【8】ウルリカはつよいんだ!
ノアを真に守れるのは、ウルリカだけ。
ハーヴェイからそう告げられてからしばらく経たぬうちに、事件は起こった。
ウルリカとエステルが教室に入ったとき、クスクスと悪意に満ちた笑い声が聞こえる。
(また、いつもの……)
げんなりしながら自席に戻ったウルリカが見たものは――ボロボロに破られたフラホルク歴史学の教本だった。
ウルリカが嫌がらせを受けるのは、実はこれが初めてではない。
魔導学院に復学し、高等実技科へ転科して一週間もすれば、ウルリカへの嫌がらせがはじまった。
内容は、ウルリカが話しかけても無視したり、失敗を嘲笑したり、聞こえるように陰口をたたいたり、授業で仲間外れにしたり……と、直接的な被害の出るものではなかったけれど。
一般教養科にいたころから『おちこぼれ』のウルリカはそういった扱いに慣れていたし、授業ではエステルとエミールがいる。
支障はなかったが、ウルリカも血の通った人間だ。ひとつひとつ取り合うことはなくとも、密かに傷ついていた。
だが、実際に実害がでてしまったら。
「ピガ……」
ノアが何か感じたのか、頬にザラザラの体を擦りつける。
ウルリカは無言で、教本を手に取った。
教本の中の頁はところどころ破かれ、ご丁寧にも文字が読めないよう、黒いインクで無造作に落書きがされている。
ウルリカは本が好きだ。
山間の貧しい村では、その日食い繋ぐのでさえ精一杯だったから、当然、本の一冊も無かった。
ウルリカが初めて本を手に取ったのは、エリオットに引き取られてからのこと。
ろくに読み書きもできなかったウルリカに、文字を教えたのはエリオットだ。
彼の家には立派な書架があったので、ウルリカが本に触れる機会は自然と多くなった。
召喚術に興味を持ったウルリカ。初めて召喚術に関する本を、初めてエリオットに買ってもらった。
誰でもない、ウルリカのために。ウルリカ・ネヴィル、と持ち主の名前まで書いて。
ウルリカは嬉しさのあまり本を抱きしめて寝て、翌日エリオットに窘められたくらいだ。
買ってもらった本は擦り切れるまで、何度も何度も読み返した。
幼いウルリカはあまりにも知識に乏しかったから。
知らない知識に触れる喜びすら、ウルリカは知らなかったのだ。
年を重ねて、初めての感動が薄れたとしても、学びの愉しさが褪せることはない。
「あのぅ、ウルリカ。どうしたんですか?」
不穏な様子に気づいたのだろう。一度自分の席に向かったエステルだったが、ウルリカの傍に寄ると、戸惑いがちに名を呼んだ。
彼女はボロボロの教本を目に留めると、かたちのよい眉をひそめる。
「……ひどい。イタズラにしては、度が過ぎています。誰がこんなひどいことを……!」
「……」
「わたくし、許せません。犯人を、捜しますっ」
エステルは厳しい顔で教室を見渡したので、ウルリカは慌てて彼女の袖を引いて止めた。
「だめ、だめ。エステル、やめて」
「……ウルリカ?」
驚きに満ちた銀色の瞳が、ウルリカをまっすぐに見つめた。
ウルリカは彼女からフイと視線を逸らすと、苦い顔で口にする。
「あんたの立場が悪くなるわ。……ただでさえあたしと一緒にいて、浮いてるのに」
「で、でも、わたくしの役目は……」
途中まで言いかけたエステルは、歯がゆそうに口を噤む。
エステルは護衛の任務でウルリカの――正確には、ウルリカの〈守護聖獣〉であるノアを守るためにウルリカの傍を付き従っているにすぎない。
ウルリカを守ること。それは彼女の護衛としての本分だ。
だが、ウルリカ自身への嫌がらせについては、その身に危険が及ばない限り、彼女の任務の範疇ではない。
(わたくしの役目、か……)
