第74話 化け物ホテルを飛び出して
ヴィクターの魔法によって、ホテルの屋上まで飛んできた――いや、飛ばされてきたクラリスは、この数秒の間でげっそりとやつれていた。
頭が揺れてクラクラする。爆発の反動で軽い目眩を起こした彼女は、ヴィクターの腕の中から降ろされるやいなや、フラフラと座り込んで地面に両手をついた。
「うう……まだ耳がキンキンする……」
「大丈夫かい、クラリス? お水飲む?」
「貰おうかな……」
自称行動力のある男は、こんな時も行動が早い。
ヴィクターが指を鳴らすと、彼の手の中には水の入ったペットボトルが現れた。差し出されたそれを受け取り……クラリスの目を引いたのは、巻かれたラベルだ。
――オレンジ風味……もしかして、この前私が柑橘系の味がする水を飲んでるって言ったから?
きっとそのことを覚えているというアピールのためにも、これを出す機会をずっと窺っていたのだろう。
正直なところ――クラリスとしては、今は味のついていない普通の水が飲みたかったのだが、褒められ待ちのヴィクターからは期待に満ちた視線が向けられている。
彼女は素直に自分の欲しているものを言うべきか、このまま厚意を受け取るべきかを迷った挙句――
「えっと……ありがとう。これ、好きな味なんだ」
「そうだろうそうだろう! 箱で買ってあるからね。飲みたい時はいつでも言ってくれたまえ」
後者を選んだのはクラリスの優しさだったが、正解の選択をしたと思っているヴィクターは、それは嬉しそうに胸を張って声を張り上げた。
――さて。クラリスも喜んでくれたことだ。今のところ下からさっきのが追ってくる気配は感じられないし……彼女を休ませているうちに、少し町の様子を見ておこうかな。
クラリスがペットボトルに口を付けたのを見届けて、ヴィクターは屋上の端から町並みを見下ろした。
今宵は半月。月は高く昇っていて、薄明かりに照らされた町には点々と街灯の光が並んでいる。
光源は――それだけ。正確には彼らのいるこのホテルにも明かりは灯っているのだが、並ぶ家々も、商店も、ぐるりと見回したところで結果は同じ。どの家も窓は真っ暗な闇だけを映していて、人が生活している気配をまるで感じない。
――まだ日付は変わっていないはず……住民はもう全員寝てしまったのか? 普通ならまだ誰かが出歩いていてもいい時間だと思うのだが……
「……ん?」
その時、ヴィクターの視界の端でなにかが動いた。場所にして一番近い街灯の下。人が――立っている。
よく目を凝らせば、その隣の街灯にも、そしてそのまた隣の街灯にも。街灯が並ぶのと同じ感覚で灯りに照らされた誰かが立っている。
そして改めて町の全体へと目を向けた時――ヴィクターの目は、ようやくその全貌を捉えた。
「ああ……なるほどね。みんな寝てるんじゃなくて、むしろ出歩いているから、家にいないってだけか」
そう。彼の見下ろす視線の先――ようやく暗闇に慣れた目を凝らしてみれば、光源となる街灯から離れた影の中には、闇に紛れてたくさんの人間が佇んでいた。
誰の顔にも見覚えがあるはずもないが、あちらはそうでもないのだろうか。彼らは皆、ホテルの屋上から自分達を見下ろすヴィクターを見ては、昼間と同じく楽しげに歯茎を覗かせている。
「楽しそうだねぇ。今更ながらに随分な歓迎ムードじゃないか。こそこそ覗いてくるのはもうやめたのかい?」
そう声を掛けてみたとしても、この距離では地上の彼らに聞こえるはずもない。
仮にここで彼らが大挙してホテルに押し寄せてこようものならば、魔法の一つや二つを使って黙らせてやろうとでも考えていたのだが……今のところ必要な気配は感じられない。
――こちらを監視しているみたいだが、直接危害を加えてくる気はないみたいだ。となれば、今気をつけるべきはあの渦男達だけ……いちいち相手にするのも面倒だし、見つからないに越したことはないのだが……
「……そう上手くはいかないか」
そう呟くヴィクターの目線の先で、ホテルからわらわらと渦男達が外へと出てきた。
住民達が襲われる。そう彼が思ったのも束の間、住民達は化け物を前に表情を変えることなく輪の中へ迎え入れると――ヴィクターへ向けて、一斉に人差し指を指し向けた。
