第9話 森に巣食う魔獣の噂
「魔獣?」
男の言葉に、先に反応を示したのはヴィクターであった。
果たしてここいる人間達は、これから魔獣の討伐にでも行こうというのだろうか。たしかに武器になりそうな鍬や鎌を持っている人間はいるが、それでもしょせん農具は農具だ。魔獣相手に敵うはずもない。ましてやここにいるのは華奢な女性や老人ばかりで、腕の立ちそうな若い男はほとんどいないに等しい。これでは自分から死にに行くようなものである。
そう考えを巡らせている間にも、ヴィクターの抱えた疑問は男の次の言葉で明かされることとなった。
「あの森は資源も豊富で野生動物も多く、我々は先祖代々狩猟を生業として生活を送っていました。ですが……いつから住み着いたのか、人を襲う魔獣の群れが流れ着いてしまったみたいなんです。ここは年老いた人間も多いですからね。様子を探るため、先日村の若い衆で探索隊を結成したまではいいのですが……」
「なるほど。その探索隊が帰ってこないというわけか」
「はい……。魔法局に連絡して応援を呼んではいるものの、この辺りは交通の便が悪くて隣町に行くにも車が必要です。到着もいつになることやら……。もしかしたらその前にひょっこり戻ってくるかもしれないと思って、こうして皆集まっていた次第なんです」
男がそう言って肩を落とす。もしかすると、男の家族にもその探索隊に参加した人間がいたのだろうか。
地元の人間ならば遭難したという線は薄い。森に住み着いたのがどんな魔獣なのかは分からないが、数日間帰ってこないということは、まず襲われたとみて間違いないはずだ。怪我をしているだけならまだしも、今頃魔獣の腹の中という可能性だってある。
――魔獣……か。ここに来るまで姿は見かけなかったが。そんなことより魔法局が来るというのは厄介だな。ワタシの過去を知るような人間と万が一出くわせば、対処するにもクラリスを巻き込みかねない。関わらないようにするのが吉、といったところか……
クラリスと結ばれることを夢見るヴィクターにとって、大陸ひとつを沈める大罪を犯した『禍犬』としての過去を知られることは都合が悪い。彼女には申し訳ないが、一日くらいは野宿で我慢をしてもらうのが二人の将来のためだろう。
ヴィクターが集団から離れると、少し難しい顔をしながらクラリスも後ろを着いてきた。魔獣が出ると聞いた直後だ。無理もない。
「クラリス、残念だが今日はここから離れて野宿にしよう。いつ魔獣が出るとも分からない場所で一夜を過ごすだなんて、キミも本意じゃないだろう。寝床ならワタシが用意するから――」
「ねぇヴィクター。アナタなら、例え魔獣相手に戦ったとしても危険を冒したうちには入らないって言うの?」
「ん? ああ……まぁ、ワタシが負けるようなことはまず無いからね。魔獣なんて、どれだけ束で掛かってこようが相手にすらならないさ。キミは安心してくれていいからね」
「ふぅん」
見栄を張ったような言い方だが、ヴィクターの中ではこれが真実なのだから他に言いようがない。
彼の返答を聞いたクラリスは顎に手を当ててなにかをうんと考え込んではいたものの……やがて結論が出たのだろう。彼女はパッと顔を上げて、真剣な眼差しをヴィクターに向けた。
「よし、ヴィクター。この件、私達でなんとかしましょ。困っている人達を見過ごしておいて、自分は悠々とくつろいではい、さようならなんてできないもの」
「なに? 正気かねクラリス。我々の旅は自分から危険に首を突っ込まないがモットーなのだろう? その約束を破ったとしても、ワタシ達が得することはなにも――いや待て。さっきの聞き方はキミ……さてはこの前のことをまだ根に持っているね?」
突然クラリスがあんな発言をしたことをヴィクターは不思議に思っていたのだが、ここでようやく合点がいった。これは仕返しなのだ。
つい先日、彼女の口から危ないことには首を突っ込むなと釘を刺されたこと――そしてヴィクターが即それを破ったということは記憶に新しい。バレたその日は一日素っ気ない態度を取られてはいたものの、その後はクラリスもリゾートでのバカンスを楽しんでいたはずだ。
もう赦してもらえたものだと思っていたが、まさかここでほじくり返されることになろうとは。
「……オーケイ、分かったよ。先日のことはワタシが悪かったしね。今回はキミの好きにしたまえ」
「ありがとう。強くて優しい、盗賊なんかもけちょんけちょんにできちゃうヴィクターなら、きっとそう言ってくれると思ったわ」
「茶化すのはよしてくれ……」
素直に負けを認めて両手を上げると、クラリスはイタズラが成功した子供のように目を細めて笑った。
本格的に日は沈みはじめている。さすがに漂いはじめた諦めの空気に、村の入口に集まっていた集団は一人、また一人と帰路についていく。二人が会話をした壮年の男も、またその場を離れようとしていた一人だった。
「あの、すみません! さっきの話なんですけど……」
「さっきの? あぁ、魔獣が出たという話ですか」
駆け寄ってきたクラリスが呼び止めると、男は嫌な顔もせずに彼女の声に耳を傾けた。
