第78話 そっちは頼んだよ、クラリス
ヴィクターとクラリスを置いていったアリスタの姿は、案外早くに見つけることができた。
道なりに進んでいった先。それまで圧迫感を感じていた天井が急に高くなり、水滴が落ちて弾ける音がこだまする。
ここは――鍾乳洞だろうか。天井には乳白色のつらら状の岩が不規則に垂れ下がっていて、地上にもゴツゴツと大きな岩の塊がいくつも転がっている。
夜中にも関わらず、天井に空いた穴からは光が射し込んでいて、洞窟内の明るさは他の光源を用意せずともハッキリ見ることができた。空間の歪みとは、どうやら昼夜の境すらを曖昧にしてしまうこともあるらしい。
ヴィクターが杖先を打ち付けると、苺水晶は静かにライトとしての役目を終えて光を収めた。
「アリスタさん!」
クラリスがアリスタの名を呼ぶと、ようやく彼は自分が先走ってしまったことに気がついたらしい。
振り返ってクラリスと目が合った彼は、少し気まずそうに目を伏せた。
「あっ、クラリスちゃん……ごめんね、みんなで行動するって決めたのに先に行っちゃって。悲鳴を聞いたら、いてもたってもいられなくなって……」
「いえ、アリスタさんが無事で良かったです。それよりここは……」
「どうやら行き止まりみたいだね。たしかにさっきの声……こっちの方から聞こえたと思うんだけれど。おかしいな、ハズレを引いたみたいだ」
しかし口ではそう言いつつも諦めるつもりは無いのだろう。アリスタはキョロキョロと周囲を見回し、感覚だけを確かに悲鳴の声の主を探している。
あの声がこちらの方向から聞こえたのはクラリスも同じだ。また彼が一人で先走ってしまわないよう、彼女も一緒に探すべく合流しようとしたのだが――
「ヴィクター、どうしたの?」
その場を微動だにしないヴィクターを不思議に思い、クラリスが見上げる。
なにか気になることでもあるのだろうか。彼は鍾乳洞内にくまなく目を向けると、小さな舌打ちをひとつ。
「……やられたね」
「やられたって……なにが?」
「考えてもみたまえ、クラリス。キミとアリスタくんの話を合わせると、渦男達は成り代わった人間をここに連れ込み、外から来た人間に見られないよう隠そうとしている……そうだったね」
「うん。でもさっきの悲鳴を聞いた感じ、まだ無事な人もいるみたい。早く探して助けないと――」
「いないよ、そんな人間」
希望を打ち砕くかのごとく、ヴィクターはハッキリとそう言い切った。
たしかに普通の人間がここまで入り込んでまで得るメリットはなにも無い。だからといって、先程聞いた声が幻聴でないことはヴィクターだって分かっているはずだ。
「いない? でも、さっきの声はアナタも聞いて……」
「クラリス……もう忘れたのかね。あの渦男達は、どういうわけか成り代わる前から他人の声を模倣する。キミが騙されたように、それは精巧にね。これがただのモノマネショーなんかではなく、人間をおびき寄せるために発せられている罠だと考えれば……いるはずの人間の姿が見えないのにも納得がいく」
「それってまさか……アリスタさん!」
そうクラリスが叫んだ瞬間、振り返ったアリスタの背後――岩陰から伸びた手が、彼の肩を掴んだ。
驚きに目を見開いたアリスタが、とっさにその手を振り払い反転する。そして彼の目の前を――きらめく閃光が駆け抜けた。
「眩しっ――わわっ!」
眩しさと熱さに反射的に目を瞑ったアリスタは、そのまま自分の足に引っ掛かったのか尻もちをついて後ろへ一回転。砂利の上へと転がり落ちる。
ようやく目が慣れた彼の前にあったものは、頭にぽっかりと貫通してしまうほどの穴を開けた渦男――綿を撒き散らしたその死骸であった。
「いてて……あ、ありがとうヴィクターくん。助かったよ……」
駆け寄ってきたクラリスと、その後ろを仏頂面を浮かべて着いてくるヴィクターを見て、アリスタが礼の言葉を述べる。
ヴィクターのステッキの宝飾からはまだ煙が上がっており、今の光線は彼が放ったものであると、ひと目見ればすぐに分かることだった。
「礼はいい。それよりキミはここが敵の腹の中であることをもう少し意識したまえ。クラリスがキミを追いかけていれば、危うく彼女まで危険にさらされるところだったのだよ……なんて、ハッ。今更言ってももう遅いか」
短い笑い声を上げて、ヴィクターがステッキを前方へと向ける。
