第8話 旅の途中、事件は突然に
森林浴には、癒し効果やストレス軽減の効果がある……なんて話を聞いたことがある。偉い学者先生がテレビで言っていたのだから、きっとそうなのだろう。
清々しい空気に、木々の間から射し込む木漏れ日。そこらで見かける鹿やらウサギやら、名前も分からない未知の生物やら。それらはまさに、この森の中における癒しの象徴そのもの。心が洗われるという体験であることに違いはない。
――とはいっても……どれだけ歩いても森しか無ければ、さすがにストレスも溜まるわよ。今日中に泊まれるところが見つかればいいんだけど……
そよぐ春風に肩口まで伸びた金色の髪を揺らしながら、クラリス・アークライトは心の中でそう文句を述べた。
それもそうだろう。なにせ彼女はどこを見回しても木、木、木。こんな変わり映えのしない景色の中をもう何時間も歩いているのだ。茂みの向こうにどれだけ可愛らしい小動物が耳や尻尾を覗かせたとしても、もう心は動かない。単純に飽きたし疲れたのである。
「ねぇヴィクター。前から思ってたんだけど……アナタの魔法でこう、近くの町までパパッと移動はできないものなの? 歩くのが旅の醍醐味なのは分かるけど……この辺り、電波も弱くてスマホの位置検索もできないみたいで。道に迷ってないか心配なのよね」
「Um……できなくはないかもしれないが、空間を操る魔法に関してはあいにく得意分野ではなくてね。物を出し入れするくらいならいいが、瞬間移動みたいなのは……あまりオススメはしたくないな。クラリスがどうしてもと言うのならば、挑戦してみてもいいが……」
「いいが?」
クラリスが期待を含んだ目で、隣を歩く紅髪の男――ヴィクターを見上げる。すると彼は整った顔の眉間にきゅっと不似合いな皺を寄せた。
「失敗すれば、全身がバラバラになる可能性がある」
「……やっぱり頑張って歩きましょ」
希望が湧き上がるのも一瞬。崩れ去るのもまた一瞬であった。
さすがに体がバラバラになることを代償にしてまで楽をしようとは思わない。だが、同時にこの退屈な状況を打破できる策を失ったということも事実。どれだけ足が棒になろうとも、クラリス達は歩き続けることを選ぶしかなくなってしまったのである。
「あーあ。一週間前まではリゾート気分だったのに、まさかこんな森の中をウロウロすることになるだなんて……。ここで野宿だけは絶対に嫌」
「クラリスが望むなら、天蓋付きのベッドくらい出せるよ?」
「そういう問題じゃないの。別に寝床の問題……もあるけれど。単純にこんな森の中で寝泊まりなんてしたら、虫とか獣とか出そうで安心できないじゃない。最近は気候も暖かくなって生き物も活発なんだから。虫刺されはヴィクターも嫌でしょ?」
とはいえ、虫や獣ならまだ良い方――厄介なのは魔獣が出た時だ。
魔獣とは一般的に、姿形や生態が人々の考える『普通』の認識とは離れた一部の存在のことをさす。中には魔法で人を喜ばせるような魔獣や、穏やかな性格で愛玩動物として飼えるような魔獣もいるのだが――もちろん全部がそうではない。平気で人を食べる化け物のような魔獣だっているのだ。そんなものと一夜を共に過ごすなど、か弱いクラリスは考えただけで身震いしてしまいそうだった。
――いざという時はヴィクターが守ってくれるだろうけど……そういうのに会わなくて損することはないもんね。
危険は少なければ少ないほどいい。たとえそれが、隣を歩く男が過去に彼女の命を救ってくれた腕の立つ魔法使いだとしても、である。
「Hmm……キミのためならば、ここに雨風を凌ぐことのできるログハウスを建てる努力もさえも厭わないのだが……ん?」
話の途中でふと、ヴィクターが前方に目を向けた。クラリスも釣られて目を凝らせば、遠目になにかが二人に向かって走ってくるのが見えた。あれは……犬だ。茶色い毛皮を風になびかせたキツネ顔の犬が、軽快な足取りでこちらへと駆け寄ってきたのだ。
