第75話 その医者、町の真相を語って
《数分後――診療所》
「……全員、行ったみたいだね。ひとまずは大丈夫そうだ」
窓の外を見てそう呟いたヴィクターの言葉に、クラリスはようやく張り詰めていた緊張の糸を解いた。
彼女達はあの煙幕による目眩しの後、白髪の男に従って逃げ込んだ診療所で息を潜めていたのだが――どうやら渦男達の脅威は一旦去ったらしい。
あんな目眩しなんかができるのなら、最初から使えばいいのに。
そうクラリスは喉から出かかったものの、こんなどこが安全なのかも分からない状況だ。相手の様子も見えないような、無策な選択もできなかったのだろう。
――いざ逃げ込んだ場所ではち合わせ……なんてなっちゃったら、袋の鼠だものね。一時はどうなることかと思ったけれど、逃げ切ることができて良かった……
クラリスはほっと一息つくと、ツンと薬品の匂いが漂う診察室――その部屋の隅。影の中で自分達と同じように身を潜めていた白髪の男に向けて、声をかけた。
「あの……さっきは助けていただいて、本当にありがとうございます。私はクラリス、こっちはヴィクターです。アナタは……」
「俺はアリスタ・リリーホワイト。お医者さん……だっていうのは、この白衣を見たら信じてもらえるかな? 君達が無事で本当に良かったよ。俺を信じて来てくれて、こちらこそありがとう」
そう言ってアリスタと名乗った男は、柔和な笑顔で右手を差し出した。
その顔は他の住民達の笑顔とは似ても似つかない、自然な人間の笑顔そのもの。クラリスよりも年上のようだが、物腰の柔らかさを感じる口調には棘が無い。
ようやく普通の人間と出会えた安心感で、クラリスはついその手を取ろうと手を伸ばし――
「ふん。まぁ、あの状況で行く当てなく迷っていたことは確かだ。アリスタくんといったかね。一応、感謝はしておくとするよ」
彼女達の間に割り込んできたのは、ヴィクターだった。
アリスタもなかなかに背の高い方だが、それすらを見下ろすヴィクターの目には警戒の色が浮かんでいる。もちろん危険を感じてではない。クラリスへ若い男が近づくことへの警戒心だ。
しかしアリスタは一瞬きょとんと瞬きをしたものの、すぐにヴィクターの手を取っては嬉しそうに微笑んだ。
「わぁ……俺より背の高い人なんて、久しぶりに見た! ここでは先生と患者さんじゃないし、ヴィクターくんとクラリスちゃんって呼んでもいいかな?」
「えっ、ああ……うん。なんでもいいよ……好きに呼びたまえ。……クラリス……あとの話はキミに任せるよ」
思わぬ返答とまっすぐで純粋な視線を前に、耐えられなくなったヴィクターが思わずクラリスに振り返った。
それまで高圧的な態度を取ろうとしていたにもかかわらず、アリスタの態度にはすっかり毒気を抜かれてしまったらしい。
人からの純粋な好意に弱いこの男は、話しの主導権をクラリスへと引き渡しては付近をキョロキョロ。お世辞にも柔らかいとは言い難いベッドの端へと腰掛けて、それきり黙ってしまった。
「もうヴィクターったら……それで、アリスタさん。助けていただいたばかりで早速なんですけれど……」
「うん。この町で起きていることについて聞きたいんだよね。実は俺も、出張帰りでこの町にはたまたま来ていて……話せることは限られているけれど、分かる限りは質問に答えるよ」
そう言ってアリスタが椅子に座り、向かい側の椅子に座るようクラリスに促す。
こうして対面すると、医者と患者のようだ。綺麗や美しいといった称賛をされるヴィクターとはまた違い、アリスタはまるでテレビから出てきたアイドルのような容姿をしている。
数年前のクラリスなら、こんな医者に診てもらえる診療所があれば仮病を使ってでも通ってしまったかもしれないが――
――雑誌の表紙になれそうなくらい顔が整った人って、意外と普通にいるものなのね。ドラマから出てきた俳優さんみたい。
顔の整った人間は三日で飽きるとは、よく言ったものだ。
日頃横にいる美丈夫のおかげか目の肥えてしまったクラリスにとって、多少の顔の良さは動揺にすら値しなかった。
「それじゃあまず、単刀直入に聞かせてください。あの町の人達の様子と、私達を襲ってきた化け物……アリスタさんはなにかご存知ですか?」
「二人を追っていた奴らのことだね。奴らについては簡単に言ってしまえば……そうだね。人ではないんだ」
「人ではない……? 奴らっていうのは、もしかしてあの町の人達も全員……ということですか?」
彼らが人でない可能性は、ヴィクターも指摘していたことだ。
訝しげにクラリスが尋ねると、アリスタはゆっくりと頷いた。
「顔の真ん中に穴が開いた魔獣……なのかな。化け物がいたよね。パルデの住民やここに来た旅人は、全員君達と同じようにアレに襲われたんだ。そして顔を取られて――成り代わられた」
彼の口から出た言葉に、クラリスは思わず息を呑んでしまった。
成り代わられた? それはもしかして、先程の住民達――あの全てが、元はあの渦男達と同じ容姿をしていたとでもいうのだろうか。
きっと彼が実際に目にした光景思い出しているのだろう。アリスタはゆっくりとひと呼吸置いてから、話を続けた。
「アイツらは顔の中心の穴から伸ばした手で、触れた相手の顔をそのまま奪い取ってしまうんだ。俺も一度だけ目の前で目撃したことがあるけれど……なかなかにおぞましい光景だったよ。まさか人を襲った化け物の顔が、次に瞬きした瞬間には襲われた人間と同じ見た目をしているんだからね」
「襲われた人と同じ見た目に……それじゃあ、もしヴィクターが助けてくれなかったら、私も……」
