【10】秘密の任務
「え?」
キョトンとするウルリカに、苛立たしげに舌打ちしたミルカが、飛び掛かるようにして覆い被さった。
ミルカの突然の行動に理解が追いつかず、ウルリカは無抵抗でソファに押し倒される。
彼の紺色のローブに視界が隠されたと同時に、轟音とともに窓ガラスが一斉に割れる甲高い音が響いた。
(えっ、なに、なに? 何が起こっているのっ!?)
「怪我はないか? ウルリカ・ネヴィル」
ソファに片手をついて、躰を起こしたミルカに、硬い声音で問いかけられる。
そのミルカに咄嗟に庇ってくれたのだ。怪我はない。
いきなりのことに、心臓はバクバクと激しい鼓動を刻んでいるけれど。
「は、はい……」
ウルリカは呆然と頷いて、彼の頭から流血していることに気づく。
真っ赤な血が、ミルカの細い顎に滴っていた。飛び散ったガラスの欠片が掠めたのだろう。
「ミ、ミルカ先生、怪我、してます……!」
「こんなもの、怪我のうちに入らない」
ミルカは袖口で乱暴に頬の血を拭うと、今までに見たこともない険しい視線を、窓の外へと向けた。
窓ガラスは粉々に吹き飛んで、外からの砂塵がブワリ、と居室内に舞い込んでいる。
「一体何が起こった?」
「――召喚事故です」
切迫した声音のミルカに応じたのは、凛、と透き通ったこどものような声。
声が聞こえた方を見れば、ガラスが割れた窓枠から一匹の白猫がヒョイ、と飛び降りたところだった。
白猫は音もなくミルカに近寄る。
黒と金のオッドアイ、しなやかな体躯と毛並みが美しい。
白猫はミルカを見上げ、口を開いた。
「ミルカ・カスタニエへ伝令。先刻、聖マルグリット高等魔導学院敷地内で、大規模な召喚事故が発生しました」
ミルカはすう、と目を細めた。
「自然召喚災害か? それとも――」
「聖マルグリット高等魔導学院の召喚術同好会の学生たちが、監督者のいない不適切な環境下において合同召喚術を行使し、召喚に失敗しました」
ミルカは眉間に皺を寄せて呟いた。
「召喚術同好会の顧問は……スティーブ・ニーンだったか」
(スティーブ先生って、少し前から体調不良で魔導学院には姿を見せていなかったわね……)
それに伴い、合同召喚術学は他の教員が代理で指導している。召喚術同好会の方は、活動休止となっていたのだろう。
だが、こっそりと合同召喚を行い、結果として召喚事故を巻き起こしてしまったのか。
「身の丈に合わない召喚で呼び出された〈聖獣〉を、学生たちは制御できませんでした。暴走した召喚の門の出現は中庭奥の訓練場。迷い込んだ〈聖獣〉は現状確認されるだけでも五十を超過。いずれも凶暴な〈魔獣〉へ変異しました。至急、事態の収拾に動くように」
「承知した」
ミルカは白猫に向かって答えた。人語を解する獣――明らかに〈聖獣〉だ。
ミルカの返事を聞き届けた白猫の〈聖獣〉は、現れたときとは異なり、煙のように姿を消した。
(召喚事故……それも暴走召喚事故が、魔導学院内で起きるなんて……)
ウルリカは身をブルリと震わせた。悪夢のようだが、決して他人ごとではないのだ。
以前、合同召喚術学でセルヴィッジを呼び出したとき、ウルリカは迂闊にも召喚の陣を書き間違えてしまった。
些細なミスと言えばそうだが、その小さな過ちが今回のような、取り返しのつかない事故に繋がるのだ。
召喚の門は狂い、暴走する。魔術式が〈聖獣〉を操り、彼らを〈魔獣〉へといたらしめるのだ。
ブルブルと震えるウルリカの手を引き、ソファから立たせながらミルカは叱咤する。
「しっかりしろ、ウルリカ・ネヴィル!」
「は、はい」
「俺の使い魔から聞いた通りだ。現在、魔導学院内は非常に危険な状況下に置かれている。ウルリカ・ネヴィル。貴様の『騎士』とともに、可及的速やかに避難するように」
それからミルカが小さく詠唱を口にすると、扉がひとりでに開いた。
扉の前に立っていたのは、左手に杖を構えたエミールだ。
「ウルリカ・ネヴィル。君の『騎士』が参上したよ」
エミールは右手で取り外したドアノブをプラプラと揺らしながら、おっとりと首を傾げた。
「それで、ミルカ・カスタニエ先生に聞きたいのだけれど。鍵を掛けて、ご丁寧に防音結界まで張って、女子学生とふたりきり。どんないかがわしい内緒話をしていたの?」
こんな状況でも軽口を叩く余裕が残っているのか。
ミルカは無視して口早に言い募る。
「特殊警備部第一部隊所属、エミール・コルネイユ。貴君も状況は理解しているだろう。護衛対象を伴って、魔導学院外に離脱せよ」
「ふうん」
エミールは銀色の瞳を細めて、不敵に微笑む。
「ボクの経歴を口にするなら、ミルカ・カスタニエも素性を明らかにしないと。だって、不公平じゃない?」
(エミールのこと知ってる……。それに、護衛対象って)
事情を知っているミルカは何者か。
