【17】いつか、春の風が吹いたら
祖父の死を知らされ、目を覚まさない両親を前にして、ウルリカはすべてに絶望した。
自分一人が目を覚ました、この世界を呪った。
悪戯な災禍に、世の不条理を嘆いた。
魔導兵団の無力さを心の底から恨んだ。
すべての元凶である〈雪の獣〉を何よりも憎んだ。
そして、嘆き怨敵を憎むだけで何もできない。非力なこの身が嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで、どうしようもなかった。
誰かを想うだけで辛い。何かを考えるだけで、心がジワジワと黒く染まる。
何も考えずに生きていられたら。
そんな風に願い続けていたら、いつのまにか、ウルリカの心は凍っていた。
(これでいい)
喜びも悲しみも、楽しさも苦難も、幸福も痛みも、何ひとつ感じなくていい。
何事に興味を示さずとも、何事に関心を抱けずともかまわない。
だって、今眠りについている両親と、村の皆と……お揃いでいられる。
それに死んでしまった祖父は。もう二度と、そのいずれも叶わないのだから。
息を吸っているのか、吐いているのかわからない。
両親が眠る施設からの帰り道、養父となった男に――エリオットに握られた指先の感覚はほとんどない。
躰の全身を流れる血がつめたいのか、あたたかなのかも、わからない。
硬い氷の檻に閉ざされて。それでいいと思っていた。
だけどあの日エリオットは。物言わない両親との面会から帰宅して、花の種を手にしたエリオットは。
凍ったウルリカの手のひらに種をのせて、泣きそうな顔で笑ったのだ。
「長い冬が続いても、いずれ春は訪れるんだよ、ウルリカ」
エリオットとともに、植木鉢に花の種をふたつ植えた。
適度に水を与えなさい、とエリオットは言った。
ウルリカはその約束を守った。だって、エリオットがそうしなさいと言ったから。
何日か水をあげ続けて、植木鉢に変化はなかった。
それからしばらく経ってもまだ変化がない。
土の中から種を拾い上げたエリオットは「水をあげすぎて腐ったんだ」と呟いた。
失敗した。
怒られるかと思ったのに、エリオットの指は、なぜか優しく腐った種を撫でた。
エリオットはまた新しい種をふたつ、用意した。
そうして水やりをするウルリカの傍に付き添った。
何日か水をあげて、小さく、ほんの小さな芽がひとつ出た。
植木鉢を持ってエリオットに見せにいくと、エリオットは嬉しそうに微笑んだあと、今度は陽を当てて適切に水を与えるのだと言った。植物は光を浴びることで栄養を得るのだとも。
エリオットが教えてくれた光合成の仕組みは、幼いウルリカにはわからなかったけれど、ウルリカはその約束を守って、庭の一番日当たりのよい場所に植木鉢を置いて、水を与えることにした。
エリオットがそうしなさいと、言ったから。
少しして、もうひとつ小さな芽が飛び出した。
何日か水をあげて、ふたつの芽は伸びて、蕾がついた。
膨らむ蕾に優しく指を添えるエリオットは、
「何色の花が咲くかな」
とウルリカに訊ねてきた。
蕾は白い。考えるまでもない。白い花弁に決まっていると、ウルリカは思った。
だけど口には出さず、小さな蕾を静かに見つめた。
数日後、蕾は開いた。
ウルリカの予想通り、白い花が咲いた。綺麗な花が、ふたつ並んだ。
「可哀想だけれど、綺麗なうちに」
そう言って、エリオットははさみで茎の根元を切った。
二輪の花を差し出しながら、エリオットは訊ねてくる。
「おとうさんと、おかあさんに持っていく?」
ウルリカは彼の言葉に従って、頷こうとして、けれど、口では違う言葉を紡いでいた。
「……おじいちゃんに、あげたいの」
ウルリカの言葉を聞いたエリオットは、目を丸くして、驚いていた。
ウルリカも、たぶん、驚いていた。
こんなふうに、何かをしたいと思い、口にするのは本当に久しぶりのことだったから。
