第95話 心、抗えず。深淵へと堕ちていく
「本当!? クラリスちゃん、僕と結婚してくれるの!?」
クラリスの提案を聞いたポールが、さらに勢いよく身を乗り出してきた。
テーブルがミシミシと音を立てて軋み、腹に押し出されたワイングラスが再び床に落ちて粉々に砕け散る。
視界いっぱいに広がるポールの顔の後ろで、フィリップが意外そうに片眉を上げた。
「それでこれ以上、町の人達に手を出さないってアナタが誓ってくれるのなら」
そうクラリスが言うと、ポールは嬉しそうにフィリップの方へと振り返った。
ポールの体が捻られると同時に彼の腹と擦れたクロスが外に引っ張られ、端からソースの掛かった肉の固まりが皿ごと落ちていく。
ぴちゃり。ソースは、近くで割れたグラスの片付けをしていたメイドの顔まで跳ね上がった。しかしその顔は苛立ちに歪むことすら無く笑顔を浮かべたままで、ほうきとちりとりを手に彼女は清掃を続けている。
「聞いた!? フィリップくん! クラリスちゃんが僕と結婚してくれるんだって! 嬉しいなぁ……やっと僕にも綺麗なお嫁さんができる!」
「ああはいはい。ここまで全員断られてたもんな」
「そうだよ……今までの人間は全員泣くか罵るだけで、僕のことなんてちっとも見向きもしてくれなかったのに。クラリスちゃんは女神様みたいな人だ! だから――早速、結婚式を挙げよう! この後すぐ!」
「この後!?」
思わず、クラリスとフィリップから同時に驚きの声が上がった。
ポールは今、なんと言ったのだろうか。この後すぐに挙式を挙げると――まさかこの男は、本気でそんな突拍子もないことができるとでも言っているのだろうか。
「ポールちゃんさぁ……そういうのって、事前に色々準備してからするもんだろ? それはいくらなんでも無理があるんじゃ……」
「無理なんかじゃないよ! クラリスちゃんがこんなに僕を好きだって言ってくれてるのに、僕がその気持ちに応えないわけにはいかないだろう! 別に盛大な式をやりたい訳じゃないんだ。お城で誓のキスをするだけでも僕は十分なんだよ!」
好きだなんて、クラリスは一言も言っていない。もはやポールの頭の都合の良さは、調子に乗ったヴィクターのレベルすらを超えてしまっている。
これにはフィリップも呆れた以外の言葉が見つからなかったのか、彼は「まぁ好きにしろ」とだけ言って、クラリスに同情する眼差しを向けたまま黙ってしまった。
スモーアの事件で協力をしてくれた彼が言っていた言葉。『別の場所で会ったオレが、ここみたいに良い奴だとは思うなよ』――あれはまさに、こういうことを言っていたのだろう。
フィリップはポールに対して諭すような物言いはするものの、止めることこそしない。
この城の中に連れてきたのが彼であることも分かってる以上、クラリスにとっての敵か味方かをあえて判断するのであれば、きっと彼は敵なのだ。
――フィリップさん、本当にどうして……いや、そんなことより今はこれからどうするのかを考えなくちゃ。さっきは勢いで結婚するなんて言ったけど……それはそれとして、キスだけは絶対にイヤ!
