第85話 波乱の幕開けは昼下がりの打ち上げ花火と共に
見渡すかぎりの青い空。
麗らかな陽射しが心地よく、満を持して春の本番はやって来た。
爽やかな風に乗った草の香りに、小鳥の歌声。こんな穏やかな天気には、どことなく鳥達も喜んでいるように思える。
しかし世界中がそう春の到来に歓喜の声を上げる中、一人だけ浮かない顔をしている者がいた。
「ヴィクター……どこまで行っちゃったのかな」
そう呟いたのは、木陰で空を眺めている彼女――クラリス・アークライト。その人に他ならなかった。
時刻は既にお昼過ぎ。大きな木の下に都合よく置かれた岩に寝転がりながら、彼女は何十分もそうやって空を眺め続けていた。
もちろん趣味ではない。それしかすることがないのだ。
――用事があるからここで待っててくれだなんて……そう言われてから三十分くらい経つけれど。そもそも用事ってなによ。彼、スマホも持ってないんだし、誰かと待ち合わせしてるわけでもないと思うんだけれど……
寝転がれば彼女の美しい金色の髪には落ち葉が絡まり、透き通るシアン色の瞳に綿菓子をちぎったみたいな雲が反射する。
彼女のいるここはどこかの町と町とを繋ぐ道の途中。通りかかる旅人もいないような、まったく代わり映えのしない見渡すかぎり草ばかりの景色であった。
――なんか飽きちゃったな……そうだ。せっかくだから少し周りを散策して来よう。もう少し先に行けば町も見えるかもしれないし、ここで黙って待ってるよりは有意義に時間を過ごせるはず。
そうしてクラリスが起き上がろうとした、その時である。
「勝手に、どこに行こうっていうんだい?」
「ぎゃっ!?」
人間、本当に驚いた時には可愛らしい声など出ないものだ。むしろ、突然視界の端からにゅるりと男の顔が出てきたともなれば、驚かない人間などいないはずがない。
飛び上がったクラリスが岩から転げ落ちたのを見て、上から彼女を覗いていた紅髪の男――ヴィクターは、紅梅色の瞳を歪ませると楽しげに笑い声をあげた。
「HAHA! いや失礼。クラリスが鈴の音のような、あまりにも可愛らしい声でワタシの名前を呼ぶものだからね。少し意地悪をしてみたくなったのさ」
「なによそれ……。それよりもヴィクターったら、ずっとどこに行ってたの? こんな広い草原の真ん中で用事だなんて……絶対嘘でしょ」
「嘘とはなにかね。ワタシはいつだってバカ正直に生きているじゃないか。……なぁに。ここから少し行った先に、人里を襲うと悪名高い魔獣の群れが住み着いていてね。その群れのボスに懸賞金がかかっていたのを思い出したのだよ」
「懸賞金? そういえば、前にそれでお金を稼いでたって話してたっけ。……ということは、アナタもしかして……」
そこでクラリスは一つの考えにたどりつく。
しかしその考えを口にしようとした、まさにその瞬間――
『Woooooo!』
のどかな一本道に、突如として響き渡る獣の声。
声の聞こえた先――山々の方からクラリス達の元へと駆けてくるのは、そのどれもが顔を真っ赤に染め上げた人型に近い魔獣の群れ。白い毛皮に奇怪な鳴き声を上げるのは、ヒヒと呼ばれる種類の魔獣だ。
その数、おおよそ五十は超える大所帯。
「Hmm……なんだかいっぱい走ってきたね」
「ちょっとヴィクター、魔獣ってアレのことでしょ! アナタのことだから、てっきり全部退治してきたのかと思ったのに……何が起こってるの!? あれ、普通に考えて異常事態よ!」
「たしかにその場にいた魔獣は殲滅してきたが……どうやらまだ仲間がいたみたいだ。ワタシが住処に到着した時、ちょうど彼らは食事中だったみたいだからね。人里から盗んだのだろうパンを木の葉に変えて、金銀財宝を石ころに。そんなイタズラをするついでにボスの首を貰ってきた。そのどれかが彼らを怒らせたのかもしれない」
「全部が原因じゃない! なによ、首を貰うって!」
そうクラリスが言うと、ヴィクターの目が怪しく細められた。