振り返る渦男。その顔の中心がわずかに蠢いたのを、頼りのない光源の下でヴィクターはたしかに目撃していた。
「なるほど、キミ達がグルだというのは確定というわけかね!」
瞬間、渦男の顔から放出された黒い腕が、屋上のヴィクター目掛けて伸ばされた。
「クラリス! 休憩は終わりだ!」
「えっ、終わり? もしかして、そっちでなにかあ――ぎゃあっ!」
呼ばれたクラリスが顔を上げたまさにその時。
ヴィクターが指を弾いた音が聞こえると同時に、大きな破裂音がそれを上書きした。
クラリスの手の中にあったペットボトルが、花火が弾けると共に消失したのだ。
てっきり今の音がこの花火から起きたものだと思った彼女は、飛び上がるほどに驚いたものの――実際にその破裂音が鳴ったのは、ヴィクターを越えたさらに向こう。彼女の視界外で起きた、渦男の腕を撃退する際に起きた爆発の音だった。
「ホテルの外は既に囲まれている! 少し危険だが、屋根の上を渡ってここを離れよう!」
「屋根の上って、そんな無茶な……いや、こんな高いところまで逃げてきたならしょうがないものね。分かった。ヴィクター、お願い!」
「……へ? お、お願い……?」
突然、自分に向けて両腕を広げてきたクラリスを見て、ヴィクターが固まる。
お願いとは、いったいなんのことを言っているのだろうか。そう考えている間にも、彼女は不思議そうな顔でさらに大きく腕を広げた。
「えっ? さっきみたいにヴィクターが運んでくれるのかと思ってたんだけれど……もしかして、違った?」
「いや! 違くない……違くないけれど、キミ、あの運ばれ方は嫌なのかと思ってたから……」
「そりゃあ目の前で爆発されるのは困るけど、何回目かにもなればさすがに慣れるわよ。もちろん自分で走れって言うなら頑張ってみるけど……」
チラリとクラリスがヴィクターの後ろに続く家々に目を向ける。
家と家の間の距離はそう遠くはない。自分で走って飛べないこともないが、この高さだ。万が一足を踏み外してしまった時のことを考えると――
――怖い……かも。
スモーアでの時のことを含めて、あの運ばれ方に慣れてきたというのは本当だっだが……クラリスの正直な気持ちはこちらであった。
するとそんな彼女の気持ちを察しだのだろう。ヴィクターは大きくひとつ咳払いをすると、クラリスへと近づいていく。そして――
「わっ!」
「そんな危ないこと、クラリスがわざわざしなくてもいい! 移動は全てワタシに任せろと言った手前だからね! ワタシが必ずや安全な場所までキミを連れていくと誓おう!」
そう言って三度クラリスを右腕に抱えたヴィクターは、くるりと身を翻すと脇目も振らずに駆け出した。
幸か不幸かこのホテルの屋上には柵が付けられていない。ヴィクターは建物の縁を強く踏み込むと、魔法による爆発の力を借りることなく――高く、跳んだ。
隣の家の三角屋根へと着地した彼は、レンガ造りのタイルを踏み割ることも気にせずにただ前へ向かって走っていく。
足場が不安定な状況だ。大切なクラリスの命を預かっている身でよそ見をすることもできず、ヴィクターは次の屋根へと飛び乗ったタイミングで彼女に問いかけた。
「クラリス! 後ろの状況は!」
「後ろ!? えっと……あの黒い腕はまだ来てないみたい。今のところ大丈夫そう!」
「そうかい。なら、このまま撒けるまで走り続ければ――ッ!」
刹那、ヴィクターの目の前へと巨大な壁が立ち上がった。
なにも急に家と家の間で突貫工事が行われたわけではない。あの渦男達の束となった巨大な手のひらが、行く手を遮るように前方から伸びてきたのだ。
――待ち伏せだと? 我々の動きが読まれているのか? いや……
次の一歩で足場が崩れる心配が無いと判断して、ヴィクターの目が町を見下ろす。
あれは――町の至る所に、いる。あの歯茎を覗かせた奇妙な笑みを浮かべる住民達が、ヴィクターの行く先々に指を指しては渦男達に居場所を知らせているのだ。
――あの住民達の監視下から外れない限り、我々の居場所は常に晒されているも同然ということか。早急に身を隠せる場所を探さないといけないが、しかし……安全な場所なんてものがこの町にあるのか?
