第91話 動揺、打ち震えて夜。古傷にパッチワークをあてる
《一時間後――ヴィクターの宿泊部屋》
とても静かな夜だ。ベッドの真ん中にはペロが丸まって、小さな寝息を立てている。
その脇を通り過ぎて、ヴィクターはベランダへと降り立った。シャワーを浴びたばかりで火照った体に、少し冷えた夜風が心地いい。
ホテルから見える景色は面白いものではないが、こうして人々が寝静まった真っ暗な町並みを一人で眺めるのは嫌いではない。特にこのような――胸がざわつく夜はなおさらだ。
いつもはお喋りな彼が、珍しく頭を空っぽにして自分と向き合う時間。
「……そろそろ時間かな」
そうしながら何分が経っただろうか。彼はポツリと呟いて、室内の時計に目を向けた。
時計はクラリスの部屋を出た時から数えて、短い針が一周と少し先を刻んでいる。わずかにオーバーしてしまったが、クラリスとの待ち合わせの時間だ。
ヴィクターはパジャマの上からもう一着薄手の上着を羽織り、部屋を後にした。
隣のクラリスの部屋のドアをノックすると、待たずして彼女はヴィクターを出迎えた。彼女も寝支度は済んでいるのか、用意していたパジャマに着替えている。
「すまない、少し待たせてしまったかね」
「ううん、大丈夫。来てくれてありがとう、ヴィクター」
彼女にうながされて、ヴィクターはローテーブルを挟んだ向かい合わせの椅子に座った。もちろん向こうにはクラリスも同じように着席している。
今から彼女からどんな話をするのか。そんなことはもう分かっている。
分かっているから――遅刻をしてまで、ああして一度気持ちを落ち着けてからドアを叩いたのだ。
「早速なんだけれど……あのね。私の今置かれている状況と……ジェイクさんの話。色々聞いたり考えたりしているうちに、思ったことがあって。アナタに相談しようと思ったんだ」
「……言ってみたまえ」
思い詰めた様子で話を切り出したクラリスは、緊張しているのか膝の上で拳を握っている。
ヴィクターは長い足を組んで話を聞く姿勢を作ると、 少し言いよどんだ様子の彼女に続きをうながした。
「うん……ジェイクさんの奥さんのマリーさんに、この国の女の人達……何人もお城に連れていかれたって言ってたよね」
「ああ」
「この国の人達は家族が戻ってくるって信じて、普段通りの生活を振舞っているみたいだけれど……このままで良いはずがないと思うの。それなのに家族が無理やり引き裂かれたままなのを見過ごして、自分だけが助かるだなんて……そんなこと、私はしたくない」
「……ああ」
時計の長針が一つ進む。
間接照明の薄暗い明かりが、ヴィクターの顔に影を作った。
「単刀直入に聞こう。それで、キミは今回……ワタシになにをお願いしたいんだい」
伏し目がちに投げた彼の問いかけに、クラリスはしっかりと自分の意思を示してきた。
「明日、マリーさんや他の連れていかれた人達を解放してもらえるよう、王様を説得しに行く。だからヴィクターには、私と一緒にお城に行ってほしいの」
「なぜ?」
「えっ?」
「なぜだと聞いている。今回の件は……そう。言うならばこの国の中で起きているだけの小さな問題だ。もちろんジェイクくんの予想通り、あの豚王がキミに危害をを加えようというのなら、ワタシはどんな手を使ってでもキミを守る。だが……そうでないのなら、我々はただの部外者にすぎない。人様の国のことに口出しする権利なんて、我々には無いんだよ」
クラリスへと返ってきたのは、想像よりも冷たい反応だった。
なんだかんだ言いつつも、ヴィクターならばきっと手伝ってくれる。そう思って――期待をしていたのに。
「そんな言い方……ならヴィクターは、このままジェイクさん達が家族と離れ離れなままでもいいっていうの?」
「それが国の方針だというのなら、それでいいじゃないか。あの花嫁探しだなんて馬鹿げた催しさえ終われば、連れ去られた人間も戻ってくるのではないかね」
「終わればだなんて……いつまでかかるか分からないじゃない! 家族が他人のせいでバラバラになるだなんて、そんなのいいはずない。泣いてる子供のことはアナタも見たでしょ? ……大好きな人と離れ離れになるのは寂しいんだよ」
「…………それくらい、ワタシだって分かっているさ。でも部外者である我々が抗議しに行ったところで、ジェイクくんと同じく門前払いになるだけだよ。無駄なんだ。……理解してくれ」
これ以上は言い争っても無駄だ。おそらくいくらヴィクターを説得しようとしたところで、彼が考えを変えることはないだろう。
この会話を客観的に見ている者がいれば、意見のぶつかり合いで彼らが冷静さを欠きはじめていることに気づくことができたかもしれない。しかし、あいにくこの部屋にいるのはヴィクターとクラリス、その二人のみ。
