第98話 嫌われ『ポール』は理想の王宮で断頭台
人間、信じたくない光景を前にすると身動きが取れなくなるものだと……ヴィクターはこの時、久しぶりに思い出した。
ポールの膝に乗っているクラリスにもあの洗脳は効いているのか、彼女は嫌な顔ひとつせずにこの状況を受け入れている。いや、そもそもなにが起きているのかすら分かっていないのだろう。
これが昨日彼女と喧嘩した後に見た夢だったのであれば、とんだ悪夢だと笑い話にでもしたことだろう。しかしこれは現実……到底許容することのできない現実に起きた悪夢だ。
震えるヴィクターの左手はしっとりと汗ばんでいて、しっかり掴んでいないとステッキを滑り落としてしまいそうだった。
「君の顔、なんだか見たことがあるなぁ……そうだ! 昨日町に降りた時にクラリスちゃんと一緒にいた人だろう! 一番に駆けつけてくれるだなんて、なんて友達思いなんだろうねぇ」
そう言って、ポールがクラリスの腰を引き寄せた。その刹那――
「――あ?」
ポールの動きが、止まった。
彼はポカンと口を開けたまま、クラリスがいるのとは反対側。違和感を覚えた右肩におそるおそる目を向けた。
肩周りが、濡れている。一見、礼服を着ていて分からないが、どうやら血が出ているようだ。鉄臭い臭いがポールの鼻を突く。よく見れば彼の肩口には――穴が空いていた。
「あ、あああああッ!? いたい……いたい、いたいいたいッ! ちが、血が出てるゥ!?」
「……それ以上喋るな、外道。今すぐクラリスを離せ。さもなければ……次は頭を狙う」
ポールの頭へと突きつけた杖先。宝飾から上がる硝煙の向こうでヴィクターがそう告げる。
こんな時でもポールは大事そうに無事な左腕でクラリスを抱えていた。手に入れたばかりの偽りの愛情を、意地でも離したくないのだろう。
ヴィクターの我慢は、数秒と待たずに限界を迎えた。
「離せと――言っただろうッ!」
再び熱を持つ宝飾。先程ポールの肩目掛けて放たれた光線よりも、さらに眩い光が杖先に集まっていく。
狙いは、あの醜い面を痛みと恐怖に引きつらせたポールの眉間。ここまで準備をするのにわずか一秒。殺ると決めた時からもう……手は震えていなかった。
そして魔力が放出される、まさにその瞬間――
「……どけよ、フィリップ。邪魔したら次はただじゃおかないって言ったのをもう忘れたのか。一緒にこの場で消し炭にしてやってもいいんだよ」
「ばか、少し落ち着けヴィクター! オマエ、その勢いで撃ち込んでクラリス・アークライトまで巻き込むつもりか!? それはオマエの本意じゃねぇだろ!」
「……」
ヴィクターの腕を掴んで魔法を中断させたのは、他でもない。彼とポールとの間で一部始終を見ていたフィリップであった。
目の前に立ち塞がる男の顔をじっと睨みつけたまま、ヴィクターがステッキを下ろす。不発となった魔力が空気に溶けていき、やがて苺水晶はその輝きを落ち着けた。
「キミは……ワタシとクラリスの仲を引き裂きたかったのではないのかね。彼女が死ねば万々歳なんだろう? なら、止める義理なんて無いと思うが」
「ああそうだね。もちろんオレはポールちゃんを利用してクラリス・アークライトをオマエから引き剥がそうとした。だが、死別は違う。今止めなきゃオレもオマエも後悔すると思ったんだよ」
「は? なんだよそれ……フィリップ。キミ、ずっと言ってることとやってることがちぐはぐじゃないか。ワタシをからかっているのか?」
「違う! オレはただ、四百年前のことをずっと後悔して……だからこれ以上オマエが辛い思いをしないように、オレの見えるところで守ってやりたいだけで――」
その時だ。フィリップの背後でミシリと、なにかが軋む音がした。
今の物音ひとつでなにが起きたのか、察しがついたのだろう。とっさにフィリップが振り返り、ヴィクターも彼に続いて音の出どころへと目を向ける。
音を立てていたのは、ポールが座っていたあの豪奢な椅子だった。
ヴィクターがおかしいと感じたのは、すぐこと。椅子が軋む音が段々と大きくなり、右の肘掛けが弾け飛ぶ。もちろん椅子がひとりでに壊れはじめたわけではない。――ポールの体が、膨張しはじめているのだ。
「いたい……いたい……ああ、許さないぞ……。せっかくの僕とクラリスちゃんの盛大な結婚式を邪魔しようだなんて……あの男、絶対に許さない!」
「ッ、おい待てポールちゃん! そんなダメージを負った状態で魔導士が魔法なんて使ったら……!」
フィリップが制止の声を上げるも虚しく、ポールは『最高の魔法使い様』から与えられた洗脳の暗示をヴィクターに掛けようと目を見開き――零れた。
