第83話 魔法、ほどけて絡まるジェラシー
最初はてっきり、アリスタもろとも洞窟の崩壊に巻き込まれて死んでしまったのだと――そう思っていた。
「……どういうこと? ここ……もしかして、役場の……中?」
無意識にクラリスの口から出たのは、そんな戸惑い混じりの言葉だった。
あの突き上げるような揺れは感じない。まるで催眠が解けたかのように、彼女達の目に鮮明に映るのは、あの薄暗い洞窟ではなく静まり返った見慣れぬ室内。
それでもクラリスが役場の中だと思ったのは、遠い昔にも感じる洞窟へと踏み入れる前。ドアを開ける前に窓越しに見た光景と、目の前の光景が一致していたからだ。
「そうか。空間をねじ曲げる魔法……役場に掛けられていた魔法が解けたんだ」
「どうやら俺達、なんとか帰ってこられたみたいだね。町の人達も無事で本当によかった。一時はどうなることかと思ったよ」
アリスタは部屋の隅に固まった住民達を見ては、胸に手を当て、今度こそ安心した表情で肺にこもっていた息を吐き出した。
そんな彼の表情を見て、クラリスも肩の力を抜いたものの――背後でわずかに聞こえた物音に、彼女は大袈裟に肩を震わせてそちらへと振り返った。
「……なんだ。ヴィクター……驚かせないでよ。アナタも無事だったのね。よかった……」
空間が崩壊するタイミングで、離れた場所にいた彼もこの役場へと戻されたのだろう。彼女の視線の先に立っていたのは、仏頂面を浮かべたヴィクターであった。
いつもならば、彼はクラリスの功績を褒めたたえ、無事をさぞや喜んでいたことだろう。だが、彼はクラリスの顔を見て、次にアリスタの顔を一瞥。
そして二人の元へつかつかと歩み寄ると――彼女達の間。そう、二人の間にわずかにできた空間へとステッキの石突きを差し込み、ぶんぶんと左右に振りはじめたのだ。
「ちょ、ちょっと! いたたた、やめてヴィクター! いきなりどうしたのよ!?」
「……別に。ちょっと距離が近いなと思っただけだよ」
そう言うとヴィクターはステッキを引っ込めて、ぷいとそっぽを向いてしまった。
珍しく……いや、いつも通り嫉妬しているのだろうか。
そんな小さなやきもちが面白くて、クラリスとアリスタが自然と顔を見合せて笑い合う。それを見たヴィクターは、年甲斐もなく頬を膨らませてますます機嫌を損ねてしまったようだった。
――ワタシのいない間に仲を深めるだなんて、まったくどういう了見なのかね。背ならワタシの方が高いし、魔法だって色々使えるし、最近は嫌いな野菜も食べるようにしているというのに……あんな、楽しそうに見つめ合って笑うだなんて。ワタシはあんまりしたことないのに。
さらにむくむく膨れる嫉妬心。これでは大きな子供が拗ねてしまったかのようだ。
彼女達はヴィクターのそんな可愛らしい一面を見て笑っていたのだが、当の本人がそのことに気がつく素振りは無い。
「……ん?」
むしろヴィクターが気がついたことは、もっと余計な……しかし彼からしてみればとても大事な、あることであった。
「……クラリス。その腕……どうしたのかね」
「腕?」
それまでとは打って変わって、ジロリと睨めつけるような視線。
クラリスはヴィクターに指摘された腕――窓から差し込む月明かりに照らされ、赤く痛々しい手形がついた右腕に目を向けた。
「ああ、これなら大丈夫。さっきアナタと別れた後に、渦男達が来て……その時に掴まれたの。内出血とかはしてないみたいだし、全然平気だから」
すっかりクラリスは忘れていたが、どうやら洞窟内で偽物の住民に腕を掴まれた痕が残ってしまっていたらしい。
触ると少し痛みはあるものの、これくらいなら打撲をしたようなものだ。数日もすれば綺麗さっぱり治るだろう……と、クラリスは思っていたのだが――