だから――つい、クラリスの口からは考えもしなかった言葉が……言うつもりのなかった言葉が漏れてしまった。
「無駄だなんて……そんな言い方ないでしょ。……日頃から少し考えが違うとは思ってたけれど、まさかアナタがそこまで薄情な人だとは思ってなかった」
ヴィクターの口の端がひくりと動く。
もちろんヴィクターの考えはクラリスも理解している。しかしここまで話しておいて引き下がれなくなったことと、彼の言い方に腹が立ったこと。その二つが彼女にこのような言い方をさせてしまったのだ。
「クラリスは……こんな薄情なワタシは嫌いかい」
「……」
「ワタシはいつだって、キミを一番大事に想っている。この世界のなによりもだ。いつも馬鹿みたいに愛を囁いているのは、からかっているからでも、自己満足のためでもない。心の底からそう思っているならなんだよ。だから……今回はクラリス個人に危害を加えようとしている相手がいると分かっている上で、危険な行動はしたくない。キミの軽率な行動で、なにかが起きてからでは遅いんだ」
クラリスは真っ直ぐにヴィクターを見つめていたが、彼はうつむいてしまって彼女と目を合わせようとはしなかった。
「頼むから分かってくれ。予定通り、明日になったら外に出る方法を探そう。だからキミも――」
「なによそれ」
わずかな怒気をまとったクラリスの言葉は、ヴィクターの話を断つには十分だった。
「軽率なのはどっちなの。そもそも今日ここに来ることになったのだって、アナタが魔獣にちょっかいを掛けて追われてきたからじゃない。あんなことが起きなければ、今頃こんな言い争いなんてしてなかった。閉じ込められることだってなかった」
「それ、は……」
「いつもはご機嫌取りと好意の押し売りに必死で、耳ざわりのいい言葉だけ並べて……都合の悪い時だけ駄目だなんて、そんなの酷いよ。着いてきてくれないなら、もう一緒に来なくていい。後は私だけでなんとかするから、アナタは一人でどこでも好きな所に行って――」
その時。
ヴィクターが顔を上げたことで、今まで影でよく見えなかった彼の表情が照明に照らされた。
――どうして。
クラリスの心が疑問を呟く。
それまで意図的に逸らしていたのであろう紅梅色の瞳は、今度はしっかりと彼女を見つめていた。
少し開いた口はきっとなにかを言おうとしたのだろう。しかし――
――どうして……そんなに泣きそうな顔をするの。
いつもは飄々とした笑みを浮かべる整った顔立ちも、今はまるで子供が泣きだす一歩手前のようで。
過去にシロとクロ――二人の魔獣が言っていた、ヴィクターのちっぽけなハート……現実には見えないそれにヒビが入った音が、クラリスの耳には確かに届いた。
――ちがう。ヴィクターが私のことをいつも一番に考えてくれてるのは分かってる。今日だって、全部私のために彼なりに最善を尽くそうとしてくれてた。それなのに、私はあんなこと……早く謝らないと。謝って、もう一回冷静に話を――
だが後悔しても遅い。もう彼はすべて聞いている。
自分が酷いことを言ってしまったことに気がついたクラリスの耳に、消え入りそうな声で「ごめん」と。そんな言葉が聞こえた気がした。
「……ッ」
「あっ、ヴィクター!」
ヴィクターはおもむろに立ち上がると、振り返ることなく早足に部屋から逃げ出した。
震える手で自分の宿泊部屋の鍵を開けた彼は、誰も入ってこられないようにと急いで後ろ手にドアを閉める。……クラリスが追ってくる気配はない。
それに少しだけ安心をして、ヴィクターはドアに背中をつけたままズルズルとその場に座り込んだ。
『……くん?』
「……ペロ」
物音に気がついて、ベッドで寝ていたはずのペロが足元に寄ってきた。
利口な犬だ。主の元気が無いことが分かるやいなや、彼はヴィクターの隣に寄り添って頭を擦りつけてきた。撫でると嬉しそうにパタパタ動く尻尾を見て、ヴィクターの表情にも少しだけ笑みがこぼれる。
「……気を使わせたね。ワタシは大丈夫だから、今日はもう眠ろうか。明日のことは色々考えないといけないのは分かってるけれど……今は少しだけ、忘れていたいんだ」
もちろんクラリスが本心であんなことを言ったわけでないのは、ヴィクター自身分かっている。彼女もきっと、すぐに謝ろうとしていたに違いない。拒絶されたわけじゃない。――ひとりになったわけじゃない。
それでもあの場に居続けてしまったら、不安と震えと嗚咽とに押し潰されて駄目になってしまいそうだった。だから、そうなる前に逃げ出したのだ。
「……おいで、ペロ。今日は一緒に寝よう」
ベッドへ潜り込んだヴィクターは、少しだけ掛け布団を持ち上げて飛び乗ってきたペロを迎え入れる。
暖かい。腕の中に抱えたペロの体温は、胸の奥――冷えきったヴィクターの心をじんわりと温めてくれた。




