【11】怒りのビンタ(私怨マシマシ)
ついに来たのだ。反撃の時が。
ウルリカの胸は、緊張で高鳴っている。
盟友の震えを感じ取ったのだろう。ノアは澄んだ瞳で、ウルリカを見つめてくる。
「大丈夫よ、ノア」
ノアとは事前に、入念に作戦会議を済ませていた。
予定通りにやれば、ウルリカたちは負けない。彼にひと泡吹かせることができる。
「あのむかつくお綺麗な顔に、一発かましてやろうじゃないの?」
ウルリカは対戦相手、ロイクを睨みつける。
彼もまた、ウルリカを見据えていた。
その瞳はウルリカが憎くて憎くてたまらないと言うように。嫌悪感を隠そうともしない。
(そして、聞いてやろうじゃない。どうしてあたしに嫌がらせをするのか)
理由がわからないからこそ、ウルリカたちには会話が必要だ。
悪しき獣である〈雪の獣〉とは違う。彼とは言葉で分かり合える。
勝負の合図は、互いの〈聖獣〉が動きだしたそのとき。
ロイクの〈聖獣〉は、彼が在学中に召喚に成功した炎の上位精霊サラマンダー。
今は人型をとっているが、本来は火吹きトカゲ――ある種、『黒トカゲ』のノアと同類である。
だが、ノアは火を吹けない。
彼にできることといえば、飛ぶことと、小さな手でひっかくことくらい。強大な相手に、ほぼ無力なのだ。
サラマンダーは二十代に見える、若い男性の姿をしていた。上背があり、肌の色は浅黒い。
上半身は裸で、彼の逞しい胸板が露わになっていた。白くゆったりとしたズボンと黒い腰布、両手首に金色の腕輪を付けている。
赤くうねる豊かな髪は膝下まで伸び、その毛先は赤い炎で燃えている。太い両腕が握るのは、灼熱の剣。
あの剣で切りかかられたら、ノアは大怪我を負ってしまうだろう。
先に動いたのは、ノアだった。
ノアは空高く飛びあがると、サッと身を翻す。
「ノア、とにかく時間を稼いで、逃げるのよ!」
「ピギャ!」
指示通り、ノアは小柄な体躯を生かし、空を飛び逃げる。
その後ろを、すかさずサラマンダーが追いかけた。
ときに火球を投げるが、ノアはすばしっこく、なかなか当てられないようだ。
(あっちは、大丈夫ね)
ウルリカは視線を、ロイクへと向けた。
杖を持った彼もまた、戦闘態勢に入っている。
ロイクは稽古場にはっきりと通る声で詠唱を紡ぐ。
様子見で威力を落としているのだろう、矢じりのような土の欠片がウルリカを襲う。
ウルリカはあえて、避けなかった。
(うぐっ!)
厚手のローブを、土の欠片が裂く。
ウルリカの灰色の髪が、数本、はらりと舞う。
風圧の中耳に届く悲鳴は、エステルのものだろうか。
彼女は護衛騎士だが、これは模擬戦闘。ウルリカを守ることはできない。
ロイクは手心を加えているのだろうが、痛いものは痛い。ウルリカは呻いた。
(でも、〈黒杖の公爵〉にやられたときの方が、もっと痛かった!)
死ぬかと思った。というか、実際に死にかけた。
それと比べたら、こんな痛み、たいしたことはない。
攻撃を耐えて、ウルリカは杖を放り投げた。
そして。
「うぉおおおおおおおおお!」
走った。全力で走った。
雄々しく叫びながら、なりふり構わず駆けた。猪のように。
その勢いに、ギョッとしたのだろう。思わず攻撃の手を止めたロイクに、ウルリカは勢い強くタックルをかました。
そして、馬乗りになって、彼の白い頬をひっぱたいてやったのだ。
***
ロイクは呆然とした顔でウルリカを見上げていた。
彼は驚くのも当然だ。
本来、応用戦術学は魔術で戦うもの。肉弾戦ではない。
「ロイク・マスカール! あたしのこと、いじめるくらい嫌いなら、ほら、反撃しなさいよ!」
「なっ……」
「まさか女だからって、殴れないとでもいうつもり? だから、陰でコソコソ、嫌がらせを繰り返しているの?」
ウルリカは彼の襟元を掴み上げ、上半身を起こさせた。
「嫌がらせ、とは……?」
ロイクは怪訝な顔で問い返す。
この場に及んでそれを言うのか。ウルリカは苛立ちを抑えて言った。
「とぼけないで。あたしの教本壊したの、あんたでしょう?」
「何の話だ? 俺は知らない。教本を汚損したのか? であれば、新しい物を用意すればいいだろう。俺に責任があると言うのなら、弁償するが」
彼は潔白だと言い張ったが、カッと頭に血が上ったウルリカの耳には届かなかった。
新しいものを用意すればいい。なんて、貴族的な考え方なのだろう。
「新しい物じゃ、代わりにならない!」
ウルリカはギラギラと、瞳に怨恨を宿らせ、彼を睥睨する。
「あの教本はね、エリオットが買ってくれたの! 勉強を頑張りなさいって、一冊一冊、渡してくれたうちの、ひとつなの! エリオットはね、あたしが本好きなのを知ってる。だから絵本でも、教本でも本なら何でも、手渡してあたしだけのものだよってわかるように、名前を書いてくれるの! だからあたしの、宝物なの!」
