第86話 迎撃するなら凶悪に、跡形も残さず
慌てていたせいで、すっかりヴィクターの体質のことを忘れていた。
絶え間なく打ち上がる花火は、今が夜闇に包まれた時間帯であったのならばさぞかし夜空に映えたことであろう。しかし残念ながら今は真昼。太陽も頂点をちょうど越えたくらいの時間である。
ヴィクターの頭上数センチのところで花開く花火はヒヒ達にとっては絶好の目印となるようで、草をかき分けて近づく音にクラリスの焦りはどんどんと大きくなっていく。
「ちょっとヴィクター、そのいつものやつ、どうにかしまえないの? そんなのが出てたらどこへ逃げたって私達の居場所なんてバレバレじゃない!」
「ワタシだって好きでこんなものを出しているわけじゃあない! と、とりあえず手を離してくれ。愛しいクラリス」
そう言われてクラリスが手を離せば、だんだんと花火の打ち上がる数は減っていき、じきに落ちついたヴィクターが顔を覆っていた右手を下ろしてこほんと一つ咳払いをする。
その頃には小さな花火達はクラリスの見た夢だったかのように消えて無くなり……なんだか少し惜しいと思う気持ちを彼女は振り払った。
「こればかりはすまない。意思と反して勝手に出てしまうんだ。ワタシの体質のことはそろそろ理解してくれないかね」
「理解してくれって言われても……そんな目立つもの、町中ならともかくこんな危険な状況で放っておくだなんて……って、そうよ! 早く逃げないと追いつかれちゃうじゃない!」
「Hmm……だが、逃げようとは言っても、どこへ?」
「えっ?」
ようやく冷静さを取り戻したヴィクターの視線の先。クラリスが振り返れば、数キロメートル先まで広がる穏やかな草原を前に、自分達が今現在どこにいるのかを思い出す。
もう一度草むらに入り逃げ回ることもできるが、それではヒヒ達とばったりはち合わせすることも考えられる。
――それならあの塀の中まで逃げて……駄目。それじゃあたくさんの人を巻き込むことになっちゃう。
クラリス個人としては、あの塀の向こうまで逃げてしまいたいところではある。
しかしその選択を取れば、町の中にまでこの追いかけっこは続くだろう。それでは無関係の人々を巻き込んでしまう。
「ほらね。我々に逃げ道はない。やっぱりさっき迎撃するべきだったんだ」
「なっ……やっぱりって……!」
まるで自分が悪いかのような言われように、クラリスも黙ってはいなかった。さすがに一言言ってやろうと、彼女はツンと澄ました顔のヴィクターに詰め寄ろうとする。
だが――そんな彼女の顔のすぐ横を、なにか鋭いものが通り抜けた。
クラリスの耳には風を切る音しか聞こえなかったが、ヴィクターの目にはそれが何であるのかがしっかりと映っていた。
「……ほう」
それは、一体のヒヒが投げた、ボウガンの矢のように鋭い石の弾丸であった。
「い、今のなに!? ヴィクター、とりあえずはここを離れましょう! 本当に襲われてからじゃ遅いって――わっ!?」
本格的な身の危険を感じたクラリスは、同じことの繰り返しとは分かっていても、もう一度ヴィクターの手を取って逃げ出そうとする。
だが――そんな彼女の足元に前触れもなく、それまでは無かったはずの黒色の鉄板が現れた。ヴィクターの手にステッキが握られていることに気がついたのは、それからすぐのことである。
「な、なにこれ!?」
その板は、立方体を開いた図のごとく六つの正方形からできていた。
クラリスがなにであるのかを理解するよりも先に板自身が起き上がり、鉄と鉄とがぶつかる重い音を立てながら自動的に箱型に組み上がっていく。
そして、頭上を蓋する板が閉まる音を最後に――クラリスは箱の中へと閉じこめられた。
