【3】決別の時
(まさか、〈黒い門〉の話を、ここで聞くことになるとはね……)
そうなると、聞いていた話とはまるで違うではないか。
ソニアはアルヴィンを通じて、『ウルリカとハーヴェイが謎の召喚術師と〈魔獣〉に襲われて、結果的にノアを引き取ることになった』――としか、聞いていない。
階段を音もなく降りるソニアの頭の中は、先ほどの彼女の言葉で支配されていた。
――〈黒い召喚の門〉。
それは召喚術における、禁忌に触れる。
通常の召喚の門は白い。ソニアも竜の住まう世界、異層〈灰塵の谷〉から白い門を通って〈表層〉へと訪れた。
そう。ソニアの故郷も「竜の国」だ。
竜の国といえど、猫族のソニアのように、多種多様な生き物が住んでいる。
ソニアは長年、竜の付き人を務めた経歴がある。だから、竜の生態についてはそこそこ詳しい自負があった。
だが、あのノアという幼い竜は。ソニアの知っている竜とは、何か違うような気がしてならない。
(〈魔王〉が封印されて、今年でちょうど千年目。まあ、何か起きるんでしょうよ)
不穏な雰囲気を感じ取り、ソニアはフルリと毛並みを震わせた。早く帰ってアルヴィンに報告せねば。
そう思いながら、帰路を急がせるために、『連れ』がいるであろう応接間へとソニアは向かう。
「――トリスタンおじさん。何度も伝えていますが、僕は王立魔導兵団には戻りません」
応接間にヒョイ、と顔を出せば、ちょうど疲れた顔のエリオットが客人に言い含めているところだった。
「あら、あんたまだやってたの」
ソニアが呆れたような顔を向けた先には、冴えない顔をした中年の男の姿がある。
トリスタン・ネヴィル。ソニアが仕えるアルヴィンの弟だ。そして、甥っ子であるエリオットを実の親以上に可愛がっている。
だから、ネヴィルの子として出世街道から外れた甥っ子に対し、事あるごとに「軍に戻れ」だの「縁談を受けろ」だのと耳にタコができるほど話を持っていく。
諦めの悪いこの男。今日も絶対に軍に戻らせるのだ、と朝から勇ましく訪問していた。
トリスタンはあくまで叔父という立場。ネヴィルの家督を持たない。だから、彼はエリオットが任されている秘密の任務について、知らされていないのだ。
ソニアはエリオットの隣に飛び乗ると、溜息交じりに言った。
「エリオット。もういい加減、あんたの事情を話したら?」
「……」
エリオットは困り顔で沈黙を返すも、ここ何年と繰り返される問答に疲れたのだろう。
やがて覚悟を決めた顔をして、口を開いた。
「辞めた、と表面的には公言していますが、僕はまだ王立魔導兵団に席を残している」
「……何だって?」
「フラホルク王室からの命令で、一時的に魔導学院に潜入しているんです。それは学院側の丈夫にも話を通している」
さすがに隊長の座は返したが、と続けるエリオットの言葉は届いているのだろうか。トリスタンはパッと目を輝かせて言った。
「そ、そうか、そうだよな! お前のように優秀な召喚術師が、軍を辞めるなんて、ありえないからな!」
トリスタンは安堵したように、長椅子にぐったりと身を任せると、今日初めての笑顔を浮かべて、冷めた紅茶を啜る。
「……ねぇ。言っちゃって良かったのぉ?」
引き取った娘のように、エリオットが突発的な行動に出ることはソニアも慣れていた。深い本質的なところで似ているのだ。この父娘は。
「いいよ。例の日も近い。いずれ知られることになっただろうしね」
(例の日も近い、ね……)
『魔王復活』。
その日がそう遠くないことを、エリオットもソニアも理解している。
知らないのは甥っ子が花形の職務を手放していないと喜ぶ叔父だけか。
トリスタンがソーサーにカップを置くのを見計らい、エリオットは静かな口調で告げた。
「しかし、いずれ軍を離れる心づもりでいる。僕はこの任務を無事に完遂したら、正式に教師として採用してもらうよう、魔導学院に打診するつもりです」