ようやく立ち上がったアリスタがその先に見たものは――人型を模した、無数の黒い渦。
闇の中。暗闇や岩陰に潜む姿は一つや二つではない。この短い時間の間に彼らの周りは、鍾乳洞内に潜んでいた渦男達によって囲まれてしまっていたのだ。
ヴィクターの視線が前方、そして左右を確認する。
「大人数に囲まれるのはいささか面倒だな。クラリス、後ろは」
「う、後ろ? えっと……大丈夫。後ろにはまだいないみたい」
クラリスが後方に目を向けて、退路が塞がっていないことを確認する。
彼女の返答を聞いたヴィクターはひとつ頷きを返し、周囲を警戒したままクラリスとアリスタを連れてジリジリと後退していく。
「おそらく成り代わられた人間達が連れていかれたのは、あの分かれ道の左の方だ。我々をそちらへ向かわせないために、あんな幼稚な声真似をわざと披露して誘い込んだのだろう」
「それじゃあ一度戻らないといけないってこと……だよね。でも反対の道に行っても、後ろから追いつかれたら今度こそ袋小路になっちゃうかもしれない……どうするの、ヴィクター?」
暗がりから次々と現れる渦男達を前に、焦りと恐怖がクラリスの余裕をどんどん奪っていく。
今や渦男達の数は十、二十――いや、既に三十は超えているだろう。それはただ隠れていた個体が出てきただけではない。影の中から、まるで沼の岸を這い上がろうとする怪物のようにぬるりと。そこかしこで今も生まれているのだ。
それはおそらくこの場に身を潜め、彼女達の様子をうかがっているであろう――魔導士の手によって。
「できればコレはやりたくなかったが……考えならある。……クラリス、アリスタくん。ワタシが三つ数えるから、その合図でキミ達は後方へ向けて足を止めずに全力で走りたまえ。理由はすぐに分かるから……いいね?」
そうヴィクターが聞くと、クラリスとアリスタは戸惑いながらも揃って了承の言葉を口にした。
ヨタヨタと拙い動きで、渦男達が陰を離れ三人へと近づいてくる。両腕を前に突き出し、生者を求めて歩く様は、まるでどこかの町の映画館で鑑賞した安いゾンビ映画のようだ。
「それじゃあいくよ。いち……」
ヴィクターがカウントを始める。
張り詰めた緊張感の中、クラリスの足元で砂利が地面に擦れて音を立てる。
「に……」
視界の中央、一体の渦男の頭が小刻みに震えだした。それに釣られるかのように、周りの渦男達も頭を抱えて全身を震わせる。
あの様子はホテルでも一度見ている。あれは――あの忌まわしい黒い腕。他人の顔を奪い、自分のもののように扱おうとする、あの腕を放出する前の予備動作だ。
「さん――走れッ!」
ヴィクターが叫んだまさにその瞬間、彼らを取り囲む渦男達の顔の中心から――あの黒い腕が、溢れ出した。
言われた通りにクラリスとアリスタは身を翻し、彼らがやって来た洞窟へ向けて全速力で走りだした。その背中を追うように、濁流となった腕が迫っていく。
鍾乳洞の出口は目の前。
しかし一歩の歩幅が大きいヴィクターやアリスタと比べれば、クラリスの足では進める距離なんてものは限られている。
それに鍾乳洞を抜けたところで終わりではない。洞窟だって、役場の中とは思えないなかなかの距離があったはずだ。外に出るまで体力が持つとはとても思えない。
――だめ、このままじゃ追いつかれちゃう!
焦りで荒くなる息。たとえどれだけ足を動かそうとも、クラリスの細足に、肩に、そして顔に。あの時と同じように黒い手が絡みつくのは時間の問題でしかないのだ。
だから、そう。今こうして彼女が考えている間にも、迫ってきていた一本の腕が、まさに彼女の肩を掴もうと指先を伸ばして――
「――クラリス、そっちは頼んだよ」
「……えっ?」
遠くから聞こえたのはヴィクターの声。
そしてそれをかき消すかのように響いた頭上の爆発音に、クラリスは振り向きかけるも――言いつけを守り切り、足を止めることなく横穴の中へと飛び込んだ。
間もなく彼女の耳に届いたのは、地響きと共に背後でなにかが派手に崩れる音と、一歩前を走っていたアリスタの小さな悲鳴。
「……そんな」
慌てて振り返ったクラリスは、そう呟いて呆然とするしかなかった。
数秒前まで、彼女達がいたはずの鍾乳洞。その入口は今や、ヴィクターを残したまま人の侵入を許さぬ瓦礫の山と化してしまったのだ。