困惑して何も言えずにいるウルリカの頭を、エリオットは優しく撫でた。
エリオットは穏やかな笑みを浮かべて、「そうしようか」と頷いた。
エリオットに、祖父が眠るという墓地に連れてこられた。
白くてつるつるとした石の下に祖父は眠っているのだという。
山間の村にいたころ、人が死ねば、山の土を深く深く掘り返して遺体を埋めた。
浅いところに埋めると、獣が掘り起こし食べてしまう。だから人間がどこに埋めたかもわからないように形跡も残さず弔うのだと、おとなたちは教えてくれた。
当然、墓標なんてものはなく、ウルリカの遠い先祖がどこに眠っているのか、ウルリカは知らない。
ウルリカの左手を、エリオットが握っていて。ウルリカの右手には、二輪の花が握られていた。
一輪だけ、ウルリカは墓前に供えた。
エリオットは少し考え込んだ顔をして、
「もうひとつ、種を植えればよかったね」と呟いた。
空は灰色の厚い雲に覆われていた。ウルリカの頬を、冷たい風が吹きつけた。
ウルリカはじっと、白くてつるつるとした墓石を見つめた。
ウルリカと並んで墓石を見つめる青い瞳は、寂しげに微笑んでいる。
「君はどうして、おじいちゃんに花をあげたいと思った?」
ウルリカは考えた。
わからない、と答えを返せば簡単なのに。
なぜだか答えを見つけなければならないのだと、ウルリカはそう思ったからだ。
考えあぐねるウルリカの答えを、エリオットは静かに見守っていた。
「おじいちゃんが、生きていたころ……」
長い時間をかけて、ようやくポソリ、とウルリカは口にする。
「あたし、花を、あげたの。……山に咲いていた、野花」
「それは、どうしてか、覚えている?」
「…………おじいちゃん、元気がなかったから」
言葉にすると、おぼろげな記憶が、鮮やかに蘇る。
優しくて大好きだった祖父が、その日は珍しくひどく気を落としていて。暗い表情を見せるから何かあったのかと訊ねれば、彼はなんでもないのだと、嘯いて首を振る。
なんでもなければ、そんな顔をするはずがない。
いつものように笑ってくれるはずだとウルリカは思った。
貧しい村で、食料に限りがある。ウルリカはだいたいお腹を空かせていた。
お腹が空いていると力が出ない。元気もでない。祖父もきっとお腹が空いているのだと思った。
だから、ひとりで山に出かけるのは危険だからいけない、と両親に口を酸っぱくして言われていたのに、 その約束を破ってこっそりと山に出かけた。
何か食べられるものを探すために。
山間の冬は長い。長い冬がようやく明けて、食べられる植物の類は、目覚めた獣たちに食いつくされ、まったく見つからない。
ウルリカが一日かけて見つけられたのは小さな野花だ。
今思えばその野花には毒があり、それを知っているから獣たちは口にはしなかったのだろう。
野花を見つけたとき、ウルリカは目を輝かせて、宝物のように抱きしめてはいそいそと村へ持ち帰った。
ウルリカが村に戻ったとき、村では大騒ぎだった。どうやら、何も言わずに消えたウルリカの身を案じて探していたらしかった。
ウルリカの姿を目にした祖父は、皺だらけの顔を涙でぐしゃぐしゃにして、ウルリカを抱きしめた。
その躰は震えていた。寒いのだろうか。ウルリカは祖父の躰を擦った。それでも祖父は泣き止まない。
すまない、すまないと、謝りの言葉を繰り返す。
わたしのせいで、おまえはこんなにも辛い思いをしているのだと。
山間の村での生活はつらいことばかりだけど、それは祖父が悪いのではない。
それに何よりウルリカにとっては、祖父が泣いていることの方が、ずっとずっと、つらかった。
いよいよ困ったウルリカは祖父に野花を差し出した。
差し出したあと、これだけではお腹が膨れない、と思ったけれど、ないよりはマシだろう。
おじいちゃんにあげる、とウルリカがオズオズ言うと、祖父はとても驚いた顔をして――それからいつものように、笑ってくれたのだ。
