第92話 仲直りはちょっぴりのぎこちなさと共に
《翌日》
「……あつい」
目が覚めて、開口一番。ヴィクターは掠れた声でそう呟いた。
昨日はたしか、ペロを抱いたまま眠りについたはずだ。だが……不思議なことに、背中や足元、そして枕元にも同じような熱を感じる。
「……キミ達、いつの間に来たのかね。少しどきたまえ。そこにいられると……わふ。起きるのに邪魔だよ」
頭を上げて、ベッドの上を見回したヴィクターはあくび混じりにそう言った。
彼の回りには使い魔であるコヨーテ達が四匹。大きいのが二匹と、小さいのが二匹、そして布団の中のペロまで数えると合計五匹の使い魔が狭いベッドの上でぎゅうぎゅう詰めになっている。
ただでさえ自分より体温の高い生物が、こんなにも密着していたなんて。幸いにも悪夢を見た記憶は無いが、ヴィクターのパジャマは汗でびっしょりと濡れていた。
「今の時間は……しまった、十時……。着替える前に、シャワーだけ浴びておくか……」
壁掛け時計を見れば、起きようと思っていた時間よりも数時間先を刻んでいる。
これだけ使い魔達もぐっすり寝ているのだ。どうやらポールがうっかりクラリスを連れていってしまったということは無いらしい。
昨日の夜のことを思い出すとまだまだ気持ちは重かったが、クラリスが心配な気持ちに変わりはない。ヴィクターは使い魔達をぐいぐいと押しのけると、手早くシャワーを済ませて、いつも通りに身支度を済ませていく。
いっそのこと、シャワーと一緒に不安も流れてしまえばよかったのに……なんて思うのは、さすがに感傷的すぎるだろうか。
「……よし。行ってくるよ」
お守り代わりにクラリスから貰ったイヤリングを耳に付けて、準備は万端。ドアノブに手をかけたところで、ヴィクターは一度室内に振り返った。
『きゃんっ!』
ニコニコと笑顔を浮かべて、ペロが甲高い声でひと鳴きした。彼の周りに整列したコヨーテ達も、尻尾を振ってはじっとヴィクターを見守っている。
応援でもしているつもりなのだろうか。主を相手にそんな立場を取るだなんて、ずいぶんと偉くなったものである。
「……ふっ、心配しなくても大丈夫だよ」
ヴィクターはそう言って、ひとつ深呼吸。覚悟を決めてドアを開いた……その時。
「……あっ」
「えっ。……クラリス?」
隣の客室のドアが開いたのは、ほとんど同時のことだった。ヴィクターが廊下に出たのと同じタイミングで、クラリスも部屋を出てきたのだ。
化粧で隠してはいるが、瞼が少し腫れているように見える。その南国の海のように透き通った青い瞳がヴィクターを映し出した、次の瞬間――
「ヴィクター、その……昨日は本当にごめんなさい!」
突然そう謝罪の言葉を口にして、クラリスは勢いよく頭を下げた。
ヴィクターは思わず固まって、なんと声をかけるか迷っていた。なにせ自分からかける言葉はいくつもシミュレーションしていたが、あちらから先手を取られることなんて考えていない。
「と、とりあえず頭を上げてくれないかね。クラリス……」
「だめ。私の言葉でヴィクターを傷つけちゃったこと、一晩中後悔してたの。それでアナタの気が済むのなら、殴られてもいいと思ってる」
「殴られてもって……そんな野蛮なこと、ワタシがするはずないじゃないか。ほら、お願いだから顔を上げて。詫びるよりも先に、まずは元気な顔を見せてくれないかね」
そこまで言ったところで、ようやくクラリスは頭を上げて上目遣いにヴィクターを見上げた。もちろん狙ってのことではない。まだ直接顔を向けるのが怖いのである。
「そんなに自分を責めなくていい。……昨日はワタシも自分の考えばかりを優先して、つい意地になってしまったからね。キミが優しい人間だっていうのはもちろん知っている。あの時は少しビックリして逃げ出してしまったけれど……大丈夫、なにも気にしてなんかいないさ」
「本当に? ……怒ってないの?」
「ワタシがクラリスに怒ることがあると思うかい? 悪かったのはお互い様だ。だから……えっと……キミさえよければ、もう一度話し合えない……かな。正面から城に乗り込むのは今も反対だが、なにも助けること自体を全否定したいわけじゃあない。二人で知恵を出し合えば、住民達を解放してもらうための良い方法が思いつくかもしれないからね」
ヴィクターはそう言うと、中腰になってクラリスの顔を覗き込んだ。
彼女はまだ少しぎこちのない笑顔ではあったものの、「うん」とひとつ返事をして微笑み……しかしすぐにパチリと目を瞬かせた。その視線が向けられたのは、ヴィクターの後ろ。少し開いたままのドアから顔を覗かせた、五匹の使い魔達だった。
「ふふ、ペロちゃん達も心配してくれてたの?」
『きゃん!』
犬が五匹も並んで覗いているというのは、単純に可愛いものである。
それで緊張がほぐれたのか――やっと、クラリスはいつもと同じように笑ってくれた。いつもならば嫉妬してしまいそうなペロへの眼差しも、今だけはヴィクターがほっと胸を撫で下ろす安心材料となった。
「それじゃあ……腰を据えて話す前に、ワタシは買い出しに行ってくるとするよ」
「買い出し?」
「うん。甘いものでも食べながらの方が落ち着くかと思って。……そうだ! せっかくなら、ジェイクくんの店のプリンにしようか。今なら店も開いたばかりだろうし、クラリスが気になっていた味も残っているかもしれないからね。少しの間、キミは部屋で待っていてくれ!」
そう言うやいなや、使い魔達を引き連れてヴィクターはステップを踏むかのように廊下を走っていってしまった。それほどまでに、クラリスと仲直りできたことが嬉しかったのだろう。
廊下は走るな、甘いものの前に朝食は。そんなことが喉まで出かかったクラリスであったが、少しの沈黙の後、彼女はゆっくりとその口を閉じた。
――こんな時でも、私の言葉を覚えていて喜ばせようとしてくれるだなんて。なんだかヴィクターらしいな。
ならばその気持ちに応えるべく、自分は大人しく部屋で帰りを待っていよう。
そうヴィクターに言われた通りに、クラリスは自身の宿泊部屋へと戻るべくドアを開き――
「よぉ。クラリス・アークライト。久しぶりだな」
「――えっ?」
部屋の中。玄関前。目と鼻の先。クラリスの前に立っていたのは、黒いローブを被った人間。昨日の行進でポールの後ろに控えていたのと同じ人物だ。
声からしてこの人物は男らしい。ローブの男は一方的に彼女のことを知っているのか、名前を――いや、違う。クラリスはこの男のことを知っている。
固まるクラリスの足元で、突風が吹き荒れる。やがて風は彼女の体を掬い上げ、床から無尽蔵に湧き出る黒い羽根で全身を包み込んだ。
そして男は、ローブの下からわずかに覗いた口元に笑みを作ると一言。
「迎えの時間だ」
間もなく、パチリ。
指を弾く軽快な音が響くと同時に、クラリスの姿はローブの男共々跡形もなく消失した。床に無遠慮に撒き散らされた、無数の黒い羽根だけを残して。




