【3】起き掛けの質問
ロイクの名前を書いた教本を手渡せば、彼は満面の笑みで受け取った。
念のため、ウルリカは彼に言う。
「ねぇ、ロイク。あたし、あんたとは対等な関係を築きたくて……」
「わかった。俺もそっちのほうが、いい」
ウルリカはほっと胸を撫で下ろした。
そうしているうちに本鈴が鳴ったので、ウルリカはアワアワと授業の支度を始める。
教壇に教師が上がると同時に、教室の前方できゃあ、と黄色い悲鳴が上がった。
「なっ、何事だ……?」
「……相変わらず煩いな。フラホルク歴史学は馬鹿でも受講可能なの?」
慄くロイクを挟んだ先で、エミールがうんざり顔で、ボソボソと悪態づく。
基本的には寛容な性格のエステルも、どうにも思うところがあるようだ。
可愛らしい顔に苦笑を浮かべながら、ウルリカに問いかけてくる。
「チェスター・アーノルド先生ですね。女子学生から人気を集めている。以前から彼の授業は感激の称賛があがるほど、好評なのですか?」
ストレートな物言いの弟とは違い、彼女なりに言葉を選んでいるようだった。
ウルリカはうーんと首を傾げて答えた。
「ううん、わかんない……。一般教養科の歴史学の担当は、違う先生だったし……」
何せウルリカ自身、学科を移動して初めて知った教師なのだ。
おまけに交友関係の薄いウルリカ。やれどの教師がカッコイイだの、どの教師が人気だのといった、ごくごく一般的な女子学生が好む知識には、悲しきかな、いささか乏しかった。
学内の情報に通じた知人はいるといえば、いる。
しかし彼は自分語りを何よりの生きがいとしている男だ。そんな彼の口から、チェスターのような人物が語られるはずがない。
「……チェスター・アーノルド先生は今年度、聖カトリーヌ高等魔導学院から異動してきた新任教師、だったな」
引き気味のウルリカの代わりに答えたのは、隣で新品の教本を開くロイクである。
(へぇ。ロイク、歴史学を取っていないのに、知ってるんだ?)
ウルリカは意外に思いながら、彼に視線を送った。
彼は教本の内容を読み上げるように、チェスター・アーノルドの人物像を、淀みなく淡々と述べていく。
「チェスター・アーノルド。二十七歳。フラホルク歴史学の専任教師。聖カトリーヌ高等魔導学院に勤める前は、召喚術師協会に身を置いていた。その繋がりから、高名な召喚術師の伝手も多い。教師になったのは召喚術、考古学の研究のためと聞く。独身で、恋人もいない。そしてあの甘く端正な顔立ちだろう? 女生徒が放っておくわけがないし、親に命じられて繋がりを作ろうと目論む生徒も多くいる」
語る内容は、思ったよりも詳しかった。
「……あんた、歴史学を取っていないわりに、ずいぶんと詳しいじゃない?」
エリオットだけではなく、チェスターにも憧れているのだろうか?
確かに、チェスターの経歴はその若さにしては、十分すぎるくらいの肩書だ。実力主義者の彼が一目置く気持ちはウルリカでもなんとなく、理解できる。
エミールは呆れた声でぼやいた。
「優れた召喚術師であれば誰でもいいの? ロイク・マスカールは節操がないんだね」
「か、勘違いしないでくれないか! 俺の憧れはおじいさまと、エリオット・ネヴィル先生なのだ!」
アワアワとウルリカに言い募られても困る。
「いやそれあたしに言われてもさぁ……」
それからロイクは言いにくそうに、モゴモゴと口籠った。
「高等実技科の学生たちが騒いでいたのと、一つ下の妹が、その……熱をあげている」
「……なるほどね」
何とも言い難い顔をしたロイクの視線は、前方の――ちょうど黄色い声援をあげた女子学生の群れに向けられている。
気怠げに溜息をこぼしたエミールが、同じく女子学生に視線を向けながらぼやく。
「ロイク・マスカール。君の妹君があそこにいるなら、一言注意してくれる? 『発情するなら、学び舎の外でしてくれないだろうか』とか何とか言って」
「はつじょ……!? そっ、そんな下品なこと言えるかっ!」
顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながらロイクは小声で怒鳴った。
「そもそも、俺が言ったところで、あの手の年頃の娘は、聞く耳を持たないのだっ……!」
まるで年頃の娘に手を焼く父親のようなロイクの嘆きを聞き流しながら、ウルリカはなんとはなしに、板書を始めたチェスターの姿を眺めた。
身長はエリオットと同程度。濃い金の髪は、窓から差し込む陽を浴びて、いっそう輝いて見える。
深い森のような瞳はたれ目がちで、横顔から見える鼻梁はスッと高い。なるほど、顔の造詣は確かに整っていた。
聖マルグリット高等魔導学院の教員の印であるローブの下には、水色のシャツに白くスッキリとした細身のズボン。胸元にはいくつかの魔道具の飾りが揺れている。
肘まで捲り上げられたシャツから伸びる腕は、魔術師にしては筋肉質である。小指程度の幅広の金色の腕輪――おそらく、彼の相棒〈守護聖獣〉の棲みかだろう。
(チェスター先生と親しくしておいて、損はないわね)
召喚術師協会に身を置いていたのであれば、〈魔獣〉――ウルリカが長年追い求める〈雪の獣〉について、何らかの情報を握っているに違いない。
ロイクの言う通り、高名な召喚術師の伝手も多いだろう。彼自身も含め、〈雪の獣〉の捜索の折に協力を仰ぎたいところである。