箱はどれだけ強く叩いても開く気配はなく、彼女に許された行動は外にいるヴィクターに助けを求めることだけだった。
「ちょっとヴィクター! ここから出して! なにも見えないし、すっごく狭いんだけど!」
「……すまないねクラリス。キミが幼子のように暗くて狭い場所が怖いとでも言うのならば、今すぐにでも出してあげよう。だが……そうじゃないのなら少しの間我慢していてくれ。ワタシはキミのことが世界で一番大事なんだ。もう、かすり傷ひとつでさえ付けたくはないのさ」
そう言っているそばから、クラリスの前方でなにか硬いものが箱にぶつかった。
嫌な予感。こんな時のクラリスの予感はよく当たるのだ。
「ヴィクター、アナタまさか――」
そしてすぐに感じるわずかな衝撃。
ヴィクターがクラリスの入るこの鉄の箱を蹴ったのだということは、外が見えない状態の彼女であっても容易に分かることだった。
「うそ、もう、本当に馬鹿なんだからぁー!」
記憶する限りではこの先は急な斜面。
もちろんその記憶は正解で、重力によって後ろに引かれたと思った時には既に、彼女は箱ごとゴロゴロと坂を転がり落ちていた。
正四面体でない方が、滑らかに落とすことができただろうか。
ヴィクターがそんなことを考えている間に、彼らを追っていたヒヒの群れは後方わずか数十メートルにまで迫っていた。
『Woow! Ohaaaaa!』
そう声を荒らげて二本足で立ち上がるのは、ヴィクターが首をとってきたボスに代わるリーダー格のヒヒらしい。その後ろからも、十、二十と草むらをかき分けて次々に他のヒヒ達が集まってくる。
――聞くところによると、この魔獣共は捕らえた人間を暇つぶしのために四肢をもいで遊ぶ……なんて噂があるらしいが。なるほど。本当か嘘かは分からないにしろ、説得力だけはある体躯をしている。
遠くから見るとあまりそうは感じなかったが、近くで見ると百九十もあるヴィクターの身長を軽く二回り以上は超えている。ボスのヒヒはこれよりもさらに巨大だった気もするが……今や首だけの存在だ。いちいち大きさなんて覚えてもいない。
『Woow! Aaaaaaa!』
「うるさいな。そんなに叫ばれたら耳が痛くなるだろう」
するとリーダー格のヒヒが吠えると共に、堰を切ったかのようにヒヒの群れがヴィクターの元へ走り出した。
高速で投擲される石のつぶては休みなく繰り出され、鋭い爪や牙がつぶての隙間を縫って彼に襲い掛かる。
――攻撃は単調だな。魔獣とはいえど……どちらかといえば、ただの獣に近い部類か。
草をかき分け、踊るように攻撃を避け続けるヴィクターは眉ひとつ動かさない。……いや、眼前に大口を開けたヒヒが迫った時だけは、さすがにその表情も動いた。口臭が臭うのだ。
堪らずステッキを薙いだヴィクターの目の前、魔獣の顔面が弾け飛ぶ。それに合わせて聞こえるのは悲鳴ではなく、積み重なる怒号。
次々に自分に向けられる殺意に、ヴィクターはぞくりと自身の肌が粟立つのを感じ、口元に笑みを浮かべた。
「ははっ、吠えるなよ。やっぱり品がないね」
そう呟くと、ヴィクターはステッキの石突きを地面に打ちつけた。
苺水晶が怪しい輝きを放ち、短い空気の振動と共にヒヒ達の頭上――空が、ぐにゃりと歪む。
「せっかくだ。キミ達、お手本を見せてあげたまえ」
同時にどこからともなく聞こえる獣の遠吠え。
すると――澄み渡る青空の中でたった一箇所だけ。歪な円の形に歪んだその一箇所だけが、絵の具を混ぜ合わせたかのように赤黒く、今にも重く落ちてきてしまいそうなほど不気味に色づいた。
はじめの声に応えるように、遠吠えが増える、増える。
「……この位置だと、まだクラリスを巻き込みかねないな」