ヴィクターは足元に擦り寄ってきた犬の額を撫でてやると、一方的になにかを話しかけては「分かった。ごくろうさま」と労いの言葉をかける。犬は嬉しそうにパタパタと尻尾を振ると、ついでと言わんばかりにクラリスの足の間をくるりと一周してから、木立の間を颯爽と消えていった。
「あれって、ヴィクターの使い魔ってやつ?」
「うん。少し先まで見に行かせていたんだ。彼女の話では、しばらく進むと村があるみたいだね。聞いた感じ宿泊施設は無さそうだけれど……泊めてもらえるか交渉してみようか」
「本当! それじゃあ野宿コースからはひとまず逸れたってことでいいのよね?」
「まだ交渉前だけれどね。ワタシも突貫工事で家を建てることにならずに済みそうでよかったよ」
言葉だけ聞くと冗談にも思えるが、魔法使いであるこの男ならばログハウスの一つや二つ本当に建てかねない。資材ならば森にいくらでもあるのだ。クラリスがお願いさえすれば、サクッと建ててしまうことだろう。
ヴィクターの言った通り、それから一時間も歩けば永遠と思われた森の小道はあっさりと終わりを迎えた。
開放感のある清々しい空気。久しぶりに浴びる直射日光。太陽は、既に西に傾きつつある。
「――あっ。ヴィクター、あれ! 本当に村がある!」
「日が沈む前に着いてよかった。そんなに小さな村でもなさそうだから、数日間は滞在しても大丈夫そうだね」
ポツポツと見えるようになった屋根の煙突からは、煙も上がっている。時間的に夕食の支度をしている家庭も多いのだろう。匂いがここまで届くことはなかったが、食いしん坊なクラリスの腹の虫はぐぅと鳴き声を上げた。
――泊まるついでにご飯も食べさせてもらえたら嬉しいんだけど……そこまで甘えちゃったら、さすがに迷惑かけちゃうかな。
食事処があるのならば、それでもいい。
それこそ彼らの旅の目的のひとつ――特にオシャレと同じくらいに食べることが好きなクラリスにとっては、訪れた町や村で食べるご飯ほど楽しみにしているものは無い。なにより、ここまで歩き詰めでクラリスのお腹はもうペコペコだったのだ。
「おや……なにやら人が集まっているようだが」
再び歩きはじめること数分。ヴィクターがそれを発見したのは、村の入口に差し掛かった頃であった。
こんな夕飯時にも関わらず、彼が言うように複数の人間が集まりなにかを話し合っている。談笑する声は聞こえてこない。表情から察するに、彼らが楽しげな話をしているわけでないのは確かだった。
「なんだろう……事件でもあったのかな」
「だとしても、我々には関係のない話だ。クラリスが気にすることはないよ」
「うーん。それはそうだけど……」
ヴィクターの意見はもっともではある。しかしこれから滞在しようとしている村で事件が起きているともなれば、気にしないという方が難しいだろう。
するとクラリスの思いが伝わったかのだろうか。集まっていた村人の一人が、二人に気がつき振り返った。壮年の男だ。手には農具を持っているようで、畑でひと仕事してきた後だということがよく分かる。
男は近くの人間になにかを尋ねると、おそるおそるクラリス達に向けて声をかけてきた。
「こんにちは。もしかして、サントルヴィルから調査に来ていただいた魔法局の方々……でしょうか?」
「サントルヴィル? いえ、私達は旅の途中でたまたま立ち寄っただけで……あの、なにかあったんですか?」
男の神妙な顔を見れば、事態の深刻さは何も聞かずとも伝わってきた。
クラリスの返事を聞いた男は少し残念そうに肩を落としたものの、藁にでもすがる思いなのだろう。他の村人達と同じように、数百メートル以上も離れた位置にある鬱蒼と生い茂った森を一瞥した後――二人へと視線を戻し、ようやくその口を開いた。
「実は……森に、魔獣が住み着くようになってしまったんです」