なにが零れたかなんて、今更挙げずとも答えはひとつしかない。ポール自身の目玉だ。まるで切り崩したショートケーキから落ちた苺のように、いとも簡単に彼の目玉はカーペットの上へと転がり落ちてしまったのだ。
そして瞬きも許さぬ次の瞬間――ポールの全身は、何倍にも膨張した。
風船に無理やり水を流し込んだみたいだ。ポールの頭、腕、足、腹がそれぞれ段階を踏んで膨張し、ついに耐えきれなくなった椅子が粉々に破裂する。
これに堪らず弾き飛ばされたのは、ポールの膝の上に乗っていたクラリスだ。ポールの腹に押し出された彼女は、綺麗に空中を飛ぶなんてこともなく――ただ、べちゃりと床に落下する。
もちろん魔法で洗脳されていたクラリスに、受身をとるだなんて選択肢ができるはずもない。あえなく全身を強打した彼女は――
「――いっだぁ!?」
盛大な悲鳴を上げた。
――私、もしかしてまた眠って……? ここは……まだお城だよね。さっきまで王様と話していたはずじゃ……
寝起きにロフトベッドから落ちたみたいに、頭がぐらぐらして目が回る。
重い頭を持ち上げてクラリスが周囲を見渡すと、少し離れた場所に見知った顔がいるのが目に入った。あれはフィリップと――ヴィクターだ。彼がクラリスを助けに来てくれたのだ。
「あっ、ヴィクター! 良かった、やっぱり来てくれ――」
「クラリスッ! 早くそこから離れるんだ!」
「……え?」
必死な形相で叫ぶヴィクターの言葉に、クラリスの表情が固まる。彼女が頭上に圧迫感を感じたのは、すぐのことだった。
「な、なにこれぇ!?」
思わず口から出てきたのはそんな感想だけで。
上を見上げたクラリスの視界いっぱいに広がっていたのは、鼠色をした足。大きさはクラリスが五人いてもまだ周りを巻き込む余裕があるほどに巨大で、それは今まさに、彼女を踏み潰すために降ってきている途中だったのだ。
今走り出せば間に合う……だからヴィクターの指示通り、クラリスは起き上がって前に踏み出そうと――したのに。
――なんなのこのドレス!? 重いし、足が裾を踏んじゃってて起き上がれない!
そこで初めて、クラリスは自身が趣味の悪いネオンピンクのドレスを身に纏っていたことに気がついた。きっと意識の無い間に着替えさせられたのだろう。
童話のお姫様が着るかのようなシルエットのドレスは転んだ拍子に床にふんわりと広がっていて、本来踏み締めるべきカーペットの姿が隠れてしまっている。
立ち上がろうにも裾を踏みつけてしまっていては、上体を起こすことすらできやしない。そう考えていた次の瞬間――
「ッ……!」
パチン。諦めかけたクラリスが、なにかの弾ける音を聞いたのはその時だった。
「……あれ、ヴィクター……? 私、いつの間にアナタのところに……?」
一瞬の浮遊感の後、クラリスの目の前にはヴィクターがいた。
ドレスには黒い羽根が何枚も絡まっていて、知らぬ間に立ち上がることができていたのか、慣れないヒールの靴にバランスを崩しそうになるのを抱きとめられる。
これは……前に彼が言っていた、事務的なボディタッチはドキドキしないというものだろうか。腕の中のクラリスが疑問の声を上げても、彼の目は前を向いたまま。なにかから目を逸らさず、様子をうかがっているように思えた。
「キミが潰される直前、フィリップが自分と位置を交換したんだ。助けた……というよりも、アレを押し付けて逃げたと言う方が正しいかもしれない。なにせこんな状態になっちゃあ、彼の目論見は全てパァになってしまったも同然なんだからね」
「……アレって……もしかして、あの化け物が王様だっていうの……?」
震える声でクラリスが問う。
彼女達の視線の先――先程まで玉座があった場所には、巨大なナニカがいた。
まず目につくのは、鼠色の大きな頭。人間の、なんかではない。あれは……豚の頭だ。まん丸に大きな豚の頭から直接生えているのは、人間の足が四本。呼吸と共にわずかに上下している全身からは、荒い呼吸が聞こえてくるが――そこにはあるはずの目玉は無かった。
ならばその目玉はどこに行ってしまったのか? 床の上に転がっていたはずのそれは見当たらない。今それがあるのは、もっと上。本来は豚の耳と言われる箇所……そこから生えた大きな蝙蝠のごとき両翼。それらの中心だった。
ギョロギョロと辺りを見回す大きな目玉が、ヴィクターとクラリスを捉える。
『最高の魔法使い様』に与えられた夢と幸福によって、全身を食い破られた魔導士の行き着く末路――魔獣『ポール・マモナ』が二人の前に姿を現したのだ。