「おじいちゃんに、花をあげたら。笑ってくれたから。だから、また、……笑ってほしい」
するすると、口をついて出た。
「笑ってくれたら、それだけで、いいの……」
どうして、自分でもこんなことを言うのか。驚いていると、ウルリカの頬を涙が伝った。
(なんで、あたし、泣いてるんだろう……? もう、氷に全部、閉じ込めたのに)
ウルリカはペタペタと頬を触った。
わかっているのだ。死んだ人間が生き返らないことなんて。
祖父は二度と喜びも悲しみも楽しさも苦難も幸福も痛みも、何ひとつ感じない。
ウルリカの言葉に耳を傾けることもウルリカを抱きしめることもウルリカに笑いかけることも、その望みは一切叶わない。
そう思ったら、決壊した。
氷の檻の中で、大切に大切にしまい込んでいたものが、ボロボロボロボロとこぼれ落ちてきた。
気づけばウルリカはワンワンと泣きだしていた。
そんなウルリカをエリオットは包み込んでくれた。
「無力で、ごめん。君に何もできなくて、ごめん……」
おじいちゃんを助けられなかった、召喚術師たちを心の底から恨んでいた。
その気持ちは今でも変わらない。
だけど、今。
ウルリカを震えながら抱きしめるエリオットを前にして、ウルリカは何も言えなかった。ただ抱きしめられていた。
泣き止んだウルリカを、エリオットは次に、両親が眠る病院へと連れて行った。
灰色の病室で両親は眠りについている。
「おいで、〈春の女神〉」
彼が優しい声音で呼び寄せると、美しい姿をした、春の化身のような乙女は、ふぅ、と静かに甘い息を吐きだした。
灰色の病室に、鮮やかな花びらが舞い散る。
(こんなにたくさんの花……初めて、見た…………)
ウルリカはおっかなびっくり手を伸ばす。ふわふわと落ちる白い花弁を、受け止めようとしたのだ。
けれどそれは、ウルリカの手に触れた途端に、雪のように儚く消えてしまった。
「魔法の花だから、触れたら、消えてしまうんだ」
〈春の女神〉のあたたかな吐息が、ウルリカの頬をくすぐった。
穏やかな風が花弁を運び、窓の外へ外へと、流れていく。雲の隙間からは細い光が差し込んでいた。
世界は再び灰色に戻ったけれど、両親の顔はこころなしか、ほんの少しだけ、微笑んでいるようにも見えた。
それは魔法の花が見せた、とても都合のいい、ひとときの淡い幻かもしれないけれど。
「これが、召喚術、なの?」
ウルリカがエリオットを見上げて訊ねると、青い瞳をわずかに瞠ったエリオットが「そうだよ」と答えた。
それからウルリカに目線を合わせるように跪くと、花を持っていない方の手を、エリオットは両手で握りしめた。
「長い冬が続いても、いずれ春は訪れるんだよ、ウルリカ」
いつかと同じ言葉を、エリオットは口にする。
「眠りについた君のお父さんとお母さんと、村の人たちは、僕が必ず目覚めさせるから。それにはとても時間がかかるだろうし、正直に言えば、その方法は見つかっていない。難しい問題で安易に約束してはいけないとわかっていても、それでも僕は誓うし、諦めない。君の氷が融けて、春が訪れることを願っているから」
――止まっていた心臓が、動き出した。
ウルリカの中で、トクトクと、静かな鼓動を刻んでいる。
エリオットに握られた指先から、じんわりと熱を取り戻していく。
灰色の病院は寒々しいのに、あの日祖父に抱きしめられたときのように、躰はあたたかい。
「エリオット……あのね、あのねっ」
「うん」
「召喚術って、…………すごく、素敵ね」
そして何よりも、エリオットが。ウルリカの心にひとつ、春風を吹かせたのだ。
ウルリカがモジモジと言うと――エリオットは頬を染めて、はにかんだ。
ウルリカは視線を下に落とす。
握られた一輪の花は凛として咲いている。
家に帰ったらとびっきり素敵な花瓶に飾ろうと、ウルリカは決めた。