「…………は!? エリオット、今、お前何と言ったか?」
長椅子から跳ねるように立ち上がり、トリスタンはコーヒーカップを手に運ぶ甥を見下ろした。
とてもではないが信じられない……と驚愕する彼の顔が物語っている。
「宮廷召喚術師を辞するのか? 王立魔導兵団から離れるのか? お前にとって、もっとも適したお役目を、放棄するのか!?」
「……適しているかどうか決めるのは、貴方ではない。僕自身だ」
キッパリと否定されて、トリスタンは呆然とする。
やがて顔を真っ赤に染めて、憎々しげに問いただす。
「お前が娘に引き取った災害孤児……あの小娘がいるからか?」
「ウルリカは関係ありません。これは僕の都合です」
エリオットは毅然とした声色で言い返すも、トリスタンは納得が行かないらしい。
(そりゃそうよねぇ)
エリオットの実父アルヴィンの子は四人。しかし、継嗣であるセオドア以外は目に入っていないようだった。それは彼女の妻も同じ。
召喚術師として申し分のない才能を持つセオドア。彼の弟妹は何かが起きた場合の『予備』に過ぎない。
セオドア自身が、父母の性質を受け継がなかったのは幸いか。彼は弟妹を等しく愛してくれたが。それでも、兄としてできることに限りはある。
予備の弟妹に手を差し伸べたのは、各々ネヴィルの分家となる者たち。トリスタンは幼いエリオットの才覚を見出し、彼の援助を申し出たのだ。
トリスタンは恋人に裏切られた過去を持つ。
ネヴィルの子は互いに清らかな身でなければ、つがいとみなされない呪いを持つ。子を望めない。それ故にエリオットに執着しているのだろう。
トリスタンが怒りのあまり机に手を打ち付ければ、白いテーブルクロスに零れた紅茶の染みが広がった。
「聞いたぞ。あの小娘の出身の村民の治療のために、今も研究をしているのだろう? それが目的だと思っていたが……職を辞してでも、続けるつもりなのか?」
「……それもありますが……」
苦々しい声で言うエリオットの言葉を遮り、トリスタンは被せた。
「だいたい、先日もなんだ。あの娘、魔導学院外で〈魔獣〉に襲われたと聞いたが、それで大怪我を追ったのだろう? 学生らしく本業に力を入れればいいのに。聞けば、『魔導学院の落ちこぼれ』と嘲笑されているらしいではないか。お前の身に何かあれば、ネヴィルの存続はどうなるっ!?」
「はいはいはいはい。いい年なんだしカッカしないの」
ソニアは割って入るように机の上に飛び乗った。
「下手すりゃ血管が破れてポックリ逝っちゃうわよ、トリスタン? そこまでにしなさい」
「……しかし、ソニア殿」
当主であるアルヴィンの〈守護聖獣〉。長くネヴィルを守ってきたソニアに、トリスタンは強く出られない。物彼は足りなさそうに言い淀む。
(まあ、今でこそ口うるさいおじさんになっちゃったトリスタンだけど、ふくふくした可愛い赤ん坊の頃から面倒見てきてあげたのは、このあたしだし)
しかし、これ以上はさすがに看過できない。
ネヴィルの存続。ソニアはトリスタンがエリオットを時期当主とするために、手を回し画策していることを知っている。
一時期はエリオットを養子に引き取ろうとしてさえいたのだ。
それを止めたのは外ならぬソニアだった。
「エリオット。あんた、いつまでいいこのお人形さんでいるつもりなの?」
ソニアはまっすぐな瞳で、愛しいネヴィルの血族を見つめた。
「今のあんたには、守るべき存在がいる。いつまで言うことを素直に聞くお坊ちゃんの皮を被っているの?」
何十世代とネヴィルの〈守護聖獣〉であり相談役を務めたソニアにできるのは、尻を叩くくらいのこと。
決めるのは、本人の意思だから。
決別も。
「……トリスタンおじさん。僕は僕の人生を歩みたい。だから」
貴方の助言は必要ない。
そう言い切った男の顔はすっきりと晴れやかで。
事実上の絶縁を言い渡された男の表情は絶望で彩られていた。