とにかくヴィクターが来るまで時間を稼がなくてはならない。
後ろ手に括られた腕の関節が悲鳴を上げはじめる中、クラリスはできる限りの表情筋を総動員して当たり障りのない笑顔をポールに向ける。
交渉は得意ではないが、相手は現在進行形で自分に惚れている浮かれた相手だ。つける隙は――ある。
「お、王様……? 彼の言う通り、私も準備はしてからの方がいいと思うんです。だって……ほら、ウェディングドレスの準備もまだだし、私はお客さんをたくさん呼んでやりたいなぁ……なんて」
「それなら心配しないで! ウェディングドレス……は無いけれど、綺麗なドレスならいくらでも用意があるし、お客さんなら国中からかき集めればたくさんの人に見てもらうことができるよ! なんたって僕は王様なんだからね!」
交渉決裂。ポールを相手にまともな話ができると期待したのが馬鹿だった。
話がどんどんと悪い方向へと向かってしまっている。あくまで捕まった人々を助けるためにクラリス自身が切り出した話だったとはいえ、全てが急すぎて着いていくのが精一杯。ポールがとんとん拍子に話を進めてしまっているのだ。
「それじゃあ……服も汚れちゃったし、僕は着替えてこようかな。クラリスちゃんもドレスに着替えておいで。戻ってきたら盛大な結婚式を挙げてお祝いしてもらおうね」
「ちょ、ちょっと待って! それなら先に他の花嫁候補だった人達を解放してから――」
「いいから、ドレスに着替えておいで。ね?」
その時だ。ポールの飛び出た目玉が怪しい紫色の光を帯びたかと思えば、目が合った瞬間――クラリスの心臓がどくりと跳ねた。
おかしいと感じたのはすぐのこと。眠いわけでもないのに、意識だけがどんどん遠くへ離れていく感覚。視覚も聴覚も仕事を放棄しはじめて、頭の中はクラリスの意思に反して急速にもやが掛かっていく。
まぶたが、重い。助けてと叫びたくて、震える喉から声を絞り出そうと、彼女は力を振り絞って息を吸い込む。そして――
「……はい。分かりました、ポール様」
やがて微笑みを浮かべた彼女の口から出たのは、機械的に並べられたそんな言葉だった。
突然従順になったクラリスを見て、ポールが満足気に口元を歪ませる。そして彼は緩慢な動作で片手を上げると、駆けつけてきたメイド達によって体を支えられて立ち上がった。
先程の言葉の通り、挙式のためタキシードにでも着替えてくるつもりなのだろう。部屋を出ていく直前、彼は一度フィリップへと振り返った。
「フィリップくん、本当にありがとう! 君達のおかげで、僕はたくさんのメイドさんに囲まれて、可愛いお嫁さんもようやく手に入れることができたよ。子供は何人産んでもらおうかなぁ。できれば全員女の子がいいけれど、跡継ぎのことを考えると男の子も一人は欲しいし、クラリスちゃんには頑張ってもらわないとね!」
「……そうかよ。別にオレはなにもしてないが……オマエが楽しいならそれでよかったよ」
「うん! こんな機会を恵んでくれた『最高の魔法使い様』にもよろしく言っておいてね!」
ポールはそう言って、ゆっくりと一歩一歩を踏みしめながら食堂を後にした。
しんと静まり返る室内。扉が閉まる音を最後に、食堂にはフィリップとクラリスだけが残された。
「……ポールちゃんは……まぁ、もって今日一日ってところだな」
ぽつりと呟いたフィリップが指を弾くと、クラリスの腕を縛っていた縄がひとりでに解けて床に落ちる。しかし……彼女が動こうとする気配は無かった。
顔を覗き込んでも焦点の合わない瞳はフィリップを映し出すことは無く、真夏の海を彷彿とさせる美しいシアンの宝石は曇ってしまっている。
「よぉく効いてるもんだねぇ。洗脳……相手の意識を閉じ込めて従順な奴隷にする魔法か。ヴィクターが聞いたら発狂しそうなもんだが……まぁ安心しろ。オマエの安全はオレが保証してやるからさ」
ガラス張りとなった窓にフィリップが目を向けると、刹那。重い破裂音と同時に遠くの空で黒煙が上がった。
あの場所でなにが起こっているのかは、現在進行形で関わっている彼にはよく分かる。
「それにしても良かったなぁ、クラリス・アークライト。王子様はオマエのことをちゃんと助けに来てくれるってよ。でも酷いんだぜ? ヴィクターの奴、あっちの使い魔のことを容赦なくぶん殴ってきてさぁ……すっげぇ怒ってんの」
クラリスからの返事は無い。それでもフィリップは彼女の周りをぐるぐる行ったり来たりを繰り返しながら話を続ける。
「……別にオレだって、こんなやり方が正しいとは思ってないけどよ。『囚われのお姫様を王子様が助けに行く』――聞き入れられるかも分からない話し合いなんてするくらいなら、こうやって分かりやすく目的を示してやった方がヴィクターも動きやすいだろ? まぁ、オレも雇用主の顔を立てないといけない以上、最低限の夢をポールちゃんには見せてやらなきゃいけないからな。オマエにはちょいと手伝ってもらう羽目になったが、アイツが来るなら心配なんて――なんて、今のオマエにこんな話をしても仕方ねぇか」
そう言って再びクラリスの顔を覗くものの、相変わらず反応はゼロ。
これにはフィリップも会話を諦めてしまったのか、彼は浅い溜め息を吐き出してテーブルの端へと寄りかかった。
クラリスをドレスに着替えさせるにしても、ポールを置いてきてからでは迎えのメイド達が来るにはまだ時間が掛かるだろう。それまではご自慢の軽妙なトークで場を繋いでいてもいいのだが――
「人形相手に話したってつまんねぇの」
それ以降、迎えが来るまでフィリップが口を開くことは無かった。




