第80話 能ある忠犬、私情を挟まず
《数分前――鍾乳洞》
時はヴィクターとクラリス達が離れ離れになった頃。ヴィクターが引き起こした爆発によって、鍾乳洞の入口が崩されたタイミングへとさかのぼる。
背後で鳴り響く轟音と、土の匂い。
それまでたしかに優勢を保とうとしていた渦男達の動きがピタリと止まったのを見て、ヴィクターはわずかに口角を上げた。
「どうした。ずいぶんと静かになったじゃないか」
まるで巨大なイソギンチャクを前にしているかのように、標的を失った渦男達の黒い腕はゆらゆらと宙をさ迷っている。
様子を見ているというよりは、指示を待っているという状態に近いだろう。もしもこの化け物達が本当に魔導士から作り出された傀儡であるのだとすれば――本体は、おそらく近くにいるはずだ。
「やれやれ……自分で別行動をするなと言っておきながら、まさかこんなにも早くクラリスと離れることになってしまうとはね。本当にギリギリまで考えたのだよ? 三人で行動を続けるべきか……はたまた、彼女をアリスタくんと共に別行動させるべきなのか」
そう言うと、ヴィクターは静まり返った鍾乳洞内を歩きはじめた。
彼が歩くペースに合わせて、コツコツと小気味のよい音がこだまする。それがステッキの石突きが地面に打ち付けられた音であると、理解している者は果たしてここにいるのだろうか。
「アリスタくんは誠実な男のようだからね。もちろん、無謀にもワタシの大事なクラリスへ手を出そうなどとは考えもしないだろう。しかし……抜けているのか正義感が強いのか、彼には前しか見えていないような節がある。正直心配なのだよ。ワタシは」
まだ渦男達が動く気配はない。
ゆらゆらと揺れる黒い腕が、ヴィクターの動きに合わせてゆっくりと照準だけを移動させる。
「だってそうだろう。いくらこちら側に敵が集められていたとしても、それが全員とは限らない。本来ワタシが取るべき最善の行動は、クラリスの安全を最優先し、彼女を手元から離さないことだ」
コツリ、と石突きが音を立てたのを最後に、ヴィクターの足が止まる。
「それでもワタシだけがここに残ったのは他でもない。彼女ならば……万が一にも作戦の要であるアリスタくんに危機があった時、勇敢に立ち向かうことができると思ったからだ。少しの危険に目を瞑り、事件の根源を排除し、これ以上の犠牲者を出さないため……いや、クラリスが満足する結末を作り上げるために。今だけは公私を分けて、ワタシにしかできないことをやらせてもらうとしよう」
ゆっくりと左腕を横に広げたヴィクターの手元、ステッキが一回転する。
三百六十度を回った苺水晶は内部に熱を宿し、光の粒子がきらめく白いもやをまとう。
刹那。宝飾から放たれたのは、弾丸とも見間違う高速の光球。
魔力を凝縮した眩いミルク色の光は、主の元を離れると何倍にも膨張を重ね――起爆。直線上に佇む大きな岩を粉々に破壊した。
「うわああッ! な、なんだぁ!?」
すると間抜けな叫び声を上げて岩陰から飛び出てきたのは、砂埃にまみれた背広を羽織った男であった。
男は状況がまだよく分かっていないのか、息を荒らげて四つん這いのまま地面を這いずり、付近をキョロキョロと見回している。
あれは――間違いない。普通の人間の反応だ。腕を下ろしたヴィクターの目元が、スッと細められる。
「やはり……キミが黒幕か。ホテルで見かけた時から思ってはいたが……ずいぶん身なりのいい格好をしているのだね。キミ、この町の役場の人間……それも権力者かなにかだろう」
そう。ヴィクターはこの男の顔に見覚えがあった。
ホテルでの襲撃に遭う前。出会ったのはたしか――ロビーでチェックインを済ませた後だったはずだ。
あの時、開いたエレベーターから降りてきた壮年の男。まさにその姿は目の前の男と瓜二つであったのだ。
「黒幕? ち、違う! 私は偶然ここに迷い込んだだけなんだ。今はここで隠れて助けを待っていただけで――」
「わざわざ言わないと認めないつもりかね。サイラス・ランス……現パルデの町長であり、我々の他に唯一人間としての暮らしを続けていられる人間。……いや、魔導士」
「なぜ、私の名前を……」