エステルもエミールも、優秀な護衛騎士で学友と思えばいい。だが、差し向けたのはフラホルクの王室だ。
王室の、彼女たちの狙いが今一つわからない以上、エステルに必要以上関与されるのは避けたいところだ。
そのほっそりとした手首をウルリカは掴み、頼み込んだ。
「エステル。お願い。何もしないで。誰にも言わないで」
「ウルリカ……」
「……これはあたしとノアの護衛とは関係がないこと、でしょ?」
エステルはくしゃり、と顔を歪ませた。
「……ウルリカが、そのように、言うなら」
やがて観念したようにふぅ、と息を吐くエステルに、「約束よ」と念押しして。
ウルリカは震える手で、パタン、とボロボロの教本を閉じた。
***
「ウルリカ。君、いじめをうけているね?」
それからウルリカが帰宅して、夕食の用意をしていたときのこと。
深刻な声色で訊ねたのは、エリオットである。
「……な、何で……?」
意表を突かれて、ウルリカは狼狽えた。
野菜を切る手を止めて、落ち着きなく視線を泳がせる。
キッチンにはウルリカとエリオットと、ノアの三人。魔導学院内では見事な『黒トカゲ』に擬態するノアも、家では人型に戻っていた。
竜の姿では魔力を多く消費するらしい。成長途中の彼は、人型の姿のほうが、かえって調子が良いとのことである。
今は子ども用の椅子に座って足をブラブラとさせながら、両手で持ったリンゴに齧りついていた。
洒落者のエリオットが選んだ黒いシャツに、ひざ丈の黒いズボン。
ところどころにレースや刺繍が散りばめられたそれは、可愛らしい顔立ちのノアによく似合っている、と思う。
本来であれば靴も履かせたいところだが、ノアは「ニンゲンの履物は窮屈でイヤ!」とひどくごねたので、エリオットは困った顔をしながらも、彼の好きにさせていた。
頬にべったりと果汁をつけたノアが、首を傾げる。
「エリオット。イジメって、なんだ?」
「一般的には、強者が弱者を一方的にいたぶる行為を指して言う」
ノアはぷう、と頬を膨らませてぼやく。
「エリオットのことば、むずかしくてよくわかんない……。でも、ウルリカは弱くなんてないぞ。強いんだぞ。だから俺のこと、助けてくれたっ!」
「そう。ノアがいじめられていたところを、ウルリカは助けてくれた。強い子だ」
「うん! ウルリカは、強い! さいきょうだ!」
食器棚に身を預けていたエリオットはくすりと笑うと、黙り込んだウルリカの手から包丁を取り上げて、まな板にそっと置いた。
それから、どこまでも穏やかな声色で言う。
「ウルリカ。君が強い子なのは、知っている。でも、家族の前で強がる必要はないんだ」
「……強がってるわけじゃなくて」
「心配させたくない? もう散々心配、かけているのにな?」
違う。
それもあるが、情けなく弱っている姿を見られるのが、恥ずかしいのだ。
一般教養科にいた頃から、嫌がらせやいじめの類はあった。
エリオットも察していたのか、時々探りを入れるように、「困ったことはないか?」と聞かれても、ウルリカはヘラヘラと笑顔で誤魔化した。
だから気丈に振舞いたいのに。
「なあ、ウルリカ。何で泣きそうな顔、してるんだ?」
椅子からぴょん、と飛び降りて、ウルリカの腰に抱き着いたノアが、フン、と鼻息荒く宣言する。
「ウルリカがイジメ、されてるなら、こんどは俺がたすける! 守ってやる!」
「…………ノアぁ」
幼くも、なんて心強いのだろう。
そんなことを言われたら、とてもではないが、強がりなんて装えない。
わんわんと泣きじゃくるウルリカと、急に泣き出したウルリカにびっくりしたノアを、エリオットは黙って、まとめて優しく抱きしめた。