見上げたミルカの顔が、緊張に強張る。
「いかん、来るぞ!」
ミルカが叫んだ時、割れた窓枠と壁をなぎ倒しながら、〈魔獣〉が猛進してきた。
それは奇しくもウルリカが最も苦手とする生き物――豚の〈魔獣〉だった。
***
「ぶっ、ぶっ、ぶっぶぶぶぶぶぶぶ…………!?」
「お、おい? ウルリカ・ネヴィル?」
「ぶっ、ぶたっ、豚の餌はっ、いやぁ……!」
ウルリカは思わず、悲鳴を上げていた。
――それは巨大な豚だった。
大きさは成人男性が二人ほどと高さか。もちろん、横幅もある。
丸々と肥えた体躯に、つぶらな瞳。毛皮は黒くなめらかで、手足は短い。
そして口からはボタボタと涎をこぼしている。
壁に半分埋もれた豚の〈魔獣〉の視線は定まらないが、ウルリカを狙っているように思えるのは気のせいではないだろう。
何せウルリカの身は、最上級の餌らしいから。
「いやぁ、やだやだやだやだっ、豚の餌、やだあっ!」
ウルリカの頭が恐怖で支配される。躰からはズルリと力が抜けて、もはやその場に立っていられない。
間近に立っていたミルカにしがみつくと、ミルカはギョッとした顔で目を剥いた。
「おい、ウルリカ・ネヴィル! 逃げろと言っているだろう!?」
「むっむっむっむりっ、むり、むり……だって、嫌いなものは嫌いなんだもんっ……!」
ミルカは臨戦態勢のエミールに向かって、怒声を上げた。
「おい、エミール! 貴様、こいつの護衛騎士だろう? この足手まといを連れて、さっさとこの場を失せろ!」
「……ボクだってそうしたいけど。美味しそうな匂いに誘われて、何体か〈魔獣〉が引き寄せられているみたい」
そう告げたあと、エミールは詠唱を紡いだ。
彼が得意とするらしい、雷の魔術だ。
エミールの二の腕ほどある雷の槍は、的確に豚の〈魔獣〉の眉間を貫き、脳髄を抉った。
豚の〈魔獣〉が耳障りな断末魔を上げる。その漲る憎悪に、ウルリカの喉元を、不快感と恐怖がせり上がった。
エミールは〈魔獣〉の対処に慣れているのだろう、いたって平然としている。だが、ウルリカはミルカのローブの裾を握りしめたまま、へたりこんでしまった。
チラッとウルリカを一瞥して、エミールは言う。
「それじゃあ、ミルカ・カスタニエ先生。そのうちにもう一人の『騎士』が来ると思うから、彼女は任せるね」
「なっ、おい、どこに行くつもりだ!?」
「召喚の門」
豚の〈魔獣〉の亡骸を軽く押し、猫のような身軽さで瓦礫を踏み越えたエミールは、薄く笑って言う。
「学生を守るのも先生の立派な役目だよ。ミルカ・カスタニエ――先輩?」
「おい、エミール!」
チッ、と粗野にミルカは舌打ちをするも、エミールは既にその姿を消していた。
(ぶ、豚の〈魔物〉は死んだけど……)
ウルリカはチラチラとミルカに視線を向けた。
衝撃でヒビが入ったのだろう。眼鏡をポイっと放り捨て、ミルカは前髪を掻き上げる。
たいした怪我ではない、と彼が申告した通り、頭からの流血は止まっていた。
そして眼鏡を外した顔は意外にも若く見えた。しかし顔の怖さは相変わらずだ。
「あのクソガキ。俺にお荷物抱えて逃げろっていうのかよ?」
口の方はもっとひどい。
「あ、あの、ミルカ先生? なんか急に別人みたいになったような……」
「あん? こっちが素だっての」
ミルカはウルリカをひょいと荷物のように肩に担ぐと、研究室を後にする。
「ミルカ先生、その、エミールは大丈夫、なんですか?」
「ウルリカ・ネヴィル。他人の心配してる場合かよ。ああいう火事が起きたら真っ先に火の元見に行くようなバカ、放っておけばいい」
「でも……暴走した召喚の門なんて、すごく危険なんじゃ……」
ウルリカがボソボソと食い下がると、彼は呆れたように溜息をこぼしたのちに言う。
「他の先生たちも事態の収拾に、召喚の門に駆けつけてるだろ。それに、あいつもまがりなりにも宮廷召喚術師だからな。自分の身くらいは守れる」
職員棟の廊下も同じく、窓ガラスが砕け散っている。
足早に器用にガラスの破片を避けて歩くミルカのローブを握りしめながら、ウルリカは密かに考える。
(ミルカ先生、エミールが宮廷召喚術師で、あたしの護衛騎士だって気づいてる……。それに先輩、って呼ばれてた……)
エリオットやエミールは彼の素性について触れなかったが、彼もまた、宮廷召喚術師なのだろうか。
だが、それを隠しているということは、彼もまた秘密の任務についているのだろう。
ぼんやりと考え込むウルリカの思考は、ミルカの苛立った声で遮られた。
「おい。ウルリカ・ネヴィル。あれこれ考えるのはてめぇの勝手だが、俺の正体を詮索するのはやめろ」
心を読んだかのような言いつけに、ウルリカは身をビクリ、と震わせた。
それからミルカは低い声で続ける。
「もし俺の邪魔をするなら、一切の容赦はしない……殺す」




