめいた。
そのときだった。
「ここで寝ていると風邪を引きますよ」
凛とした、しかしどこか優しさを含んだ女性の声が背後から響いた。
カインが振り返ると――そこには、青と白の魔導服を纏った女性が静かに立っていた。
彼女の名は――レイナ・ヴァルティア。
この出会いが、彼の未来を大きく変えていくことを、カインはまだ知らない。
第2節:導師と修行への旅路
――その日から、カインの運命は少しずつ動き出す。
レイナ・ヴァルティア。自らを「導きの大導師」と名乗った彼女は、唐突にカインへ“修行”の道を提示した。
だが、その言葉は唐突であると同時に、不思議なまでに“必然”に思えた。
「……お願いします。俺を、強くしてください」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。
誰にも手を差し伸べられず、一人で足掻いていた自分に――
「あの日、誰もいなかった俺に、あなたは手を差し伸べてくれた」
カインは心の奥で、確かな感情を感じていた。
***
翌朝。陽がまだ昇りきらぬ時間帯に、2人は暁都の東口駅へと向かった。
魔導列車の発着に合わせ、構内には早朝から多くの人々が行き交っている。
「行き先は、リーファリア練域という私の学舎。魔導と戦闘、精神鍛錬まで……すべて鍛え直すには最適な場所です」
「……ほんとに教師って感じなんですね、レイナさん」
「ええ、一応“教職”ですから」
クスリと笑う彼女の横顔は、どこか懐かしい――いや、“知っていた気がする”ような感覚をカインに抱かせた。
(この人……どこか、懐かしい……?)
だが、どれだけ記憶を辿っても、それが“現実世界”の誰かに繋がることはなかった。
「荷物はすべて預けましたか? 列車内は騎乗区画なのでゆったりできますよ」
「う、うん。準備は……万端です」
「なら、出発です。あ、そう――」
レイナがふと振り向き、いたずらっぽく口元を緩めた。
「カイン・アークライト……いい名前ですね。けど、本当は……“相坂優希”って、名前なんでしょう?」
「――っ!?!?」
一瞬、息が止まった。
自分がこの世界で名乗っていない“前世の名前”を――なぜ、彼女は知っている?
「な、なんで……?」
「さぁ? なぜでしょうね。……ただ、あなたの歩き方や瞳、言葉の選び方を見てると、なんとなく思い出しただけ、かもしれません」
レイナは微笑んでそう言った。だが、その笑顔の裏に、明らかな“確信”の色があった。
(まさか……この人も、前の世界の――?)
質問したかった。だが、次の瞬間、列車が発車を告げ、思考は切り替わった。
***
魔導列車が走る中、車窓の外では山々と森、そして小さな村々が流れていく。
目的地のリーファリア練域は、王国の南方に位置する“修行の聖域”と呼ばれる場所。
自然と魔導技術が融合したその土地は、神域にも等しい結界に守られ、限られた者しか立ち入れない。
到着後、2人は練域へと向かう山道を歩く。
途中、ハルミュール装飾街で購入した装備をレイナがチェックしながら、カインは息を整えていた。
「重さはどうですか?」
「問題なしです。むしろ、今までよりしっくりきてます」
「それならよかった。……勇者としての戦いは、これからですから」
彼女はふと立ち止まり、足元の草をそっと撫でた。
「この世界は、たくさんの“因果”で繋がっています。……私も、あなたと同じように、この世界に呼ばれた者なのかもしれません」
カインの足が止まった。
「……やっぱり……そうなんですか?」
レイナはそれには答えず、ただ遠くの空を見つめるように視線を外した。
「でも、今はその話をする時じゃありません。あなたが力をつけて、“すべてを見通せる目”を持てたときに、答えを教えてあげます」
言葉は優しかったが、どこか“決意”のような強さを感じさせた。
***
やがて視界が開け、リーファリア練域が姿を現した。
中央にそびえる魔導ドーム、各地に点在する訓練場、そして青々とした木々と空。
そこには、かつての東京――代々木公園や総合施設を思わせる空気があったが、カインはそれを口には出さなかった。
仲間を持ち、師を持ち、力を求める“本当の勇者”の物語が、今ここから始まろうとしていた。
第3節:学舎の夜、そして出会いへ
夕暮れが、リーファリア練域を柔らかな光で包んでいた。
カインがレイナに連れられて学舎の門をくぐってから数時間。荷物の整理と簡単な施設の案内を終え、彼は今、一人、木造の宿舎の一室にいた。
(……本当に、ここから始まるんだな)
窓の外には、自然と魔導建築が調和する静かな中庭が広がっていた。
訓練を終えた学徒たちが草花の揺れる小道を笑いながら歩いていく光景は、まるで学園の放課後のようにも見えた。だが、どこかに“修羅場”の空気も漂っている。
ふと、目を引く赤い影があった。
中庭の端――訓練用の剣を構え、何度も鋭い斬撃を繰り出している女戦士。
赤いポニーテールがなびき、額に汗を浮かべながらも、彼女の眼差しには迷いがなかった。
(……昼間、見かけた人だ)
その真剣さに思わず見とれていたそのとき、
「――なに、見てるのよ」
視線が合った。鋭いツリ目と、きゅっと引き締まった唇。
けれどそこには敵意というより、照れ隠しのような微かな気配があった。
「えっ、あ、いや……」
慌てて目を逸らすカイン。頬がじわりと熱くなる。
(バレた……気まずっ)
気を取り直そうと視線を動かした先では、魔導陣の光がゆらめいていた。
金の長髪をなびかせながら詠唱を続ける者――その体つきや仕草は中性的だが、どこか“艶やかさ”を感じさせる存在だった。
「ん? ボク、見られてるぅ?」
妖艶な笑みと共に、くすりと肩をすくめてこちらを見る。
(あの人、男……? いや、女……? わからないけど、すごい魔力……)
さらに、木陰では静かに祈りを捧げる青髪の神官服の女性。
湖に手をかざし、水の気配と魔力を同調させるように、静かな時間の中に溶け込んでいた。
(……レベルが違う)
それぞれが、確かな意志を持って鍛錬している。
そこに“馴染む”には、自分はまだ足りていない。だが、不思議と怯みはなかった。
(俺も……ここで、変わってみせる)
そんな決意を抱いたその時、背後に気配を感じて振り返ると、そこにはレイナの姿があった。
「どうですか? これが、あなたの修行の地。
そして、ここにいる者たちが……明日からの“仲間”です」
「仲間、か……」
「ええ。まだお互いのことを知らなくとも、きっと、強い絆を結べます。
この地で過ごすうちに、あなたにも“運命”が見えてくるでしょう」
“運命”――その言葉が、どこか深く胸に落ちた。
(レイナさん……もしかして、俺の過去を――)
ふと、夢で見たあの女神の言葉がよみがえる。
“愛と狂気の運命が、汝を導く”――その意味が、少しだけ形になりかけていた。
「明日からの訓練は厳しいですよ。今夜のうちに、しっかり英気を養ってください」
レイナがそう言って静かに立ち去ると、カインはもう一度窓の外に視線を向けた。
赤い髪の女戦士は、再び剣を構えている。
金の魔導士は、魔導陣の前で片手を振ってこちらを見ていた。
そして青い神官は、空に手をかざして微笑む――
(……なんだろう、この感覚)
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。
まるで、前世から出会うことを決められていたような、不思議な既視感。
カインは胸の奥で、ふつふつと湧き上がる感情を抱きしめながら、静かに誓った。
(もう、負けない。俺はここで、強くなる)
窓の外に沈む夕陽が、彼の旅路の新たな始まりを照らしていた。