あのおかしくなった住民達――否、渦男達に成り代わられてしまった彼らのように、自分の見た目をした化け物があんな薄気味悪い笑顔を浮かべていた可能性があっただなんて。
わずか目の前数センチまで迫っていた渦男の顔。そしてそこから伸びる手が肌に触れる感覚。思い出すだけでもクラリスの背筋には形容しがたい悪寒が突き抜けていく。
「もしかして、クラリスちゃんも襲われて……?」
「はい。ホテルに泊まっていたところを急に……。アリスタさん。それで襲われた皆さんは、その……死んでしまった……ということなんでしょうか。だって顔が無くなったら、もう……」
「ううん。それは安心して。顔を奪われた人間はその場ですぐに死ぬことはないみたい。運ばれる時にまだ抵抗しようとしていたからね」
「運ばれる……?」
それはクラリスがまだ知らない情報だった。
まず顔を無くした状態で生物が生存できているというのも不思議だが、なにより渦男達が顔を奪った人間――すなわち不要なゴミとなった人間達をどこかに連れ去っているということの説明が現段階ではつかない。
しかし彼女の抱えた疑問は、既にアリスタにはお見通しであった。
「クラリスちゃん。君はあの化け物達はどこから現れたと思う?」
「えっと、普通に考えて……町の外から……でしょうか」
「そう思うよね。でも実際のところ……アイツらが現れたのは、町の中から……それもなんの前触れもなく、ある日突然現れたらしいんだ」
「町の中……アリスタさんは、その話をどこで?」
「まだ無事な人間がいた頃、ここへ匿ってもらう際にね。彼は……危険を冒して、何度も自分の家にあった食料をここに運んで来てくれたんだ。襲われてしまったのか、残念ながら戻ることはなくなってしまったけれど……彼のおかげで、俺はこうして無事に生きている。……感謝してもしきれないよ」
そう悲哀の混じった声音で呟くと、アリスタは診察用のデスクの上に乗せていたマグカップを手前に引いて、ぬるくなった水出しの紅茶を一口飲んだ。
先日のカフェのオーナーが言っていた話では、クラリス達より先に一人の医者がこの町を訪れた可能性があるとのことだった。
もしもそれがアリスタだったのであれば……この状況下で、彼がこの診療所に何日も身を隠しているという事実にも納得がいく。
「話が逸れちゃったね。俺が言いたかったのは、要するにあの化け物達が成り代わっていった人間を運んでいく先……そこにアイツらの巣のような、発生の根源となったものが存在しているんじゃないかと思っているんだ」
「その根源になる場所っていうのに、アリスタさんは目星がついているんですか?」
そうクラリスが問うと、アリスタは首を縦に振った。
「町の中央……役場だよ。目的は分からないけれど……そこに住民達を連れて行っているのは確かだ。俺がこの目で見たからね」
「なるほど、役場……一箇所に集める……まさか。アリスタさん、もしかして役場に襲った人達を連れていく目的って、隠すため……だったりしませんか?」
「隠すため?」
アリスタが首を傾げる。
この時、クラリスの中ではいくつかのパズルのピースがひとつになろうとしていた。
近隣で出回っている妙な噂。過疎化の進む町。荒れて雑草に覆われた畑。おかしな水撒きをしていた老婆。おままごとのような店主と客のやり取り。腐った食べ物。わざと離されたホテルの客室。そして、自分達を監視する偽物の住民と渦男――
まだ完璧な答えとは言えない。それでも浮かんできた思考の破片を整理するため、クラリスはそのピースを歪に繋ぎ合わせた考えをアリスタへと伝えることにした。
「パルデを訪れた人々が、突然移住を決めてしまうようになった。そんな噂が近隣の町で立っていること……アリスタさんもきっとご存知ですよね。それなのに道端に顔を無くした人が倒れていたら、移住どころか、普通はすぐにでも立ち去ろうと思うはずです。だからそうさせないために、本物を隠して、偽物に本物と同じような生活の演技をさせることで……外から来た人間に警戒心を抱かせないようにしていた」
「そこで油断させた相手を襲っていた、ということか。たしかにそれならあの行動にも納得ができる。すごいねクラリスちゃん! こんなにも少ない情報で、そこまで考えることができるなんて!」
アリスタはそれまで暗かった表情をパッと明るくして、顔の前で両方の拳を握りそう言った。
しかし、それとは対照的にクラリスの表情は難しいままである。まだ肝心の――それも一番重要となる最後のピースが分かっていないのだ。
「でも……パルデの住民や旅人が成り代わられた結果として、偽物が普段通りに暮らしていることは分かったけれど……結局そこまでして人のフリをするのに、なんの意味があるんでしょうか。それさえ分かれば、こんなことが起きた原因の説明ができると思うんですけれど――」
「きっと魔導士の仕業、だろうね」
「えっ……?」
そう行き詰まったクラリスに助け舟を出したのは、それまで静聴を決め込んでいたヴィクターであった。
思わぬところから示された最後のピースは、この場でその言葉を聞くとは思いもしなかった『魔導士』――すなわち、『最高の魔法使い様』という存在によって、魔法という名の甘美な毒を与えられた人間が存在することの示唆。
以前訪れたスモーアという町。
与えられた魔力を使い果たして魔獣へと変貌してしまった、あのエイダという少女と同じく……そんな運命を辿ろうとしている者が、まさかこのパルデにもいるというのだろうか。
再び部屋を包み込む緊張感。
静寂に反して心臓の鼓動ばかりが早く、大きくなる感覚に、クラリスはただヴィクターの次の言葉を待つことしかできなかった。