話しかけても無視したり、失敗を嘲笑したり、聞こえるように陰口をたたいたり、授業で仲間外れにしたり。傷つくけれど、実害はない。
躰を痛みつけられても、傷はいずれ治る。
でも。
宝物を失ったら、二度と戻らないのだ。
「返してよ、あたしの宝物! 返せ、返せ、返せっ!」
「……」
ロイクは黙り込んだまま、何も言わない。
どうして何も言わない。ウルリカは感情のあまり、再び彼の頬を打ち付けた。
それでも彼は、無抵抗だった。
再三、手を振り上げたウルリカの腕を握ったのは。
「やめなさい、ウルリカ」
宝物を贈ってくれた、エリオットだった。
***
その後、応用戦術学の授業は中断となり、ウルリカとロイクは、個別にエリオットの研究室に呼び出された。
関係者として、エステルやエミール、アンジュやウォーレンも呼ばれている。
エステルとエミールは、壁際にひっそりと立っていた。本来の護衛任務を果たすように。
「今回は応用戦術学、模擬戦闘ということを考慮して、ウルリカ、君の少々行き過ぎた暴力行為は見過ごすことにしよう」
「……」
「そしてロイク。これはウルリカ・ネヴィルの養父エリオット・ネヴィルとして。我が娘の浅慮で野蛮な行いを謝罪する」
応接用の長椅子に座るエリオットは、納得が行かないと頬を膨らませるウルリカの頭を抑え込み、折り目正しく頭を下げた。
彼は言うことを聞かない、幼いこどもを叱る親のような顔で、ウルリカに命令する。
「ほら、ウルリカも謝るんだ」
「……………………やだ」
「ウルリカ」
「やだ! やだやだやだ! なんであたしが謝らないといけないの? 最初に手を出してきたのは、こいつらじゃない!」
ウルリカはエリオットの手を振り払って、向かいに座るロイクたちを指差した。
「ピガ!」
ウルリカの膝に座るノアも不服なのだろう、不満げな鳴き声を漏らす。
頬を赤く腫らしたロイクは、あれからずっと黙り込んだままだ。
彼の隣に座るアンジュとウォーレンは物言いたげに、互いに視線を交わしつつも、しかし口を開こうとはしない。
「……ちっ。被害者ぶりやがって」
ウルリカが毒づくと、「ウルリカ」と、エリオットの窘める声が飛んでくる。
「まあ、ここらで互いにスッキリさせておこうではないか」
重い空気を壊すように、お気楽な口調で言うのは、抜け目なくウルリカの隣に座り話を聞いていたハーヴェイだった。
「代表して、ロイク・マスカールに問おう。おまえさん、ウルリカに一方的に恨みを募らせているようだが、その理由は何故だ」
フラホルクの千年守護者に問われては、黙秘を貫けないのだろう。
ロイクは重い口をようやく開いた。
「国宝様。それは彼女ウルリカが、エリオット・ネヴィル先生の未来を奪ったからです」
「……はぁ?」
意味がわからず、ウルリカは思わず、疑問の声を漏らす。
ロイクは立ち上がると、間抜けな顔をしたウルリカを、やはりギラギラと怒りと憎悪の滲む瞳で睨みつけた。
「何が『我が娘』だ。本当の娘でもないくせに! ウルリカ。君を引き取らなければ、エリオット先生は宮廷召喚術師を辞めないでいた! 君のせいでその身分を捨てることになった!」
――ウルリカがいなければ、エリオットは宮廷召喚術師でいられた。
ウルリカは息が止まりそうになった。
こんなふうに、直接的に言われたのは初めてではない。
彼の元仕事仲間から、彼の親戚から、何度も言い聞かされたではないか。
そのたびに、ごめんなさいと口にして。
だから、つい癖で、ウルリカは「ごめんなさい」と口にしようとして――。
「こいつさえいなければ――」
そのとき、パン、と乾いた音が響きわたった。
驚愕に目を見開いているロイク。
彼の前には、エステルの姿がある。
エステルは可愛らしい顔を真っ赤に染めて――憤怒の表情でロイクに吐き捨てた。
「ロイク・マスカール! あなたに、それをいう権利はない!」
「なっ……!」
驚いたのは頬を叩かれたロイクだけではなかった。
校内では禁じられている暴力行為。それをあのエステルが、破ってしまったのだ。
ウルリカはそっと、エリオットの顔を窺う。
エリオットは険しい表情で、だが、その視線はエステルに向けられていた。
「エステル・コルネイユ。魔導学院内での暴力沙汰は、停学処分となる」
エリオットの声が一段と厳しいのは、教員としてだけではないだろう。
エステルが本来、ウルリカとノアの護衛騎士であることを知っているから。
彼女が停学処分となり、数日謹慎することになれば、本来のお役目を果たせなくなってしまう。
確かにロイクの発言は度を越していたが、彼女が手を出すほどのことではない。
(どうして……)
ウルリカが問いをくちにする前に、彼女はプルプルと震えながら、叫んだ。
「わたくしのっ、とっ、友達が悪く言われているのに、手を出して、悪い、ですかっ!」
まさかの開き直りである。
でも。
(友達。……エステルは、護衛騎士、なのに)
ウルリカの胸のあたりが、妙にザワザワとした。