【18】長い冬が終わる
ツンとした匂いが、鼻孔をくすぐった。
普段嗅ぎ慣れない香りが薬のそれだと気づいたとき、ウルリカは重い瞼を開いた。
起き掛けの視界は二重にも三重にもブレている。
しばらくすると、ようやく視線の焦点があってくる。
自室とは違う、白い天井。躰は倦怠感を覚え、指先すら動かない。
もどかしく思いながらも、左手に力をこめる。ピクピクとなんとか指先が動いて、あたたかな何かに触れた。
「……ウルリカ?」
今にも消え失せてしまいそうなほど、弱弱しい声が、ウルリカの名前を呼んだ。
ウルリカは口をはく、はくと動かしたけれど、どうにも声が出ない。
内心困っていると、瞼を赤く腫らし、すっかり憔悴しきった顔のエリオットが、ウルリカの顔を覗き込んだ。
「……目覚めた、のか?」
ウルリカはまた唇を動かした……つもりだが、実際には動いていなかったのかもしれない。
また、左手に力を込める。その左手をあたたかい何かが包み込んだ。
(…………エリオットの、手だぁ)
今では繋ぐ機会はなくなってしまったけれど。
両親を見舞った帰り道、幼いウルリカの手を引いて歩いたのはエリオットだ。
ウルリカの氷を融かしたのも。だからウルリカは、この熱を覚えている。
ウルリカを見下ろすエリオットの髪はボサボサで、うっすらと髭も生えていて、ほとんど眠っていなかったのか、目の下にはひどい隈が刻まれている。
食事もろくに摂っていなかったのかもしれない。きれいな曲線を描いていた頬が、痩せこけている。
こんな状態のエリオットを見るのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。
「一週間、眠り続けていたんだ」
ポツリ、とこぼす。
「僕が報告を受けたとき、君はひどい怪我を負っていた。ロドルフに背負われて、一緒にいたハーヴィも満身相違で……。戻るなり彼も意識を失って、それからふたりとも、病院に運んで……。治療して。彼はすぐに目覚めた。流石だな、女王の番は……。でも、…………君は一向に目覚めなくて」
彼も口が回らないのか、たどたどしい口調で、エリオットは呟く。
(そっか、ハーヴィおじいちゃん、無事、だったんだ……)
〈黒杖の公爵〉の攻撃を受けて、ハーヴェイもまた深手を負っていた。
エリオットの報告を受けて、ウルリカの胸に安堵が広がる。
エリオットは言葉を詰まらせた。彼の白い頬を涙が伝っていた。
(懐かしいな……)
そうだ。故郷の村が〈雪の獣〉に襲われて。ウルリカが一人目覚めたときも、こうして彼は涙を流してくれた。
「ずっと。眠り続ける君を、見ていたよ」
ウルリカは目覚めたら、エリオットに言ってやりたいことがたくさんあったのだ。
それなのに躰が重く、熱い。気を抜いたら、また意識を手放してしまいそうだった。
「今度こそ、君が目覚めないかと思った。君だけは、この命を賭しても守ると決めたのに」
エリオットはこどものように泣きじゃくっている。
「僕はなんて、無力なんだろう……」
(そんなこと、ない)
優秀な彼はその力を驕ることなく努力を重ねていた。
呪術に秀でた召喚術師でさえ、解呪は絶望的だと匙を投げても、彼は研究に没頭した。
諦めて魔導兵団に戻るようかつての同僚に勧告されても、彼は過去の文献を読み漁り、術式の解析を進めた。
その姿を一番近くで見守って、ひたむきに奔走する姿を知っていたはずなのに。
(でも、あたしは信じようと思った、その気持ちを忘れて、エリオットを疑った…………)
彼に何か、言葉をかけてあげたかった。
あの日彼が、ウルリカに与えてくれたように。
ウルリカが口を、喉を動かしていると、ようやく小さな声を出すことができた。
「え……り…………」
「ウルリカ?」
エリオットが瞬きをすると、ウルリカの口元に顔を近づける。
ウルリカは掠れる声で、ほとんど吐息のそれを絞り出すようにして言った。
「エ、り……おっと……、は…………」
「うん……」
エリオットはウルリカの左手を両手で包み込む。
ああ。
なんて、あたたかい。
「あ……た、シの、こオ、り…………とかし、て……ふユ……おわ……て……、ハる、くレ……た…………」
「……そう、かな」
「う、ん…………」
あと少し。少しなのに。瞼が重い。
一輪の花を、花瓶に飾りたいと言ったとき、エリオットはとても嬉しそうな顔をして。
その笑顔をまた見たいと思ったから。
魔法使いに、憧れたのだ。
あの、春の風を運ぶ、魔法使いに。
「あ、たし……も、えり、オっ……とみた、いな……」
頭にぼんやりと、白い膜がはる。
「ヤ……さ、し……クテ、あた……た、かい……ひと……、に」
なりたい。
そこまで言えずに、ウルリカの意識は泥の海に沈んだ。
***
目覚めたウルリカは、再び眠りに落ちてしまった。
医師に伝えれば、しばらくすればまた目を覚ますだろうと。今はとにかく、怪我を治すために休息が必要なのだと、彼は言う。
エリオットはウルリカと同じく、スヤスヤと眠る〈聖獣〉のこどもを抱きながら、病室を後にした。
向かった先は、ウルリカの祖父が眠る墓地。
白い墓石の下に、彼女の祖父、そしてエリオットの恩師は眠っている。
墓石には、いつかのように、白い花を手向けた。
「ライノ先生。何の因果でしょう。貴方の孫たちが、こうして僕の元に揃った」
返事はない。彼の骸はとうに朽ち果てている。
エリュシオン大陸の南部に根付く〈星葬画〉は、ここフラホルク統一王国では一般的ではない。
古い文献で読んだことがある。かの〈星葬画〉は魂を『永遠』に生き永らえさせるのだと。
もし彼が生きていれば、この現状をどう思っただろうか。
「ライノ先生。その娘アルカアンニカ。あの日僕の前から姿を消して、ライノ先生の孫の片割れは。次代の王子に。そして片割れは、恩讐を胸に、召喚術師を志そうとしている。ふたりは垣根を越えて、いずれ〈境界〉を壊す存在となるでしょう」
その時、ウルリカたちの存在はフラホルクの敵となる。
「貴方の夢が叶ったとき、世界のすべてを敵に回しても、僕は命を賭しても彼らを守る。もう二度と離さない。だから」
「地獄で、待っていてくださいね。ライノ先生。そして、愛するアルカアンニカ――」