クラリスには手に取るように分かる。これがロクなことを考えている顔ではない、ということを。
「おや、実物鑑賞をご希望かい? クラリスは意外と趣味が悪いんだねぇ。次の町でこれと交換に懸賞金でも頂こうかと思ったのだが――」
「わぁー! いい! 見せなくていいから!」
一見するとヴィクターの両手にはなにも無い。しかしソレが旅の荷物同様、彼の魔法によって収納されているということはクラリスにはお見通しだ。
よからぬものを見せようとするヴィクターを慌てて止めたクラリスは、ようやく立ち上がってこちらへ向かってくるヒヒの群れに目を向ける。
言わずもがな先程よりも近くへ迫ってきている魔獣達は、牙を剥き出しにしては怒りの雄叫びを上げている。
彼女の隣のヴィクターは「品がないね」やら「そんなに怒らなくても」などとボヤいてはいるが、きっとクラリスとて同じ立場ならばあのように怒りもするだろう。
――とにかく逃げないと……とはいっても、ここ、見晴らしが良すぎるし……
このままではヴィクターもろともクラリスまで襲われてしまうのは目に見えている。
しかしここは車二台がギリギリすれ違える広さの一本道。仮にこのまま道沿いに逃げたとしても、追われ続けることは間違いない。
――それなら……
ヒヒ達が来ている方向の反対側には、クラリスの背丈ほどもある草が青々と生い茂っている。
長身なヴィクターには悪いが、少し身を低くしてもらいながらであれば逃げることができるだろうか。
「よし、ヴィクター! こっちの草の中なら隠れて逃げることができるかもしれない。行きましょう!」
「Hmm……どうせなら迎え撃った方が早くないかい?」
「戦わなくて済むならその方がいいでしょ! ほら、急いでしゃがんで!」
「ひょえ」
好戦的な姿勢を崩さないヴィクターに痺れを切らしたクラリスは、説得する時間も惜しいと彼の右手を掴んで強制的に走らせた。頭上から同じ人物のものとは思えない間抜けな声が聞こえたのはきっと気のせいだろう。
一心不乱に草をかき分けながら先導するクラリスは、後ろを気にする余裕もなくただ前を向いて走る。
そしてどれほど走った頃だろうか。――彼女の視界は、突然ひらけた。
「わっ……」
足元の急な斜面に驚き立ち止まる。
その坂の先――目の前には今までクラリス達が通ってきた草むらとはまた違う、背の低い草花がさらさらと風に揺られる草原。
そして草原を越えた先にあるのは、数キロメートルも離れたこの場所からでも分かるほどに大きな、城のような建造物。周りには家々が数多く建ち並んでおり、それを取り囲むのは円形状の巨大な塀――ひとつの国が、そこにはあったのだ。
まだまだ遠くて小さくしか見えないが、確かにそれは存在している。
「ゲームから飛び出してきたみたいな場所……でもよかった。あそこなら今日は野宿なんてしなくてもよさそうね。あとは無事に私達が逃げきれてさえいれば――」
『Woooooooo!』
背後数百メートル。聞こえる雄叫び。
今までは必死に走っていて気がつかなかったが、ヒヒ達の声はどうやらかなり近いようで。
「な、なんで!? 私たちジグザグに走ってきたし、隠れて移動していたのに。こんなに早く居場所がバレるだなんて、ねぇヴィクター……」
予想外のことにクラリスは困惑し、助けを求めて隣のヴィクターを見上げる。
しかし――彼と視線が合うことはなかった。
「ヴィクター……アナタそれ……」
「……だって、き、キミが……」
ヴィクターはクラリスに掴まれた方とは反対の手で目元を隠しているようで、耳まで赤くした彼は指の隙間からチラリと彼女の顔を覗き見る。
そんな彼の様子を見て、クラリスは自分達の居場所がヒヒ達にバレた理由を理解した。
「キミが、突然ワタシの手を握るから……!」
絞りだすような声は不規則に響く破裂音によって邪魔をされる。
それもそのはずだろう。ヴィクターの背後からはそう話している間にも、繰り返し空に咲き誇る美しい花火が打ち上げられていたのだから。