その間もヴィクターは、石のつぶてをめちゃくちゃな道筋で躱しながら一度は逃げてきた背丈の長い草むらの中を引き返していく。
背中を向けて逃げていても、ステッキをひと回しすれば石の方から彼を避けて飛んでいく。
じきにヴィクターを追うヒヒの群れも疲れが見えてきたようで、両者の足が止まり――その中の一体が異変に気がついたのは、すぐのことだった。
たくさんの足音が近づく。唸り声が近づく。獣の臭いがする。確かにそこにいるのに、見ることはできない。そこにはいないはずのナニカに、ヒヒ達は囲まれている。
気がつけば五十体を超える数のヒヒの群れは、皆あの空に浮かぶ歪みの下へと集まっていた――否、集められたのだ。
一見めちゃくちゃに逃げ回っていたヴィクターではあったが、その実彼の目的は敵をその場所へと誘導することにあった。
「彼女を離しておいて正解だった。イメージが崩れては困るからね……あまり汚い部分は見せたくないんだ」
魔獣の頭上にあるのは、重い。重くよどんだ空。血と泥ともっといけないナニカを混ぜたような、奇妙で汚らしい空の歪み。空気がパンパンに詰まった風船のように、刺激を与えればきっとそれは弾けてしまうだろう。
そして。ヴィクターがパチリと指を鳴らすと――ヒヒ達を取り囲む、獣の唸り声がやんだ。
「……頃合いだ。落ちてきたまえ」
その言葉を皮切りに。
歪んだ空はどろりと溶け落ち、赤黒く粘度の高い汚泥がヒヒの群れへと降り注ぐ。ドプンと音を立てて地上に落下したそれは、瞬く間に辺りの全てを飲み込んだ。
『Aaaaaaa!』
まるで助けてくれと言うかのように、泥の中から数体のヒヒが顔を出す。
足でも引かれているみたいだ。ぐつぐつと沸騰する泥は獣のような異臭を放ち、逃げ出そうともがけばもがくほど深く身体を沈めていく。
「今更命乞いをしても遅い。キミ達は、人里を襲って甚大な被害を生み出した挙句、ワタシの宝物……愛しいクラリスに向けて石ころを投げつけたのだよ? 万が一にも彼女が傷を負って、旅をやめたいなんて言い出したら、どう責任を取ってくれるというのかね。……いや、今はそんな心配をしている時間じゃないか。さぁ諸君。そろそろ準備を」
そう言った頃には、誰一人として水面から顔を出している者はいなかった。
誰もいない虚空に向けて語りかけながら、ヴィクターが号令をかける。――とたんに膨張しはじめる、眼下の赤黒い海。
彼の横を駆け抜けていくのは、ヒヒ達からは見えていなかった透明な獣の群れ。ヴィクターの使い魔であるコヨーテだ。
使い魔達は躊躇うことなく次々と汚泥の中へと飛び込んでいき、その時を待つ。身体が発熱し、茶色い毛皮が赤く染まっていく。
ヴィクターの足元で群れから離れた姿違いの使い魔が、可愛らしく「きゃん!」と甲高い鳴き声をあげた。
「さぁ、見ていたまえペロ。こんなにおっきな爆発は久しぶりだ! くるぞ、くるぞ、くるぞくるぞくるぞ……!」
次の瞬間。一際大きな獣の遠吠えが、山を超え谷を超え、はるか遠くの国々にまで響き渡った。
「――きた!」
一瞬の静寂の後。空を、大地を、または海までもを揺るがすほどの大規模な振動に、耳をつんざくほどの爆発音。あの膨張した汚泥が全て、起爆剤も無しに大爆発を引き起こしたのだ。
爆風が近隣の木々をなぎ倒し、草木が一瞬のうちに燃え上がって消し炭となる。
「やった! 成功だ!」
ほんの数秒の間にこの付近一帯を焼け野原にしたヴィクターは、澄み渡る青空にはっきりと目に映る大きな花火を一つ打ち上げた。
それを見つめていたペロは、なにか言いたそうに尻尾を振っていたが――やがてニコリ。何事も無かったかのように、いつもと同じく主の周りを笑顔で駆け回りはじめたのだった。