そうヴィクターが考えている間にも、渦男達の巨大な手のひらが彼らの元へと接近する。
このままの速度で走り続ければ、数秒もしないうちに衝突することになるだろう。
「とりあえず、今はコレをやり過ごすしかないか。クラリス! 少しの間、舌を噛まないように口を閉じていたまえ!」
「わ、分かった!」
抱えられたクラリスが両手で口を塞ぐと同時に、ヴィクターは左手に持っていたステッキを前方へと突き出した。
宝飾へと籠る熱。彼は巨大な手のひらに杖先が触れるまさにその瞬間――大きな一歩を前へと踏み込み、溜めていた魔力を解き放った。
「――そこだッ!」
放たれた光線が巨大な手のひらの上半分をかき消し、すかさずヴィクターが跳躍する。
半分となった手のひらを飛び越える瞬間、クラリスからはくぐもった悲鳴が上がった。小脇に抱えられている分、間近であの小さな腕の集合体を目にしたのだ。無理もないだろう。
家々の距離は人一人分以上ある。
かなり前方で跳んでしまったためか、隣の屋根まで飛距離がもつのか心配はあったものの……着地は想像よりも容易にすることができた。こんな時ばかりは無駄に長い足も役に立つものである。
「よし。ひとまずこれ以上先回りされている気配は無い。このまま身を隠せる場所を探そう!」
「ぷは。……身を隠せる場所って、そんな都合のいい場所がこの町の中にあるの? だってここら辺一帯には……ひっ。ほら、あの怖い笑顔を浮かべた町の人がたくさんいるのよ!」
「Um……それは一理あるね。安全な建物がひとつくらいあればいいのだが……」
揺られる中で、クラリスもあの不気味な住民達の姿は目にしていたらしい。
彼女の指摘を聞いたヴィクターは少し難しい顔をしながら走り続けていたが、その目がふと、通りを挟んだ右方向――白いナニカの存在を捉えた。
「ん? あれは……」
「――い、おーい! こっちです! 俺のことが見えてますか!」
それは、柵から身を乗り出して声を張り上げている、白い髪と同じ白衣を羽織った若い男だった。
男のいる場所は前方から少し右に逸れた、住宅地から離れた場所にポツンと建つ建物の屋上。あれは――診療所だろうか。
白髪の男はヴィクターが自分に気がついたことが分かると、ブンブンと手を振って自分の居場所をアピールする。
建物の周囲に渦男や他の住民達の姿は見えない。
「……クラリス、すまないが今度は少しの間息を止めていてくれ」
「えっ? 息をって、アナタなにを……わぷっ!?」
ヴィクターがステッキをレンガに思い切り打ち付けた瞬間、その石突きからは煙幕が溢れ出た。
昨日、町中で女性達を撒くのに使ったのと同じ魔法だ。
そして煙は彼らのいた建物、そのまた周辺までを覆い尽くすまでに広がっていき――全て晴れた頃には、二人の姿は跡形もなく消え去っていたのだった。