「はい。もし迷惑でなければ、私達にもっと詳しく聞かせてくれませんか? これでも魔法使いで、腕には自信があるんです。もしかしたら役に立つことができるんじゃないかと思って……こっちのヴィクターが」
そう言ってクラリスがヴィクターを見上げると、男も釣られて目線を上げた。
紹介の仕方はとても点数をあげられたものではないが、こうも好意のある相手から頼れる人間だと思われているのは気分がいいものである。
――まぁクラリスが喜んでくれるなら、ひと仕事するくらい別にいいけれど。
ヴィクターが軽い会釈で挨拶をする。
男も会釈を返して目の前の背の高い男に改めて目を向けた……が、その目にはわずかながらに警戒の色が浮かんでいる。こんな田舎の村にいるには到底不釣り合いな美丈夫だ。ましてや出会って間もないそれが、突然手を差し伸べようと言うのだから警戒するのも不思議ではない。
「それは願ってもない申し出ではありますが……関係のない旅の方々を巻き込むのは、我々としても本意ではありません。数日待てば魔法局も捜査に入ることができるでしょうし、それまでは――」
「その魔法局が到着するまでの間に、森に入った人間達は飢え死にするか、魔獣に食われて本当の帰らぬ人になるか……そのどちらかの運命を辿ることになるとワタシは思うがね。キミ達も、愛する我が子がいるならば五体満足で戻ってくる可能性は少しでも高い方がいいだろう」
「ちょっとヴィクター……!」
思わずクラリスが小声で名前を呼んだ。
ヴィクターの言うことはもっともであるが、今の言い方はあまりにも彼らの気持ちを踏み倒す言い方に他ならない。怪我ならばまだしも、死んでいるかもしれないだなんて。もっと信頼されるような、勇気づける言い方はできなかったのだろうか。
しかし男にとっては、ヴィクターの言葉はわずかにも心に響くものがあったらしい。うつむき、わずかな沈黙の後。彼は決心を固めた表情で二人の来客に向けてゆっくりと顔を上げた。
「……言い訳する余地もありません。今一番に優先すべきことは彼らの命ですからね。あなた方の提案に甘えるべきなのでしょう」
「分かってもらえたようでなによりだよ。それで……詳しい話はどこで聞けばいいのかね。いくら急いだ方がいいとはいえ、まさかこんな日没間近に前情報もなく行けとも言うまい」
「そうですね……それなら我が家に案内しましょう。民泊も兼ねているので、お部屋もちょうど二つ空きが――いえ、それとも同じお部屋の方がよろしかったでしょうか?」
「ばっ」
ここにいるのは旅をする男女二人。彼らの様子をうかがった男のいらぬ気づかいに、ヴィクターから奇声が上がった。いつものことである。
彼はそれまで流暢に話していたはずの口をいったん閉じると、ほんのりと顔を赤らめて目に見えてそわそわしはじめた。答えは毎度同じなのに、わざわざなんと返答するかを考えているのだろう。そして――
「……いい。二つでいい。二部屋用意してくれ。その方がゆっくり寝られるからね」
彼はパタパタと手で顔を扇ぎながら、もっともらしい理由をつけて答えを捻り出した。
もちろん相部屋が良かったと言わなければ嘘になる。しかし……婚前の男女が同じ部屋で就寝するなど、ヴィクターにとっては言語道断。いや、そんなことより彼の心臓がもたないのだ。
「分かりました。それでは我が家までご案内します。……あっ、申し遅れましたが僕はニコラス・ロブソンといいます。村長のジェフリーは僕の兄ですので、お二人については後ほど話をしておきましょう」
「ありがとうございます、ニコラスさん。改めて、私はクラリス・アークライト。こっちはヴィクターです。急な滞在でご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
時刻は間もなく夕暮れ。鳥達が寝床に帰り、遠くでざわざわと木々が揺れる。その葉擦れの音に混ざって、例の森がある方角――ヴィクターはなにかの羽音を耳にした。
ジリジリと、空気を振動させるノイズ。
羽音は羽音でも、鳥が羽ばたく音ではない。近くにいるわけではないのに、まるでソレが目の前を飛び回っているかのような感覚。これは……不快な虫の羽音だ。
「ヴィクター、どうしたの?」
動かないヴィクターを不審に思ってか、先を行こうとしていたクラリスが振り返った。
ヴィクターは返事をすることもなく、じっと森を見つめている。噂の魔獣の影はここから確認できないはずだが……果たして彼はなにかを発見したのだろうか。
「ヴィクター?」
「ん? あぁ、なんでもない。今行くよ」
もう一度呼ばれたことで、ヴィクターが我に返る。
クラリスの隣にはニコラスがいる。どうやら律儀にも、家に着くまでの間は彼が村を案内してくれることになったようだ。それなら日が沈み切る前に終わらせてしまった方がいいだろう。
再び森に目を向けるが、風が木の葉を揺らすざわめきは聞こえない。夕空に薄らと月が浮かび、耳鳴りのようにあの羽音はヴィクターの頭に残ってこびりついている。
そして彼はコートを翻すと、ポケットに手を入れて大きく一歩、二歩。底知れぬ不気味さを胸に抱えながら、軽快な足取りでクラリスの後を追いかけたのだった。