「大丈夫? 平気? そんなわけないだろう。こんなにも可哀想に腫れ上がってしまって……やっぱりワタシの元から離すんじゃあなかった。痕が残ってしまったらいけない。早くアリスタくんの魔法で治療を……いや、たしか怪我は治せないと言っていたね。ああ、こんな時にワタシも治癒ができる魔法が使えれば……ああいうのは得意ではないのだよ!」
ヴィクターはそう血相を変えて狼狽えてはいたものの、けっして彼女と共に行動をしていたアリスタを責めるようなことはしなかった。
もしかすると、彼はクラリスが怪我をしたことについて、自分を――別行動を取るという判断を下した自分のことを責めているのかもしれない。
彼がクラリスを残す選択をしていれば、アリスタが襲われて――こうして住民達が無事に帰ってくることはできなかった可能性があった……としてもだ。
するとそんなヴィクターの肩の向こう。二つの人影があることにクラリスは気がついた。
ひとつは仰向けに倒れている人間。もうひとつは――直立不動でこちらへ笑顔を見せつける、見知らぬ背広姿の男の姿。
それが誰かに成り代わった渦男とその被害者であるのだと、彼女はすぐに気がついた。
「ヴィクター……あれって……」
「……えっ? ああ……あれは今回の事件の黒幕だった魔導士さ。予想通り役場の人間だったよ。……今はああして、自らの魔法に溺れて同じ仕打ちを受けてもらっているところだけれどね」
まだ冷や汗も引かぬままのヴィクターが言った通り、倒れている方の男――サイラスには顔が無かった。
偽物のサイラスはただ突っ立っているだけで、襲ってくるような気配は無い。その足元で、本物のサイラスが苦しげに身悶えしていたとしても、だ。
「アリスタさん、あの人も治せたり……しますか? 自業自得なのは分かってますけど、あのままなのも……なんだか可哀想で……」
クラリスが隣のアリスタにそう問いかける。
そんな問いに彼の返答はもちろんイエス……ではなく、意外にもアリスタは横に首を振ると、「それはできないんだ」と一蹴。クラリス達に見えるよう、自分の目元に人差し指を向けた。
「やってあげたい気持ちはやまやまだけれど……俺の魔法、使えるのに制限があるんだ。ほら、今の俺の目……多分黒くなってるでしょ? 他人の悪い魔力を吸い込んでいって……こうして黒くなっている時はそれ以上使えない。だから緊急時以外は、なるべく普通のお医者さんと同じで薬を処方するようにしているんだ」
役場の中は暗く、先程まで分からなかったが……言われてみれば、今のアリスタの瞳は色素の薄い灰白色からクレヨンで塗りつぶしたような黒色に変わっている。
それもそうだろう。無制限で他人を癒せる魔法なんかが存在すれば、世界中が放っておくはずがない。そんなにも上手い話があるはずないのだ。
心なしか、アリスタ自身も魔法の影響でかなり体力を消耗しているようで、笑みを浮かべる表情にも力が無い。
「それじゃあ、この人は……」
「しばらく放置しておけばいいさ。心配なら横の偽物ごと檻にでも入れておこう。こんなにも他人に迷惑をかけたんだ……少しは同じ気持ちを味わって、反省してもらうのが筋というものだろう」
そうヴィクターが言うと、まるで反論するかのごとく顔の無いサイラスがもぞもぞと床で体をくねらせた。
そんな姿を見ては、心優しいクラリスはつい同情をしてしまいそうになるのだが――
――魔力を与えられて歪んでしまったとはいえ、この人は渦男に人を襲わせていたんだもんね。魔法使いの世界は綺麗なだけじゃない……うん。私も心を鬼にしないと。
世の中全てが甘いわけじゃない。時には厳しさも必要なのだ。
しかしそれでも痛みを訴え続ける良心に、クラリスは顔の前で両手を合わせると、「ごめんなさい!」と一言。目も耳も失ってしまったサイラスへと向けて、そうできる限りの優しさを見せたのだった。