チェスターはゴホンと咳払いして、歓声を黙らせた。
それから穏やかな笑みを浮かべて、サラサラと書き上げた板書の一部分を指示棒で示す。
「――フラホルク統一王国では、およそ千年前に〈魔獣〉――個体識別名〈魔王〉が顕現しました。〈魔王〉……彼の者は現在までに確認される〈魔獣〉の中でも、最も凶悪で残忍な存在とされています」
チェスターは大仰に胸元に手を当てると、痛々しげに視線を伏せる。
「非力な人間は強大な〈魔王〉を前にして、ただただ無力でした。無邪気な子どもが美しい蝶の羽をもぐように……人の子の命は、いとも容易く刈り取られてしまったのです」
現代でも強力な〈魔獣〉を前にして、ただの人間は力及ばない。
彼らに対抗できるのは、力ある魔術師や召喚術師、その〈守護聖獣〉だけだ。
千年前は、今ほど魔術師や召喚術師の数は多くないと、歴史の生き字引から聞いている。
戦乱の最中だ。数少ない文献や国宝様の言葉では、数字は明確になっていないものの、相当な被害者が出たに違いない。
「しかし、その〈魔王〉と戦い、討伐は叶わずとも封印し、暗雲に満ちたフラホルクに光を取り戻したのが……」
チェスターは再び微笑みを浮かべると、コツコツ、と板書の一部分を示す。
そこにはウルリカも知っている――いや、国で知らない者がいるとしたら生まれたての赤子くらいだろう。あまりにも有名すぎる名前が記されていた。
――記されるのは、フラホルク統一王国の初代女王アリアーヌ・フラホルクと、その〈守護聖獣〉ハーヴェイ。
「〈守護聖獣〉ハーヴェイは皆さんもご存じですね? 今日も魔導学院に顔を出しては、未来を担う召喚術師の卵たちを見守っておられます。ですから、皆さんも立派な召喚術師になるよう、研鑽に努めてくださいね?」
(見守っているというか、暇つぶしの相手を探しているというか……)
ウルリカは今日も裏庭あたりをフラフラと徘徊しているであろう〈聖獣〉の姿を脳裏に思い浮かべた。ものは言いようである。
「……ここで少し、話は逸れてしまいますが。皆さんが〈魔王〉について、どれほど知識を有しているか、せっかくですから、確認してみましょうか? 僕ばかりが話をしていたら、退屈で眠くなってしまいますからね?」
チェスターはお茶目に笑うと、指示棒と視線をウロウロとさせ――ひとりの学生に目を留めた。
「そこの、二列目の、左から一番目の彼。……すみませんが、隣の君。彼を起こしてくれませんか?」
友人なのだろうか。起こしてくれないか、と指名された男子学生はギョッとした顔で、隣に座る少年を力強く揺すっていた。
チェスターの熱烈なファン一同――前方に座る集団から、巻き添えでギラギラと今にも射殺されそうな視線を浴びているのが、たいへん不憫である。
「ふわぁ……もう朝ぁ?」
肩を揺すられた少年はフラフラと立ち上がりながら、暢気にもあくび交じりに呟く。
教室は教壇を囲むように半円状に机と椅子が設置されていて、なおかつ後列になるほど階段式に高くなっている。
ウルリカ達が座るのは最後列の中央の席。前列寄りで、左側に座る彼の横顔が、ちょうど見える位置だった。
(すごい髪の色……)
ウルリカはしばし、彼の容貌に目を奪われる。
なんというか、『毛色の変わった』人間なのだ。
黒髪は襟足がやや長い。ところどころに白髪の房が目立つのは地毛だろうか。
肌の色が抜けるように白いのは、おそらく彼がフラホルク北部の出身であるからだろう。
猫背気味でわかりづらいが、背はひょろりと高く、躰に厚みはない。
だらしなく着崩したシャツの上に、学校指定のローブをひっかけているのが、いかにも不真面目な学生――といった風貌だった。
文字通り、変わった毛色をした少年は、強烈な印象を与えながら、ウルリカにはどことなく見覚えがある。
しかし、「彼、堂々としているな……」と呆れたようにぼやくロイクを見るに、どうにも高等実技科の、そして同学年ではないらしい。
(ロイクも知らないとなると、一般教養科にいたころの、同級生とか……? でもあんな目立つ髪をした学生なんて、いたかなぁ?)
ウルリカが密かに首を捻っていると、眉尻を下げて、チェスターは申し訳なさそうに口にする。
「おはようございます。起き抜けにすみませんが、まず、君の名前を教えてくれますか?」
「なまえ……? ニィロ・ロジャーズ……」
ニィロはムニャムニャと、まだ寝ぼけているのか掠れた声音で名乗る。
チェスターは苦笑しながら、「ニィロ・ロジャーズ君ね」と復唱しながら、机の上のノートにスラスラと名前を書き込んだ。授業中に堂々と居眠りをしていたのだ。まず、減点対象となるだろう。
「では、ニィロ君。質問です。〈魔王〉を呼び出した、災厄の根源たる召喚術師の名前を、答えてくれますか?」
(…………えっ?)
ウルリカは思わず耳を疑った。
横を見れば、エステルとロイクはどちらも眉を顰めながらも、困惑した表情でチェスターを見つめていたし、エミールはどこか楽しげに口の端を持ち上げては、続くニィロの言葉を待っているようだった。
同じく、事情を知っているだろう。教室の一部の生徒がザワザワと騒ぎ始めたことで、彼らの動揺が伝わってくる。
しかし、ニィロは。少し考え込んだのち、
「いません」
と、得意げな顔で答えたのだった。