驚いた表情で男――サイラスがそう聞くと、ヴィクターは小馬鹿にしたかのように「ハッ!」と笑い声を上げてその質問を一蹴した。
「ホテルに飾ってあっただろう。肖像写真。それの一番右……つまり現町長の写真がキミの顔であり、名前が書いてあることも確認した。ましてや直後にロビーで本人とすれ違ったものだから、記憶に残るのも当然だ。そんな人物が他とは違って、あからさまに人間臭い反応をとるともなれば……この町において疑うのも当然であると思うがね」
「なに、ホテルの肖像写真だ? そんなもの、きっとそっちの記憶違いで……いや。今更なにを言い繕ったとて、言い逃れはさせないつもりか」
「もちろん。だからこうして逃げ道を塞いだんだ。キミは我々を追い詰めたつもりだったのかもしれないが……逆だよ。ワタシがキミを追い詰めたのさ」
そう答えたヴィクターの目が渦男達へと向けられ、それからサイラスへと戻される。
「……とにかく。詳しい話を聞く前に、まずはこのギャラリーをどうにかする必要があるね。アレらに関しては少なからずクラリスがトラウマを植え付けられているみたいだし……そんなものは一秒たりとも長く、この世に存在していていいはずがない」
「ひぃっ……!」
再び聞こえた情けのない悲鳴。
ヴィクターがステッキを持ち上げた瞬間、自分に矛先が向いたと思ったのだろう。まるで人喰い魔獣にでも遭遇したかのように、必死な形相のサイラスが両手を上げた。
はじめは早くも降参をしたのかと思ったが、どうやらそうではない。合図――そう。それは防衛、迎撃、反撃……きっと、この際どれでも構わないのだろう、サイラスから示された指示。
ひとつだけ確かなことは、それがヴィクターの置かれた状況を悪い方向へ導いたということだ。あの合図と共に、静観を決め込んでいた渦男達が動きはじめたのである。
『顔を……分けて、ください』
男とも女とも区別のつかない、複数の人間をかき混ぜて作ったかのような声。それらが鍾乳洞内に反響し、幾重にも重なり合う。
それは懇願するかのような――それでいて、事務的にも思える個性の欠片すら持ち合わせない大合唱だった。
『顔を分けてください。高い鼻が――欲しいんです。そうしないと可憐な花の香りを嗅ぐことができないから』
ヴィクターが振り返る。
予想はしていたが、あまり見ていて楽しいものではない。彼は視界を覆い尽くすほどの渦男の姿を目にしては、面白くないといったように片眉を上げた。
『顔を分けて、ください。達者な口が欲しいんです。そうしないと――大好きなあの人とお喋りすることもできないから』
足並みを揃えて、渦男達が手を伸ばす。
傀儡である自分達には無い個性。喉から手が出るほどに欲しているそれを求めて、彼らは両の手を伸ばし、掴もうとする。
『顔を分けてください。大きな瞳が欲しいんです。そうしないと綺麗な夕焼けを見ることが――できないから』
三本目の腕。渦男達の喉――否、顔の渦から伸びた黒腕が、物欲しそうに揺らめいた。
「……ふん。そんなに欲しいのなら奪い取ってみたまえ。それができたところで、どうせキミ達じゃあワタシの顔は持て余すだけだよ」
『オ、オオ……オオオ……!』
ヴィクターの放った言葉が引き金になったのかといえば、おそらくそうではない。
しかし渦男達は彼の言葉に挑発されたかのように頭を抱えると、なにを思ったのか黒腕を渦の中へと引っこめた。
そして大きく全身を震わせてよろめき、覚束無い足取りのまま数歩前に進んだかと思えば――ずるり。顔の中心の渦から、自分達の身体以上の大きさもある手のひらを吐き出したのだ。
「揃いも揃って、さっきから騒々しいね。そんなに大勢で来られては会話の余地もない。そちらがその気なら……ワタシも実力行使に出ないといけなくなるじゃないか」
そうヴィクターが口にしてすぐ、指を弾く軽快な音が鍾乳洞内に響き渡った。次の瞬間――
「BANG!」
一瞬の静寂――そして、地面をひっくり返してしまうほどの衝撃。
果たして会話の余地もなかったのはどちらだろうか。高らかに言い放った彼の声をかき消すほどの爆発が、渦男達の足元に巨大なクレーターを作り上げたのだ。




